第88話 「一人じゃない」
舞台稽古を終えて、最寄り駅からバスに乗り、施設まで帰った。昼に道路を濡らした雨は夜になっても止まず、バスの窓は濡れている。街灯や車のヘッドライトが、窓で停滞する雨粒の中に吸収され小さく光る。まるで季節外れのクリスマスのイルミネーションが、夜の街を彩っているようようだった。
バスの中から施設を見ると、職員室の隣にある応接室に明かりがついているのが見えた。もうすぐ夜の10時になるのに、誰か来ているのだろうか。施設の前の停車駅で降り、玄関まで来たところで、見知らぬおばさんとおじさんが施設から出てきた。二人はスーツを着て、ビニール傘を差し、革靴とヒールを濡らして歩いて行った。その後を追うように現れた男には見覚えがあった。そいつは、駅で見かけた文子の隣にいた男のようだった。
職員室のドアを開けると、その時間にはいないはずの優里子がいた。
「ただいま。……優里子?」
「おかえり、唯我」
「今日は日勤じゃなかったっけ。夜勤に変わったの?」
「ううん。ヘルプで来たの。もう少し落ち着いたら帰るわ」
「……応接室の明りついてたけど、誰が来てたの?」
「うん……」
優里子は答えにくいという顔をした。質問の仕方を間違えたと思った。
「ああ、悪い。無理に答えなくていい」
「ごめん」
「いいや……。なあ、優里子」
「何?」
「今の状況で誘っても、あんま気持ちがのらないかもしれないけどさ……。今度の舞台」
その時、応接室の扉が開いた。出てきたのは、文子をおんぶした金髪の高橋だった。
「あ、高橋君っ」
「優里子、医務室を」
「わかった」
優里子は駆け出し、医務室に向かった。高橋はゆっくりと医務室に向かって歩き、俺の横を通り過ぎた。
「よう、唯我」
「文子、どうした?」
「気を失っただけ。しばらく休めば平気だよ」
「何でそんなことに」
「うーん……。俺が無理させる状況にしたから、かな」
俺も医務室に向かい、高橋と一緒に文子の重い体をベッドに移した。高橋は文子の頬に手の甲を当てると、「冷た」と呟いた。
眠る文子と高橋を置いて、俺と優里子は医務室を出た。優里子は下を向いたまま、俺には顔を向けてくれない。応接室からは、施設長とクレアおばさんが出てきた。
「唯我、おかえり。優里子、文子ちゃんは?」
「医務室で眠ってる。高橋君がしばらく見てくれるって」
「そうかい。こっちはもう大丈夫だよ。来てくれてありがとう」
「ううん」
施設長とクレアおばさんは職員室に戻り、廊下には、黙り込んだ優里子と俺だけになった。
「優里子……」
「私も、しばらく医務室にいる。高橋君ばっかりに、文ちゃんのことお願いできないし」
言いながら、優里子は目をこすった。最近、優里子は何度泣くのを我慢しただろう。俺は気の利いたことも言えず、我慢する優里子を何度見ただろう。「俺も行く」と返事して、優里子と一緒に医務室へ行った。
真っ白な布団の中、文子は目を覚ました。目の前には優里子と高橋がいた。反対側には、白いカーテンが仕切られ、俺はそのカーテンの後ろにいた。
「文ちゃん、体はどう?」
「少しだるい」
「昼間、雨の中を走ったんですって?無茶しないで」
「へへへ。ごめん。……ちょっと、疲れちゃった」
「ゆっくり休めよ。不良娘も起きたことだし、俺は帰るわ」
「高橋、一つ聞いてもいい?」
「何?」
「何で、私のために無理してくれたの?」
「……少し、似てたから……」
「誰に?」
高橋は立ち上がり、「じゃあな」と微笑んだ。高橋は医務室を出る時、俺の頭をガシガシと撫でた。足音は外に響き、遠くなっていった。
「あいつ、質問にちゃんと答えてくれなかったんだけど。優里姉、私、誰かに似てる?」
「高橋君、いつかちゃんと答えてくれるわよ」
文子は、優里子の微笑む姿を見てから、カーテンの後ろに見える影に目を向けた。
「そこにいるのは誰?……唯我?」
俺はビクッと反応した。それは影で見てもわかりやすい反応だった。
「ふふっ。ねえ、唯我。聞いてよ。私、妊娠したよ。すごくない?」
俺も優里子も驚いた。とても簡単に、何でもないような言い方で、文子ははっきり言った。
「それでね、今日、相手の人とその両親と話したよ。何て言われたと思う?……さっさとおろせだって。何て簡単な話って思っちゃった」
「文ちゃん……」
「……あのスーツの両親すごかった。息子とはもう縁を切ってます、だって。どこで何をしていようが、私たちには関係ないんだって。お金は出すからさっさと……、さっさと……」
文子の目尻から涙がこぼれた。しきりとなっているカーテンの向こうからは、ズッと鼻をすする音がした。
「ここ、児童養護施設だよ?よくそんなこと、簡単に言えたよね……。煩わしいものは全部、捨ててしまえっての?そんなふうに思えるわけねえじゃん。ここにいる子たちが、どんな気持ち抱えて生きてると思ってるだよ、あの親……。ウゼエ。マジでウゼエ。……おい。返事しろよ、唯我。顔見せろ、バカ!」
「るせえ。俺に八つ当たりすんな。ブス文子」
カーテンを引き、ベッドの横に立つ俺は、少しだけ目を潤ませていた。息をすると、鼻がツンとして痛くなった。痛くて涙がこみ上げてきそうになるのを、眉間に力を入れて必死に抑えた。文子は想像以上に顔を濡らしているし、優里子なんて鼻の頭を赤くして、道端の水たまりのような目をしている。そんな顔してんな。
悔しい。文子のことなんて、これっぽっちも心配してねえし、優しくしてやろうだなんて思ってもいない。それなのに、胸が張り裂けそうになる。俺が施設のガキたちを守ってやるんだって決めてジェニーズになったはずなのに、こいつに何一つしてやれない。自分の無力さが虚しくて、苦しい。
「ごめん、文子。俺が守ってやれなくて、ごめん」
「…………ホント、ウザいよ。バカ唯我」
文子は両腕で顔を覆い、声を裏返して言った。
「あんたに守ってくれだなんて、一度も言ったことねえよ。勝手に責任抱えてんじゃねえ……」
文子は泣きながら、いつも通りの強い口調で言った。だが、決していつも通りではなかった。いつもなら、文子の言葉一つ一つにイライラしているはずなのに、こいつの不器用な優しさに、こんなに胸を包まれるようには感じるなんて、どうかしてる。
「文子、7月の公演、優里子と一緒に観に来い」
****
文子と優里子は、7月初旬に舞台公演を観に来た。真っ暗な観客席に、舞台の上に広がる世界が飛び出してくる。中世ヨーロッパ風のセット、登場人物の衣装、歌、声。体は舞台にまっすぐ向かい、意識は舞台の世界に集中した。
カーテル家の屋敷の中で、主人公ディハイドと、その弟であるアルフォードは言い合いをしていた。
「ターシャ?あれは下民ではないですか!」
「何が悪い!身分など関係ない。私はターシャを愛してる!」
「嘆かわしい。兄さん、あなたはいつになったら現実を見てくれるのですか?身分は、我がカーテル家の血筋を表すのです。誇りです!それを兄さんは侮辱するのかっ」
「身分という差をつけ、人を見下すことは、その人たちを侮辱することと変わらぬではないか!」
ディハイドは思わず飛び出した。「兄さん!」という声が響くと、舞台は暗転した。しばらくすると、ザアアという雨の音が聞こえてきた。ライトは歩くディハイドを追い、全体が少しずつ明るくなっていく。そこで一人の下民と出会った。
「まあ、お役人様。傘もささずにどうしたの?汚いけれど、よかったらどうぞ」
下民の女はボロボロの服をまとい、胸に小さな男の子を抱えている。ディハイドは傘を受け取るが、2人は雨に打たれた。女は背後から布を取り出し、自分と子どもを頭から包んだ。
「ご親切にありがとう、ご婦人。ですが、私は既に濡れている。2人が濡れては申し訳ない。傘はあなたたちが差しなさい」
女はぺこりと頭を下げると、傘を受け取った。
「私はディハイド。あなたのお名前は?」
「下民に親切にしてくれるなんて不思議な人ね。私はアンナ。この子はオベル」
「父上はいらっしゃるのか?」
「……いいえ。私はこの子を一人で生みましたから……」
文子は下民の婦人、アンナを見つめた。優里子は思った。そうか。だから唯我は、この舞台に文ちゃんを誘ったんだ。
「本当のことを申しますとね、捨てられたの。相手は貴族のご子息で、私は使用人の身でしたから、一緒になれるはずもない。みるみるお腹は大きくなり、私は追い出されました」
「そんな……。何とお辛いことでしょう」
「皆さん、そう言われますわ。でもね、辛いことばかりではないのです。私は
文子はお腹に手を当てた。アンナの言葉を聞き、頭には彼氏との日々が浮かんだ。初めて人を好きになって、それだけで毎日嬉しくて、彼に会うたびにウキウキして、彼と肌を重ねるたびに、幸せな気持ちに満たされた。
「人間、生きていると辛いことばかり思い出してしまいますけれど、本当は、同じだけ幸せがあるものなのです。それに気づけるか、そうでないかで、人生は変わるものですわ。私はね、この子に出会えたことこそ、一番の幸せだと思うのです」
「身分のことで、侮辱され、痛い目に合うことはないですか?辛いことはないですか?」
「愛と親切の心を忘れなければいいの。そうすれば、どんな身分の方だって、どんな人だって、人を痛めつけることはしませんでしょう。笑顔と想いを重ねることができれば、辛いことだって、乗り越えていけるものでしょう。今はこのように雨が降っていますが、止まない雨はないのですから」
アンナは鼻歌を歌い始めた。すると、抱える子どもも一緒に楽しそうに歌い始めた。2人の声は雨の音を伴奏にして、会場を優しい空気で包んだ。
物語の最後は、主人公ディハイドが街の人々と対話を繰り返し続け、身分制度の廃止を決めた。下民や貴族、平民の人々が集まる中、ディハイドとターシャは愛を誓うというハッピーエンドを迎える。俺が演じた弟アルフォードは、兄の意見に最後まで反対し、晴れた空の下、ひっそりと街を去っていく。
****
舞台が終わり、優里子と文子は俺のいる楽屋に向かった。通路を歩いていると、後ろから走る足音が聞こえた。小さな男の子は「唯我兄ちゃん!」と元気な声を響かせ、文子と優里子の横を過ぎていった。男の子が入っていった部屋を覗くと、私服に着替えを済ませた俺が、佐野さんの息子、正臣君を抱き上げていた。
「唯我、来たよ」
「優里子、文子」
「唯我、やっほー。それ、誰?」
「正臣君。舞台の共演者」
「唯我兄ちゃん、この人たち、誰?」
その時、俺の楽屋にもう一人やって来た。「正臣!」と怖い声を出したのは佐野さんだった。
「やっぱりここにいた!唯我君、いつもごめんなさいね。しかも、あら、女の子のお客さん?こんばんはあ」
「こんばんは。唯我がいつもお世話になっております」
「これは、ご丁寧にどうも。こちらこそ。この通り、息子がべったりで」
「唯我なら、小さい子には慣れっこなので平気ですよ」
「そう。唯我君、この方たちは?お友達?」
「いいえ。えっと……、あ、姉貴と、それから……」
俺は文子のことを「姉貴」と言ったのは初めてだった。佐野さんは、「それから」と言いながら、視線をまっすぐ優里子に向け、頬を染めていることに気がついた。
文子は自分が「姉貴」と呼ばれたことに照れ、「フン」とそっぽを向いた。一方優里子は、俺が言った「姉貴」が自分のことだと誤解していた。ある日の居酒屋で、俺に「彼女」と言われたことを思い出し、少しぶっきらぼうな言い方ではあったけれど、「姉貴」と紹介されたことにホッとした。
文子は、俺から離れた正臣君と手を繋ぐ佐野さんを見つめ、手は腹を触った。すると、劇中で佐野さん演じるアンナのセリフを思い出した。
「私は
文子は佐野さんに近づくと、「あの」と話しかけた。
「何でしょうか?」
「子育てって、辛いですか?」
「……いいえ。そんなことは……」
佐野さんは明るいことを言おうとした。しかし、文子の不安げな表情や、無意識にさする腹の手を見ると、文子が何を聞きたいのかを察した。
「苦しいことも、辛いことも確かにあったわ。だけど、この子が笑えば嬉しくて、幸せな気持ちになるのよ。他には何にも変えられない。幸せなことですよ。とてもね」
「……私……」
「一つ、気づいて」
「え?」
「あなたは決して、一人じゃない。一人じゃないのよ」
佐野さんの優しい微笑みと、佐野さんの体に腕を回す正臣君の姿を見ると、文子は腹の中がほんのり温かくなったのを感じた。
舞台の帰り、文子は優里子の運転する車の助手席から外を見つめていた。文子の頭の中には、舞台に立つ佐野さんの姿が浮かんでいた。子どもを抱えて仕事をして、楽屋ではニコニコと笑っている。
「あなたは、一人じゃないのよ」
お腹をさする文子の様子は、これまでとは少し違って見えた。しかし、どう声をかけてあげたらいいのか、優里子は迷っていた。
「優里姉」
「何?」
「今日はありがとう。楽しかった」
「それならよかった。唯我もきっと喜ぶわ」
「……私、これからのこと、不安にばっかり思ってたけど、そうじゃないかもしれないね」
「文ちゃん……」
優里子がチラッと見た文子は、正面の道をまっすぐ見つめていた。その目に夜の道を照らす光が集まって、キラキラとしていた。文ちゃんの中で、何かが変わったかもしれないよ、唯我……。
****
「今日もお疲れ様!乾杯!」
「かんぱーい!」
会場を後にした俺は、佐野さんに誘われて、ファミリーレストランに来ていた。乾杯でカチンと鳴らした3つのグラスの中で、透明な氷と水が揺れていた。俺の隣に座る正臣君は、乾杯したグラスを両手で持ち、グビグビと水を飲むと、ブハアアと息をした。まるでおっさんだった。
「こおらっ!それはやらないって約束しなかった?」
「ごめんなさい」
「もう……。唯我君、ごめんね。お行儀悪くって。一回ね、面白がって、この子におじさんの真似してごらんってやらせたのがきっかけで、何か飲むたびにするようになっちゃったのよ」
「そういうことですか。正臣君、すごい演技派じゃないですか。上手だったよ」
「えへへ」
「ああ、ああ。そう褒めないで。またやるから」
「正臣君、演技をするのはどこだっけ?」
「舞台!」
「ここはどこ?」
「レストラン……」
「演技してもいいところだった?」
正臣君は、俺に怒られていることに気づき、黙ってしまった。正臣君の頭を撫で、微笑んだ。
「ここで演技をするのは、もったいないよ。知り合いの人の言葉を借りるなら、正臣君の演技は、金が取れる」
「金が取れる?すごい表現をする人もいたものね」
「その人、アイドルなのにヤクザって呼ばれてます」
「アハハッ!そりゃ言われるわね」
「かねがとれるって何?」
「つまり、正臣君の演技は上手だから、価値があるってことだよ。だから、むやみにやってはダメだ。俺だって、笑う時は計算してる」
「さすがアイドルね。でも、アイドルが笑ってないってどうなの?」
「笑い続けてたら、安くなる。なんて言った奴がいたんです。無理して笑わずに、必要な時、必要な表情をする。これも、表現手段の一つだと思ってます」
「経験を積まれているのね。さすがだわ」
「いえ……。面倒くさがってるとも言えるかも」
佐野さんはアハハと笑った。正臣君は頭を撫でると満足したような顔をする。可愛いものだ。俺の微笑む横顔を見ると、佐野さんはフフッと笑った。
「ねえ、唯我君」
「はい」
「楽屋に来てくれた女の子たちだけどさ、姉貴と、それから?」
「あ、えっと……」
「もう、すっごい気になってたの!教えてよお」
「ええ……」
明らかに困っていると、佐野さんはクスクス笑った。
ファミリーレストランはガラス張りで、外から見ると、誰が誰といるのかがはっり見える。俺と佐野さん、正臣君が食事をする光景を、外に止められた黒い車の中で構えられたカメラが捉えていた。パシャパシャと撮ると、カメラの画面を見ながら写りを確認し、もう一度シャッターを切った。
「隣の人は、女優の佐野あみだよね。子持ちのバツイチ」
「そうだね。かなり子どもが唯我君に懐いている様子。かませでも面白いネタにはなりそう」
「子持ちバツイチ女優と、未成年ジェニーズJrのカップリングってか?」
「彼を追って、こんな面白そうなネタが浮かぶなんて、ラッキー」
「しっかり写真撮っとけよ、コウ」
「任せてよ、ケンちゃん」
それからしばらくして刊行された週刊誌に、俺と佐野さんがファミリーレストランで食事をする様子が記事になっていた。『バツイチ女優と高校生ジェニーズJrのディナータイム』という表題は、大きくページを独占していた。一番ショックだったのは、未成年ゆえに俺の顔にモザイクがかけられていたことだった。
舞台の公演は折返しを迎えた頃だった。俺と佐野さんは、座長に呼ばれた。
「お二人とも、週刊誌の件はご存知ですね?」
「はい……」
「私が誘ったんです。だって、正臣がすっごく楽しそうにするから……。とても軽率でした。ごめんなさい。唯我君も、ごめんなさいね」
「いいえ。俺もまさか、自分の顔にモザイクかけられるとは思ってませんでしたし」
「気にするところ、そこお?」
「2人とも、冗談を言い合う前に聞いてほしい。君たちが週刊誌に載ったことで……」
俺はドキドキした。「載ったことで、迷惑をした。舞台には出るな」などと言われるのではないかと思った。
「舞台のチケットが急激に売り上げを伸ばし、完売した!」
「わあい!よかった!」
「あの、え?どういうことですか?お、怒られてる?褒められてる?」
「唯我君、覚えておきたまえ。我々役者、芸能人は、いつでも誰にでもエンターテイメントを提供する立場にある。今回のようなただの食事会であっても、面白いと興味を持つ人がいるんだよ。これもまた、一つのエンターテイメント!載せられたからには、その波に乗るしかない。利用されれば利用するのだ。改めて、気合を入れて舞台に臨んでほしい。いいね」
「はあい」
「はい……」
座長には「よろしく!」と背を叩かれたが、公演終了後、腕を組んで俺を睨む根子さんに、しっかりと怒られた。
その夜、文子は施設長と今後の話をした。そして、施設のガキたちにもお腹の子どものことを話した。居間に集まったガキたちは、文子の不安とは裏腹にワア!と声を上げて喜んだ。充瑠は文子の腹に頬を寄せて抱きついた。
「僕、にいにになるの?てぃいちゃんはねえね?」
「私、ねえね!フフフ」
充瑠に返事をしたてぃあらも一緒に腹に頬をつけてギュッと抱きしめた。2人の温度が腹を包むと、文子は佐野さんの言葉を思い出した。
「一つ、気づいて。……あなたは、一人じゃないのよ」
文子は2人の頭を撫でながら、ボロボロ泣いた。
「充瑠ぅ、てぃああ……。ううっ、ううう……」
ガキたちの様子を、英とみこは少し遠くから見つめていた。みこは、父親が介護の女の腹を優しく撫でていた姿を思い出した。その表情の柔らかさや温かさが、今ではずっと遠くのものになっている。
「私も、喜んだらよかったのかな……」
「……赤ちゃんのこと、嬉しかった?」
「わかんない」
「俺は、全く嬉しくなかったよ」
「それでもいいのかな」
「いいに決まってる」
みこは英の袖を掴み、俯いた顔を拭っていた。
「にに。私はね、寂しかったの……」
****
優里子はガキたちを寝かしつけ、1階に降りてきたところで、施設に帰り、食堂で夕飯を済ませてきた俺と会った。
「唯我、おかえり。舞台、お疲れ様」
「ただいま」
「夕飯は?」
「今食べてきたところ。居間って誰かいる?」
「いないと思う。皆お部屋に戻ってるから」
「わかった」
「どうしたの?」
「根子さんに、次のライブのバックダンスの振り付け入ったDVDもらったから見たくて。部屋じゃ動けねえし」
「ああ、舞台で忙しいから事務所で練習も難しいのか」
「そういうこと」
「頑張ってね」
優里子の微笑みは、いつもと違うように思えた。職員室の方に向かおうとする優里子の腕を取り、足を止めさせた。振り返った優里子は「何?」と薄く笑った。やっぱり、いつもと違う。俺は、文子のことがあってから何度も泣くのを我慢する優里子の姿を思い出した。
「……大丈夫?優里子」
「何が?大丈夫よ。大丈夫……」
そう言いながら、優里子の目には涙が浮かんだ。微笑みは少しずつ崩れ、苦しそうな顔をした。俯くと体が震え、「う……」と潰した声がした。俺は、また泣くのを我慢するんじゃないかと思った。優里子の腕を引き、居間に引き込んだ。
「な、何?唯我っ」
「大丈夫じゃねえだろ」
「ううん。大丈夫。大丈夫だからっ……」
「何だよ。こういう時ばっかり素直じゃないんだから」
「何よ、それ。私、嘘ついてないもん」
「なら、そんな顔してんな」
「そんな顔って何よ。ブサイクって言いたいわけ?最近、唯我イジワルだわ。少し身長が私より大きくなったからって、気持ちまで大きくなってるんじゃない?」
「それはそうかもしれない」
「生意気!」
「何でもいいよ。だけど……」
優里子は潤んだ目で俺を睨んでいる。生意気でも何でもどうでもいい。俺は、優里子の辛そうな顔なんて見たくない。優里子に向かって両手を広げた。
「何よ」
「腕でも手でも、胸でも背中でも、何でも貸してやる。だから我慢してないで、泣けよ」
「……」
「ほら」
優里子の手を取り、俺の胸に当てた。優里子はムッとした顔をすると、俺の手を振りほどき、その勢いのまま胸を軽く叩いた。一度、二度、三度目で、優里子の手は俺のTシャツをギュッと掴むと、額を寄せた。
「だから、生意気って言ってんの……」
床には涙が落ち、タンと音がした。鼻をすする音がして、頭を撫でると、優里子の体がだんだんと火照ってきているのがわかった。
「……最初から、結構キツかった。文ちゃんの苦しさも、辛さも、その半分でも私が代わりに背負ってあげられればいいのにって……。私が何を言っても、きれいごとでしかないの。文ちゃんのこと、なぐさめながら泣くのを我慢することで必死で。大丈夫って言ってる私が泣いちゃ、意味ないのにっ……」
まるで呟くような小さい声が、床を跳ねて聞こえてくるようだった。撫でていた頭をしっかり胸に引き寄せると、優里子の両手が背に回った。腕には力が入り、首には優里子の髪が落ちてくる。優里子が悲しんでいるのに、俺は優里子に抱きしめられていることが少し嬉しい。
「私って、施設の子からしたら、恵まれて恵まれて、苦労一つない。たまに思うの。そんな私が、施設の子たちのために何か役に立ってる?力になれてる?誰かを支えるとか、味方でいるとか、言うのは簡単だけど、本当にそれでいられてるのかわかんない。自信ない……」
自信がなくなる気持ちはよくわかる。言うのは簡単で、その通り行動できているのかわからなくなる気持ちもわかる。俺はギュッと優里子の体を強く抱き寄せた。
「そんなの、誰だってそうだろ。だけど、言われるだけで安心するんだよ。ほんの少しの力で、体も気持ちも全部、支えられる瞬間があるんだ。文子だって、優里子がそばにいることで、力をもらえた瞬間がたくさんあったと思う。自信なんてなくてもいい。ただ、そばにいてくれるだけでいいんだ」
「文ちゃん、不安だと思うの。一人で子どもを産んで、子育てするって、想像以上にキツイと思うの。気持ちばっかりわかるの。なのに、私は何もできない……」
「いいって」
「私がキツくて、泣いていいわけないのに、泣いてしまう」
「いいんだって」
「ごめん。ごめんね……。ごめんなさい」
「お前こそ、気づけ。お前には、俺がいる。俺が全部許してやる。全部一緒に背負ってやる。……一緒にいてやる」
優里子は我慢してきた分だけ泣いた。
****
文子のお腹は、ゆっくり大きくなった。それに比例するように、ひどいつわりの状態も治まって、少しずつ体を動かせるようになった。梅雨も明け、夏の日差しが肌を焼きつけるように暑くなった頃、文子はある場所に定期的に行くようになった。
「やっほー」
握ればクリームパンのようにふっくらしている手が開き、蝶々の羽のようにひらひらと動いた。金髪頭を軽くかき、はあとため息をした。
「……また来たのかよ。不良娘」
「そろそろ名前覚えろよ、高橋」
「呼び捨てやめて。年上だし、施設のOBだよ。俺」
「関係ないもんね」
「ったく。んで?今日は何の話しに来たんだよ。文子」
「ふふふ。あのね」
高橋はペンを持つ手で頬杖をつき、しばし気を緩めた。文子はニコニコ笑いながら、日常の些細なことを声を弾ませて話した。
(第88話「一人じゃない」おわり)
→<番外編>①文子、②高橋、③それから…… 同時公開中!
次回更新:7月29日(水)21:00
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