第20話 最後のスターマインのその後に
その後に続く会話はなかった。
時折遠くから電車の通る音が聞こえる。
星の瞬く音が聞こえるように錯覚するほど、夜空は綺麗だった。
しかし津野には、星どころか目の前の少女にすら手が届かない。
その手に残ったのは無力感だけだった。
彼女は変わらない、小学生の頃から全く変わらない。
けれどそれは津野も同じことだった。二人の関係性は皮肉なほどに変わりない。それだけ手を伸ばしても、彼女には届かないのだ。
すぐ隣にいるはずなのに、津野にとってはあの星よりも遠い存在に思えた。
別れの言葉があったかどうかは覚えていない。当然、あったにはあったのだろうが、津野はそれを覚えていられなかった。
帰り道も酷く不安定なものだった。見慣れない道というのもあって、夢の中を歩いているような感覚に襲われた。
自分には何が足りないのだろうか。
彼女を救おうとすること自体が間違っているのだろうか。
そう考えると津野は、自分が行っていること全てが間違っているような気がしてきた。
不幸を何とかしようとすること自体おかしいのか。
消えようとしている幸夜を救ったのは間違いなのだろうか。
幸夜に人を傷つけないように言ったのは間違いなのだろうか。
都会に出てきたのは。自分がいるというのは。ひなた荘にいるというのが――。
自分という存在自体が、間違っているのか。
そうすると合点がいくことがいくつもあった。そうだ、やはり自分は間違っているのか。
ここから先には行けない。袋小路に迷い込んだのだ。
迷路だって最初の入り口から間違えれば出口につくことはない。
ちゃんと入り口と出口が用意されているとは限らない。
酷い不快感に襲われた。
自分以外の何かが、自分という皮を被ってのうのうと暮らしている。
やるべきでないことを、やるべきことを、全く理解していない自分がいる。
歩いているのがおかしい。
右足を使うに値しない。
息をしている真似をしている。まっすぐ前を見据え、振り返っている。
死んでも構わないくせに生きている。
おかしい。おかしい、おかしい。
間違っている。自分は間違っている。
ひなた荘につく頃には日が変わっていた。
――ふと見ると、広間に明かりが灯っているのに気づいた。
自分のような誰かが光に誘われるようにそこへ近づく。
「あれ、津野君。遅かったね」
柏原の影をした人物がこちらを見た。
「はい、ちょっと懐かしい知り合いに会いました」
津野らしき人物は津野らしく返事をした。
「みんな寝ちゃいましたか」
無意識に声を潜め、彼は言う。
「そう、みんな帰って来るなりすぐに寝ちゃった」
だから私は一人。と、彼女は言う。
広間の小さな明かりの下に影が二つ。
影の一つは言う。
「私は頭痛くて起きてきちゃった」
からん、とコップの氷が鳴る。
「お酒飲むとね、その時は良いんだけど、許容量超えちゃうと頭痛くなってくるんだよね。ここまで、って決まった量があるはずなんだけど、お酒飲んでると飛んでいっちゃう」
やれやれ。と、水を片手に影が揺れる。
すぐ横の椅子に腰掛け、彼は言った。
「頭が痛くなるのがわかってるのに、飲んじゃうんですか」
「そう、楽しいんだ。やっぱり」
ふふふ、と影は笑った。
「けどね、楽しいことがあった後ってね、どうしても悲しくなっちゃうんだ。どうしようもなくね」
よくわからない。
「だろうね、私にもわかんないや。いや、頭痛は関係ないよ。関係ない」
例えば花火の後。
例えば文化祭の片付け。
例えばひぐらしの声。
そんな感じ。
「ああ、なるほど」
「そう、大体そんな感じ」
それならば楽しまなければいい、とは思わない。
楽しかったからこそ、その喪失にたまらなく締め付けられる。
「いいねえ、詩人だねえ」
一つの影がもう一つ水の入ったコップを差しだす。
「へへ、かんぱーい」
かん、と小気味よい音がする。
「そう、悲しいんだ。けど、この感情がどうしても愛しいんだ」
そうだ。
この感情は捨ててはいけない。
お互いの声がぼやける。
目が慣れても姿は曖昧だ。
感情は伝わった。
「大事なんだよ、悲しいって言うのも。創作する人ってのはそれを見捨てちゃいけない」
「それじゃあ、酒坂さんも」
「きっと抱えてるよ。触ると痛い、だけどいなくならない」
「押し潰されそうにはならないんですか」
少し間が空いた。
微かに車の通る音がした。
「なる」
けれど、返事は確かだった。
影の一つが水を飲む。
「けどね、その苦しみも、人として大事なことなんだ」
出ようともがくことも、その圧に耐えることも、受け入れることも、
「正も負も、いろんな感情があるから、人は幸せなんだ」
影はゆらぐ。
「ねえ、君は、自分が何かになれると思う?」
もう一方の影も、同じく揺れる。
「俺は……」
答えに詰まる。
彼にもわからない。
「そっか」
そして、彼女にもわからない。
「画とか写真って、自分の世界を見せる窓なんだよ」
影は言う。
先ほどよりも声は弱くなっている。
「自分から世界はどう見えているか、自分の中の世界はどうなっているか、それを表現するんだ」
彼も同じくのぞき込む。
自分の中に何が広がっているんだ。
「けどね、ある日ふと思うんだ。この世界の最果てはどうなっているんだろうって」
平原を歩いて行く。
しかしその道は途切れる。
何処を見ても道はない。
振り返ったところで、道はなくなっている。
「最果てって何処なんだろう、って。もしかすると広がっていると思っていた自分の中の世界は空っぽなんじゃないかって」
ずっと自分を見ていると、ある日ふとそう思うんだ。
声は震えていた。
歩いていたはずの平原までが消えていた。
影はぽつりと呟く。
「卒業の時、君たちには無限の可能性が広がっていると言われました」
前を見て歩け。
君たちは若い。まだまだ何にでもなれる。
何にでもなれる。
つまり、全く何者でもない何かに行き着く場合だってある。
結果こそ全てだという。
終わりよければ全てよしとも言う。
過程は大事だ、けれどそれも、結果が出るというのが前提だ。
どれだけ過程を積み重ねようと、どれだけ
「何者にもなれなかった、と言うことは、今までの自分が何でもなかったと言われているみたいだね」
そう、それもきっと酒坂の言うように遡ってしまう。
妖怪でなくとも、人は簡単に消えるのだ。
「駄目だね」
そう、駄目なんだよ。
声が聞こえる。
「こうなるってわかってて、また自分を探すんだ」
いつの間にかコップの中身は空だった。
「わかってるんだよ。こうやって探し回ってる自分こそが他でもない自分なんだって」
悲しみを抱え、痛みを堪え、泣きじゃくりながらも歩き回っている。
それを不幸とは言わない。それが生きているってことなんだ。
「わかってても傷つくしかない、それが麻痺したらきっと生きているとは言えない」
「弱いのを受け入れて、怪我を怖がって、それがきっと生きてる」
「そうだね」
電球がじりじりと音を立てている。
「何かになりたい。そのために人は生きてる。何にもなれないかもしれない、自分が何だったかわかるのは最後の時かもしれない、それがわかっててもやっぱり怖い」
怖い。と影の一つは呟く。
「それをはっきりさせたくて、そのドロドロとどうにか付き合っていきたくて、私はこんな職業をやってるんだろうね。酷いジレンマだ」
自分は何になりたかったんだ。
何がしたかったんだ。
青井を助けたかった。
幸夜を助けた。
幸夜に人を傷つけて欲しくなかった。
それはなんでだ。
「理由なんてなかった?」
ふと思いついたことを口にする。
どれだけ考えても自分の中から答えは出ない。なら、何も考えていなかったのではないか。
だとしたら酷く
「いいねえ、理由もなく人助けできるなんて」
ヒーローみたいじゃん。
……ヒーローみたい?
「思い出した」
そうだ、ヒーローになりたかったんだ。
困っている人を助けたいと思った。
誰かを助ける為に、ヒーローになりたかった。
誰かの不幸を知れることは、ヒーローにとって重要なことだったんだ。
幸夜を救ったのも、何でもない。ただ助けたかったからだ。
人助けをするのに今更理由なんてないんだ。
けれど津野はヒーローにはなれなかった。
途中で逃げ出した。人の不幸を幸せにしたところで、その人を救える訳じゃない。
救えないならヒーローとしては失格だ。
そうか、最初から失敗してたんだ。
眼前に広がっていた壁がなくなったようだった。
壁はなくなれど、その先に道が広がっているとは限らない。
何にもなれないことがもう決まってしまっているような気がした。
影は一瞬驚いたような素振りを見せた。
「何言ってんのさ、君はもう既に一人を助けたじゃん」
幸夜、けれど最初から間違っていた自分は――
「違う。最初に失敗したからって未来のものまで否定しちゃいけない。失敗もなかったことにしちゃいけない。失敗も成功もあったからこそ今の自分があるんだ」
台詞は熱を帯びていく。
「描けなかったものがあるからこそ、見える世界がある。
だから君はそんなことを言わないで。
柏原はそう言った。
泣いているかもしれなかった。
それは津野かもしれない。柏原かもしれない。
何が悲しいのか、何が発露したのか、それはわからなかった。
一つか二つか、わからない。
自分か、それとも自分じゃない誰かか。
わからない。
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