第四話 忘れないでくれ

 5


 それが、七年前にあった事の全てだ。


 男は意識だけでも娘を救おうとしたのか?

 罪の意識に苛まれ、絶望の底で常軌を逸した発明を成し遂げたのか?

 贖罪のため、逃避のため、自らの魂を世界に差し出したのか?


 今となっては誰にもわからない。

 そう、私にも。

 確かなことは、男がいて、娘がいて、今はLCSわたしがいるということだけだ。


 哀しみと苦しみは、その声を聞く者がいなくなった時、怨みに変わる。

 嘆きは、何処にでもある。目を逸らしさえしなければ。


 忘れないでくれ。男の罪と後悔を。

 忘れないでくれ。娘の苦痛と絶望を。

 忘れないでくれ。ここに、私がいることを。


 それだけが、私の望みだ。


 6


 海鳥が、澄んだ青空に高らかに歌いながら旋回していた。波が打ち寄せては防波ブロックで砕け、飛沫が音だけを伝えていく。遠い海原に白雲の切れ間から天使の梯子が掛かっている。快晴だ。晴天で、世は事もなし。


 それが偽りだとしても、平和という嘘を守るのが公安の仕事だ。そのためなら、真実か嘘かもわからない昔話を聞くこともする。最愛の娘の死に様を描いた、地獄変の屏風ヘル・スクリーンのようにおぞましく狂気に満ちた話だったとしても。


『……どこまでが、本当の話だったと思いますか?』


 一度も口を挟まなかったワーデンが、今更になって口を訊いた。

 もっとも、珍しいわけでもない。彼女の仕事は警察職員の監視と支援。相反する二つの職務を忠実に遂行するため、仕事の前には心身の調整に付き合い、仕事の後には情報の整理を手伝う。それが役割だ。


「どこまで?」

『彼女、あるいは彼がLCSであるという話。七年前に起きた大規模な同時多発的クラッキング事件で代替脳を破壊された少女の話。そんな顛末で生み出されたAIに、日本中のインフラ制御が任されているという話。それに、あともう一つですか』


 女性型の擬人躯体ウォークボディは、話が終わるとすぐにどこぞへと立ち去っていった。信じようが信じまいが構わない、ただ忘れさえしなければ。などと言い残して。勝手なことだ。例え作り話だったとしても、恐らく一生、忘れることはできないだろう。


「嘘か真実かは、さほど問題じゃあないさ。驚愕の新事実、なんて訳でもない。胡散臭い昔話を一々記録して報告書に纏めるのは、六年前の先輩とやらが済ませているんだろう。いや、まず誰よりもお前がそれを知っているはずじゃないのか?」


『さぁ、どうでしょう。今の私の役割は主任の補佐です。関係のないデータファイルにアクセスする権限は、持ち合わせてはおりませんので』


 監視者オブザーバーとしてあらゆる記録を所有している人工知能は、白々しくも堂々と言ってのける。記憶を分割し、知っているのに忘れている、という状態を嘘一つ吐く必要なく作り出せるのも、彼女らの強みだ。


「結局のところ、最初に彼、あるいは彼女が言った通り。僕の仕事は話を聞くこと、それだけだ。気の触れたAIか、国家を牛耳る亡霊か。どちらにせよ、貴重な休日に愚痴じみた昔話に付き合って、誰にも話さず、ただ覚えておく。上司に詮索もしない、何もしない。閑職の小役人に求められている役目なんて、そんなものだよ」


『そんなものですか』


「そんなものさ」


 廃材と漂着物で組み上げられた歪な座椅子の上で、壊れかけた玩具の時計が針を回していた。卵が刻む秒針を、十月の風が拭ってゆく。晩秋の木枯しは肌寒く、僅かな陽だまりを照らす気休め程度の太陽の光にさえ有難味を感じさせてくれる。海は変わらず、風も、太陽も変わらない。


 七年前に何があろうと、今あるものが、どう変わるわけでもない。何も変わらない。するべきことは終わった。報告は明日でいいだろう。今は住み慣れたワンルームに帰って、何事も無かったかのように惰眠を貪ろう。そう思って、波の打ち寄せる海に背を向けた。


 そして、何処かの国に核が落ちた。

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