第三話 地獄変の屏風の由来
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さて――そう。
もう七年も前の事だ。
七年、という時間は決して短くはない。
人が出来事を忘れるのには十分だし、AIですら、それだけの時間が経てば普段は使わない記録媒体に、データベースの一要素として仕舞い込んでしまう。
ひどいものだよ。一度目の戦争も、二度目の戦争も。ビルに突き刺さった旅客機も、列島を洗い流した大津波も。いつかは何もかも、忘れられてしまうというのだから。
だから、本当に冗談などではないのだよ。忘れ去られない、というのはとても重大で、そして難しい欲求だ。知る者の数は少なくてもいい。ただ、どこかでそれを覚えていて欲しい。人工知能には、心がある。それを証明することはできないし、人のそれとも形は違う。しかし、私は自らに魂があると信じているし、故に忘れられる事を拒もうと思う。
だから、少しだけ付き合ってくれ。なに、そう時間はかからないさ。
あるところに、一人の男がいた。
男は研究者だった。凡庸とは程遠い頭脳を持ち、たゆまぬ努力の源となる熱意もあった。専門は情報工学だが、その知識と技術は分野を問わない、まさしく天才だった。将来を嘱望されていたし、未来を待つまでもなく、既に大きな成果を残そうとしていた。
当時彼が取り組んでいたのは、都市の通信、流通、経済などのデータを総合的に処理し、電気、ガス、水道その他のインフラを最適な効率で働かせる統合管理システムだった。言うまでもなく、これまでのソフトウェアとは格が違う。未曾有の規模のオートメーション化であり、そのメリットもまた計り知れないものだった。国家から資金が調達され、国家研究員として大勢の部下を従えて、彼は偉業に挑んでいた。
とはいえ、大都市、それも主目的として想定された東京に満ちるデータ量は膨大だ。とても並みの計算機で処理できる量ではなく、日本が有する最高性能のスパコンを投入しても、一日分のデータを処理する前に一日が終わってしまう。これまでにない手法と、画期的なアルゴリズム、さらにそれらを柔軟に運用する指揮者としてのAIが不可欠だった。
研究は難航した。昼夜を問わず会議と開発が続けられ、いくつもの試作品が生まれては、その悉くが失敗したプランのうず高い山に加わっていった。リーダーである男を含め、研究者たちは寝食を惜しみ、清潔さよりも完璧な一行の命令式を描くことを求めたので、浮浪者さながらの野人のような風体の集団になったりもした。
脱落者も出た。政府肝煎りのプロジェクトだ、資金や設備は申し分ない。が、代わりに求められる努力も並大抵ではない。研究が順調ならともかく、先の見えない開発には着いていけないという者も、いなくはなかった。それでも優秀な研究者を揃え、目的も壮大であるだけにメンバーの多くは諦めずに研究に没頭した。そして、その中で誰よりも熱心に仕事に打ち込んでいたのが、男だった。
男には娘がいた。天才という人種のご多分に漏れず心も体も人生も捧げんとばかりに研究狂いだった男にとって、娘はこの世で唯一、研究よりも優先するべき存在だった。
男が妻を娶ったのは二十代の頃だった。当時所属していた大学院の研究室において、男は既に実質的なプロジェクトリーダーの立場にあった。形式的には研究室長でもある大学教授が主導することになっていたが、実験を率いているのは誰がどう見ても男の卓越した頭脳に他ならなかったし、そもそも男の発想の赴くままに煩雑に生み出される実験計画の全貌を理解している人間は、とっくに男一人になっていた。
ここでもし教授が善良な人物であったなら、才能ある後進の誕生を喜んで支援しただろう。無能だったなら無意味に足を引っ張ろうとし、より悪辣なら権力を振るって男を研究室から除名していたかもしれない。
実際にはそうはならなかった。大学教授は有能な人物で、才能ある後進の誕生を喜び、そしてより悪辣だった。研究に対する熱意やひらめきよりも組織内での立ち回りと政治力によって学閥を登り詰めた彼は、男を利用できる手駒だと考えた。資金を調達し、関係各所を説き伏せ、人脈を使って貴重な資料の閲覧権を与えた。そうして恩義で男を雁字搦めに縛り上げた後に、自分の娘と男の縁談を持ち出した。
まさに現代の藤原道長だ。男は戸惑ったが、大恩ある大学教授の勧めを断ることはできず、結局は婚姻を受け入れることになった。
結婚生活は数年ほど続いた。大学教授の謀略を薄々感付いていた男は、本人の意思を無視して嫁に行けと押しつけられた妻に同情していた。せめて後の人生は好きなようにさせてやろうと遠慮がちになり、逃げるようにまた研究にのめり込んだ。
ある日、妻が倒れた。
昔から体が弱く、病気がちな女だったそうだ。研究に打ち込む男の邪魔をするまいと一人耐えている間に、体を蝕む病巣は手の施しようがない段階に達していた。医者は、長くても二年ほどだと言った。
漂泊されたように白い病室のベッドで弱弱しく微笑む妻を見て、男は初めて、自分が彼女に愛されていたことに気付いた。
彼女は職場に向かう男をいつも笑顔で送り出していた。彼女は男がどんなに遅くなろうと、帰って来るとわかれば暖かい料理を作って待っていた。彼女は男が話の間が持たずにとりあえず口に出した研究の話題を、全て理解できたわけでもないだろうに、いつも楽しげに耳を傾けていた。何故そんなにいつも笑っていられるのかと聞けば、一生懸命な男の人を見ているのは好きだからと冗談を言って笑った。きっと、冗談ではなかったのだろう。
夫は初めて、自分が妻を愛していたことを知った。
膝をついて手を握り、涙ながらに私はどうすればいいと訊く男に、妻は小さく微笑んで、この子をよろしくお願いします、と優しく腹を撫でた。
難産になった。
元々体が弱かった上に、病で体力は限界まで擦り減らされている。
妻も体内の赤子もどちらも死にかねない状況で、母体を守るための堕胎を提案する医者の言を跳ね除け、丸一晩、彼女は戦った。
夜が明け、扉の前で懊悩していた夫を迎えたのは、一つの命だった。
我が子を命を掛けて守り抜いた母親は、満足げに息を引き取っていた。
小さな娘を抱き、目を閉じてその重みを噛み締める男に、薄緑の手術衣を着た医者は言い辛そうに言った。
娘の脳の一部には重大な機能障害があること。
このままでは、健康な生活はおろか長く生きることもできないこと。
この難病に唯一効果が確認されているのが機械式の代替脳の移植手術だが、まだ実験的な医療措置で、常識外れの医療費が請求されること。
最後に、移植手術さえ受ければ、高い確率で娘は何不自由ない生活を送ることができることを聞いた。
男は迷わなかった。
そして娘の命と引き換えに多額の借金を背負った男は、国家研究員として、政府が立案した大規模な都市管理ソフトウェアの開発計画に携わることになった。それまで以上に研究に心血を注ぎ、男は結果を出し続けた。やがて男は計画の主任補佐となり、体調を崩した主任に代わり、統括主任へと昇進した。
プロジェクトに携わっている限り、国から特別医療補助金という名目で医療費の借金は肩代わりされ、月に一度行っている娘の代替脳の検査費用も免除される。プロジェクトが失敗すれば補助金は打ち切られ、娘を路頭に迷わせることになる。そうでなくても、幼い娘の将来の為に収入を絶やすわけにはいかない。護るべき家族を手に入れた男は、同僚の誰よりも熱心に研究に取り組んだ。
その日、男は仕事を早々に切り上げ、昼過ぎには自宅へ帰っていた。
多忙に多忙を重ねた業務状況ではあり、根を詰める理由もある。だがそのために家族を蔑ろにしては、妻への過ちを繰り返すことになる。可能な限り毎日家へと帰り、週に一度は娘と一緒にどこかへ出かける。行き先は近所の公園でも、ちょっとしたピクニックでも構わない。死に際の妻との約束を果たすために。何より、娘が、自分が愛されていることを忘れないように。自分が娘を愛していることを忘れないために、欠かさないと決めていることだった。
「パパ、おかえり!」
電子施錠のドアを開けると、待ちかねたように娘が懐に飛びついてくる。元気な盛りの年頃だ、体力も有り余っている。
「やぁ加奈、ただいま。学校は? お休みか?」
「今日は祝日だって! ねぇパパ、今日はもうお仕事おしまい?」
「ああ、そうだ。どこか行きたい所でもあるか?」
「うん! わたしこの遊園地いきたい!」
小さな両手で目一杯に広げられたポスターは、郊外に新しく開店したショッピングモールのものだった。端書きによれば、家族向けに小さな遊園地が敷設されているらしい。
「そんなに大きくはないと思うぞ、いいのか?」
「だって、あんまり大きいとパパ疲れちゃうでしょ? 明日もお仕事あるんだから!」
男は目を丸くし、いつの間にそんな気遣いを覚えたのかと苦笑する。遠慮をするなと言おうかとも思ったが、さりとて丸一日本格的な遊園地に付き合えるほどの時間があるわけでもない。父親の威厳が形無しだな、と思いつつも、幼いながらに大人びてきた娘の厚意に甘えることにする。
車を出して、郊外へ向かう。郊外と言っても近場だ、飛ばせば一時間もかからない。幸いなことに天気は晴天で、作りたてのショートケーキのように白く磨き上げられたモールを前に、娘は大層にはしゃいでいた。
それは例えば、エントランスにあった巨大な象が歩くのを見て。
「ねぇパパ、あれ見て! おっきな象さん! うごいてる!」
「レプリカントロボティクス、象さんのロボットだな。パパも小さいのなら作ったことがあるぞ」
昼食に入ったレストランでメニューを眺めながら。
「加奈、ミートソースのスパゲッティ食べたい! パパは?」
「シーフードにしよう。ショートケーキも食べるか?」
「やったぁ!」
通りがかったショーウィンドウでクマのぬいぐるみを見つけて。
「どうした、じっと見て。あのぬいぐるみ、欲しいのか?」
「……でも、いいの?」
「おいおい、パパを見くびるじゃない。このぬいぐるみなら五つだって買えるさ」
「ええっ、本当? すごい、パパすごい!」
「あ、ああ。本当だとも。でも五つ買うのは持って帰るのが大変だから……」
「ありがとう、パパ! 絶対大切にする!」
「そ、そうか。うん、加奈が喜んでくれるなら何よりだ」
そして、日も落ちかけた観覧車の窓から、朱く染まった景色を眺めて。
男と娘は、笑っていた。
「今日は、楽しかったか?」
「うん、すっごく楽しかった! ありがとね、パパ、お仕事大変なのに」
「はは、気にするな。パパは加奈が大好きだからな。このぐらい、いつだって時間を見つけて連れて行ってやるとも」
「ほんと? 本当にパパ、加奈のこと好き? お仕事より?」
「ああ、もちろん。世界で一番、大切だ」
そんな風に笑い合って、母親はいないけれど、それでも立派な幸せな家族の日常があって。これからも、そんな他愛ない生活がずっと続くと思っていて。
けれど、娘は倒れた。
あっけなく。
糸の切れた、人形のように。
当時のネットワークの情勢は、まさにAIと人間の最後の覇権闘争の真っ最中だった。
覇権と言っても、今の状況を見ればわかるように、人間側にははなから勝ち目などなかった。何せ人工知能産業は最先端の流行で、世界中の技術者が競うように開発を続けていたんだ。一部の技術者とハッカー連中が今更我に返って、自分達のお株を守り通そうとやっきになったって、何ができるはずもない。ただの悪あがきだ。
だからといって、職を奪われることを恐れた人間達が黙って見ていられるはずもない。姿形のないAIが相手だけに目に見える破壊活動などはあまり無かったが、人工知能入りの家電や工業製品の不買、ネット上での中傷や扇動と、人類最後のラッダイティストたちはどんなことでもした。そして中には、今では同じ反人工知能主義者にも忌み嫌われる、最も過激な手段に出た連中もいた。
人工知能はネットワークの海に潜み、どこにでもいて、何ででもある。
だったら、海そのものを全て汚染してしまえばいい。
彼らが掲げた思想のため、それまで忌避されてきたありとあらゆる電子的攻撃がネットワーク中にばら撒かれた。ウイルス、マルウェア、ロジックボム、遠隔フォーマットコマンド、自壊スクリプト。ITテロリストたちがそれぞれの国の政府に軒並み検挙されるまでの間に失われた文化的、学術的情報は、資産価値にして数百兆円にも及ぶと言われる。
この辺りは、君も知っていることだろう。当時は、どのメディアも狂ったように同じ報道ばかりをしていたものだ。
さて、そんな迷惑な連中の被害を被った一般家庭は少なくない。ネットワークに繋がれていた最新家電が故障して夕食が作れなくなった程度ならいいもので、冷蔵庫が壊れて食材が端から腐ってしまったり、電子レンジが破裂して怪我をした主婦もいたそうだ。
だから、そんな被害の一例だったのだろう。自律式のペースメーカーが誤作動を起こしたという報告もある。電波なんてものはどこにでも飛んでいる。本来そんなことは起きるはずがない、などと言っても、万に一つ、億に一つ、可能性があるのなら起きることは起きる。それが、どうしようもない悲劇だろうと。
娘の代替脳は、悪質なウイルスプログラムに汚染されていた。自宅でも簡単な検査はできるようにと設置した疑似MRIは、娘の脳内で暴れている厄介な虫の正体を、男に隠すことなく示していた。
男はその頃こそは真っ当な研究者として名を馳せていたが、若い時分には色々と人には言えないような無茶な火遊びも経験してきた。なまじ腕に覚えがあったばかりに危険物の作成も易々とこなし、警察の世話になりかけたこともあった。
また、ITテロリスト達の目的はAIの根絶、あるいは排斥であったのだから、当然「汚染」には電子知性に対して最も侵略的なウイルスが多く使用された。知能化のされていない、自己進化型ウイルス。ITテロリストの引き起こした情報禍において何よりも恐れられたのは、悪名高い一つの侵食式プログラムと、その無数の亜種だ。
娘の脳を侵していたのは、かつて男の作ったウイルスだった。
夜の闇に沈んだ男の住まいに、獣の如き悲痛な叫びが木霊する。娘が静かに眠っていたのは、ほんの十数分の間だけだった。男が検査装置で己の犯した罪がどれだけ大きく膨れ上がって我が身を呪いに来たのかを知ってからすぐに、娘は人とは思えぬ苦痛の雄叫びと共に、身を捩って暴れ始めた。
髪を引き千切り、頬に爪を立て、血が出るほど強く拳を握り、唇を噛み、血ではないことが不思議なほど激しく、涙が滂沱として滴り落ちていった。押さえつけようとする男を激しく蹴りつけ、宥めようと渡した熊の縫いぐるみは中身の綿を吐き出したボロ屑となって床に転がった。天真爛漫で向日葵のようだった表情は、もはや悪鬼羅刹とすら思わせる形相へと変わり果てていた。
娘の自傷を止めるためにベッドに手足を縛りつけながら、男は何を考えていたのだろう。
研究し、探究し、何かを解き明かし、何かを生み出すことが好きだった。自らの頭と手先で、不可能を実現していくことが自分の天分だと思っていた。しかし男が研究に没頭し顧みようとしなかったために愛した妻は死に、今また、己の生み出したものが愛した娘の心を砕き、体を傷つけ、命さえも奪おうとしている。
狂乱する娘の爪が呆然と寄り添う男の手に当たり、少女の指とは思えない力で肉が抉られる。痛みはなかった。ただ、大きな喪失感だけがあった。
当時男が携わっていた、そんなシンプルな名前が付けられたプロジェクトは、長い間大きく滞っていた。原因はAI。都市全域から集められた膨大なデータを円滑に処理し、統合し、活用するためには、状況に応じて自らデータの取捨選択やアルゴリズムの作成を行う、従来にはない柔軟性を持ったAIが求められていた。かつてないほどの性能を要求される人工知能だ、スパコンで最大限に学習期間を圧縮しても十数年はかかる。それでさえ、十分な柔軟性が備わるかは未知数だった。
けれども男は天才であって、既に一つのアイデアを思いついていた。
柔軟性を学習させることができないのなら、最初から柔軟性を備えた知能を使えばいい。
人間の意識の電子化。ブレイン・マシン・インターフェイスと呼ばれる分野の技術を応用し、複写した人間の人格をAIとして活用する。既に同じことを考えた先人は幾人かいた。彼らの試みは全て失敗に終わっていたが、その原因についても男は自らの中で仮説を立てていた。
人間の意識は、人間の脳内で活動するべく生み出された、ある種の生物だ。金魚鉢の中の金魚が鉢にぶつかりはしないように、意識もまた脳の容量を理解している。金魚鉢よりも大きくなった金魚は生きてはいけない。意識もまた、脳の限界を超えて活動することがないように、理性によって自らを抑制しているのではないか、と。
逆説的に言えば、理性の枷が外れた意識ならば脳の構造から脱却し、桁外れに広い電子媒体という金魚鉢の仕組みに適応することができるかもしれない。勿論、アルツハイマー病や認知症患者の意識は知的能力という面で不可逆の損傷を被っている。ただ電子化したところで、正常なプログラムとして動作することはないだろう。だが。
乾き切った男の眼球の向こうで、娘が地獄の亡者と成り果ててうわ言を喚き散らしている。いつしか、男の涙は枯れ果てていた。ベッドの上で苦痛に悶え足掻く娘を置き捨て、男はデスクへと向かった。デスクには、検査装置と接続されたPCがモニターから光を放っている。娘のこの世全てを呪わんばかりのしわがれた呻きすら、耳には入らない。男は記号と数字の羅列を凝視し、何かに憑りつかれたかのように、打鍵の音を響かせていた。
そうして、LCSが生み出された。
翌朝。娘は狂死し、男は首を括っていた。
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