第87話 男と女の関係

 ジェットスターのバックダンスチームの採用面接に落ちた日、根子さんは俺に新しい舞台の仕事をくれた。それは数年ごとに必ず公演される人気舞台作品の一つで、有名俳優たちに囲まれる大きな舞台だった。


舞台『ディハイドの夢』

 舞台は、身分による差別が強く根付く中世ヨーロッパ。街の領主カーテル家の嫡男ディハイドは、身分の差別について疑問を持ち、どんな貧しい人にも親切を忘れない好青年だった。ある時、貴族から暴力を受けていた子どもをかばい、怪我をした下民ターシャと出会う。ターシャとの出会いをきっかけに、ディハイドは身分格差の問題に真剣に向き合うようになる。自分に何ができるのかを考え、行動する日々の中、ディハイドとターシャは惹かれ合いながら、身分の差など関係なく、誰しもが共に生きることのできる社会を築くいていこうとする物語。


 登場人物であるディハイドとターシャには、演じた役者は今後活躍するというジンクスがある。俺はそのディハイドの弟アルフォード役で、貴族である自分に誇りを持ち、身分違いの恋に燃える兄ディハイドを軽蔑しているという嫌な奴役である。

「君が小山内唯我君ね。どうぞよろしく!」

「よろしくお願いします」

 顔合わせと読み合わせ初日、俺はディハイド役の綾瀬じんさんと最初に握手をした。筋トレが趣味だと聞いていたが、確かに肩幅も大きく、特に胸の膨らみには男らしいたくましさが見えた。次にターシャ役の小野江まどかさん。そして、下民の婦人アンナ役の佐野あみさん。その息子役であり、あみさん自身の息子である佐野正臣まさおみ君、5歳。その他の役者、監督と挨拶を交わした。

「それでは、これより数か月ではございますが、皆さん、素晴らしい舞台にできるよう頑張りましょう。よろしくお願いします」

「「お願いします」」

「では、さっそく読み合わせを始めましょう」


                 ****


 その頃、優里子は産婦人科の診察室にいた。ベッドに横になる文子は、お腹にエコーを当てられていた。2人はドキドキしながらエコー写真を見つめた。検診を終えた2人は施設に戻り、文子は自室へ、優里子は職員室の施設長に報告した。

「妊娠、2か月半。赤ちゃんは胎盤からしっかり栄養を受けている状態だって」

「そうかい……」

「中絶を考えるのであれば、早めの決断が必要よ。週期でいえば、もうすぐ10週だわ。13週を過ぎての中絶は、遅くなるほど母体への負担も大きいと……」

「文子ちゃんは、何か言ってる?」

「まだ、本人の中で整理できてないんだと思う。私も聞きにくいよ……」

「優里子、気持ちはわかるよ。だけど、誰よりも優里子が聞いた方が、文子ちゃんも答えやすいと思うんだ。急かしたくはないけれど……」

「うん……。もっと文ちゃんとお話してみる。本人の気持ちが一番だし、話していくうちに、気持ちの整理もつくかもしれない」

「ごめんね。よろしく頼むよ」

「はい」

 優里子は職員室を出ると、ふうと息を吐いた。文ちゃんをしっかり支えよう。同じ女の子だもの。私が一番の理解者で味方でいてあげなくちゃ!優里子は両手をギュッと握り、「よし!」と気合を入れた。

 その頃、文子は部屋のベッドで仰向けになっていた。目を閉じると、彼氏との時間を思い出した。


                ****


 出会いは1月。吐く息がタバコの煙のように真っ白な頃だ。高校の帰り道、友人と一緒に歩いていると、そこに声をかけてきた男がいた。身長が高く、細身で小顔。ニコッと笑うと、まるでモデルのようだった。耳元でピアスが光るのが色っぽく、整った顔を引き立たせた。

「朋美じゃん。久しぶり」

「あ、ケージだ。久しぶり。元気だった?」

「元気だよ。朋美も元気そうだね。そちらは?」

「ああ、友達の文子」

「文子ね。俺、五十嵐圭司。よろしくね」

 五十嵐は文子の手をキュッと握ると、ハハッと笑った。

「文子、柔らかくて可愛い」

 そんなことを言われたのは初めてだった。胸はドキッと音を立てたが、文子は男を睨んだ。

「それ、誰にでも言うやつだろ?」

「アハハッ!文子ははっきり言うなあ。そう思うの?」

 困った顔で笑う姿も魅力的だった。だからこそ、文子は余計に気を張った。だが、それは言ってしまえば、出会った時から文子は男を意識していたのだ。それ以降、街で見かけると声をかけられ、友人の朋美を返して会う機会も増えた。文子は男を注意深く見て、距離を取りながら話したつもりだった。

「文子は気が利くんだね。優しいね。可愛い。可愛い」

 まるで小さな子どもに言うように、男は単純な言葉を繰り返した。次第に、その笑顔にも、声にも、簡単に触れてくる手にも、惹かれていった。

 2月、その日が冬の間で一番寒かった日、文子は男の部屋にいた。キスをするのも、生肌を撫でられるのも、首筋を落ちる生ぬるい吐息の感覚も、熱も、痛みも、全てが初めてだった。布団の中には、2人だけの温もりと、愛しさが満ちていた。文子にとって、これほど幸せを感じられた瞬間は今までなかった。体と共に、心はどんどん男のものになっていく。自分ではなくなっていく。そこに得られる満足感は、何にも代えがたく思えた。

 しかし、男の周りには見えるものがあった。部屋の色彩の可愛らしさ、食器のセンス、コップの数、歯ブラシの数、化粧水やコンパクト、口紅。部屋の中には、点々と女の影が落ちていた。それでも、文子は自分に優しい男に惹かれてならない。その気持ちがあるだけで、とても幸せを感じられたのだった。

 男といる時間が何よりも優先されるようになり、学校をサボることにも慣れてしまった。男の仲間とつるんで公園にいると、仲間たちはタバコに火をつけた。文子は内心、砂場で遊んでいる親子がいることが気になっていた。躊躇があった。だけど、注意することはできなかった。

「文子も吸ってみる?俺もね、最初はクソまずくて絶対ハマれないって思ってたんだけど、今じゃあすっかり相棒なんだ。どう?」

 その5センチメートルほどの白い棒を受け取り、火をつけられると、文子はスッと軽く吸い込んだ。しかし、空気のようには喉を通らない。ゲホゲホとむせていると、アハハと笑われた。

「可愛い、文子」

 優しい微笑みと、頭を撫でる手の温度が、文子の胸の内の罪悪感を緩和した。いつの間にか、砂場の親子はいなくなっていた。タバコはゆっくり灰になって短くなっていく。それは、まるで男との心の距離のようだった。

「君たち、こんな明るい時間から何してんの?」

 金髪の警察官がやって来たのは、その時だった。


                ****


 文子は体を起こしスマホを手に取ると、耳に当てた。

「もしもし、私だけど」

『どうした?』

「あのね、今日産婦人科に行ったの」

『え?』

「……ケージの子、妊娠した」

『そっか……』

 耳元の声は、しばらく聞こえなかった。文子も何と言っていいかわからなかった。膝の上で握る手には、力が入っていた。

『今後の事、ちゃんと考えよう。また連絡するよ』

「……うん。わかった」

『じゃあ』

「じゃあ……」

 電話はそこで切れた。文子は肩の力を抜き、そのままベッドに倒れた。文子は安心した。ケージは優しい。これからのこと、ちゃんと考えてくれるって。

 その時、ドアからノックの音が聞こえた。ドアの先には、優里子がいた。

「文ちゃん。ココア作ったんだけど、一緒にどう?」

「優里姉……。飲みたい。入って」

「お邪魔します」

 体を起こし、ローテーブルの上にココアが並んだ。優里子から「どうぞ」と渡された温かいマグカップを持つと、ゆっくり口をつけた。

「おいしい……」

 その様子を見て、優里子は少し安心した。


                ****


 舞台稽古を終え、共演者に挨拶をして回った。荷物を持ち、帰ろうと通路の角を曲がると、小さな男の子とぶつかった。佐野あみさんの息子の正臣君は、俺にぶつかったはずみで倒れてしまった。

「ごめんなさい。大丈夫?」

 小さな背に手をやると、まるでスイッチでも押してしまったようにブワッと涙が溢れた。

「もう、正臣!通路は走らないってあれほどって……。唯我君?」

「佐野さん、お疲れ様です」

 俺はグズグズと泣く正臣君を抱き上げてあやしていた。それを見て佐野さんは驚いた。

「こら、正臣!ご迷惑でしょ。降りなさい」

 正臣君は、鼻の頭を真っ赤にして涙を浮かべた目で佐野さんを睨むと、「いやっ!」と俺の首に抱きついて顔を伏せた。

「もうっ。ごめんなさいね、唯我君。……それにしても、慣れてるわねえ。お家に小さい子でもいるの?」

「まあ、たくさん」

「あら、そうなの」

 正臣君は俺から離れず、俺は正臣君を抱いたまま、最寄り駅までの道を歩いた。

「ワガママな息子で本当にごめんなさいね」

「いいえ、これくらい」

「うちはパパがいないから、そうやって抱きかかえてもらうことも、なかなかないのよ。私ももう力がなくて抱き上げられないし……。正臣ったら、顔は伏せちゃってるけど、今、とっても楽しいと思ってるわ。きっと」

 佐野さんの言う通り、正臣君は顔を伏せているのに腕はがっちり俺の首を掴んで離さない。「もう」と呆れたようにため息をつく佐野さんを見ると、頭の中に、文子の「どうしよう」という声が浮かんだ。

「佐野さん……」

「なあに?」

「子育てって難しいですか?」

「まあ、苦労はたくさんあるわね。辛いことも全部、私一人で抱え込んじゃった時は息をするのも辛かったな。だけど、支えてくれる人は案外近くにたくさんいて、何より、この子が笑ってくれたら、苦労なんて一瞬で消えちゃうんだから不思議よね」

 そう言って、佐野さんは正臣君の背を優しく撫でた。駅に到着すると、正臣君はムスッとした顔をして佐野さんと手を繋いでいた。

「ありがとう、唯我君。おやすみなさい。ほら、正臣も挨拶して」

「バイバイ」

 わかりやすく名残惜しそうにして手をフリフリと動かすのが可愛いらしかった。俺は正臣君の頭を撫で、「失礼します」と挨拶すると改札へ入った。

 多分、親としての子育てと、俺のように時々ガキたちの面倒を見るのとでは、似ているようで全く違うものなのだろう。親子は難しい。例えば、泰一のような親子、英やみこのような親子、優里子と施設長みたいな親子、鳳のような親子。いろいろな形の親子があるものだと、以前よりもずっと感じるようになった。

 文子が妊娠したとして、相手の男と結婚するとかしないとか、あいつが子どもをどうしたいとか……。今、文子は何を考えているだろう。文子とお腹の子は、どんな親子になれるのだろう。


                 ****


 次の日、文子はもう一度彼氏に電話をした。

『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』

 スマホの画面には、昨日は繋がったはずの電話番号が表示されている。ドクンという嫌な音がした。文子は黙って玄関を出て行った。

「文ちゃん、体調はどう?……あれ?文ちゃん?」

 優里子が文子の部屋を訪ねた時には、文子の姿はなかった。文子が向かったのは、彼氏の部屋だった。

 サビだらけの階段を上り、部屋のインターホンを押す。中からピンポンと音が聞こえ、足音が近づいてくる。ドアが開くと、出てきたのは見知らぬ女の人だった。

「どちら様?」

「……あの、ここって五十嵐君のお部屋じゃあ」

「いいえ。私の部屋ですけど……」

 しかし、中の様子はよく知る部屋だった。奥の窓にかかる花柄の黄色いカーテン、角しか見えないローテーブル、ドアのすぐ手前にある台所のコップやお皿。文子には、何がどこにあるかまで知る、紛れもなく馴染みのある部屋だった。

 見知らぬ女の人のはだけた服や乱れた髪、口ぶりや態度からは、「早く帰れ」という意思が伝わってくる。多分、ケージは奥にいる。息を殺して、ひっそり身を隠してる。文子は全て理解した。

「ごめんなさい。もう来ません。失礼します」

 文子は足早にその場を離れた。ギシギシという階段を降り、薄暗い路地を抜けると、仲間と一緒にタバコを吸っていた公園に到着した。その公園が、現実よりずっと遠くにあるように見える。心臓の鼓動がゆっくり早くなっていくのを感じた。呼吸は浅くなり、お腹が鉛のように重たくなる。苦しさのあまりその場にしゃがみ込み、お腹を押さえた。

「おい、大丈夫か?不良娘」

 目の前で自転車が止まった。顔を上げると、そこに金髪の警察官がいた。

「顔色悪いな。どこか痛いの?腹?」

 暑くもないのに、額には汗がにじんでいた。呼吸は浅く、早くなる。苦しいと伝えたくても、舌が回らない。文子の意識はそこで途絶えた。

 目を覚ますと、文子は病院のベッドにいた。隣には優里子がいた。

「文ちゃん」

「優里姉……。私、倒れたんだ」

「うん。高橋君がすぐに見つけてくれて、救急車を呼んでくれたの。今日は一日入院しましょう。お腹の赤ちゃんのこともあるし」

「赤ちゃん、大丈夫かな」

「うん。眠ってる間に診てもらったけどね、大丈夫そうよ」

「そっか……」

 優里子が文子の手をキュッと握ると、文子はポロポロ泣き出した。

「優里姉、聞いてくれる?どうしたらいいか、わからないの」

「うん。聞くよ。大丈夫。私は文ちゃんの味方だよ。大丈夫よ」

 文子は声を上げて泣いた。優里子が頭を撫で、肩をポンポンと叩いても、しばらくの間、文子の涙は止まらなかった。

 病院から帰ってきた優里子が施設の玄関前にさしかかったところで、俺が学校から帰ってきた。玄関先で会った優里子は、少し元気がないようだった。

「唯我、おかえり」

「ただいま。優里子、何かあった?」

「え?いや……」

「落ち込んでる」

「……文ちゃんがね、倒れて入院したの。明日には戻ってこれるけど」

「文子が入院?……そうなんだ」

 俺が文子のことで知っているのは、文子が妊娠したかもしれない、というところまでだ。そのことが関わっているのかもしれない。しかし、それを唐突に聞いていいのかはわからなかった。

 俺たちが玄関先で会っている間、文子の病室を訪ねる人がいた。仕事を終えたラフな私服の金髪高橋だった。

「あ、金髪警官……」

「どうも、こんばんは。お見舞いに来たよ。調子はどう?」

「落ち着いた。平気。っていうか、お見舞いなら手ぶらで来んなよな」

「面倒くさがりが足を運ぶのに、どれだけ体力と気力を使うか知っておけ。だいぶ顔色良くなったな。良かった。お前、あそこで何してたの?」

「彼氏に会いに行ってた……」

「彼氏?もしかして、タバコで一緒に捕まってた奴?」

「まあね」

「ふうん。彼氏、ねえ」

「あんた、彼女いんの?」

「そういう面倒くさいものはつくる気ないの」

「寂しい奴。でもまあ、そういう選択肢もアリだよね」

「……何それ。別れたの?」

「多分……」

「多分?」

「だってもう、きっと会ってくれない。連絡もできないし……。本当、最悪」

 高橋は、文子が無意識に撫でている腹が気になった。その手つきは、まるで小さい子どもの頭でも撫でているようだった。


                ****


 退院後、文子は自室で休むことが多くなった。体は想像以上に日々変化し、その変化に文子自身が耐え切れず、動くのも、食べるのも一苦労していた。職員室では毎日会議が行われ、俺や英は何かがあったのだと飲み込めるが、理解力の少ないガキたちは、毎日落ち着かない様子で過ごしていた。

 夜、俺と英は自室を出て、小学生以下のガキたちの寝室にいた。ゆっくりと眠りにつき始めたみことてぃあら、充瑠とないとの寝顔を見ながら過ごしていた。

「唯我、文子って何かあったの?ずっと寝込んでるっぽいじゃん。俺、文子のこと、トイレに行く時しか見ないんだけど」

「俺もそんなもんだよ」

「何か……、最近の様子、あの女に似てる」

「あの女?」

「介護の女。あいつも途中消えてさ、久々に来たと思ったら顔色悪いし、トイレ頻繁に行き過ぎだし。そうしたら、ガキができたとか言うんだよ。あの時は最悪だった。マジで」

「そうだったんだ……」

「文子、妊娠してんじゃね?そう考えたら、この状況も納得できるかも」

「ふうん……」

 勘のいい奴。俺は何も答えられず、眠るみこの頭を撫でた。

「俺思うんだ」

「何を」

「介護の女の気の緩みもヤバいと思ったけど、クソ親父の身勝手もひどかったと思う。大人は皆、身勝手だ」

 英の身の上、俺の身の上、俺たちの周りで眠るガキたちそれぞれの身の上を考えれば、英の言うことにも納得してしまう。結局、大人の身勝手に、子どもは何も干渉できないまま、振り回される。だけど、そんな身勝手な大人ばかりではないことを知っている。鳳の家族みたいな、貧乏でも温かく明るい家もあるのだ。

「そう思えるなら、そんな大人にならなきゃいい」

「そりゃそうだね」

 その時、寝室の扉がゆっくり開いた。顔を出したのは優里子だった。

「あ、2人ともここにいたのね。どうりで部屋にいないわけだ。もしかして、子どもたちの面倒見ててくれてたの?ありがとう」

「職務怠慢だぞ、優里子」

「厳しいことを言うのね、英君。ごめんごめん」

 優里子は寝室を忍び足で歩き、俺の横で眠るてぃあらの顔、ないとの顔を覗き込むと、その頭を撫でた。英には、優里子が俺に近づいたように見えた。

「ああ、気持ち悪っ!俺、部屋戻る。じゃあね、お2人さん。どうぞラブラブしてろよな」

 優里子は肩を上げてビクッと反応すると、顔を赤くして英に振り返った。

「ちょっと、英君。何その言い方っ」

 英は「ふん!」と寝室を出て行った。優里子は困った顔をして「もうっ」と言う。そういえば、2月の合コンの帰り道、酔っぱらった優里子が、英に余計なことを言われたと嫌そうに呟いていたっけ。そして、それを呟いていたことを優里子は忘れている。俺は少しだけイジワルしたくなった。

「英と何かあった?」

「いいえ。何も」

「何か言われたとか」

「言われてない」

「そうだな。例えば、俺と付き合ってるとか」

「そんなんじゃないもんっ!」

「ふうん。何言われたんだか」

「だからっ!何も言われてなんてっ」

 俺は唇の前で人差し指を立てて見せた。優里子はムギュッと唇を噛んで、周りのガキたちが起きてないか見回した。クスクス笑う俺を見ると、顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。周りでスヤスヤと眠るガキたちの様子を見ると、優里子は気持ちが落ち着いた。

「唯我。皆のこと、ありがとう。お仕事で疲れてるだろうに」

「それはそうだけど、俺よりも、お前の方がずっと疲れた顔してるよ」

 腕を伸ばし、優里子の頬に触れた。

「大丈夫?」

 そう言うと、優里子の目には涙が浮かんだ。泣き出すかと思ったが、優里子は目をギュッとつむり、俯いた頭をでうなずいた。

「私は大丈夫。こんな時こそ、いつも通りでいなくちゃね」

 涙をにじませ、優里子は笑った。頬に寄せた手を握り、膝の上に置いた。

「今はまだ、はっきりとしたことを言えないの。唯我も英君も、他の子にも、過ごしにくい雰囲気になってるかもしれない。気を使わせてるよね。ごめんね」

「いいや」

「しばらくは、見守っていてほしい。ちゃんと言えるようになったら、言うから」

「わかった。無理すんなよ」

「うん。ありがとう、唯我」

 無理して笑っているのがよくわかる。だけど、優里子が「見守ってほしい」と言うなら、俺はその通りにしようと思った。

 その時、偶然部屋を出ていた文子は、廊下で俺たちの会話を聞いていた。


                 ****


 雨が街中を濡らしていた日、交番にいた高橋の前に、文子は立っていた。

「え、タバコん時に一緒に捕まった奴の住所?言えるわけないよ」

「だよね……」

「退院して何日も経ってるじゃん。まだ彼氏と連絡とれてないの?」

 文子は俯いて黙ってしまった。高橋は一緒に交番にいた先輩警官と顔を合わせた。

「悪いけど、俺たちからは何も言って上げられない。個人情報だからね」

「うん。いいんだ。ダメもとで聞いただけだから……」

 文子は苦笑いを浮かべた。その手が無意識に腹をさすっているのが、高橋には気になっ仕方がなかった。その時、交番の向かえの歩道を3人の若者が歩いているのが見えた。

「あ……」

「え」

 文子は高橋の視線の先に振り返った。そこには、文子の彼氏がいた。両腕には見知らぬ女が2人くっつき、頬をすり寄せ、3人で1つの傘に入っていた。高橋は、目に涙を浮かべた文子の横顔を見ると、病室での会話を思い出した。

「もう、きっと会ってくれない。連絡もできないし……。本当、最悪」

 高橋の手が文子の顔面を覆い、文子の視界は真っ暗になった。

「見ない方がいいんじゃない?ここで、じっとしていなさい」

「……もう、見えちゃったよ」

 文子は高橋の手をどけると、雨の降る外へ飛び出した。向かいに渡る青い信号機が赤くなる。女2人を連れて歩く男は、文子に気づかず、そのまま道をまっすぐ進んでいく。文子は並行するように歩いた。

「ケージ。ケージ!!」

 文子の叫ぶ声は、雨の中走る車の音に消えていた。それでも名前を叫び続ける文子の様子を、高橋は見つめていた。気になったのは、文子の叫ぶ名前だった。「ケージ」って、あいつのことか?高橋は交番で補導した男の身分証明書を見た時のことをよく覚えていた。

 文子の体はずぶ濡れ、徐々に体温が奪われていった。文子の視線は男にしかいかず、足元も、目の前の信号さえ見えていなかった。文子が渡ろうとした信号は赤を示すが止まらない。高橋は文子に向かって駆け出した。

「ケージ!」

 赤信号の歩道へ足を踏み入れた時、横からトラックが向かってきた。文子は迫るトラックに気づくと立ち止まり、そこから体は動かなくなった。後ろから伸びてきた手が文子の肩を引き戻すと、文子は後ろに倒れ、トラックは目の前を通り過ぎた。

「あっぶねえ。交番の前で人がひかれるとか、シャレになんねえから。おい、不良娘。聞いてんの?」

 高橋が文子の顔を覗き込んだ時、雨に濡れた顔に、雨とは別のものが流れているのがわかった。目は男を追い、唇は寒さに震えている。腹は、まるで何かを守るように手に覆われている。

「お前、まさかその腹……」

「……っ、ケージ!」

 鼻をすする音。痛そうに、辛そうに泣く横顔。高橋には見覚えがあった。文子の横顔は、幼かった頃、男に捨てられた母親が、男の名前を呼ぶ横顔と重なった。

 高橋は帽子を外し、文子の頭に乗せた。信号を渡り、向いの歩道を歩く男に近づいた。男は女と楽しそうに笑っていた。高橋は強引に女との間に入り込み、男の肩を組んだ。

「うわっ!高橋っ!」

「この間、会ったよね。可愛い彼女だね。俺とは違ってモテるんだねえ」

「い、いやあ、そんなこと」

「五十嵐圭司、21歳。……いいや、本名は小暮吉男、28歳。住所不定の無職」

 その瞬間、男は言葉を失い、女は驚き声を上げた。

「は!?」

「ケージ。あなた、大学生で読モじゃないの!?無職って」

「な、何冗談言ってるんですか!高橋……先輩」

「先輩とかやめろよな。俺より年上じゃん。……君を補導した後、事務作業する段階でいろいろ調べちゃったんだよね。実家は隣町の歯医者さん。だけど、たくさんの女の子のお家を行き来しまくるヒモ男。女の子にモテるからって、寄生しまくって暮らしてるんでしょう?俺より年上なのに、お盛んだよね。いい暮らしだよね。君らも気をつけた方がいいよ?こういう奴はさ、いざ女の子を妊娠させたら簡単にポイしちゃうからね」

 高橋は男の頭を腕で固定すると、そのこめかみに人差し指でつくった銃口を向けた。「ヒッ」と肩を上げ、高橋の顔をチラッと見た。高橋の微笑みには、狂気的な恐ろしさを感じた。

「一緒においで、小暮君。そうじゃないと、殺しちゃうぞ」



(第87話「男と女の関係」おわり)

 次回更新:7月25日(土)21:00

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