第86話 文子の様子

 歩道は案外平らではない。どんなにゆっくり自転車をこいでも、ちょっとした段差で自転車は上下に揺れ、チャリンとベルが鳴る。空は快晴。日差しは柔らかく風は穏やかに吹く。銀色に光る自転車に乗り、見回りと言う名のさぼり兼息抜きドライブを楽しんでいたのは、この街では有名な警察官だ。何が有名かといえば、警察官にあるまじき、金髪だからである。その人は、特に不良とかヤンキーとか呼ばれる人たちの中で、名前を知らない人はいないほど知れ渡っている人だった。

 金髪警官は、街角の小さな公園の前を通り過ぎた。そこには、数人の若者が輪をなして集まり、タバコをふかしていた。公園に遊びに来ていた親子は、その煙たさに咳き込みながら帰っていく。喫煙していい場所でもないし、人に迷惑をかけていることは一目瞭然だった。金髪警官は自転車を降り、ため息を吐くと、若者たちの輪に近づいた。

「君たち、こんな明るい時間から何してんの?」

「っげ!!!」

「高橋先輩!?」

「人さまに迷惑かけてますよ。わかるよねえ、それくらい。バカじゃないんだから」

 その時、金髪警官はある女子に気づいた。地元の高校の制服を着る女子は、肉づきのいい体型で、握ればクリームパンのようにふっくらしている手に火のついたタバコを持っていた。


                 ****


 事務所のレッスン室には、顔見知りのJrたちの中でも、特にダンスが上手い奴らが集まっていた。ガヤガヤと話しているうちに、レッスン室の扉が開かれた。入ってきたのはジェットスターのメンバーたちだ。Jrたちは即座に立ち上がり、「こんにちはあっ!」と大きな声で挨拶した。

「諸君、今日ここに君たちを集めたのは他でもない。俺たちジェットスターの新しいバックダンスチームを作るべく集まってもらったのだ!」

 リーダーの伊勢谷君は軍隊の司令官のように、両手を背で組み、胸を張って言った。周りのJrたちは顔を見合った。新しいダンスチームを作る。つまり、ここで新たなJrグループが誕生することを差していた。

 次に前に出てきたのは、ジェットスターのメンバー敦美さんだ。敦美さんには、小学生の頃、クリスマスライブの終わった夜に、メッセージ付きの写真をもらったことがある。

「これまで、俺らのバックダンスはD2-Jrに専任という状態でついてもらっていた。喜ばしいことに、彼らはD-Squareと名前を改め、6月にメジャーデビューを果し、俺らとは別のグループとしての活動が始まった。そこで、俺らのステージには欠かせないバックダンスチームを、新たに結成することが決まったんだ。ここに集まってもらったJrの皆、どうか力を貸してほしい」

 Jrたちは伊勢谷君、敦美さんの言葉を聞き喜んだ。グループに属していないJrにとって、新たなグループを結成して活動することは憧れであり、メジャーデビューをするための一つの通過点だ。俺は、尊敬するジェットスターのバックダンスに選ばれ、かつ新たなグループの一員になれることはとても光栄なことだと思った。しかし、心から喜べなかった。

「今ここで、このJrメンバーとグループを結成できると思える者は前へ!」

 伊勢谷君の号令で、俺以外のJrたちは一斉にザッと前に出た。出られなかったのは、俺だけだった。伊勢谷君は俺を睨んだ。

「唯我、お前はどうする?」

「俺は……、もう少し考えます」

 次の瞬間、俺は荷物と一緒にレッスン室の外にいた。ドアはバンと閉められ、二度と開かなかった。伊勢谷君の号令、敦美さんの挨拶。あれは全て、採用面接だったのだと気づいた。取っ手に手をかけるが、開ける勇気はなかった。開けてしまえば、後には戻れないことは明白だった。

 俺は事務室の根子さんの元へ行った。根子さんは「え!?」と驚いた。

「どうしてすぐにお返事しなかったんですか?」

「俺、樹杏を待ちたいんです」

「唯我君、それは」

「Y&Jとして、また活動できるか確証がないことは理解しています。だけど、あいつのことを待っててやれるのは、俺だけだっていうことは確かだと思うんです」

 俺にとって、樹杏と一緒に活動した時間はあまりに濃くて、何とも比べられないほど楽しかった。もう一度、あの時間を樹杏と一緒に過ごせるなら過ごしたいと思っている。

「……唯我君、厳しいことを言うけれど、今日、Jrとして活動できる機会を一つ失ったんですよ。自覚はありますか?」

「はい……」

「もしかしたら、あなたには二度と、ジェットスターからお声がけされないかもしれない。それでもいいの?」

 ジェットスターと踊ることは、俺の憧れだ。そのチャンスを、俺は不透明な未来と天秤にかけている。我ながらバカだと思った。だが、その不透明な未来の方が、俺にとっては魅力的だった。

「はい」

 根子さんは呆れ、ため息を吐くように「わかりました」と返事した。

「いいですか?今後はより個人活動が多くなることを覚悟してください」

「はい」

「では、直近のお仕事のお話を……」

 ジェットスターのバックダンサーの採用面接に落ちたこと、根子さんからのお説教、自分のワガママを押し通した罪悪感で、俺はかなり気持ちが沈んだ。施設の玄関を開けると、ちょうど部活から帰って来た英と会った。英は中学の学ランを着て、肩には大きな弓矢を担いでいた。

「あ、唯我だ。顔色悪。それでもアイドル?」

 人をバカにするように言う英の頭に、軽くげんこつを入れてやった。「いでっ」という声を聞くと、少しスッキリした。

「英も今帰り?」

「そう。見てよこれ。土曜日の弓道部の大会に出るんだ。デビュー戦だよ」

「弓ってこんなに大きいんだ。知らなかった。弓道って、面白い?」

「楽。だって、立って構えてればいいんだもん」

「楽って……。右手は平気なのか?」

「平気だよ。っていうか、平気なのを選んだ」

 英は右手を上げて見せた。英の右手首は、事故の後遺症で動きにくくなり、何度か手術をすることで、その可動域を広げてきた。手首の内側には、メスを入れたくぼみが薄っすらと見えている。

「唯我も何か部活やればよかったのに」

「そんな暇ねえよ。レッスンが部活みたいなもんだし」

「そりゃそっか。あ、今度またギター教えてよ。ちょうど弾きたいのあってさ」

「また今度な」

 「ちぇっ」と言う英と一緒に職員室に顔を出し、「ただいま」を言った。職員室にはクレアおばさんしかいなかった。時計は6時を過ぎている。優里子は今日は日勤だったから、もう退勤時間か。チラッと優里子の席を見ると、まだバッグが置かれたままだった。

「優里子ってまだいます?」

「ええ。応接室にね、お客さんが来てるのよ。唯我君も行ってくれば?」

「お客さん?」

 その時、職員室の奥にある会議室から、施設長と目を腫らした文子が出てきた。施設長は俺と英に「おかえり」とにこやかに言って施設長席に戻り、文子は俺たちの横を素通りした。階段を上がっていく文子の後ろ姿を追うように、俺と英は職員室を後にした。

「文子、何かあったのかな」

「さあ……」

「にしても、唯我も好きだねえ。さっさと優里子に告れよな」

「るせえな」

「応接室のお客さんって誰だろう。男だったりして」

 英はニヤリとした。俺は応接室までついてこようとする英をくるりと回転させ、足早に応接室に向かった。応接室の前までやって来ると、俺は耳をすませた。

「ねえ、見てよ」

「はあ?……どれ」

 それは男の声だった。ドア窓を覗き込むと、ドアに背を向け座る優里子の肩を持ち、金髪の男がキスしようと屈んでいた。俺は何も考えず、応接室のドアを開き優里子を後ろから抱き寄せた。優里子は「うわっ!!」と驚いた。

「あ?誰?」

「ちょっと……、ゆ、唯我!いきなり何よっ」

 俺は金髪の男をジッと睨んだ。金髪の男は白いTシャツにジーパンという、とてもラフな恰好だった。睨む俺を見つめ、首を傾げた。

「唯我……。聞き覚えのあるような……」

「そうだよ!覚えてない?ほら、駿君が可愛がってた男の子いたじゃない!」

「駿が可愛がってた男の子……。え!?まさか、チビの唯我!?」

「そうそう!」

「噓でしょ。今いくつ?すっげえイケメンじゃん」

「高校1年生」

「うっわ。マジか……。すげえ時の流れを感じるわ。そりゃ年もとるわけだよ」

「すっごいわかる!」

「っていうか、驚いた。俺、てっきり……、優里子の彼氏が入って来たかと思った」

 俺と優里子は顔を真っ赤にすると、口を揃えて「はっ!?」と叫んだ。

「いやだって、目の前でそんな当たり前に抱きしめ合われたらそう思うでしょ」

 金髪の男が見ていたのは、俺ががっちり優里子を抱きしめ、優里子が俺の腕を両手で引き寄せるように掴んでいる光景だった。男に言われた瞬間、俺は両手を上げて優里子から離れた。

「ご、ごめんっ」

「……ううん、別に。気にしてないよ」

 「気にしてない」と聞いた瞬間、俺の胸にグサッと矢が刺さった。そんなことを気にしない優里子は「ところで!」と笑って言った。

「唯我は覚えてる?高橋君のこと!」

「高橋?」

「あんたが小さいころ、高橋君も施設で暮らしてたのよ。駿君が高1、私が高2、高橋君が高3。昔と変わらず、未だに金髪」

「うーん……」

 俺は記憶を遡った。小さい頃の記憶はとても曖昧で、それらしき人影だけが頭の中に浮かんでいた。まだ、自分がジェニーズになるだなんて夢さえ見ていなかった頃、確かに施設には金髪の男がした。しかし、思い出せるのは髪の色と、真っ黒な学ランだけだった。制服姿の年上ではっきり思い出せるのは、駿兄と優里子だけだ。思い出そうとするほど、学ラン金髪の男の顔は浮かばない。本当にこいつだっただろうか。俺には自信がない。

「いや、覚えてるよ。金髪だけ……」

「わあ!覚えてるってよ、高橋君!」

「優里子、驚きすぎだろ」

「だけど、名前まで知らなかった」

「えええっ!?なんて失礼なっ!」

「だって、そんなに話したことなかったし……」

 優里子と俺が話していると、金髪の高橋はクスクスと笑った。

「覚えてなくてもしょうがねえよ。俺、面倒くさがって、ガキたちとはほとんど接点持たなかったから。覚えてるといえば、女の子くらいか。確か……佳代だっけ?」

「ああ、佳代ちゃん!佳代ちゃんね、今年の4月から保育園で働いてるのよ」

「あの子がもう社会人?マジかよ」

 応接室を後にした金髪の高橋を見送るため、優里子と俺は玄関に立った。

「じゃ、さようなら」

「また、いつでも来てね」

「面倒くさくなかったらね」

 高橋は優里子と手を振り合い、暗い街に帰っていった。俺は終始イライラしていた。

「高橋君、相変わらずなんだから」

「あいつとは、どういう関係?」

「施設で知り合ったお友達よ」

「それだけ?」

「何疑ってるのよ」

「だって……」

「だって?」

 そっぽを向いて、呟いた。

「キスしようとしてた……」

「キス?アハハッ!まさか!違うわよ。目がゴロゴロして痛かったから、ゴミ入ってないか見てもらっただけよ!そうか、わかった!だから突然あんなっ……」

 優里子は俺に抱き寄せられたことを思い出すと、顔を真っ赤にした。俺の手がギュッと掴んだ肩には、俺の手形が記憶されている。肩を触ると、掴んだ手の熱まで思い出された。

「俺……」

「何?」

「優里子が誰かとキスするの、嫌だ」

 俺はまだ、優里子の頬にしかキスできていない。次に優里子と唇を重ねるのは俺だと、勝手に決めている。

「……何、そのワガママ。安心してよ。彼氏とだって人前で、ましてや唯我の前でなんてキスしませんよ」

「そういうことじゃねえし」

「じゃあどういうことよ」

 その質問には答えられなかった。「何でもない」とはぐらかし、その場を後にした。英には「早く告れ」と言われたが、今、思いのたけを伝えても、「弟」の認識しかしていないド天然優里子には少しも伝わらないことはわかりきっている。俺にはまず、「弟」ではなくなる必要がある。その道は険しく遠い。



                ****


 梅雨入りした初日は、朝から雨が降っていた。俺は施設長の車で駅まで送ってもらった。

「文子がタバコ吸ってた?」

「うん。それで警察に呼ばれて、行ったら高橋君に会ったんだよ。その夕方に、久しぶりに施設にやって来たんだ。唯我、文子ちゃんって最近何か変わった様子とかあった?」

「いや。全く気にしてなかった」

「僕も、何か変化があったようには思わなかったんだよ。今日、文子ちゃんの高校に呼ばれてるから、そこで学校の様子も聞いてみるんだけど、何か気づいたことがあったら、教えてほしい」

「わかった。でも、俺あいつと施設でもほとんど会わなくなったから、そんなに協力できねえよ」

「それでもいいよ。些細なことでもいいから、気づいたら教えてね」

 駅のロータリーで降り、電車に乗ろうと改札へ向かった。その時、真正面から制服姿の文子がやって来た。文子は大学生くらいの年齢の男と腕を組んでいた。

「どうしたの?文子」

「ううん。何でもない。行こう」

 文子は、まるで俺には気づかなかったかのような様子で、俺の真横を過ぎていった。俺も文子を無視して改札を通った。平日11時半の電車は混雑とは無縁で快適だった。高校生なんて一人もいない。普通の高校生であれば授業の時間だからだ。文子は何をしていたんだろうか。っていうか、隣の男は何だ。腕組んでた?親しげだった?まさか、彼氏!?文子に!?あり得ない!!

 俺は信じられない現実を目の当たりにしたショックから、しばらくボーっとして過ごした。電車の座席に座り、リュックサックを抱えたまま、想像の宇宙空間に一人浮かんでいた。


                ****


 窓にはパチパチと雨粒が打ちつけている。曇った空からは灰色の光が差し、狭い部屋を照らした。薄い布団から裸体を起こすと、埃がチカチカ光って舞い、隣で眠る男のスーという寝息が聞こえた。テーブルの上に置いていた眼鏡を取ってつけ、髪の毛に手櫛を通しながらスマホを見た。14時23分の表示を見ると、文子は静かに着替え始めた。

 制服姿になり、狭苦しい玄関でローファーを履き、午前中に濡らしてしまった傘を手に、静かに部屋を出て行った。古めかしいアパートの廊下は物で散乱し、手すりは手を置けないほどサビている。一歩一歩降りる階段はいちいちギシギシと音を立てた。

 高校までの道の途中、文子はドラックストアに立ち寄った。店を出ですぐに小さいビニール袋の中身を確認すると、急ぎ足で雨の道を歩いて行った。

 学校に到着すると、クラスの帰りの会に参加し、放課後にやって来た施設長と担任の先生と三者面談を行った。雨の音がパチパチ、ザーザーと音を立て、教室の中に灰色の影が落ちているのを、一つ一つ、目でなぞった。

 施設長と施設に帰ると、文子はしばらく自室にこもった。ベッドに横になる時、ドラックストアで買ったビニール袋が文子の横にある。視界に入っても、手に取ることができなかった。しかし、心を決め、ビニール袋を手に取ると、文子はトイレに向かった。

 俺が施設に帰ってきたのは、夜の10時を過ぎた頃だった。玄関で靴を脱ぎ、上履きに履き替えた時だった。静かな廊下に、誰かが泣く声と優里子の声がした。

「一体、どうしたの?文ちゃん」

「優里姉、どうしよう。どうしよう……」

 俺は玄関で息を殺した。何となく、今2人のいる廊下に出てってはいけない気がした。

 涙を拭う文子は、手にビニール袋と、細長い物を持っていた。

「もう、3か月生理がきてないの……」

「文ちゃん。これって、もしかして……」

 優里子は、文子の震える手を取り、持っていた細長い箱からスッとある物を取り出した。それは妊娠検査薬だった。終了の下に線、そして、診断結果の下にも線が現れている。

「どうしよう、優里姉。私、赤ちゃんできたかもしれない……」



(第86話「文子の様子」おわり)

 次回更新:7月22日(水)21:00


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