第3話 ひなた荘へようこそ 1
「これが、都会」
駅前の
少し行ったところに大きな河があった。そこにはまだ自然の面影が残っている。
荷物や
辺りはすっかりオレンジ色に染まっていた。
黄色く光る
彼が知っているよりも随分と整備された河を見ながら、「飼い慣らされているみたいだ」と彼は思う。
いずれ自分もこんな風になるのかもしれない。
故郷にはここまでいなかったスーツ姿の人間を思い浮かべながら、自分の未来の姿を思い浮かべる。
大きな鳥が水面に顔を向け、餌になりそうな何かを探している。けれどその光景は、もしかすると津野しか見ていないのかもしれない。
こんな風に川べりに座ってられるのも今のうちか。
周りにこんなことをしている人間などいない事を確認して、そんなことまで思ってしまう。
いや、それは正確ではなかった。正しくは彼のすぐ後ろにもう一人。
制服姿で仁王立ちをしている人が――
「随分とお悩みのようですね、少年」
制服姿で仁王立ちをしている変な人がいた。
一方話しかけられた津野は、完全にパニックに
誰なんだこの人は、誰に話しかけたんだ。俺か? 周りには誰もいない。ていうかこんなだだっ広い川岸でなんでここだけ人口密度高いんだ。悩んでいるように見えたって、だからっていきなり話しかけられても――
そう考えたところで、津野はもう一つ大きな違和感を覚えた。
何かがあったわけじゃない。むしろ何もなかったのだ。
いつだって彼が人間関係を結ぶとき、どれだけ切っても切り離せなかった感覚、そう、
「あなたは、自分が不幸だとは思わないんですか?」
口をついて出てしまうのも無理のない話だった。
「おっと、なんですか? 宗教勧誘ですか? いけませんね。騙すならもっと上手くやらないと」
ちっちっち、と人差し指だけで未熟さを指摘されてしまう。
いや、そうではないのだけれど。
「ちなみに僕は、生きとし生けるすべての神を信じているのです。神社仏閣、教会、
果たして神や仏を生きとし生けるものとして換算してしまってもいいものか、はたして疑問ではあったものの、津野は彼から目を離せないでいた。
目の前のよくわからない人物に出会えただけでも、津野にとっては果てしない幸運だったのだ、津野にはまだわかっていないだけで。
ぽかんとしている津野に、彼は続けて言う。
「どうしたのです若者よ。お悩みならなにか聞こうじゃありませんか。大丈夫、僕が何でも聞いてあげましょう。何せ、川べりで悩んでいる少年に『お悩みかね』と聞くのがここ三ヶ月の夢だったのです」
「いや、まあ、なんていうか」
目の前の不審者に言っても仕方の無いことだとは思う。
思うが――
「人間って何で不幸になりたがるんですかね?」
久々に上げてしまった、完全な弱音だった。
さすがに背後の彼も面食らってしまうだろう。そう思い振り返った津野は、思いもよらない表情を目にする。
彼は――、彼は微笑んでいた。けれどその笑顔は、津野には泣くのを我慢する子供のように見えた。
「そうか、それはね、僕にもわからないんです」
わからない。わかりたいのに。
何度も呟くその言葉は、自分を
何処か遠くで、サイレンの音が聞こえる。
川のせせらぎが妙に大きく聞こえる。
まあけど、と気分を変えるように彼はぽん、と手を叩く。
「君はまだまだそんなことで悩まなくてもいいんです」
腕組みはいつの間にか解かれていた。所在なさげな手がふわふわと揺れている。
「そうやって悩んであげられる人間は、むしろそれで悩むべきじゃない。君だって同じく不幸になりたいわけじゃないでしょう?」
それはそうだ。津野は黙って頷く。
「なら、君は笑っているといい。嘘でも幸せだと言えばいい。不幸な人間は悲しんでいいし、幸福な人間は笑ったっていい。もちろん考えてあげることは必要です。けれどそれで心を痛める必要はないんです」
彼は変わらず微笑んでいる。
「そうやって考えてあげられる君は、自分を誇っても良い。私はそんな君に出会えて幸せだと胸を張って言えます」
その言葉で、なんとなく体が軽くなった気がした。少なくとも、ここから新居へ歩き出せるくらいには。
「ありがとうございます」
深々と頭を下げ、帰る事を告げる。
「お役に立てたようで何より」
といった後、男も帰ることにしたようだ。
つかの間の連れ歩きだった。
これもいつか訪れる分かれ道までの一瞬。
何処まで一緒かはわからない。どれだけ話せるかも。
けれど、そんな一瞬であっても、たとえこれから先二度と会えなかったとしても、この出会いは津野にとって大きなものとなるだろう。
沈んでいく夕日が、二人の影を伸ばしていく。
彼とは別れる気配がない。
もしかすると近所なのかもしれない。なら、二度と会えなくなるなんて事も無いかも。
そんな考えは、やがて家の前まで連れ立った事で見事に粉砕される。
「ああ、もしかして、君が管理人さんの言っていた新顔君ですか?」
まさかのご近所さんだった。
「あら、少し遅かったですね。管理人の
「はい、よろしくお願いします」
家につく頃には辺りはすっかり暗くなってしまっていた。
垣ノ内さんは全体的な印象として柔らかい、という感じだった。
ふわふわとした亜麻色の毛に、ふにゃっとした笑顔、少し話しただけで眠くなってしまいそうな声、とそこにいるだけで場の雰囲気が解れてしまう。
「
「いいえ、たまたま会ったんです。まさか聞いていた子だとは思いませんでした」
間さん、と呼ばれた元不審者は、こちらに向き直り改めて言った。
「
「はい、そうです。津野幸と言います。よろしくお願いします」
ちなみに間さんは高校生ではなかった。
ならば何故学生服を着ているのか。
管理人もそれについて触れようとはしない。津野もそれについて触れてはいけないような気がする。
見たところここは共有スペースのようで、大きな机と数個の椅子が並んでいる。
「ささ、鍵は渡しちゃうので、早く荷物を置いてきてくださいな。もうすぐ晩ご飯なので、それまでにはここへ来てね」
花のような匂いと共に、部屋番号の書いた鍵を渡される。
部屋は一○四号室、一階の一番奥の部屋だ。
かつ、かつ、と硬質的な音と共に廊下を歩く。
他の住人も部屋にいるようで、耳を澄ますと微かに生活音がする。
一〇四号室、ここだ。
今は自分の部屋とは言え、知らない家の扉の鍵を開けるというのは妙に緊張する。何故かわからないが、悪いことをしているみたいな気分になる。
もう一度、津野は部屋の番号を確認する。何度見ても一〇四号室だ。
少し震える手を使い、津野は鍵を差し込む。
ここが新居だ。少なくとも三年は住むことになる、自分の、自分だけの場所だ。
ゆっくりと回っていく鍵と共に、高揚感が体を包む。
カチリ、という軽い音と共に部屋を開け放ち――
「え、誰?」
知らない人がいた。
鍵を確認する。間違いない、これは津野が管理人からもらった自室の鍵である。
ならこの人は一体。
先客はこちらに一切関与することなく、お茶をすすっている。見たところただのおじいさんのようだが、ただのおじいさんが施錠されていた自分の部屋にいる時点で、それはおかしいのだ。
もう一度、津野は部屋の番号を確認する。
だが、何度見たところで番号は変わらないし、おじいさんもいなくなることはない。
ここは刺激してはいけない。
想定外の事態に頭をフルに回転させた津野はそう考え、目をそらすことなく、けれど
充分に距離をとれたところで、大広間に向かう。
管理人がまだいるはずだ。
何にせよ説明してもらわなければ、落ち着くことも出来ないだろう。
人影を見つけ、訴えかける。
「す、すみません! おれ、俺の部屋に誰かがいるんですが! 誰かがお茶を飲んでいるのですが!」
泣きついたところで津野は気づく。
「え、どちらさん?」
――また知らない人だった。
「なるほどねー。君が柚子さんの言ってた子かー」
泣きついた女性に連れられながら、津野は自分の部屋までの廊下を行く。
まとまらない津野からの話を聞いたところで、女性は何か合点のいったように頷き、じゃあ見に行こう、と言ったのだ。
津野はそれを御免被りたかったが、女性の「いーからいーから」という言葉に押され、今この廊下を歩いているのである。
何故かこの女性の言うことを聞いてしまう。
というのも、自分よりも背の高い女性を見ると、津野は姉を思い出してしまう。今では姉よりも背の高い津野だが、今自分の盾になるように歩いてくれている女性は、今の津野よりも少し背が高かった。
おそらくは姉とこの女性を重ね合わせてしまったのだろう。そうであれば津野はこの女性の言うことを、ほぼ何の抵抗もできずに聞いてしまうことになる。
「はい、いや、本当、申し訳ないです」
「やー、誰だって最初はあんなんびっくりするよ。まあまあ、けど、次見たときには大体いなくなってるから」
はっはっは、と
それが解決法のように語られているが、いつの間にかいて、目を離したらいなくなっているというのは笑い事では済まされないような気もするが。
「それでは」
ばーんっ、と効果音付きで開け放たれる一○四号室。
けれど、先ほどまでのことが嘘のように、そこはもぬけの殻だった。
「ほーら、言ったとおりでしょう」
「えー、えー……」
津野は言ったとおりだからこそ、ここまで困惑しているのだが、目の前の女性はものともしない。
「さ、もうすぐご飯だから、ちゃっちゃと準備したほうがいいよ。なんせ柚子さんご飯は絶品なんだから」
それじゃ、と言い残し彼女は去って行ってしまう。
何か全てのことに置いて行かれている気がする。津野の知らない世界がここには広がっている。
これが都会……!
と、ありもしない事実に津野は覚悟を決めるのだった。
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