第15話 私が稲荷神である

「お願いが、あるんだけど」


 やっとの事で口を開く。


「出来れば、いや、出来ればじゃない。これからずっと、幸夜には人間を傷つけて欲しくないんだ」


 絞り出すように出した言葉は、やはり幸夜にとって意外なものだったようだ。


「――何で?」


 否定の意味でも無い、糾弾の意味でも無い。本当に理由が理解出来ていないようだ。

 それはそうだ。昨日まで当たり前のように行ってきた事を、誰かが悲しみ、やめさせようとしてきているのだから。


「それは――」


 津野はまた言葉に詰まる。


「嫌なんだ。幸夜が誰かを傷つけるのが」


 それでも少しずつ、少しずつ思いを伝える。

 感情だけじゃない。伝えなくてはいけないことがたくさんある。


「誰かが幸夜のせいで傷ついたとき、そこにはどうしても憎しみが生まれる。その時幸夜がどれだけ正当な理由でそれを行ったとしても、傷つけられた本人や、あるいはその話を聞いた誰かが幸夜を憎む。俺はそれがたまらなく嫌だ。俺が助けた存在が、他の誰でもない幸夜が、憎まれる存在になることが嫌なんだ」


「そっかー」


 なんとなく言っていることはわかったと言う顔だ。

 それだけでもいい、十分だった。


「これは幸夜が教えてくれたことなんだよ」


 もちろん、恨んでいないとは言わない。

 けれど、そのおかげで津野は判断を間違わなかったとも言える。

 だからある意味幸夜には恩を感じているのだ、本人に直接言うことはないが。


「まあ、それなら仕方ない。みゆきが嫌がることはしたくないからさ」


 あんまり、と小さな声で呟く。


「あんまりじゃなくて一切しないで欲しいんだけど」


「それは聞けないわねえ」


 平常に戻ってきた胸から顔を離し、幸夜はにこりと笑う。


「まあでも、約束は守るわ。ああやって人を殴ったり傷つけたりはしない。もちろん食べようともしない」


 幸夜は指折り数えながらそれらを確認する。


「悪いけど頼む」


「まあ、あんたの為だからね」


 出来れば倫理観としてそれを守って欲しかったが、今はそれでいいか。津野はそう思った。


「じゃあ、手つないで帰りましょうか」


「嫌だ」


 避けようとした。


「はい捕まえたー」


 けれどいとも簡単に捕まってしまった。

 津野には逃げる気があった。一応、体面的には。


「嫌がることはしないって――」


「ちゃんとあんまりって言いましたー」


 攻防戦は続く、手はつないだまま。




 手をつないだまま帰ってきた津野と幸夜に、管理人は静かに言った。


「私はここでずっと心配しながら待ってたんだけど。お二人さんはそんな私を置いてデートですか」


 じっとりとした目でこちらを見ている。ちなみにケーキとコーヒーは減っていた。柚子さん……。


「いや、話すと長いいろんな事があって――」


「言い訳は、聞きません。まずは?」


「ごめんなさい」


「よろしい」


 ふん、と息を吐き、管理人は切り替える。


「何があったかは聞かないけど、心配したんですからね。罰として、もう今日ずーっとそうやって手を繋いでいなさい」


 途中から管理人の顔が、徐々にいたずらっ子の顔になっていったのが津野にもわかった。

 罰として、って津野にしか罰にならないのだが。

 そうやって津野は周囲の目を気にしながら、幸夜は上機嫌に手の感触を楽しみながらたどり着いたのが、喫茶「サンシャワー」だった。

 店内には静かなジャズ風の音楽が流れている。

 全体的にアンティーク風の意匠が凝らされており、葉の大きな観葉植物が窓際に一つ二つ並ぶ。

 店内を見回しても数人の客しか見えず、せいひつな空気が漂っていた。

 店員は見える限り二人、やや赤みを帯びた長髪を編み込み背中に垂らしている身長の高い男と、栗色の目をした子供のような見た目をした女性だ。

 店内の奥の席に案内される。


「ここはパスタが美味しいのよ。あと、玉子サンドと」


「へえー」


 そんな会話をしている内に、女性の方が注文を聞きに来る。

 津野は美味しいと聞いていたペペロンチーノとコーヒーを、幸夜も同じくそれを、管理人は玉子サンドとカフェモカを注文した。


「どうだった? 楽しかった?」


 水の中の氷をもてあそびながら管理人は聞く。


「はい、もちろん」


「ちょっと疲れたけど、楽しかった」


 二人の答えを聞き、管理人は満足げだった。

 他愛も無い話が続いたあと、不意にその時は訪れる。


「おや、妖怪のお客さんとは珍しいこともあるもんだ」


 背後から聞こえたその声に、津野は驚く。

 運ばれてきた料理とともに、長髪の男とウェイトレスがすぐ後ろまでやってきていた。

 二人は隣の席に座る。


「ああ、大丈夫、気にしないでくれたまえ。他の客には帰ってもらった」


 見ると確かに、店内に人影はなかった。


「師匠はそうやってすぐ人払いをするんですから。そうやって来なくなるお客さんもいるんですよ」


ゆき、今はマスターと呼ぶように言ってあるだろう」


 目の前で繰り広げられる会話について行くことが出来ない。

 津野が完全にぽかんとしていると、マスターはこう言った。


「妖怪、といっても中途半端な存在になっているようだね。さしずめ原義での鬼、か」


 意味深長な言葉を呟くと、我に返ったようにマスターは言う。


「ああ失敬、食べて」


 三人は大人しく言われた通りに食べ進める。 

が、正直津野には味がわからなかった。この男は一体何者なんだ。もしも幸夜を退治しに来たとしても津野には太刀打ちできない。


「コーヒーのおかわりはいかがかな」


 食べ終わるのを待っていたマスターは、頃合いを見計らって尋ねる。

 三人が断ったのをきっかけに、先ほどの続きを話し出す。


「さて、その子――いや、まず私から説明した方が良さそうだな。このままその目に見られ続けるのはいささか辛いものがある」


 足を組み替え、マスターは言う。


「私は神である」


「ん?」


「えっと」


「……」


 三者三様の反応である。

 幸夜は疑っていないようだ。何か感じるものでもあるのか。


「マスター、説明が下手すぎます。代わって私が」


 椅子から飛び降り津野らの前に立つ。それでも椅子に座る津野より少し高いくらいなので少し威厳に欠ける。

 ウェイトレスは優雅に礼をしてから言った。


「お初にお目にかかります。あ、と言ってもそちらのお嬢さんは何度か来ていただいていますね。わたくしたちはこの辺りを受け持っておりますいなしんでございます。そちらのマスターがそうで、私はその遣いのような者です。どうぞ、お見知りおきを」


 紗雪と呼ばれた女性は再び深々と頭を下げる。


「いなりしん?」


 自己紹介をされたが、津野はそもそもその言葉自体聞いたことがなかった。

 稲荷、いなり寿司とかの?


「そうですね、神社の中でも、狛犬のような感じで狐の像が置いてあるようなところを見たことがあると思います。有名なところだと、伏見ふしみ稲荷なんかがそうですね」


「ああ、津野君、うちのすぐ近くにあったわ、お稲荷さん。そこの方ですか?」


「だろうな。この辺り一帯は私しかいない」


 神様が何でこんなところで喫茶店なんてやっているんだ。

 そんな疑問をぶつけようとした矢先、マスターはまた口を開いた。


「して、その子がどういう存在なのか、まずは聞かせてくれ。君たちとその子はどういう関係なんだ? 人の生活に紛れ込む妖怪もいるが、このようなケースは見たことがない」


 全てを話してしまっていいものか。

 大体、神様と名乗ってはいるが、本当かどうかはこちらにはわからない。

 自然と警戒心が勝る。

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