第19話 不幸の髪

 何だこれは……。

 居酒屋「昼行灯」を出たときに津野が感じたのは、これまでに無いほどの圧迫感だった。

 用事があるからと他の住人に別れを告げ、その根源を探しに行く。

 近づくにつれ、津野にはこの圧迫感の正体がわかった。

 今現在、津野の不幸を感じ取る性質はほとんど残っていない。それは幸夜が幸夜となった時に同じように失われた。

 今残っているのはそのほんのざんだ。だから本来、よほどのことが無い限り津野は普通の人間と変わらない。


 それでもわかる。


 この世の終わりのような不幸を背負う存在がこの先にいる。


 今の津野にも感じ取れるような不幸を、誰かが背負っている。


 津野はいても立ってもいられなくなった。

 前に一度だけ、ここまででは無いが自分の人生を不幸で塗りつぶしてしまった人間を知っている。

 その人は病的なまでの自己犠牲の心で、死ぬことなく自分の人生を受け入れていた。

 けれど、それが誰にでも出来ることではない。

 ――もしも自殺しようなんて考えていたら。

 津野は走り出さずにはいられなかった。

 けれどその心配はゆうに終わることになる。

 いや、杞憂では済まなかった。津野は本当に空が降ってきたかのような衝撃を受けた。


「あ、こんばんは。久しぶりだね」


 夜の闇より黒い瞳をした少女がそこにはいた。

 その目には何の光も写っていないように見える。

 あおなぎ

 かつて津野が幸福を願い、不幸にした少女だった。

 かつて津野が好きになり、挫折し、津野の知らないところで何処か遠くへ行ってしまった少女。

 こちらから一目で彼女がわかったように、向こうも一目でこちらを認識したようだ。

 様々な記憶がフラッシュバックする。

 さっきまで聞こえていた町の喧噪も、自分の心音も、全く聞こえない。

 少女の瞳に吸い込まれてしまったかのように、辺りはしんと静まりかえっていた。


「楽しそうだね。高校はこっちなんだ」


 ともすれば消えてしまいそうなほど、彼女の声は小さかった。

 何も変わっていない。

 以前幸夜に抱いた感想と全く同じ事を思った。幸夜は妖怪で、彼女は人間だというのに。 完全に停滞してしまっている。その目は光どころか先さえ見ていない。

 そこだけを切り取ったかのように、少女には現実味がない。

 妖怪よりも儚げで、頼りなく、かすかで、はくだった。


「なあ、今まで――」


 何処に行っていたんだ、とは聞けなかった。

 何処に行っていたとしても自分のせい。どんな目に遭っていたとしても自分のせい。是罪悪感に押し潰されそうになった。

 けれど少女は言う、それも以前とは変わらない。


「違うよ。あなたのせいじゃない」


 目の前の少女から聞こえる、はずだ。

 決まって彼女は言うのだ。誰かのせいじゃない、自分を卑下しなくても良い。


「ねえ、せっかく会えたんだから連絡先を教えてよ。あなたは最近引っ越してきたの? だったら知り合いは多い方が良いでしょう?」


 そういって優しい言葉をかける。それが津野の心をじくじくと腐らせる。

 ――知り合い。

 津野と青井は小学校で初めて出会った。

 お互いに初めての友達だった。

 二人だけで何処かへ行ったこともある、授業で二人組を組むときはいつも一緒だった。どうして仲が良いかと聞かれても答えられないくらい、自然に二人は友達だった。

 それが今では知り合い。


 時間のたいせきだけではないだろう。

 津野は少女を裏切ったのだ。それでも彼女は何も言わないと知っていて。

 津野の思いに反して、彼女はどんどん不幸になっていった。周囲のことをおもんぱかって不幸でいたのだ。


「それじゃあ、時間は大丈夫? ちょっと一緒に歩こっか」


 そう言ってともに歩き出した。月は雲に隠れ、辺りはぼんやりと薄暗かった。

 隣に連れ立って歩いている彼女は、よく見ると違和感が目立った。

 髪はぼさぼさ、注意して見れば自分で切ったかのように毛先が不揃いである。

 目の下には隈ができている。手足もよく見れば細い、やつれていると言った方が正しいだろうか。

 津野は最後に見た彼女の姿を思い出す。


 確かに健康的な外見とは言えなかったが、ここまで酷くはなかったはずだ。

 津野はどうして彼女から離れて行ってしまったのか。

 離れていくくらいなら、どうして近づいていったのか。

 蓋をしてしまったかのように、それが思い出せない。

 夜道には二人分の足音しかしない。

 この辺りは津野の知らない場所だった。気のせいか徐々に人気の無いところに来ているように思う。


「この辺で、少し話そう? 思い出話とか、たくさんしたいし」


 指さす方には小さな公園があった。いつの間にか高台に来ていたようで、町の光が眼下にちらほら映る。

 言われるがままに、津野はその中のベンチに腰掛ける。


「こうして、二人で並んで座ってると、昔を思い出すね」


 確かにそうだった。さっきフラッシュバックした記憶よりも、より実体を伴って記憶が蘇る。

 それから二人は持っている限り様々な思い出を持ち寄って話をした。

 津野が怪我をしたときに、自分も泣きながら保健室に連れて行ってくれたこと。

 二人で川に遊びに行ったこと。夏休みに一緒に映画を見に行ったこと。

 共通の友達はいなかったが、たまに津野の友達も交えて大人数で遊んだこと。

 最初はしどろもどろだった津野も、やがて彼女の話に自然に相づちを打てる程度にはなっていた。


 ――彼女は不運だった。


 何故か彼女の周りに限って良くないことが起こる。それが何故かはわからなかった。

 彼女は自分のことを不幸だとわかっていた。

 その不運さはもとより、津野の知らないところで彼女はクラスの人間に虐げられていた。

 彼女は平均より特別何かが劣っていたわけではない。

 おそらくは、彼女の仕草一つ一つがぎゃくしんあおるようなものだったのだろう。

 津野はそれに気づいた。出来るだけそれを止めようとした。

 けれど彼女は幼いながらも理解していた、してしまっていた。

 自分が被害を受けることで、他の誰かが被害を受けずに済んでいる、と。

 自分が不幸だと思っても、それを上回るような人がいるんだ、だから自分はそれを嘆いてはいけないと。そんな人達のために、不幸な自分が笑顔でいてはならないと。


 そんな彼女の心に気づいたのは、同じく小学生の時。

 けれど津野にはその気持ちが理解出来なかった。今ならわかる、少なくとも理屈は。

 けれど自分がその身をやつそうとは思わない。やつせるとも思えない。津野は彼女を、その不幸の中から救い出したかった。

 けれど自ら進んでその渦中にいる者を、津野には救い出すことが出来なかった。

 津野は逃げてしまったのだ、自分の無力さを感じて。

 気味が悪いとも感じた。進んで不幸の中にいたがる人間は、今現在までも彼女しか知らない。

 それでも彼女は何も言わない、それを受け入れた。

 そんな風に逃げてしまった彼女が、今目の前にいる。

 考えてみれば妙な偶然だった。中学以降何処に行ったかわからなかった彼女だったが、まさかこんな所にいたとは。

 津野は気になってしまった。話をしようと言われたときには、ただ聞くに専念するつもりだったのに。


「なあ、中学の間はどうだったんだ」


 津野はパンドラの箱を開ける。


「変わらないよ。中学の間も変わらなかった」


 つまり、いじめは続いたと言うことだ。

 場所が変わっても、変わらないものはあった。青井が語るいじめは、津野には想像も出来ないような内容だった。


「もしかしてそれも」


 津野は青井の髪を指さす。

 自分で切ったのかと思っていたが、この話を聞けば容易に想像できる。


「あ、うん。週に一回くらい誰かが切るんだ」


 そう言って毛先をもてあそぶ。

 そんな生活が三年も続いたのか。

 教師はどうしていたのだろう、親は。

 けれどそちらも考えたところで無駄だった。なにせ本人が助けを求めていないのだ。やめさせようにもやめさせられない。

 本人にはいじめられているという自覚はもちろんあった。それでもいじめの内容を説明する時、青井の口調には被害者ぶる様子も、同情を誘うような様子も一切見られなかった。充分に被害者で、充分に同情を誘う内容だったにも関わらず。

 あくまでただの出来事。学校生活の一コマに過ぎない。そんな風に言っているようだった。


「それでね、最後に言われたのが変だったんだよ」


 青井はこちらを向いている。けれどこちらを見ているようには見えなかった。


「受験シーズンになって、皆の中でおまじないが流行ったんだけど、その中に一つだけ、不幸の神様にお願いをする、って言うのがあったんだよ」


 青井はクスクスと笑う。


「変だよね、今までは直接何かしてきたのに。最後に効くかどうかわからないおまじないなんて。みんなおまじない好きだったのかな」


 青井は冗談だと思っているようだった。

 それはそうだろう、中学生の間で流行るおまじないなどに効力があるとは思えない。津野だってそれだけを聞けば信じなかったはずだ。

 けれど津野にははっきりとわかった、これは効いている。明らかに人間が背負えるほどの不幸ではない。

 何十人分の不幸が人の形をして歩いているようだった。もしかすると、加害者の分も背負ってしまっているのかもしれない。

 それでも彼女は生きている。不幸を背負って、辛い目に遭って、それでも抗わないのだ。


「高校でも同じかな。あ、そうだ。津野君は何処の高校なの?」


 津野は自分の高校名を告げる。


「あ、やっぱり同じ高校だ」


 青井は反応する。けれどそこには喜びも何もなく、それこそ数字が同じだったことを確認しただけような感じだった。

 津野はえもいわれぬしょうそう感に駆られた。

 こんなことで良いのか。

 唯一と言っていい幼馴染みがこんなことになっているのに、自分はそれでいいのか。

 かつて小学生だった津野が、また顔を上げる。

 けれどここにいるのは一度失敗した男だ。そう易々と飛び込んでいけない。


「同じクラスかもしれないね」


 それでも。


「なあ」


 ここにいるのは、一度彼女を好きになった男だった。


「やっぱり、お前を助けたい。もう一回そのどん底からすくいあげたい」


 今度は失敗しない。

 次こそは目の前の少女を幸せにしてみせる。

 降って湧いたようなチャンスだった。

 けれど、これを逃すわけにはいかない。

 手を差し伸べる。

 ――けれど彼女の答えはまた変わらない。


「いらない」


 そう言って彼女はいつものように笑った。

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