第25話 神と猫のみぞ知る

 繁盛する時間は終わり、いつものように一人酒でも飲みながら遠くに見える桜で花見でもしようかと思っていた時だった。


「旦那、まだやってるかな」


 顔を上げるとそこにはいつも通りしょぼくれた顔をした会社員の姿があった。手には大きな紙袋を提げている。


「よう、店じまいのつもりだったが、まあお前なら良いだろう」


 椅子を二つ出してきて、表に座る。

 皿が一つしか乗らないような机に、二人分のとっくとおちょを用意する。


「つまみはなんかいるかい」


「いや、大丈夫だよ。腹は空いてない」


 お互いに杯を満たした後に、乾杯をする。

 一口に飲み干した後、主人は言った。


「なあ、やっぱ夜桜ってなあいいもんだよなあ」


 同じく一口に飲み干した男はそれに賛同する。


「そうだね、僕は昼の賑やかな感じも好きだけど、夜の澄んだ空気の中で見る桜も好きだよ」


 いつも飲みに来ては潰れる男だが、飲み始めは嘘のように落ち着いた口調である。それもまあ良いところなのではあるが。


「そうだなァ、後はまあ夜ってとこも良いよなぁ、夜空と月に映えること映えること」


 遠い山に見える桜は、薄ぼんやりと輪郭を滲ませて、幻惑のような景色を作り出している。


「ああ、そういうのは僕らにとっても楽しいもんだ」


 しゅをはらんだ息を吐きながら、男は笑う。


「何だお前、今日はえらく上機嫌じゃあねえか」


 男がここに来るのは、決まって嫌なことがあったときだ。この男が店で笑うのを主人は久しぶりに見た。


「いやあ、今日はちょっと嬉しいことがあってね」


 それに二つもだ。と、確かに鼻歌でも歌いそうな調子で、男は言う。


「へえ、そいつぁ良いじゃねえか、じゃあ、もう一本出しとくか」


 そう言って主人は店の中に引っ込む。


「やはりお前もここに来ていたか」


 主人と入れ替わりにやってきたのは、喫茶「サンシャワー」のマスターだった。


「ああ、狐の……」


「今はマスターと呼んでくれ」


 ぴしゃりと言い放つ。それを聞いた男はまた愉快そうに笑った。


「マスター、君と会うのも久しぶりだね」


「そうだな、そっちも相変わらず貧相な面をしているじゃあないか」


 どっかりと空いていた椅子に座るマスター。

 そこにちょうど主人が帰ってくる。


「おお、おめえも来たのか、んだよ。来るときは来るって言えよ」


 徳利を置くなり、すぐにもう一つお猪口と椅子を持ってくる主人。

 三人が囲むには小さすぎる机に、三つの杯が並んでいる。


「おう、ここで足組むのやめろよ、さすがに狭くて仕方ねえ」


「まあそう言うな、私は神だからな」


「神だろうが仏だろうが、ここに来りゃみんな客だよ」


「そうだね、違いない」


 はっはっっは、と笑う三人。どうやらこれがいつもの会話らしい。


「そうだ、お前には言っていなかったが、この町に面白い妖怪が生まれたぞ」


 かなり酒に強い三人の顔がほんのり赤くなり始めた頃、マスターは言った。


「ああ? そうだよ、おせぇんだよ。そいつならもううちに来たよ」


 マスターは少し意外そうな顔をする。


「おお、そうか、やはりこれも縁と言うことか。面白いだろう、あの子は」


「ああ、初めて見たぜ。あいつもそうだが、その横の男も充分面白えよ」


 二人が津野と幸夜について話し始めた時だった。


「ああ、その子なら僕も見たかもしれないよ」


 早くも呂律が怪しくなってきた男は言った。


「ああ、お前も見ただろうな。昨日お前が潰れてた横で話ししてたのがそいつだよ」


「ああ、そうじゃなくてさ」


 がさがさと紙袋から中身を取り出しながら、男は言う。


「今日うちの社に来たんだよ。その子」


「お前の社にィ?」


「あの、子供が飛び乗っただけで壊れそうな社にか」


「そりゃあ、君の所に比べたらみすぼらしいかもしれないけどさあ」


 男は紙袋の中の箱を取り出す。

 アロマディフューザーだった。なんともこの空間にミスマッチである。


「これ、彼がくれた福引きの券で当てたんだぜ」


 ぽんぽん、と箱を誇らしそうに見せる男。

 その様子がおかしくて、店主二人は笑った。


「貧乏神に詣でるとは、思っていた以上に変わった男なんだな」


 膝を叩きながらマスターは言った。


「まあまあ、久々の参拝客がそんなもんくれるたぁ太っ腹じゃねえか」


「そうだ、それで、そいつをあの社の何処に置いておく気だ」


 どっと二人の中で笑いが起こる。


「そういえばそうだなあ」


 男は少し思案した後、こう言った。


「それじゃあ、狐さん。君にあげるよ。君んところの店ならこれも似合うだろう」


「いいのか? よし、ならお前にもやくをやろう」


 そう言い、マスターは男の杯に酒を注ぐ。


「お前の言ってた良いことってのはその二つか?」


「そう、福引きと、新しくできた氏子と……まあ、正確に言うと二つの良いことと、もう一つは悪いことなんだけどね」


 これも僕にとっては充分に良いことであり、ほんの少し悪いことなんだ。

 男の言った台詞に、二人はもうこいつは潰れかけなのかと思った。

 しかし男が説明したことを聞いて納得する。

 最近、貧乏神の社のすぐ裏であることをすると、誰かを不幸にできる。という噂が広まってしまった。

 もちろんそれはでたらめで、貧乏神である男自体、誰か特定の人間を不幸にすることなど全く考えていなかったのだが、男の思いに反しその噂は瞬く間に広がり、本当に試そうとする人間まで現れてしまった。

 そんなことをしても何の効力もないと男は思っていたが、あるときそこを見ると、小さな怪異ができてしまっていた。

 それはもう、神である男が近づいただけで消えてしまいそうな微々たるものだったが、男はそれを稲荷のように遣いにしようと思った。せっかく生まれたのだ、放っておくこともあるまい、と。


 しかし、これが存在すると言うことは、誰かがこれを生み出し、かつこのお呪いの被害を受けている人間がいるということに他ならなかった。

 運、不運というのは常に一定のバランスを保っている。持っているべきものが運を持つために、ある一定の不運な層を作らなくてはいけない。

 けれど男は、貧乏神でありながら誰かを不幸にすることを嫌った。

 男が神の中でも話題になっているのはそのせいである。マスターや主人のように近づいてくるものは少ない。

 勝手にできてしまったまじないだが、放っておけば男が手を下さずとも男の本来すべき仕事をしてくれるだろう。だが、男はそれをよしとしなかった。

 男は必死で探し回ったが、手がかりは一つもない。もうお手上げに近い状態だった時に、津野がやってきたのだ。

 彼が去ってから数時間後、おまじないとして存在していた小さな怪異は消滅してしまった。被害者を捜すのに夢中で、存在を確立する作業を後回しにしていたからである。

 けれど男は悟っていた。

 彼は言った。


「俺は青井と一緒に幸せになります」


 と、つまりそうなのだろう。彼は誰かわからないが、そのおまじないをかけられた人物を確かに助けられたのだ。


「あいつがねえ……やるじゃねえか」


「そうだな。やはり面白い」


「おかげさまで僕は遣いの候補を失い、上からはまた怒られたけどね」


 男は情けない笑い声を漏らす。


「だけど後悔はしてないよ」


 男はぐいっと一口に杯を空にする。


「だろうなあ、お前人情ものに弱えもんなァ」


 同じく主人も、続いてマスターも杯を空にする。


「そんなだから出世もできんのだ」


「まあ、そこら辺は仕方がない」


 はっはっは、と三人は笑った。

 主人が肴を持ってきて、机の上が空の徳利でいっぱいになった頃。


「なあ、悪いがブチよ。明日はあやつの入学式だったな?」


 ふいに立ち上がり、マスターは大声で言った。


「ああ? 誰だ今ブチって呼びやがった奴ぁ!」


「まあまあ、ここいらの高校はみんな明日が入学式だったと思うよ」


 怒り狂う主人をなだめながら男は言う。なんとなくマスターがやろうとしていることをわかっているようだ。

 マスターは不敵な笑みを浮かべた後、半分ほど残っている徳利から直接酒を飲む。

 だん、と勢いよくそれを卓に置き、また大きな声で叫んだ。


「若人たちの、その輝かしき門出を祝して!」


 マスターは大きく両腕を広げる。


「その未来にさちあれ!」


 一瞬、花の匂いのする風が流れていった。

 その風に撫でられた桜のつぼみが、一気にその花を広げていく。


「あーあ、手前てめえ俺が今頃の桜が好きなの知ってんだろうよ」


 憎まれ口を叩いているが、まんざらでもない表情をしている。


「気にするな、あの桜はお前のものではない」


「我が身一つの春にはあらねど、かあ」


「まあ、その歌は秋なんだけどね」


「わかってるよ、そんなこたあ」


「まあこれで明日の昼くらいに満開だろうね」


 ふわりと辺りは花の香りに包まれている。


「これで良いことが三つに増えた」


 貧乏神はそう言って笑う。


「そうだ、私がやってやったのだ」


 稲荷神はそう言って胸を張る。


「誰もお前には頼んでねえよ」


 化け猫はそう言って立ち上がる。


「さ、そろそろ片すぞ。手伝え」


 かたかたと器のこすれ合う音が鳴る。

 月は遙か遠く、その様子を見ている。

 今夜のことを知るものはいない。

 この三人のうたげ、そしてその内の一人のささやかな贈り物は、神と猫のみぞ知る。

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