第65話
脱衣場で裸になった。新婚さん用に貸し切られてるのだろう、誰一人としていない。暗い湯屋に入る。あんどんの灯のまわりにだけ、湯けむりが濛々と立ち込めてるのが見える。古代の鉋(かんな)でけずったのであろう、つるつるの檜で湯船が張りめぐらされていた。片足を入れる。かなり熱い。ゆったりと肩にまでつかる。全身が震える。鳥肌がすこしずつほぐれていく。竹筒から内湯に注ぎ落ちる温泉水の波紋が徐々に広がって肌を撫でてくる。戸外を走る谷川の流れとはまた違う、かけ流しの静かな音。
俺は暗い天井を見上げる。湯けむりで何も見えない。しかし廊下で見た鬼の面がじっと俺を見下ろしているのを感じる。ぽたり、ぽたり、滴が頭に落ちてくる。見れば窓の向こうの戸外にランプがひとつぶらさがっていた。そう、あの時と同じ情景が、この静かな闇夜の世界を包み込んでいたのだ。同じ情景、同じ場所で、もう一度、誰かが俺に何かを問いかけてきている。
内湯の木戸を開けた。冷気が身を刺す。湯けむりが激しく立ち昇っていく。敷居をまたいで、露天の湯に立つ。真っ暗な闇の、すぐそこには深い谷底があるのだろう。ごうごうとうなりをあげている。張り出した軒に、ランプが微かに瞬いている。悠久の自然の営みの中で、ただそこだけがゆらゆら揺らめいている。冷たくなったからだを肩までつからせる。そうしながらランプの下までゆっくりと移動する。湯に浮かぶ小さな赤らみに顎と口をつけ、鼻先をつけ、額をつけ、顔を伏せる。
「やっほーっ」
若い女の声が聞こえる。同じように、あの時がここまでやってきた。
「ねえ、きこえる?」
露天風呂の、竹で編んだ仕切り壁の向こう側。
「・・・」
「ねえ、あなた」
「うん?」
俺は顔をあげる。
「わたし、さきに、へやに、いってるから」
「・・・うん」
湯の色が揺蕩う。顔をあげたあとの緋色がまるくゆれてる。
合掌造り二階の仕切られた狭い部屋だった。夜化粧をしてるのか、それとも化粧落としをしているのか、障子の向こう側の鏡台のまえから動く気配がない。俺は黙ったまま、寝返りをうつ。一刻、また一刻の時がとても長く感じる。敷居に障子戸の擦れる音が聞えた。しばらく時が行き過ぎ、おもむろに御簾を引き上げる。布団に入ってきて、行儀よく二人がならんだ。
「あなた、サルタヒコさんでしょ?」
「・・うん?」
「わたし、ほんとはアメノウズメ」
「・・・・そうでしたか。それは知ってましたよ」
「なあんだ、しってみえたのですか」
「もちろんですよ。声が同じでしたからね。で、アメノウズメさん、ほんとのあなたはいったい誰なのですか」
「まあ!わたしのからだは、つるんつるんの、シタテルヒメですよ」
「だからそのシタテルヒメさんのからだは、ほんとは誰なんですか」
「それは・・・あまのじゃく、さんなのです。あなた、しってるでしょ」
「ああ、古事記に出てきたあまのじゃく、知ってるよ。そしたらあまのじゃくさんに化けたアメノウズメさんの、もともとは誰なんですか」
「それは・・・とおいむかしのことだから。おぼえてないわ」
「そう、覚えてないですか」
・・・・それきり声が途絶えた。これは古事記の中。それ以外のなにものでもないのだから。アメノワカヒコとシタテルヒメとの夜伽が始まる前の、ささやかなお話し。俺は手を伸ばす。熱いからだが手に触る。あなたは誰なの?頭の中がぼやける。大きな木枯らしがいくつもやってきては急こう配の切妻屋根の破風を奏でていった。その中のひとつの風があたたかい軒下につかまって、出口を見つけられずにもがいている。そしてついに、前後の見境をなくしたように、喜悦の声をなんどもなんどもほとばしらせた・・・
ながいあいだ、ひとしきり鳴きすさんでた風が、いつしかぴたりとやんだ。すると部屋いっぱいに冷たい夜のかたまりがなだれこんできた。布団の上を夜がどんどん埋め尽くしてくる。
「ふふっ」
小さく笑って背中をこちらに向け、それきりあなたは寝入ってしまったようだった。
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