第91話 試される気持ち

 土曜日の朝、俺は玄関で優里子に睨まれていた。少し困った。

「……何?」

「今日は……」

「今日?これからNTKに行って、その後、事務所に行って打ち合わせとレッスンと……」

「それから?」

「それから……」

 実は、事務所の後に予定がある。しかし、それは優里子には言いにくいことだった。俺は靴のつま先をトントンとして整えると、「いってきます」と玄関を後にした。優里子は「あ」と口を開いたが、俺はさっさと外へ出て行ってしまう。優里子は、俺が答えなかった「それから」の予定を知っていた。ポケットからスマホを出すと、綾香さんとのメッセージ画面を見た。

『唯我君とのデートは明日の夕方になりましたあ!よろしく、お姉さま』

 そのメッセージを見ると全身が熱くなり、やかんから湯気が上がるように頭のてっぺんからピューと蒸気を上げた。

 何が『お姉さま』よ、わざとらしい!綾香ったら、いつまでも「妄想の弟」なんてからかうんだから!もう!!

 頭を抱えていると、部活に向かおうとする中学のジャージ姿の英がやって来た。

「優里子、唯我が遊びに行って寂しいんだろ」

「す、英君っ!」

「お前が何を気にすることがあるんだっての。ホント、いつまで姉弟ごっこしてんだよ。気持ち悪い」

「ごっこじゃないっ!」

「はいはい。そうやって鈍感ぶってろよ。じゃあねえ」

「もうっ!英君!」

 優里子が顔を真っ赤にして怒る姿を見ると、英は気持ちが良かった。玄関には、外へ出て行く英のクスクス笑う声が響いて残った。

 優里子はふうと息を吐き、冷静になろうとした。そもそも、自分が何に対して腹を立てているのかわからない。唯我が誰とデートしようが、私には関係ないじゃない。なのに、なのにっ……。優里子はもう一度頭を抱えた。


                 ****


 9月の始め、『青春・熟語』の共演者たちがNTK東日本支部に集まった。打ち合わせの部屋に入ると、共演者でモデルの岡本将暉と武石ユリアが先に到着していた。「よう!」「ヤッホー!」と手を振る2人に「おはよう」と声をかけた。

「今日、打ち合わせ前に少し時間くれって集合かけられたけど、何の話かなあ?何か聞いてるう?」

「いや、俺は何にも聞いてない」

「俺も……。2人とも、この間はモデルのこと教えてくれてありがとう」

 俺は綾香さんの務めるファッションブランド「サニー」の広告モデルの仕事をする前に、将暉とユリアに話を聞いてもらっていたのだった。

「ああ、そうだった!唯我、モデルの仕事したんだったな!」

「サニーでしょう?うらやましい!どうだった?」

「聞くのとやるとでは全然違った。お前らいつもあんな仕事してるんだな」

「まあねえ」

「2人にアドバイスもらっといて良かったよ。サンキュ」

「何のこれしき!」

「モデルのことなら任せてよお!唯我が載ったらまたサインもらおうっと!」

「ユリアは集めるの大好きな」

「うん。友達が写ってるとテンション上がるんだもん!」

「俺、ユリアが度々サインを書かせるから、前よりずっとサイン上手くなった気がする」

 将暉とユリアがアハハと笑っていると、部屋の扉が開いた。もう一人の共演である朝倉麻耶が「お疲れ様です」と頭を下げて入って来た。「よう!」「ヤッホー!」「お疲れ様」と3人で手を振ると、麻耶は黒縁メガネの位置を整えてニコッと笑った。

 打ち合わせの時間である10時になると、『青春・熟語』のプロデューサー、井口さんと三重さんが部屋に入ってきた。そこで俺たちは、あることを聞かされた。

「『青春・熟語』が、年度末をもって終了!?」

「そんなあああっ!」

 将暉とユリアは立ち上がった。麻耶は眼鏡をクッと直し、俺は頭の中を整理した。

「『青春・熟語』は中高生を中心に知名度を上げ、今ではNTK教育番組の夕方の顔になっていると言っても過言ではない。これは何よりも、出演者4人の力のおかげだ。本当にありがとう」

 井口さんが頭を下げると、将暉は静かに腰を下ろし、ユリアは開いた口をムギュッと結んだ。すると、麻耶が言った。

「最終回まで、あと何話ですか?」

「撮り終えていない分をいえば、あと13話です」

「わかりました」

「ちょっと、麻耶!そんなあっさりと!」

「ユリア、冷静になりなさい。私たちは俳優です。求められることに全力を注ぐのが仕事です」

「でも、私寂しい……。終わるの悲しいじゃん!」

「気持ちはわかります。私だって、3年間も続いたドラマなんて初めてだったから、思い入れもすごくありますよ。皆と一緒にお仕事できる時間があと少しだと思うと、寂しいです……」

 麻耶は声を震わせ、目を潤ませていた。ユリアは麻耶の横顔を見てポロポロ泣いた。俺は軽く手を上げ、自分の意見を言った。

「俺も、麻耶の意見と同じです。俺たちは、できることを精一杯やるだけです」

「唯我あぁ……」

「ユリア、皆も、後悔のないように楽しもう」

「おうっ!!」

「うん。頑張る!麻耶も頑張ろうね!」

「当たり前です」

 俺たちは、追加の台本を受け取り、今後の予定と打ち合わせをした。


               ****


「一緒に行けずに申し訳ありませんでした、唯我君。ドラマ打ち切りの件、お気を落とさないで下さいね」

「はい」

 俺はNTKでの打ち合わせの後、事務所の根子さんの元にやって来た。

「『青春・熟語』は、今では中高生の中で浸透率がかなり高く人気があります。ですが、設定上、主人公たちが中学3年生を迎え、卒業に向かっているお話の内容を考えても、年度末に一度終了するのが区切りが良いのたのだと説明を受けました」

「同じ話をプロデューサーの井口さんからも伺いました。ダラダラ続ければ、視聴者の飽きがやってくる。一緒に成長してきた中高生たちにとって、思い出に残る作品にしたかったと……。共演者の皆、寂しいって言ってたけど、全員で残りの話数も頑張るって納得しました」

「良い仲間に恵まれ、たくさんの経験を積むことができた作品になりましたね」

「はい」

「よく頑張りましたね、唯我君」

 打ち合わせ中も鼻をすすっていたユリアの真っ赤な横顔に、もらい泣きして目を潤ませていた将暉。冷静に打ち合わせをしているように見えたけど、机の下でギュッと拳を握っていた麻耶。すっかり友人になった3人との別れがとても寂しくて、ドラマが終わってしまうことが悔しい。本当は、胸の内では何も気持ちの整理ができていなかった。しかし、根子さんが穏やかに微笑むのを見ると、少し気持ちも落ち着いた。『青春・熟語』が始まる前、これは俺にとって初めてのオファー作品なのだと言ってくれたのは、根子さんだったから。

「さて、今後のことですが、9月に入りましたので、ジェニーズの活動としては例年同様、忙しくなります」

「はい。すごく楽しみです」

 根子さんのいう「忙しい」は、年末に向け、ジェニーズ舞台やライブが頻繁に行われること、同時にクリスマスライブに向けた練習が始まることを指していた。去年はかかとの怪我で出られなかったクリスマスライブに、今年は絶対出るんだ!その気持ちがとても強かった。

「その意気です。実は、今年のクリスマスライブでは、久々に千鶴さんが富岡さんと一緒に、青春隊の曲を踊るそうです」

「え、そうなんですか!?」

「はい。もしかしたら、バックダンスにお声がかかるかもしれませんね」

「是非やりたいです!」

「もしお話がかかれば、すぐご連絡します。それから、聞きたいことがあって……」

 両手に拳を握り、今年のクリスマスライブを妄想した。憧れの青春隊が踊っているのが生で見られるかもしれない。っていうか、ステージで一緒に踊れるかもしれないんだ!すげえ楽しみだ!興奮を抑え、ハッと我に返ると、根子さんはジッと俺を見つめていた。

「今、来年4月からの月9ドラマのオファーがきています」

「……え、俺に!?」

「いいえ、ジェニーズJrに。そこで現在、事務所内で審査を行っているところです。これまでの活動履歴、舞台やメディア出演の数々を並べて比較し、ふるいにかけています。既に最終段階にまできており、唯我君がそのうちの一人として候補に挙がっています。唯我君には、事務所内オーディションを受けていただきたいのです。いかがでしょうか」

 そんなの迷うわけがない。俺は即答した。

「受けます!よろしくお願いします!」

「良かった。即答してくれると思っていました!予定は9月下旬。事務所内オーディションにより、候補者を3名に絞ります。その後、ドラマ監督、助監督も参加する本採用オーディションを受けていただき、出演者が決まります。撮影は2月中旬よりスタート。勝ち得れば、唯我君は『青春・熟語』に続いて地上波ドラマへの出演が決まるわけです。頑張りましょうね」

「はい!」

 根子さんとの打ち合わせを終え、根子さんと一緒に事務室を出ると、事務室前掲示板に貼られていたA4サイズのポスターに目がいった。

「あれ?これ……」

「ああ、所澤さんの写真展示会です。数年に一度程度、行われるんです。ジェニーズの追っかけをする前は、夜空や星の撮影カメラマンとして有名だったそうですよ」

 そのA4のポスターには、確かに『所澤健一郎 コスモ展』とある。俺の目が離れなかったのは、ポスターを埋める夜空の写真だった。闇の真ん中に、せせらぎの音が聞こえてきそうな美しい光の川が流れている。夏の大三角形が色鮮やかに浮かび、祈りの重なる優しい静寂の夏の夜を思わせた。ポスターをジッと見ていると、根子さんが顔を覗き込んできた。

「所澤さんから、来てくれる方には招待状をお渡ししますと、事前にご連絡をいただいています。良かったら連絡しますよ」

「いいんですか?」

「ええ。ただ、この開催が1月なんですよね。もしもドラマオーディションに受かったら、想像以上に忙しくなると思います。どうしますか?」

「……いただきます。オーディションに受かった上で、行くことにします」

「わかりました。今度お渡しします」

 それは半分願掛けのようなものだった。根子さんと別れてからも、俺はしばらくポスターに見とれていた。ただのポスターなのに、とてもキレイだった。トンと指でつついたら、天の川の中にピチャンと音を立てて吸い込まれるのではないかと思えた。そんなふうに感じられる宇宙の写真は、長谷川の部屋にあった色彩やかな銀河の重なる大きな写真以来だった。


                 ****


 立並区立図書館はガラス張りの建物で、大きな窓から入る光が読書スペースを明るく照らしていた。綾香さんは、机にノートとファッション雑誌、装飾品の専門書を並べていた。その目はページに並ぶ文字と、ノートの上を走るペン先だけを行き来している。隣に俺が立っても、しばらく俺には気づかなかった。「綾香さん」と呼ぶと、ようやく手が止まり、顔を上げた。

「……唯我君。あ、もうそんな時間か!ごめんごめん!」

「勉強ですか?大人なのに」

「そうよ。大人になったって、まだまだ知らないことがたくさんあるんだから」

「ふうん」

 綾香さんは荷物をまとめ、机に広げていた本を抱えると、「さあ、行こうか!」と笑った。傾き始めた日の光が、綾香さんの耳の大ぶりのリングのピアスを光らせた。

 その頃、施設にいた優里子はパソコンを閉じ、バッグを手にしたところだった。

「お先に失礼します。施設長、呉羽さん」

「はい、お疲れ様」

「優里子ちゃん、お疲れ様」

 笑顔で手を振り職員室を出ると、優里子は早足で車に向かった。車に乗り込むと、すぐにスマホをチェックした。スマホには、綾香さんのメッセージが入っていた。

『立並区立図書館で唯我君と待ち合わせしたよ!これから駅前の居酒屋さんに行きます、お姉さま』

「また”お姉さま”!」

 ムキ―!と声を出しながら、優里子は頭を抱えた。その時、車の窓からコンコンとノックする音がした。見ると、優里子のお母さん、千代子さんがいた。

「お母さん!どうしたの?」

「お父さんに頼まれてね、お届け物に。今帰り?だったら乗せてくれない?自転車だけど、後ろに積むからさ」

「……ねえ、お母さんにお願いがあるんだけどっ!」

 

                 ****


 俺たちは近くの居酒屋さんに入った。

「この間は本当にありがとう!唯我君!乾杯!」

「こちらこそ、ありがとうございました」

 綾香さんはビールグラス、俺はジンジャーエールのグラスを持ちカチンと合わせた。ビールに口をつけた綾香さんは、プハアア!と気持ちよさそうに声を出した。その姿が、何故か歌子さんやオカマコーチと重なった。

「お酒は強いんですか?」

「強いと思う。人と飲むの好きだしね。あー!今、可愛くないと思ったでしょう!いいもん別に。私、お酒の強い女の子を可愛いと思ってくれる人じゃなきゃ嫌だもん!」

「そんな人います?」

「いるわよ。ごくたまに……。だけど、そういう人に限って、私は恋愛対象にならないのがいつもの合コンのパターンなのよ。飲み仲間的な?お友達であって恋人ではない的な?アハハ」

 涙声で言われると、とても現実味があった。可哀想な綾香さん。

「私、唯我君のこといっぱい知りたいから、今日はたくさんお話できたら嬉しいな。唯我君はお仕事好き?」

「え」

「どうしてジェニーズやってるのかとか、事情とか?そういうのは優里子から少しくらい聞いたことあるんだけど、好きかどうかはまた別じゃん。どうなの?」

「踊るのは楽しくて好きです。歌はまだ苦手。演技は……、まだわかりません。上手くはなりたいんですけど、それが好きだと言えるのか……。ただ、やりがいは感じてます」

「唯我君って、ごちゃごちゃ考えるタイプなのね。もっとシンプルでいいのに」

「そういう綾香さんは、お仕事は好きですか?」

「私?そりゃあ大好き!服大好き!おしゃれ大好き!だから、それが仕事になるなんて幸せね」

「幸せ……」

「お仕事は、私の道ね。意味わかるかな?」

「わかります。道イコール幸せってのは、これまで考えたことなかったけど」

「唯我君は、何をしている時が一番幸せ?」

「一番?それは……」

 最初に浮かぶのは、もちろん優里子の笑顔だった。だけど、それを正直に言うのは照れくさかった。

「た、たまに、ファンですって声かけてもらえた時とか。幸せそうな家族の笑顔とか、心配してた奴がようやく笑うようになったりとか、いろいろ……」

「私は一番を答えてほしかったんだけどなあ」

 綾香さんがニヤリと笑うと、俺は頭の中の本音を見透かされたように感じられた。顔を真っ赤にしていると、綾香さんはクスクス笑いながら「いい子、いい子」と頭を撫でてきた。ガキ扱いされているようで、少し腹が立った。

「からかわないで下さいよ」

「からかってないわよ。唯我君は、きっと誰もが知ってるステキなアイドルになるんだろうなあ。お姉さんは応援しているぞ!」

 頬杖の上でニコニコ笑う顔が、どうも胡散臭い。俺は綾香さんと距離を離してジッと軽く睨んだ。

「こんなイケメンが弟なら、そら優里子じゃなくても自慢するもんね」

「優里子が、自慢?俺を?」

「そうよ、知らないの?昔から、口を開く度に弟、弟ってね。そんなに好きなら弟と結婚しろよとかツッコまれてさあ!ハハハ!」

「結婚!?」

「でも、優里子ったら冗談にしか思ってくれないから、アハハって笑いながら、ないないって言うだけだった。ぶっちゃけつまんなかったのよ、優里子の弟の自慢話って。それが、いざその弟と会ったら、何か、イメージと違ったっていうか。何て言うか……、意識がね」

「い、意識?」

「うん。唯我君は優里子のこと大好きでしょう?異性として。優里子も……」

 頬杖に乗る首がカタンと斜めに倒れ、視線は下を向く。綾香さんの脳裏には、Jr祭の夜、相変わらず弟を自慢しながらも、まるで乙女のそれのように頬を染める優里子の横顔が浮かんでいた。思わずクスッと笑った。

「優里子のこと、いつから好きになったの?何かきっかけがあるの?聞かせてよ、自慢の妄想の弟!」

「それ、やめて下さい。言いませんよ、俺!」

「ええ!?だって、話が聞ければ、協力プレーもアリかなって思うんだよね。どうすんの?9月30日、優里子の誕生日じゃん」

「し、知ってますけど……」

「お姉さん、協力してあげるけど?」

 ニヤニヤする大きな目が、俺の頭の中を覗き込んでくるのが少し具合が悪い。

「綾香さん、本当は何が目的で俺を誘ったんですか?」

「この間のモデルのお仕事のお礼だって言ったじゃない。それに、唯我君のことも知りたいし」

「俺、綾香さんのこと、微妙に信用できないんです」

「なんじゃそりゃ!」

「だけど、一つだけはわかったことはあります」

「何?」

「お礼じゃない。俺を試しに来てるんだ」

「……」

「優里子のことが大事で、だから、俺がどんな奴なのかを知ろうとしてくれている。こう解釈すれば、少しは信用できそう」

「……ふふっ。クソ生意気なガキね。顔面いいからって調子に乗るなよ」

「顔面よくありませんて。やめて下さい」

「そういう謙虚はいらないわよ。だってジェニーズだもん!どうしてこんなイケメンを目の前に、優里子は心躍らないの!?意味がわからん!」

「……どうせ弟ですから」

「それが意味わからんのよ」

「俺もです」

 すると、居酒屋さんの出入り口から「らっしゃいませええっ」という店員の掛け声が聞こえた。綾香さんは、俺の背後の方をチラッと見た。やって来たのは優里子だった。優里子はつば広帽子を深々と被り、マスクをして入ってきたが、綾香さんをジッと睨む視線は強かった。優里子のあれ、もしかして変装のつもり?思わずプッと笑うのをこらえた。優里子が案内された席は俺の斜め後ろの席だった。静かにいすを引き、小さな声で「ウーロン茶を」と注文した。

「……唯我君の言う通り、試してみるのもいいかもね」

「臨むところです」

 優里子には、俺たちの会話はバッチリ聞こえていた。2人して、一体何の会話をしてるの?変なこととか吹き込まないでよ、綾香……!優里子は耳を象のように大きくしたつもりで耳を澄ませた。

「この先、他に大好きな人ができちゃったら、どうする?」

「……」

「今のお仕事を頑張ってたらさ、それはそれは美しい女優さんとか、女性アイドルとか、たくさんのステキな人に出会う機会だってあるわけじゃん。もしかしたら、優里子以上にステキな人にも巡り合うかもしれない」

 優里子は自分の名前にビクッと反応した。もちろん、背を合わせている俺にはその様子は見えていないが、綾香さんにはバッチリ見えている。

「多分、それはないと思います」

「どうしてそう言えるの?」

「だって、比べようがないから」

「それは、今だけかもしれないよ?」

「さっき聞いてくれましたよね。仕事は好きかって」

「うん。そうだね」

 唯我が、ジェニーズのお仕事が好きかどうか……。やりがいはあるとは聞いたことあったけど、好きかどうかは、私、聞いたことなかったな。優里子は少し緊張した。

「俺の仕事の先には、いつも優里子がいる」

 優里子の肩がピクンと反応した。綾香さんはイジワルそうに笑い、「ほほう?」と返した。

「優里子を呼ばなかった舞台やステージにだって、俺は優里子がいることを意識する。すげえ自分勝手だけど、Jr祭の人気投票もほしいけど、何よりも、俺は優里子の笑った顔が見たい。そのために俺は仕事をしている」

 優里子は、いつか俺が言ったことを思い出した。

「笑って、優里子」

 思い出した瞬間、ドキンと心臓が音を立てた。全身一気に熱くなる。そうだった。千鶴さんの舞台を終えた日、唯我は同じこと言ってた……。

 俺の背後で、全身から湯気を上げる優里子をチラッと見た綾香さんは、「ふうん」と相づちを打つと、頭を傾かせた。

「唯我君、本当に優里子のこと大好きね」

 優里子は店員が置いたウーロン茶に口を付けた瞬間、自分の名前が出たのでむせた。やばいやばい!抑えて抑えてっ!!優里子は喉にかかる水分にむせながら、胸を叩いてゲホゲホするのを我慢した。

「唯我君さあ、一つお願いをしてもいい?」

「何ですか?」

「君に、優里子のこと幸せにしてあげてほしいな」

 な、何言ってるの!?綾香!!優里子は思わず振り返った。背後で優里子がこちらを見ていることに気づかない俺は、答えた。

「言われなくてもしますよ」

「……」

「俺、一応アイドルなんで」

 その一言で、優里子の頭に上っていた血が引き始めた。体を前に戻し、しばらくすると荷物を持って立ち上がった。背後でガタンといすが動いた音がして一瞬驚いた。俺が振り返った時には、そこには滴の垂れる飲みかけのグラスだけがあった。


                ****


 居酒屋を出た優里子は、一人夜の街を早足で帰った。変装のために身に着けていた帽子とマスクを胸の前でギュッと握っている。その奥で、ズキンという音がしていた。

 私、あそこに何しに行ったんだっけ……。何で行ったんだっけ……。っていうか、何で……。

 立ち止まり、帽子を握る手に力を入れた。

「君に、優里子のこと幸せにしてあげてほしいな」

「言われなくてもしますよ。俺、一応アイドルなんで」

 当たり前のことを言ってただけじゃない。何で、こんなにショック受けてるのよ……。

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