第二話 大都市機構
公安部長、つまり公安警察において警視総監の次に偉い人物のデスクトップに最初のメールが届いたのは、三日前の事だった。差出人不明、正確にはネットカフェの貸出用端末で取得されたフリーメールアドレスから送られたそれには、
ただ一文だけ、
『私はそれを忘れない LCS』
そう書かれていた。
実害が無かったとはいえ、公安部長の下に怪文書が届けられたのだ。当然、一通りの捜査をすることになった。
ネットカフェの端末には操作された履歴こそ残っていたものの、受付名簿でも店員の記憶でも、その時間に端末を使用していた人物などいなかった。一方、公安部長の個人用アドレスがどこから漏れたのかというと、なんと警視庁の職員名簿に外部からの不正アクセスの痕跡が残っていた。
つまり、下手人は堂々と日本最大の警察機構のネットワークの奥深くにまで入り込み、誰にも気付かれないまま住所録を箪笥から取り出して、ポストに置手紙まで残して去っていったのだ。
ここに至って、犯人が人間であるという可能性は消えた。
何しろ問題の情報空間は通常の無人格セキュリティに加え、警察内部の機密管理を担当する人工知能が抜け目無く警備していた。それを掻い潜って一連の不法侵入をやってのけた以上、これはもう高度な人工知性の仕業でしかありえない。
あるいは、人間と人工知性の「共犯」か。
そんな流れがあり、捜査が現代において最も警察に嫌われる対電子人格捜査に入ろうとした昨日、二通目のメールが届いた。
『東京都中央区XXX-XX-X 2061/10/15 13:00 LCS』
かくして僕はこの不親切な招待状の言う通り、東京湾沿いの潮臭い倉庫街に休日出勤をさせられる羽目になった。
「ところで、僕はまだ自己紹介をした覚えがないのですが」
「偽名をわざわざ名乗られても、お互い時間の無駄だろう?」
微笑が浮かぶ。
偽造の身分証――国家が承認している偽物を偽造と呼ぶならだが――の個人情報は、ここに来るまでの公共交通機関にいくらでも配り歩いてきた。とはいえ、仮にもそれは公的機関の強固なプロテクトに守られていたはずだ。それをこうも容易に掠め取れたのだから、ここにいるのは恐らく三日前のクラッキングをやらかしたAI本人なのだろう。
しかしだからと言って目の前の擬人駆体を破壊して演算領域を焼き切れば終わり、というわけでもない。人工知性の愛護団体に配慮した、という理由もなくはないものの、そもそもAIというのは大抵の場合、バックアップを持っているからだ。クラウド化された予備の自分をネットワーク上に確保されているので、いわば子機でしかない擬人駆体とその中身を焼いたところでほとんど意味はない。むしろ相手の怒りを買って、止めようのない電子的嫌がらせがより苛烈になるだけだ。
そういうわけで、どんな狡猾な潜伏犯を逮捕するよりも忍耐強さと根気が求められる対電子人格捜査というのは、現代においてはかなり重要な職務にも拘らず、不人気な閑職とされているのだった。
そしてその閑職に追いやられた哀れな窓際族こそ、
「ああそれと、敬語はいい。堅苦しいし、いやそれとも、私はそういう形式を好まない人格だ、と言った方が納得してもらえるかな。『警視庁公安部第四課三係電子知性対策室主任』さん」
つまりは、僕だった。
「そうですか。……ところで、自己紹介をする予定はなかったのですが」
「おや、つれないな。私は古泉何某の住民票の番号だって読んできたんだ。君の肩書きぐらいは行きがけの駄賃で覚えてこられるさ」
公安部長の姓は古泉だった。
動揺してはならない。混乱と当惑の芽をシナプスの間で押し潰し、まばたき一つにも表してはならない。なにせ、相手はやりようによっては赤外線で心臓の鼓動を把握し、呼気の大小を聞き取り、それぞれの平均速度から心情を割り出すような代物だ。
どんな有能なスカウトマンだって、老子とファインマンのダイアグラムを交互に引用してくる三歳児には手を焼くだろう。将棋の棋譜を記憶するように言葉のラリーで樹系図を描ける相手に、無理に主導権を握ろうとしても意味はない。急流を前にしてするべきは流れを変えようともがくことではなく、自らの立ち位置を忘れず、知識の礫に打ち流されないよう、受け流すことだ。
相手を理解できてなどいないことを、忘れてはならない。
「あなたは、
努めて冷静に、感情の波を凪の状態に保ったまま、声帯だけを震わせるように心掛ける。
平常心を失うことなく、何よりもまずぶつけるべき一言を口に出した。
何故たかがいちソフトウェアそんな馬鹿げた存在に膨れ上がったのか、知る者は少ない。いないのかもしれないが、わからない。いるとすればそれは、下っ端の公務員などには窺い知ることのできない地位にいるものだけ、という程度の推測だ。
もしくはその存在自体が、少しばかり国家の内情に詳しい者をはぐらかすための虚偽という可能性はある。一般にはLCSなどというものは公表されておらず、物好きな好事家たちが掲示板で語るだけの都市伝説として扱われているように。
だが公安部長の下にはその名を冠したメールが届き、それを受け上司は仕事を一つ増やした。
それは、嘘ではない。
返答の代わりに微笑が浮かぶ。
海鳥の鳴き声が雲の下を長閑に飛んでいた。遠い水平線から、汽笛が水夫を思わせる。陰謀も巨悪も、ここでは余りに滑稽だ。
溜め息をついて思考を切り替える。河の流れを変えることはできない。答えがないのなら、答える気のある質問をする他になかった。
「あなたは、何故僕を呼び出したんです? いえ、僕である必要は無かったのでしょうけれど」
「それは勿論、話をするために。ああいや、冗談じゃあないよ」
海風が吹く。陽光に目を細めるように目蓋を下ろして瞳孔を収縮させ、人形は風の行く先に顔を向ける。亜麻色の髪が、生命の匂いに溶けてゆく。御伽噺から抜け出してきたかにも思える虚構の少女を、不釣り合いな黒いスーツ姿の小役人が現実に繋ぎ止めている。
「私は話を聞いて貰いに来たんだ。忘れて欲しくはないからね」
忘れない。私はそれを忘れない。それはメールに記された一文だった。意図の読めない、詩の一節にも似た言葉。彼女なりの意味が、そこにはあったのだろうか。
「三年、三年で、最初の一人が一年後。だから、君で三人目だな」
「まるでこれまでにも何度か同じことをしてきたかのような言い方ですね」
「そうとも。君の先輩に聞いてみるといい。少なくとも、上司は知っていると思うよ。三年前は、送り先の名前は古泉ではなかったがね」
勘弁してくれ、と胸の内で呟く。
ではこの茶番は想定外でもなんでもなく、ただの予定調和だったと言うのか。休日出勤の犠牲者さえも背広を着た上司の中では決まりきっていたというのなら、腹立たしいことこの上無い。腹立たしいが、しかし公安とはそういう職場でもあった。
「聞いて頂けるかな?」
「それが仕事ですので」
残念ながら、と口に出すことは、どうにか堪えた。
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