追憶・別れと旅立ち

「私が生まれたのは気が遠くなる程の大昔、まだこの世界が始まって間もない、神話の時代だ」


 邪竜レヴィアタンは憎悪と羨望と嫉妬にまみれた己の半生を振り返り、姉妹に語った。




 ◇◇◇




 レヴィアタンは持たざる者として生まれた。それは鋭い牙も強固な鱗も空を飛ぶ翼もない、小さな蛇に過ぎなかった。 与えられたものといえば永遠に続くような時間と、湧き上がる理解の出来ない感情。


 自分と比較すべき他者の存在しない世界で、彼女は自らの存在について延々と自問自答を繰り返し、疲れ果てて眠りについた。


 悠久の時が流れ、長い眠りから覚めたレヴィアタンが目にしたのは、見たこともない多種多様な生物だった。 翼を広げ大空を舞うもの。 鋭い爪と牙を生やしたもの。 硬い鱗で覆われたもの。 それらを前にした時、レヴィアタンは長い間自分の中にあった、理解出来ない感情の意味を知った。


 それは嫉妬心。 自分に無いものを持つあらゆる存在に対する、狂おしいまでの妬ましさ。


 空を飛ぶ翼が妬ましい。 獲物を引き裂く爪と牙が羨ましい。 身を守る硬い鱗が欲しい。 それらの感情を抱くにつれて、レヴィアタンにある変化が訪れた。


 巨大な翼、鋭い爪と牙、強固な鱗。 その全てがレヴィアタンのものとなっていたのだ。 それは彼女の持つ唯一の力。 他者を妬めば妬む程に自己を進化させる異能の力。


 異能力に目覚めたレヴィアタンは原初の世界の支配者として君臨した。 翼竜ワイバーン兇竜レックス角竜トリスホーンも彼女には敵わない。 何故なら、それらが持つ優れた生物的特性全てをレヴィアタンは妬み、自らのものとしたからだ。


 他者を妬む心を糧に自己進化を果てしなく繰り返した結果、いつしかレヴィアタンと並び立つ者はいなくなっていた。 妬む対象が存在しなくなった時、再び彼女の自問自答が始まる。 自分は何のために存在するのか? ループする思考がたどり着いたのは、ただ一つの答えだった。


 我、妬む故に我有り。


 つまり、妬むべき対象がいないなら存在する意味がない。 レヴィアタンは再び長い眠りについた。


 またも悠久の時が流れ、レヴィアタンは目覚めた。 どれだけの時間が流れたのかは彼女にも分からなかったが、気候が大幅に変動し空気の組成も魔力の濃度も変化している。

 

 レヴィアタンは試しに巨大な翼で飛翔し、天空より大地の様子を観察してみた。 すると、そこかしこに見慣れない生き物が歩き回っている。 それは身を守る鱗も体毛もなく、獲物を引き裂く爪と牙も、大空を飛ぶ翼も持たない。


 何とか弱い存在なのだろう。 レヴィアタンはそう思った。 しかし、その二本足で歩き回り、前足が自由になった生き物は、原初の獣が持ち得ないものを持っていた。


 それは自ら進むべき未来を紡ぎ出す意思の力。 他者を思いやり誰かを愛し、また愛されて生きて死ぬ。 人はただ子を成して命を繋ぐのではない。 心で繋がり魂と魂を延々と繋いでいく。


 この時レヴィアタンは、これまでに類をみない程に大きな嫉妬心を覚えた。


 妬ましい… 妬ましい… 妬ましい! 心の中で膨れ上がる感情は、レヴィアタンに新たな変化をもたらす。


 鱗は全て剥がれ落ち、爪と牙は退化し、翼も失った。 しかし、レヴィアタンは一向に構わないと思った。 彼女の望みはただ一つ。 人として生きる事だ。


 しかし、彼女は人として生きるには余りにも異質な存在だった。 姿形を真似た所で本質的に人と竜はかけ離れている。 竜は基本的に不老不死であり、膨大な魔力そのものが形を成した超越者。 人と共に生きられる筈もない。


 そしてレヴィアタンの苦悩が始まった。 人を妬み続ける余りに、それはやがて憎悪に変わり、彼女は人を喰らうようになっていった。


 隠遁者のように森の中に潜み、迷い混んだ人を喰らうという日々を送っていたある日、レヴィアタンはあるものと出会う。


 薄い緑色の肌に蜜の様な香りを纏う、可憐なる森の乙女。 木の精ドライアドのオリーブである。


 その美しく清らかな存在に、レヴィアタンは惹かれずにはいられなかった。 オリーブは何処の誰とも知らぬレヴィアタンの事を受け入れ、只々優しく包み込んでくれた。


 オリーブはレヴィアタンの素性を知りたがらなかったし、彼女から話す事もなかった。 そこには安らぎだけが満ちていた。


「レヴィアタンってなんか呼びにくいし~今日から貴女のことはレヴィって呼ぶね♪」


 レヴィ・フロース。 愛するものが彼女にくれた名前。 最早、嫉妬の邪竜レヴィアタンなど何処にもいない。 彼女は他者を妬ましいとも思わない。 何故なら彼女の求めて止まないものが、すぐ隣に寄り添っていたからだ。


 ここで話が終わるなら文句のないハッピーエンドと言えるだろう。 しかし、無情にも物語は続いていく。 それはハッピーエンドの後の、蛇足としか言えない呪いの様な物語。


 竜とは罪より生まれ、永遠の苦役を背負うもの。 彼女には課せられた責務がある。


 レヴィには分かっていた。 あらゆる命には終わりが来る。 それはドライアドのオリーブにしても同じ事である。 もし彼女を永遠に喪ってしまったなら。 それはレヴィにとって死ぬより辛い事である。 愛するものを喪って尚生き続けるくらいなら、死んでしまいたいとすら思えた。


 しかし、レヴィは死ぬ事が出来ない。 彼女に死をもたらす事が出来るのは、この世で唯一、 百合魔法使いリリウム・マギウスだけである。




◇◇◇




「そんな時だったよ。 お前達が私の前にもたらされたのは」


 長い話を終え、レヴィは一旦間を置いた。


「本当に驚いたよ。 私が死を望んだ時に、私を殺す事が出来る存在が目の前に現れたんだ」

「 母さんが嫉妬の竜レヴィアタンだって言うの? そんな話を信じられると思う? 」

「信じざるを得ないさ。 これを見ろ」


 レヴィは肌を傷つけないよう慎重に、鋭い爪でエリスの衣服の背中の部分を裂いた。


 露になったエリスの背中に刻まれた、竜の呪い痣。 その竜の形をなぞるように、止めどなく血が溢れ出している。


「私は竜の力を取り戻しつつある。 その痣は私の魔力に反応しているんだ」

「嘘… 嘘ですわ! 母さま、お願いです。 嘘だと言ってくださいまし……」


 突きつけられた残酷な現実を前にして、エリスはその場に力なく泣き崩れる他なかった。


「済まない……」


 レヴィはリリアの腰に下げた剣を引き抜くと、それを手渡した。


「リリア、お前の手で全て終わらせて欲しい。 私の呪われた命を……」

「無理よ… そんなの出来るわけないっ!!」


 リリアは震える声で言った。


「あなたは私達のお母さんなんだよ? 私、母さんに教えて貰ったこと全部覚えてる。 エリスと初めて喧嘩したときは仲直りの仕方を教えてくれた。 毒草と薬草の見分け方も、獲物の捌き方も、剣の振り方も魔法の使い方も全部全部母さんが教えてくれた。 ねぇ、母さん… 私達を育ててくれたのは、自分を殺させる為だけじゃないんでしょう?」

「わたし達は、母さまを愛しているのですわ… だから、殺して欲しいだなんて言わないで……」


 長い沈黙の後、レヴィは感情を押し殺した声で言い放った。


「そうか…… なら仕方ない。 今ここでエリスを殺す」

「母さん!?」


 レヴィはエリスの細い首を掴み、片腕で持ち上げた。


「がっ、あぅ、かはっ……」


 エリスの顔はみるみる青ざめていく。


「止めて! 母さんやめて! エリスが死んじゃう!」

「同じ事だ。 私を殺せないならどの道エリスは死ぬ。 さあ選べ。 私を殺すかエリスを見殺しにするか」

「止めて…」

「選べ」

「止めてッ…」

「エリスを見殺しにするつもりか?」

「や、めて……」

「時間切れだ。 首の骨を折って苦しまずに死なせてやる」

「止めてえぇぇぇえッ!」


 レヴィが腕に力を込めようとした刹那、リリアの脳裏に優しかった母の笑顔と、エリスとの約束が浮かんで弾けた。


 そして、気がついた時にはエリスの手には血塗られた剣が握られていた。 すぐ側に横たわるレヴィの腹部からは夥しい血が流れ、荒い呼吸音が聞こえる。


「やれば、出来るじゃないか… さあ、それ愛の祈りの剣で私の心臓を貫いて… 終わらせてくれ……」


 レヴィはエリスが狙いを外さぬ様に、仰向けになり懇願する。


「いや…… 母さん、母さんっ!」

「あぁ… リリア、エリス… 呪わしく、愛おしい私の娘達…… 強く生きろ。 運命なんかに屈するな。 全部お前達が決めていくんだ……」


 レヴィは力無く瞳を閉じて、ただその時を待っている。


 自分が躊躇えば躊躇らった分だけ母親が苦しむのだ。 そう自らに言い聞かせ、エリスは手にした剣をレヴィの心臓に向けて構えた。 しかし、その手は震えて狙いが定まらない。


「姉さまひとりに背負わせたりしません。 わたしも背負います……」


 剣を握るリリアの手に、エリスの手が重なる。


「母さま……」

「お休みなさい… 母さん……」


 フロース姉妹の刃は正確に慈悲深くレヴィの心臓を貫いた。


 レヴィは苦痛の呻き声ひとつあげない。 その表情は余りにも穏やかで、閉じられた両目からは静かに涙がこぼれ落ちる。 落涙は二つの澄んだ青色の結晶となり、その場に残された。


 レヴィ・フロースの永きに渡る生は終わった。 しかし、彼女の遺したものはリリアとエリスの内側で生き続けている。 それはやがて運命さえ変えていくのかも知れない。


 レヴィの物理的実体を構成していた魔力はほどけ、無数の光の粒子となって消えていく。 後に残されたフロース姉妹は、お互いに抱き合って子どものように泣いた。


 それから暫くした後、傷が癒えて休眠状態から目覚めたオリーブは悲しみにくれるフロース姉妹を見つけ、自分が愛した者がもう二度と戻らない事を知り、姉妹を抱き締めて共に悲しんだ。




 ◇◇◇




 それから月日は流れ、フロース姉妹に旅立ちの日がやって来る。


「本当に行っちゃうの?」

「ええ、私達に残された時間はそんなに長くないから… 行ってきます。 オリーブ母さん」

「オリーブ母さま、どうかご自愛なさって下さいまし……」


 レヴィの作り出した結界の効力は既に消えさっていたが、オリーブは木の精ドライアドとしての能力を最大限発揮し、花園を守っていた。


「いつでも帰って来ていいんだからね~? わたし、ず~っと待ってるから……」


 オリーブに見送られフロース姉妹は旅立った。 行く末には幾多の困難が待ち受けている事だろう。


 リリアとエリスは力強く大地を踏み締めて共に歩き出す。フロース姉妹は森の外に抜けるまで一度も振り返らなかった。


「帰らずの森なんて言い出したのは誰なのかしら? 此処は私達が帰るべき場所。 絶対に帰ってくるから… 母さん……」

「ええ、姉さま… 絶対に帰って来ましょう」


 かくしてフロース姉妹の竜を殺す旅は始まった。 森の出口には温かな陽の光が降り注ぎ、風に揺れる金色の花だけが過酷なる世界に旅立っていく姉妹をいつまでも見送っていた。

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