第61話
打ち寄せる波のこちら。唐突に、32丈(96メートル)もの宇頭柱が屹立してた、はず。あめのむらくものつるぎを盗まんと雷雲の塊からぬっとタケミカズチが現れ、降り立った屋根の千木が天空を衝いていた。幼いアジスキノタカヒコの泣きじゃくるのを見かねた俺は憎きタケミカズチを追いかけ、長い、長い階段をやみくもに駆け上った。そう、あれは国譲りの段での情景だったのだ。しかし再度おりたったここは、それよりもずっとまえの稲佐の浜なのだ。建造物などという人工の香りのするものは、何ひとつ視界に入らない。打ち寄せられた流木だけが、オブジェとなって乾いた砂にふかれているだけ。
俺は目の前の後ろ姿に照準を合わせる。
「おおい!」
声が風音にのって、あらぬ方向へとくるくる飛んでいってしまう。
「・・・おおい、アジスキノタカヒコよ」
男は振り向かない。歩調も変わることがない。
「おおい、アメノワカヒコさんよう!」
声はむなしく空の彼方に吸い込まれていくかのよう。やつの耳には届いてないのかしらん。
俺は焦る気持ちを抑え、小走りにやつの前に躍り出た。顔を見る。アジスキノタカヒコよりもきれい。というか、鼻筋の通った、非の打ちどころのない完璧な顔ではないか。なんとおまえ、しっかり渡来の血をひいている弥生人ではないのかい?おまえ、ほんとに大和葛城土着のナガスネヒコなの?にわかには信じがたいこの成り行きに、俺の胸は逡巡する。
「よお!」
眼前に立ちはだかって俺は詰問してみた。しかしやつの目線はぶれずに彼方を目指していた。そうしてまるで透明人間のように、するりと俺の身体を通り抜けて向こう側に行ってしまった。もう一度振り返る。目線のはるか向こうで青垣がたたなずく。あれは神奈備山(かんなびやま)?奈良の葛城近くにもいくつかの神奈備山があったけな。それらいくつかの神奈備山が山陰の宍道湖を囲んでいるのだろう。ああそうか、ここは神話の、原始風景なのかもしれないな。俺はいまさらのように気づく。西方を眺望した。国引き神話の果てしない弓なりの白砂青松のかなたに、三瓶山が勢いよく噴煙を上げている。
「おい!」
今度はうしろから両肩をわしづかみする。しかし手のひらは、たよりなく宙を掴むだけだった。二人が触れ合えないでいる。こんな、パラレルワールド?
・・・まいったなあ。
しかし咄嗟に俺はズボンのポケットからスマホを取り出した。すかさずボタンを押してみる。葛城から二人してのぼりはじめた大きな虹の架け橋、まだ消えぬうちにと急いで古代杵築の郷へ飛び降りた瞬間に、これまで維持してきた二人の位置空間がずれてしまったようだ。頼れるのはこのスマホだけだ。GPS機能を備えたこの機器が、なにかしらを暗示してくれるかもしれないぞ。しかしボタンを何度おしても、画面をタッチしてみても、待ち受け画面が出てこなかった。へたにバッテリーを減らすだけだと思えた。またポケットにしまいこむ。
・・・まいったなあ。
タケミナカタのミッションもついにここにきて寸止めとなってしまったようだ。つまりここの、雉(きぎし)の使いの段において、俺は不要なのだ。随伴を命令されてたはずのアメノウズメさんも、なぜか土蜘蛛のお地蔵さんと会話してた最中に忽然と消えてちゃったしな。もうこんな、わけのわからない古事記の旅とはさよならだな。そう独り言つ(ごつ)してから、俺は大きくため息をつく。
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