第92話 綾香さんの意地悪
「君に、優里子を幸せにしてあげてほしいな」
「言われなくても、しますよ」
「……」
「俺、一応アイドルなんで」
その時、後ろの席からガタンという音がした。一瞬驚き、振り返った時には、そこには誰もいなかった。飲みかけのお茶の入ったグラスがしとしとと滴を垂らし、机の上を濡らしている。すると、綾香さんが「はああああ」と深くため息をついた。
「唯我君、不合格」
「え」
「今の答えは好きじゃないな。だって曖昧なんだもの」
「……どう捉えていただいても構いませんよ」
「ダメ!もっと素直な答えを聞きたかったの!もう、せっかく……」
せっかく、優里子がしっかり反応してくれてたのにいいっ!綾香さんはもう一度ため息をついた。俺には、その態度が少し嫌に思えた。
「俺、自分で決めてることがあります」
「何?」
「素直になるのは、優里子の前だけです。何するにしても、何言うにしても……。なのに、どうして綾香さんに素直に答えなくちゃいけないんですか。試されてるってわかってても、これだけは譲りません」
「……なるほどね」
私に言う必要なんてどこにもないわけだ。綾香さんは腕を組んだまま背を反らせ、天井を見上げた。少しミスったかもしれない。優里子、どう解釈したかなあ。大丈夫かなあ。ハアとため息をつきながら、姿勢を戻した。
「唯我君」
「はい」
「ここに優里子がいたら、さっきの答え、変わってた?」
「はい」
「何て言った?」
「……言いませんよ。綾香さんには」
綾香さんはムスッとして、口を尖らせながら「つまんないの」と文句を言った。
****
次の日、最初に優里子に会ったのは、居間での朝練を終えて洗面所に行く時だった。職員室から出てきた優里子は、俺を見ると「あ……」と呟いた。
「おはよう、唯我」
「はよう。どうしたの?」
「え、何が?」
「元気ない」
「そんなことないって。いつも通りよ」
両手にグーを握り、無理やり笑って元気アピールをされた。何だ、その作り笑いは。俺は優里子の頬を軽くつまんでやった。
「下手くそ」
「私、嘘なんてついてないもん!」
「んなわけあるかよ」
「じゃあ唯我やってみてよ!アイドルスマイル!」
優里子が俺を睨んだ。可愛いなあとしばらく見つめてから、「ん」と笑って見せた。それはJr祭のファンサービスの時のように、目の前のお客さんが満足してくれることを意識した笑みだった。これは俺の必殺技である。
すると、優里子は目を開いて固まってしまった。あれ?失敗したかな……。少し不安になった。
「優里子?」
ハッと息をしたと思うと、優里子は途端に顔を真っ赤にした。頬をつまむ手を取り、「離して」と顔をそむけた。まるで俺があげたピアスのように耳まで真っ赤だった。
「私、元気だから気にしないで!心配してくれてありがと!もう行くね!」
「あ、おいっ」
優里子はタタッと廊下を走って行ってしまった。俺がその場に一人立ち尽くしていると、いつの間にか隣にいた英がクスクス笑った。
「優里子、今日もキモいなあ」
反射的に英の頭に拳を落とした。「いったあ!」と声を上げる英をジッと睨んだ。
「どこもキモくない」
「じゃあ可愛いっての?そんなの本人に言えよな。むっつりスケベ!」
俺の硬い拳がもう一度英の頭に落ちる頃、優里子は廊下の影で息を整えていた。心臓がドキドキして仕方がなかった。頭には、俺の必殺アイドルスマイルとJr祭の会場で見せた笑みが重なり、居酒屋での俺の発言が蘇った。
「俺、一応アイドルなんで」
私、今まで勘違いしてたかもしれない。唯我が、私だけ舞台やステージに誘ってくれていたのは、「姉」っていう特別ポジションだったからだと思ってた。でも違うのかもしれない。唯我は、アイドルとしていちファンに対して優しく接していたのかもしれない。それを私ったら特別扱いされてるみたいに思ってたのかもしれない!
真っ赤な顔を両手で覆い背を丸めた。
「私、超恥ずかしいやつじゃん……」
一人で呟いた時、腕を引かれて入った居間で、男の子の腕が優里子の体をすっぽり覆ったのを思い出した。
「お前こそ、気づけ。お前には、俺がいる。俺が全部許してやる。全部一緒に背負ってやる。……一緒にいてやる」
知らない人のように強くて、大きくて、なのに昔から知っている温もりに包まれた時、優里子は心から安心したのだった。両手で自分の体をギュッと抱くと、胸から伝わるズキンという振動は、腕や背中、腰や首筋にまで伝わった。あれも、そうだったのかな……。私、すごく嬉しかったのに……。
その時、ポケットにしまっていたスマホが鳴った。見ると、綾香さんからのメッセージがきていた。
『優里子、近いうちに飲み行こう!昨日のことも謝りたいしさ』
****
俺と綾香さんがいた居酒屋に、綾香さんと優里子がいた。平日の夜、優里子の目の前に座る綾香さんはスーツ姿だった。ジャケットを椅子の背もたれにかけ、あらわにした白く細い手で頬杖をつき、正面に座る優里子を見つめた。優里子の視線は運ばれてきたグラスに落ちている。グラスは汗をかき、氷が溶けてカランと音を立てる。
「優里子」
「うん……」
「単刀直入に聞くけどさ、この間、ここで私と唯我君の話を聞いてどうだった?」
体はビクッと反応した。緊張していることも、気まずいこともバレたくない優里子は、平然を装った。いや、綾香さんには全てが十分伝わっていた。
「いやあ……。知ってることも、知らないことも話してたみたいじゃん。2人がいつの間にか、あんなに仲良しになってたなんて知らなかったよ」
「……優里子さあ」
「うん」
「唯我君のあの答え、聞いてどう思った?」
カクテルのグラスを持とうとした手が一瞬止まった。ズキンと揺れる指先はグラスを伝う滴を撫で、手はゆっくりとグラスを掴んだ。
「唯我は、当たり前のことを言ってるって思った」
「当たり前?」
「うん。唯我は、アイドルなんだもの。ファンの人たちにキラキラした夢をたくさん見せてくれて、幸せにしてくれる。綾香は、私のこと幸せにしてあげてほしいって言ったけど、それはアイドルの唯我にとっては当たり前のことなんだよ。私が唯我のファンだってことを、あの子はよく理解している。幸せにするなんて、そんなの当たり前なのよ」
アハハと苦笑いすると、シュワシュワと炭酸が弾けるピンク色のお酒をグッと飲んだ。優里子は顔をあげると、「そうでしょ?」と薄く笑った。
「優里子、嘘笑い下手すぎ。わっかりやすく顔に書いてあるわよ?ショックでしたって!」
「!!かっ、書いてないもん!」
「ほっぺさすっても取れません!私ね、優里子は誤解して帰っちゃったんだろうなって思ったの」
「誤解?誤解って何を」
「あれは、唯我君が私と話してたから出た答え。本当の気持ちは少しも聞かせてくれなかった」
「本当の気持ち……?」
「あんたが店を出た後、聞いたの。この場に優里子がいたら答えは違ったのって。そしたら、答えは違ったってさ。つまりね、優里子を幸せにしてほしいっていう質問に対する本当の答えは、唯我君にとってとても特別な気持ちだから、優里子にしか言えないんだよ」
「特別って……。それはファンだからだよ。または、お姉ちゃんだからであって」
「違うよ、優里子。唯我君はあんたの”弟”じゃないし、優里子は”姉”じゃないよ」
「そんなこと」
「優里子さあ、何であの日ここに来たのよ。私と唯我君のデートが気になったからでしょう?」
思わずドキッとした。思い出すのは、居酒屋に入った瞬間に見えた、綾香さんと2人きりで話をしている俺の姿だった。体の奥でズキンと音が鳴ると、胸がキュッと締めつけられたような気がした。
「じゃあ、私は一体、唯我の何になれるの」
「……」
「正直言うとね、綾香の言う通り、唯我の言葉は結構ショックだった。アイドルだから、私のこと特別扱いしてくれてたのかなって思うと、切なくて……。今までのいろんなこと、楽しかったことも、嬉しかったことも、皆ファンサービスのうちだったらって思うと、もう……」
「いろんなことって、例えば?」
「私だけ舞台観に来てって誘ってくれたり、2人でお出かけしたり、プレゼントくれたり……。辛かった時支えてくれて、そばにいてくれて……」
何それ。唯我君すっごい分かりやすくアピールしてくれてんじゃん。綾香さんには俺の行動の意図が手に取るようにわかった。同時に、気持ち半分、優里子の鈍感さに呆れてしまった。
「支えてくれて、そばにいてくれてって……。唯我君は、何をしてくれたの?」
「それは……」
優里子は少しずつ顔を赤くし始めた。心配そうに「大丈夫?」と言った優しい声、思いっきり泣かせてくれた温かい胸、弱くて情けない自分を包みこんでくれた腕。それを口にするのは恥ずかしかった。綾香さんは、ふうっと息をついた。
「最初はね、偶然知り合った”妄想の弟”ってのが面白くてね、からかってやろうと思ったの。だけど、唯我君はからかえないくらい優里子のことすっごく大切にしてるって分かったし、優里子だって……」
優里子だって、唯我君のこと、「弟」以上に思ってるの見え見えなのに、自覚してないし……。
「だから、今度は優里子をからかってやろうと思って……」
「何それ!綾香、すっごい意地悪っ」
「うん、ごめん。本当にごめん!軽い気持ちでさ、私があんたの可愛い”弟”とデートしてるぞっていう姿を見せたらどんな反応するんだろうって思ってさ。あえて居酒屋に行くよってメッセージまで送って。来ても来なくてもいいかと思ったんだけど、優里子、本当に来たんだもん。それで、優里子がわかりやすくショック受けて帰っちゃったの見て、私は猛省しました。ふざけ過ぎました。ごめんなさい……」
「ヒドイなあ。もう」
「ごめん」
お酒で頬が染まり、瞳はうるっとして光っている。優里子は怒っていたつもりはなかったけれど、正直な綾香さんの姿を見ていると、己の胸の内で鳴るものが気になってしまった。
「私、もうずっと唯我のこと考えてる」
「何を?」
「あの子ももう高校生になったのよ。施設にいられるのはあと3年。あと、3年しか一緒にいられない。大成してほしいと思うけど、そうなったら、ずっと遠くの人になっちゃうのかな。そうしたら、唯我にとって私は、たくさんのファンの中の一人になるんだわ。そう思うとね、寂しくて、心細くて、切なくて……」
「優里子……」
そこまで自覚があって、どうしてあと一歩踏み込めぬ……。綾香さんは呆れながら、この深刻な事態に危機を感じた。
優里子の指先にグラスの水滴が落ちてくる。ゆっくり人差し指から中指へ、薬指、小指を伝ってテーブルに落ちると、グラスの水滴でできた水たまりの中に吸収された。ほんの数センチの水面に、自分の耳で光るピアスの光が赤く灯ったが、それは店内の明かりの中の一つの光でしかなく、とてもとても小さな光だった。
まるで、ペンライトの光みたい。優里子は想像した。ライブ会場の中心でスポットライトを浴びる俺が立っている。自分は真っ暗な観客席の中にいて、アイドルの視界にはっきりとは映らない。闇の中に光るピアスの光なんて、ステージの上に立つアイドルには見えっこない。
綾香さんは優里子の手に手を重ねた。顔を上げると、綾香さんは優里子のことを真っ直ぐ見つめていた。
「優里子、鈍感も大概にしなよ」
「え?」
「早く気づけ。そうじゃなきゃ、この先、優里子に本当にほしいものが見つかった時、後悔するかもしれないよ」
私が、本当にほしいもの……。本当にほしいものって、何だろう……。
****
朝、制服を着て玄関に立つと、いつものようにないとを抱えた優里子がやって来た。ないとの小さな手を取り、フリフリと振って見せた。優里子のいつもの笑顔に、俺は安心した。
「唯我、いってらっしゃい」
「行ってくる」
俺もいつも通り、ないとの丸い頭を撫で、優里子の頭を撫でた。指の中で優里子の柔らかい髪の毛が乱れていく。それを指先で整えると、くすぐったいのか、優里子が片目を閉じて、もう片方の目で俺を見上げるのがたまらない。困ったような顔して、少し頬を染めている優里子を見ると、俺はドキドキする。
「ちょっと、いつもより長いわよ。もういいでしょ、エロガキ」
俺の手を取ったその手を掴んだ。優里子はその手の大きさに、温かさに驚いた。
「俺、今後優里子に触るのやめる」
「え?」
「今度、大事なオーディションがあるんだ。俺、絶対勝ち取るから、それまで優里子には触らない。こうやって手も握らないし、頭も触らない。どこも1ミリも触らない」
「……それは、唯我が本当にほしいもの?」
「うん」
優里子は「そう」と呟いて俯いた。唯我にとって、アイドルは大事な道だもの。それが一番ほしいものだよね。だけど……。
「次に、ほしいものは……」
「え……」
優里子は俯いた顔を赤くした。やだ。私、何聞いてるのよ……。俺がしばらく黙っていると、優里子が顔を上げた。
「あ、ごめん。変なこと聞いちゃった……」
「ううん。ほしいもの、あるよ」
「何?」
「優里子」
「……うん?」
「優里子を抱きたい」
「へっ!?」
後ろに一歩下がった優里子を引き留めるように、握った手を引き寄せた。顔が近づくと、互いに心臓をバクバクと鳴らした。体は熱くなり、喉は狭まるが、俺は負けじと声を張った。優里子は顔を真っ赤にて、目を泳がせた。
「え、冗談でしょ?」
「冗談じゃねえよ。それまで触れるのは一切我慢するし、もし、オーディションに受からなかったら、抱く話は無しだ」
「ちょっと待って!唯我が何言ってるのか全然わかんないんだけどっ!」
「答えなんて後ででいいよ。その時になったら、決めればいい」
「そんなの……」
「俺、頑張るよ。絶対受かってみせるから」
「唯我……」
「優里子、覚悟しとけよ」
俺は施設を出て駐輪場に向かった。玄関に残された優里子の顔をないとがぺちぺちと振れていた。時々、頬をつねられると、これが夢じゃなくて現実だということを感じさせてくれた。現実であれば、なおのこと困ってしまった。優里子は脳天から爆発して煙を上げた。
唯我ったら、唯我ったら!一体何を考えてるの!?え、一切触れない?「抱く」って何?!何言ってるのあのエロガキはっ!!!
「早く気づけ。この先、優里子に本当にほしいものが見つかった時、後悔するかもしれないよ」
「答えなんて後ででいいよ。その時になったら、決めればいい」
俺の言葉が、優里子の気持ちを少しだけ軽くした。しかし、「抱く」という意味深な言葉に優里子は困惑、混乱した。頭の中はいかがわしいことを想像しつつも、それを否定することでいっぱいいっぱいだった。
そういう時ばかりタイミングよく現れる天邪鬼が、優里子の横を通りかかった。中学の学ラン姿で靴を履き替えながら、英は真っ赤になった優里子の顔を覗き込んだ。
「よかったじゃん。これで唯我は優里子のものだよ」
「……ふぇ?」
「熱い熱い一夜を過ごせばいいじゃん。頑張れえ」
英はニヤニヤしながら施設を後にした。唯我どこでヤる気かなあ。むっつりスケベだと思ってたのに、ちょっと面白くなってきた。英の後ろで、優里子の頭はもう一度爆発していた。
その頃、俺は自転車に乗り、駅までの道のりを立ちこぎして全速力で走っていた。燃えてしまいそうだった体には、夏の暑苦しい風が気持ちよかった。
(第92話「綾香さんの意地悪」おわり)
次回更新:8月12日(水)21:00
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