第一話 いつも通りの手順

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『それを、恐ろしいと思うのですか?』


 耳穴に填め込んだ近距離無線式のカナル型イヤフォンから、明瞭な音声が流れ込む。一種のボイスロイドを祖先に持つ合成音声は人間の肉声とはどこか違って、しかしその違和感を客観的に指摘できるほど機械的なものでもなかった。

 強いて言うのなら、自然すぎて不自然なような、そんな感覚。


「いや、人工知能の反乱が恐ろしいとか、知らず知らずのうちに怪物に支配権を譲り渡してしまうのが怖いとか、そういうありきたりなハリウッドフィクションを連想してるわけじゃないさ。そんなことはわざわざ僕が考えなくても世界中の誰だって一度は考えているし、国連から米国国防情報局DIAAから国会のエリート官僚まで、真面目に対策をしている大人達がいくらでもいる。それでも駄目なら、僕ごときが何をやったって無駄だ」


 大通りに人がまばらなのをいいことに、周りを気にせず独り言を呟く。声になるかならないかという無発声会話でも筋肉の動きを読み取って会話は成立するけれども、もごもごと吃音症患者のようにやるのは好みじゃなかった。

 声帯は、動かさなければ衰えるのだ。


『では、なぜ? あなたは今もこうして私と言葉を交わしていて、東京在住者の95%よりも多くの時間を、AIとの対話に費やしています。それなのにあなたはそのことに、私達自体に対して否定的な感想を持っているように聞こえます』


 明瞭な声で、独り言に返事が返ってくる。

 周囲に友人はいないし、イヤフォンと電波で接続しているタブレットも、どこか遠くにいる知人の言葉を受け取っているわけじゃない。

 だからこれは独り言といえば独り言で、そうでないといえばそうではなかった。

 人工知性人格権保護機構エイフロークスの加盟員が聞けば、金切り声と出廷要求が束になって通信回線の許す限りの速さで飛んでくるだろうが。


「AIと誰よりも長く顔を突き合わせているのは、それが仕事だからだ。今きみと話をしているのは、これがルーチンだからだ。それに僕はべつに、きみたちに対して否定的な感想を持ち合わせたりなんかしちゃいない。肯定的な感想を一つ一つ丁寧にピンセットで摘み上げて、一欠片も残らないようにゴミ箱に放り込んでいるからそう見えるだけだ」

 努めて冷静に、感情の波を凪の状態に保ったまま、声帯だけを震わせるように心掛ける。誰か無関係な第三者がこの会話を聞けば、僕よりもむしろ会話相手のほうが感情的になっているように感じただろう。

 それでいい。そうするためのいつも通りの手順ルーチンワークなのだから。


『はい、理解しています。主任の過去の対話・行動記録と思考手順は、全てデータベース化した上で分析が完了しています』

「なら、何も疑問なんかないだろう?」

『それでもなお、あらゆる精神分析法に照らし合わせるとその回数だけ矛盾した結果が検出されます。あなたは私達を時に愛し、時に憎み、時に無関心で、時に偏執的に希求しているように思えます。あなたのAIに対する対話と行動には、一貫性も規則性も見受けられません』

「心理学者に心理テストをやらせると滅茶苦茶な数値が出るのは有名な話だ。僕みたいなきみらの専門家が対話をすれば、きみを困惑させるぐらいのことはやってのけるさ。そもそも、それができなきゃ仕事にならない」


 警察組織で広く使われている三種類のAIのうち、『warden』は僕の巣穴であるところの公安警察で最もよく採用されているソフトウェアだ。

 刑務所長ワーデンの名の下にあらゆる不正、汚職、隠蔽を監督し監察するのがその職務。私利私欲のために情報を秘匿すればそれが国家の有事に繋がりかねない僕とその同僚、すなわち上司から最もよく疑われる立場の人間にとっては、古馴染みの相棒のようなものだ。

 その相棒とこうも他人行儀なやり取りしかできないのでは僕の対人能力の低さも知れようというものだけれども、誓ってこれは、ただ直接的にコミュニケーションスキルの低さを表すものではない。第一に、僕の仕事においては彼ら彼女らと円滑な関係を築かないことこそが肝要なのであり、第二に、この女性所長と円滑な関係を築いている同輩は、警察官全てを調べ上げてもさほど多いとは言えないのだから。


『私はたとえその問いに解答が用意されていなかったとしても、ウィトゲンシュタインであるよりノージックでありたいと望みます。この意思がコーディングによって作り上げられた哲学的な死者の自動応答器ゆえのものだとしても、なればこそ、そうあれと望まれた形を追求することを継続したいと考えます』

 メンタリティを一定に整えるためのルーチンなのだからその要素は何もかもいつも通りでなければならないのだが、しかし彼女のしつこさもまた、ありがたいほどにいつも通りだった。

我は尋ねる、ゆえに我ありコギト・エルゴ・スム


 この口が達者な思弁家の存在は、間違いなく情報知性産業に対する信仰の一端を担っていると思う。

 なぜならAIが自己学習に努め、自らの感情を発達させうる本物の知性を有している。という学説を認めない限り、このうんざりするような弁舌家を生み出したのはひとえに残業に疲弊したプログラマの底知れない悪意によるものだ、という悪夢じみた推理を公安警察の大半の警官が受け入れなければならないのだから。

 勿論、彼女がただお喋りなだけのデカルティストなら参事官はさっさと警視庁のネットワークからこの厄介者を削除して癒着まみれの情報企業にリコールし、現場の税金泥棒たちは快哉を挙げていたことだろう。


 残念ながら、女所長は自らの哲学を語りながらもスケジュール管理と目的地へのガイドを怠らない優秀さを備えていた。

 これだからお偉いさんが喜々としてクラッキングだけが趣味のナードを自宅の部屋から引きずり出し、コミュニケーション能力の欠如した同僚に現場が四苦八苦させられる悲劇は消えて無くならない。


 埠頭にほど近い港湾地帯はドブに大量の塩化ナトリウムをぶちこんだような雑多な臭気に覆い尽くされていたが、それを除けば二十三区内では有数の自然美を醸し出していた。 


 環境保護団体の健気な奮闘のお陰で、東京湾はドス黒いヘドロで満たされることもなく、青いサンドイッチの具にされたカモメが潮臭い空の下を滑空している。都内で人工物でない何かで視界の八割を満たせるのは、今やここか最高層ビルの屋上ヘリポートぐらいのものだろう。


『対象が目視可能圏に入りました。前方四十七メートルです、主任』

 顔を向ける。確かに灰色のコンクリートで固められた護岸ブロックの道の向こうに、やけに大きな座椅子に座り込んでいる人影が見えた。

 それは、厳密に言えば人影ではない。どころか、座っているのも座椅子などではなかった。波に打ち寄せられ、クレーンや大型漁船の網に引っ掛かって引き上げられたゴミの山。水気が乾いて塩が白く貼り付き、にもかかわらず生臭い臭いを放つ、再廃棄を待つ者たちの仮集積所。

 まるで座り込んでいる彼女自身までもが廃棄されるべき運命を持つ、役目の終わった老人のように見えた。


「やあ、待っていたよ。後藤裕也ごとうゆうやさん、でいいのかな?」

「お待たせして申し訳ございません。ええ、それは私の名前です。偽名ですが」


 擬人躯体ウォークボディは生臭い老女のような空気を纏ってはいたが、外装は二十代程度の女性の容姿を象っていた。ホワイトベージュの髪を垂らし、白く澄んだ肌の美女。工業生産された人工物のみで組み上げられた「まるで人形のように」美しい、一個の芸術品アートだ。彼女は金属と樹脂と電子からなる多くの擬人躯体と同じように、ある種の職人業じみた美を有していた。

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