第64話
・・・桶を伏せて裸の俺はすわった。石鹸はない。めいめいが鉱物のような粉末を頭髪や髭にゴシゴシこすりつけては遮二無二、素っ裸のからだを洗ってる。俺も掴んでいた粉末をお湯で濡らした髪にこすりつけた。この感じ。同じ場所、同じ椅子。天井の隅を見上げる。あの時と同じ、幾層もの湯気の帯が積み重なっては天井に埋もれていく。その天井のどこかでサルタヒコが俺を見ている。濛々と立ちのぼるなかを、末裔らの声だけが賑やかに響き渡っている。この新鮮な歓びのような予感。そう、いま俺はアメノワカヒコを演じているのだ。本物のアメノワカヒコ、というかアジスキノタカヒコはどこへ消えた?それとアメノウズメさんはどこへ消えた?湯気の向こう、あの天井の隅、見えないサルタヒコだけは知ってるのかもな。しかしなにがどうであれ、この異界のまん中、身もこころも解放されてるようで、爽やかな風が、俺は心地よい。
玉鋼(たまはがね)という酒は辛口でキレがいい。前回も同じことを感じた。しかし今宵は祝言なのだ。誰の?わたしのだ。ふすまを取り払った大宴会場、あの時と同じようにお互いに踊りや謡いを披露しては酒を酌み交わしている。上座で胡坐をかいてる俺はただ、その様に笑顔で相槌を打ちながら、静かに見ているだけだった。古式ゆかしき出雲の伝統ある結婚式典は厳かで、ひたすら祝詞を唱え、幾人もの巫女が舞うものだと思ってたのだが、披露宴だけのこのような簡略な祝言には驚いた。目の前の高坏に並べられた鯛の刺身を、俺は皆と同じように手づかみで取っては口に運ぶ。
すぐ隣には、下照姫が座ってる。まだ一言も言葉を交わしてない。それどころか顔も見てないのだ。横目でちらりと膝元を垣間見た。着物の裾が微かに乱れてる。その真っ赤な縮緬の裏地の隙間から白い肌が見えた。ここのすわった場所からでしか、その白いふくらみは見えない。白い肌、今宵、このお方と初夜を迎えるのだろうか。そんな俺の邪心を意にも介さず、その時古代葛城末裔の一人が酒を持って俺の前で胡坐をかいた。
「あなたさま、この出雲は初めてこられましたか」
「いやいや、わたしは出雲で生まれたと聞いております」
「ああそうでしたか。それはわれらが葛城の大王、アジスキノタカヒコさまと同じですな。わしらは葛城の末裔のそのまた末裔にござりまする。平安朝は、桓武治世の東北から、はるばるここ古代の出雲の地にもどってきたのです」
「平安?それはまた、ずいぶん先の未来からこの古代出雲へと舞い戻られたということですね」
「そうですたい、わしらみんな、帝から殺戮された怨念を背負ってね」
「怨念?しかしたしか平安時代の世は内乱のない、とても穏やかな時代だったと聞いたことがありますがね」
「何を仰せられますか?日のもとの辺境、蝦夷の住むわれらのところにまでも桓武帝のものたちが攻め入ってきて、わしらの族長だった阿弖流為さまも平和降伏したのにかかわらず、桓武帝に騙され、京の都で打ち首されてしまわれたのです」
「桓武帝といえば、大和葛城の地で土蜘蛛殺戮のかぎりをつくしたしたという、あの帝のことですか」
「そうじゃとも!我らがアジスキノタカヒコ大王以降の大王の治めたかつての葛城の栄華を抹殺しただけでは飽き足らずに、後世になっても東北へと逃げのびた土蜘蛛を執拗に追いつめ、そのわしら蝦夷をバッタバッタと殺していきました・・」
男はここまで言って、膝の上で両の拳を握った。座ってたからだが震え、つぶった目からは涙がこぼれだした。それに気づいてなのか、いつしか鳴り物がやんでおり、この宴会場のすべてがこの男の言葉を耳をそばだてて、咀嚼している。
「今日のわしら、昔から吹くといわれる、出雲の神迎え神事の木枯らしにのって、平安期の東北の地からはるばるこの古代出雲までやってきました。いや正確に言えば、ヤマタノオロチの背に乗ってやってきました。アジスキノタカヒコさまによって古事記を塗り替えてくださいましたから」
「アジスキノタカヒコが古事記のヤマタノオロチの段を塗り替えた、然りだな」
「そいでわしら、実を申しますとあなたさまが今宵、葛城の高天原から稲佐の浜に降臨されることを、諏訪湖で隠遁されてる神からの伝令で知っていたのです」
「ええっ?・・それはタケミナカタさまからの伝令なんだろ?」
「いや、オモイカネさまからだと聞きいてますが」
「なんと天津神であるオモイカネからとは」
「タカミムスビさまの御子のオモイカネさまは、天津神なんかではありませんよ」
「まあ、そうかもしれん」
「あのお方は天孫の天津神でもなければ、われわれ土着の国津神でもないとも言われてますから」
「それはまた変な話だな」
「アメノワカヒコさま、わたしらは、あんたら有名人の出てくる古事記の中身には直接手だしができません。しかしこの出雲の神有月のあいだになんとしてでも、この日の本の最古の文書、古事記の仕切り直しがなされんことを、切に望んでおります」
「・・・」
その時だった。これまで身じろぎもせずに俺の横で座っていたシタテルヒメがまえぶれもなく、口を割って会話を遮った。
「たしかにそのようなしうちをうけられたことは、かなしきできごとでした。しかし、ひのもとのいくすえは、すべからくあまてらすおおみかみさまを、こころのいただきにおいて、このひのもとのしもじものみなみなが、こころみだすこともなく、つつがなくくらしております。それゆえ、むかしのうらみをほりおこして、はかりごとをすれば、ひのもとでいきながらえてきた、ぐみょうちょうを、しに、たやすことであります」
嫋やかな物言いであったけど、凛とその言葉は尖っていた。その場の空気が一気に崩れていくのがわかった。気でも触れたのか、出雲出自のシタテルヒメよ。いまこの状況のなかで、あなたひとりだけが真逆のことを言ってる・・
しかし、と俺は思った。シタテルヒメの言ってること、正論と言えば正論ではある。たしか諏訪湖底の様子を尋ねてきたオモイカネも同じようなことを言ってたな。なによりもアメノウズメが、「葛城の叡智とは何ぞや」とまわりを一括しては同じようなことを言ってた。そう、「寝た子を起こすな」、かつて俺も同じようなことをタケミナカタの面と向かって吠えてたことを思い起こす。
・・・障子戸を締め、一階の廊下に下りると、ひんやりした冷気がふたりの頬をなでた。二階では締め太鼓やら笛やらのお囃子が再び鳴り響き、男たちの謡いがいっそう声高になっていた。新たに鬼の舞いも始まったようだ。どうやら今夜は徹夜でもり上がりそうな勢いだ。
薄暗い廊下が遠くまで続いている。ところどころに置かれたランタンの灯りが、からし色の土壁を晩秋の湖面のさざめきのように陰影をつくっては揺らす。いつかどこかで見た、異郷の暗い廊下だ。
いったいどこまで続くのだろうか。二階のお囃子やら謡いの声が小さくなってとっくに聞こえなくなった。聞えるのはすぐ隣りを流れる川の音だけ。「冷えるよな」誰に言うともなくそう言ってから俺は、よし!と自分に喝を入れた。下照姫の手を握る。
「あ、これは鬼の面!」
思わず俺は立ち止まる。格子の障子紙戸の上に、赤鬼の顔が黒い影を刻んで真正面を向いている。
「そうです、これはサルタヒコのお面です。わたしをここにまで連れてきてくださった、不思議なお方なのです」
「へえー、そうなんですか・・・」
サルタヒコと、こんな異郷の地で出会うとはな。乗用車で何年もかけて日本国中、あちらこちらの秘湯を訪ねては探しまわったものだったが、それでもついにこうやってここで出会えたことがうれしい。長年続いた俺自身のあがきも、ここで報われようとしてるのかもしれないな。
空いてる片方の手で廊下の、暗闇の向こうを指さし、下照姫が言った。
「おとこゆと、おんなゆが、ありますから」
「えっ?」
「ごめんなさい。わたし、はずかしいから。おふろはべつべつで、おねがいします」
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