第57話

・・・冬に近い八日薬師の縁日には三日月がくっきりと輪郭を見せています。宵にかけての、群青から濃紺に影を濃くしていく筋雲が、薬師堂の芝居小屋の屋根高いところでコバルトブルーの威光を放っています。どこかで見た覚えのあるガラスでできた腕輪のようで、光の筋が一本ずつ跳ね上がって、透き通っていました。


舞台の上では、第1幕と第2幕のあいだも笛や鼓、締め太鼓がお囃子を続けておりました。集まった村人たちの後ろの竹藪のところで1軒だけ、寅さが露店を出してました。この幕間(まくあい)に柿やらおせんべいやらを買おうとして、大人たちやお年寄りたちが一斉に藁(わら)のむしろから立ち上がって、うしろの露天の前に押し寄せていました。むしろには、ひさおくんや、まさひろくんの座ってる姿も見えました。急に寒くなるのを見とおしてか、毛布のようなものにくるまっていました。


ぼおくはうしろの道端で立って待ってます。するとおかあさんが、ようやくその人混みから抜け出してきました。味噌が人につかないようにぴんとのばした片手には2本のでんがくを握っていました。ぽたぽたと、どろどろの地面に味噌をこぼしながらもう片方の手でぼくの手をつかみ、でんちこで場所をとっておいたむしろの上にすわりました。「寅さのは、八丁味噌使っとるらしいで、うまいぞ」そう言っておかあさんはぼくに、風呂吹きの櫛をひとつくれました。「あつ、あつ」と言葉にならないまま、前歯でそっと噛んだら大根のかけらがほっこり、舌びらの先に載りました。


大がかりな舞台幕はありませんでした。でも締め太鼓のバチが頭上高く、ひっきりなしに連打をし始めたところをみると、死者の霊か鬼畜が登場するようです。そうです、もうすぐ第2幕が始まるのです。舞台の左手にのびた花道の羽目板の上に、赤毛の長い男のお面がひょいと飛び乗ったのが見えました。じっとしゃがみこんで、暗闇から出番を待ちます。ちょうど銀杏の木のあるあたりです。そういえば銀杏の木は、さきほど見たときよりもずいぶんと肌つやがなめらかになっていたことをぼくは気が付きました。ざらりとした夥しい乳房もぶらさがっていませんでした。ああ、なるほど、さきほど来たときは樹齢1200年の年老いたおばあちゃんのしわくちゃおっぱいだったからからな、そうだったか、この演目の「土蜘蛛」がつくられた室町時代の若返った銀杏の木に、今いるのだなあとそのとき思いました。


鬼のようなこわいお面は、しかみ、というのだそうです。舞台が始まるまえに村長さんがあいさつされたとき、そう言ってみえました。しかし第1幕の悪者はたしか、お坊さんの格好をしてました。そうなのです、ぼくは思い出しました、日本で一番偉い、お殿様が寝てるところへその悪者が出てきて、おまえの病気は私がのろっているのだと言ってました。そして手のひらから蜘蛛の糸をいっぱい、投げてお殿様をぐるぐるまきにしようとしたのでした。しかしそこへおさむらいさんが出てきました。拍手がわきました。いい者のようです。大きな刀をふりまわしてお坊さんに化けた大きな蜘蛛を切りつけました。びっくりした蜘蛛はあわてて逃げていきました。


切りつけた時に、刀に付いた血のあとをおさむらいさんがたどっていったところ、平安時代である葛城というところの、樹齢10年そこそこの銀杏のある土蜘蛛の塚に行きつきました。今、見えるあの若い銀杏です。そして目の前にある一言主神社の社殿、その縁板の欄干のすぐ下に見える、あれが土蜘蛛のお墓のことです。強くて立派なおさむらいさんは蜘蛛塚に向かって、この日本の国というものはすべてお殿様のもの、だからおまえらのように言うことのきかない鬼がいてはいかんから成敗してやると言いながら、重い石をどかしてました。どうやら鬼と土蜘蛛とは同じもののように言われてたようです。


バックコーラスの地謡い(じうたい)どうしのかけあいが最高潮を迎え、いよいよ第2幕が始まりました。こわい、しかみのお面をつけた土蜘蛛の精の登場です。それはずっとずっと遠い昔に、手足をばらばらにされて死んだはずの、葛城に住んでいた悪者たちの大将でした。お殿様の言うことを聞かないやつらは、この日本の隅から隅まで殺されなければなりません。立派な独武者たちがどかした重い石の井戸の底からその時、舞台装置の綿菓子の白い糸がサアーと噴出してきました。そして境内をぎっしり埋める観客の顔にねばねばと納豆のようにまとわりついて離れようとしませんでした。これはどうやら、古代の土蜘蛛たちはかなりしつこく抵抗したかのようでした。


締め太鼓のバチが勢いよく連打されました。長い間ずっと出番を待っていた、しかみのお面が暗い塚の底から這いあがって、羽目板の花道をバタバタと勇ましく舞台の真ん中に向かって突っ走ってきました。社殿の欄干に飛び乗った土蜘蛛の手のひらからぱあーっ!ぱあーっ!と、夥しい蜘蛛の糸が放物線を描いて空中を舞いました。そして長い太刀を持った独武者と素手で戦います。蜘蛛の長い糸がきらきら輝いて、観客らのところまで届きます。「きれい」と歓声をあげて観客らは一斉に拍手をしました。しかし最後は独武者にその夥しい糸の束は切り払われます。長い蜘蛛の糸も尽きて、ついに土蜘蛛は独武者たちの大きな太刀で何度も何度も、身体を突き刺されてしまいます。はらわたにとどめを何度も、何度も刺されてます。それを見て、観客の拍手はさらに大きくなりました。ぼおおくは、刀をもってないのに何度も刺されているのは、ちょっと損な役だよなあと思いました。


・・・どうやら土蜘蛛に対して判官びいきというものは最終的に通用しないようにこの演目は仕組まれてた、こうやって土蜘蛛は大和葛城の塚の地中深くで息絶え、栄華を極めた古代葛城族の一切を封じ込められていったのか。古事記では彼らの存在を一切語られず、しかし後の世では追い打ちをかけるようにおぞましき土蜘蛛の抹殺という大義(たいぎ)が堂々と錦の御旗(みはた)を振ってこの世に引き継がれ・・・俺は大きく息を吸った。そしていつの間にかとっぷり日の暮れた、葛城の秋の夜空を仰ぎながら、大きく息を吐いた。もはや過ぎ去った仕方ないこと。寝た子を起こす必要はないのだ。


舞台は最後のシーン。お囃子が鳴りやみ、静寂の言葉が頑強に会場を仕切る。そう、独武者の長い太刀で土蜘蛛の首が切り落とされる場面だ。切り落とされる直前の一刹那・・・。おや?しかみのお面が、真ん中でぱらりと割れて落ちたぞ。なんだ?俺は思わず息を呑んだ。割れたお面の中からは本物の顔が出てきたよ。


見る見るその顔に表情が生まれる。眉間にしわが寄り、たて髪の紅(くれない)が天井に逆立つ。ベンガラの隈取りが大きな口となって裂け、かっと炎上する。


「じっぱひとからげが、なんぼのもんじゃい!怒髪天を衝く(どはつてんをつく)とは、このことじゃわい!」


お、おまえ、アジスキノタカヒコじゃないか!な、なんでそんなところにおまえがいるのか・・・。俺は言葉を失った。


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