第84話 鳳颯斗VS小山内唯我

「たのもう!たのもう!」

 少年の声がTOMIIダンススクールの受付ホールに響いた。当時の受付嬢は、その少年の対応に心底困っていた。

「こんにちは、鳳君。また来たのね……」

「はいっ!ここでダンスさせて下さい!」

 春とはいえ、風はまだ冷たいというのに、少年は半袖半ズボンだった。首元がヨレヨレに伸びているTシャツの袖も、半ズボンの膝にも、リアルなダメージが入って糸くずがピョンと飛び跳ねている。活発なのか、両足両腕には必ず絆創膏が貼られているが、毎週水曜日の午後4時、来るたび来るたび絆創膏の位置が変わっている。

「鳳君、先週も言いましたけど、スクールに入るためには、保護者の方ともお話がしたいのね。今日はお父さんかお母さん、一緒に来ていないの?」

「家のことがあって来てません!」

 話の通じないクソガキが!笑顔の下に隠した本心は火が噴きそうだった。その時、受付後ろの扉から富岡さんが出てきた。

「あ、社長」

「元気ピンピンの声がしたけど、もしかして例の子?」

「はい……」

 富岡さんは困り果てた受付嬢の背をポンポンと叩くと、カウンターに両肘を置き、その下に見える少年を見た。

「君、ダンスやりたいんだって?」

「はい!」

「どうして?」

「ポリカのCMに出てる奴みたいになりたいっ!」

「ポリカのCM?イツキのこと?あれは並大抵の努力じゃ難しいぜ?」

「違う!ガキの方!」

「ガキ?……え、ポリカのCMのガキって?」

「社長、知らないんですか?ジェニーズJrの子が踊ってるんですよ」

「やっべ、知らね。そうか、そうか!じゃあ、ジェニーズのガキみたいに踊りたいってことな!」

「うん!俺、将来ジェニーズになりたいです!だからダンスさせて下さい!」

「アッハッハッハ!マジで元気!ここでダンスやりてえっていうなら、金の話をしようや。保護者連れて来いって」

「ダメです!」

「ダメ?」

「俺ん家、貧乏なんで!親に金出してほしくないです!」

「んん?出してほしくない?出してくれないんじゃなくて?」

「なんで、出世払いでお願いします!!」

 そう言った少年こそが、鳳颯斗だった。

 仕事のためにタクシーに乗っていた富岡さんは、思わずプッと笑ってしまった。あの後、颯斗が毎週のようにスクールで叫んでいたことを知らなかった颯斗の両親が、正座して頭下げたっけ。

 富岡さんは流れる景色に目を向けた。日差しは日々強くなり、都会のビルを反射する。道路沿いに植えられ、葉を茂らせ始めていたのはアジサイだった。雨降る6月は、もうすぐそこだ。

 ピロンと音を立てたのはスマホだった。画面を見ると、富岡さんはニヤリと笑った。

『トミーさん!俺は今日、ポリカのガキをぶっ倒す!』

「それはどうかな。颯斗」


               ****


 俺は朝から憂鬱だった。なのに、その憂鬱さが増すようなことが起こっていた。高校の正門をくぐり、まっすぐ昇降口に向かっていると、知らない人たちから声をかけられた。

「今日のダンスバトル、頑張ってね!」

「私、唯我君応援してるの!見に行くから!」

「鳳をぶっ倒せ!全米1位を奪取してこいよな!」

 手を振られ、肩を叩かれ、頭を撫でられる。ジェニーズスイッチを入れていない俺は、知らない人から話しかけられた時、どう接すればいいのかわからない。だからスイッチをONにした。ここはJr祭の会場だ。人気投票は俺がいただく!こんな気持ちにならないとやっていられなかった。

「あ、おはよう。唯我君。元気かい?」

「おはようございまっ……」

 ジェニーズスイッチの入った俺は、アイドルスマイルを意識して声の方へ振り向いた。そこにいたのは琴次郎だった。

「やだ、カッコイイ。照れるなあ」

 やっちまったああああ!俺は真っ赤にした顔を両手で覆い、俯いた。脳天からは湯気が上がっている。琴次郎がアハハと冗談を言って笑ってくれたことが、何より救いだった。琴次郎、いい奴。とはいえ、これが全く冗談ではなかったことを、俺は知らない。そこに楊貴、正彦がやって来た。楊貴は俺の肩を組んできた。

「いろんな人に話しかけられてんなあ、唯我!ウケるわ」

「どうしてこんなに今日のダンスバトルのことが知れ渡ってるんだ。しかも、俺っていうこともバレてるし」

「そりゃ広報部が宣伝してるもの!小山内君、知らないの?」

「な、何を!?」

 すると、楊貴が「ホレ」とスマホの画面を見せてきた。そこには、『月曜日お昼休み!鳳颯斗、ダンスバトル10連勝なるか!?』という見出しで記事が載っていた。

「何だこれ!」

「唯我君、この学校じゃあ個人情報なんてものは意味がないんだよ。こうやって、面白そうなネタが上がると、すぐに広報部から目をつけられるからね」

「広報部?」

「僕も、先週の学内ラジオでこの話題が流れてるの聞いたよ!あ、学内ラジオってのは、アナウンス部がやってるんだけどね」

「広報部とアナウンス部に目ぇつけられると、先生にも生徒にも、リアルタイムで情報が拡散される。だから校内でこの話題を知らないってのは、逆にモグリだぜ?」

「マジか……」

 憂鬱は重みとなり、俺は俯いた顔を上げられなかった。

「元気ねえのな、唯我!元気があれば何でもできるっ!3、2、1、気合、っだああっ!」

「小山内君。鳳君に勝ったら、うちの芋羊羹をプレゼントするよ!頑張ってね!」

「ヨーキもポチャ彦も何もなぐさめになってないよ。ねえ唯我君。今度、暇をつくって憂さ晴らしに行こうよ。例えば……、スポッチャンとか!ね?」

「琴次郎……。いい奴」

「いやいや、唯我。単純に琴次がお前とデートしたいだけだから」

「ダマされたら、いくところまでいっちゃうよ?琴次は」

「あ、俺それちょっと見てみたいかも」

「僕も思った」

「うるさいよ、2人とも」

「3人とも、サンキュ……」

 俺は、はあと息を吐くと背筋を伸ばした。もう知られているのであれば仕方ない。それに、やることは決まっている。

「唯我君、大丈夫?」

「ああ、大丈夫。俺は、俺のすべきことをするだけだ」

 3人とクラスの違う俺は、「じゃあな」と途中で別れた。俺の背にフリフリと手を振る琴次郎の頬はポワッと染まっていた。

「カッコイイなあ、もう」

「琴次、ほどほどにね」


                 ****


 運命の昼休み、2号棟3階多目的室には多くの生徒、先生が集まり、やはり溢れた人たちが廊下にたむろしていた。俺と鳳は多目的室の中央に立ち、それぞれストレッチや準備運動をしていた。人のざわざわした音が煩わしく、俺はワイヤレスイヤホンをつけた。

 俺たちが準備をする間、ピンクのキラキラした大きな蝶ネクタイをつけたサングラスの男が、マイクを持って生徒たちの前をうろうろと歩きながら話していた。

『さあ、今日も始まりました!鳳颯斗のダンスバトル!司会進行は前回同様、アナウンス部池田が担当いたします!本日は、全米1位の男の10連勝がかかった特別な試合となります!熱い熱い時間を、一緒に過ごそうぜ!盛り上がって行くぞおお!!』

 サングラスの男が拳を握って手を上げると、ワアッ!と歓声が上がった。床は揺れ、空気は熱を持ち始める。それはまるでライブ会場のようだった。そう思えば、少し楽しくなってくる。

 顔を上げると、鳳が俺を指差して何か言っていた。イヤホンを外すと、「聞いてなかったのかよ!」という鳳のツッコミが聞こえた。

「先輩、このバトルが終わったら、今度はあんたが俺のことを先輩って呼べよな」

「何で?」

「先にメジャーデビューした先輩ってこと。どうせ俺が勝つんだから、決定事項だけどな」

 俺は顔を反らしてため息をついた。

「ちなみに、万が一億が一、先輩が勝ったら俺に何してほしい?何でもしてやるよ」

 何だその上から目線は。俺は「あいつをぶっ倒せ」と言った富岡さんとの会話を思い出した。

「俺に勝てますか?全米1位で金の取れる男に」

「ダンスバトルのジャッジを決めるのが、専門家連中だったら億パーセント勝てねえよ。だけど、ジャッジを決めるのはその場にいる生徒たち、つまり素人オーディエンスだろ?だったら話は別だ」

「それって……」

 富岡さんはフッと笑った。

「アイドルとして勝ってこいよ、唯我」

「アイドルとして……」

「そんで、勝ったらあいつに聞いてやってくれ」

「何をですか?」

「あいつが何のために踊るのか。何でダンサーじゃなくて、ジェニーズを選んだのかをさ」

 多目的室に響く歓声と拍手が耳に戻ってくる。目の前に立つ巨人はニヤリと笑い、俺のことをかなり高い場所から見下してくる。富岡さんには「聞いてくれ」と言われたけれど、俺個人は鳳に対して興味のかけらもなかった。

「金輪際、俺に話しかけんな。近づくな。関わってくるんじゃねえ」

「ええ?悲しいなあ。でもいっか。オーケー!どうせ、その願いは叶わねえよ。残念だったな、先輩」

 外したイヤホンと、ポケットに入れていたスマホを取りだした。観客の中にいた琴次郎の元へ行き、それらを手渡した。

「琴次郎、手間かけさせて悪いな」

「いいよ。富岡さんに見せるビデオを撮ればいいんだよね。任せておくれよ」

「よろしく頼むな」

「頑張れ、唯我君!」

「頑張れよ、唯我!」

「小山内君!」

「お前ら……。サンキュ。行ってくる」

 琴次郎、楊貴、正彦の3人に手を振られ、俺は中央に戻った。

『お待たせいたしました!いよいよダンスバトルの始まりです!!ルールは簡単!2人が曲の1パートを踊り、どちらのダンスがより素晴らしかったかを、オーディエンスの皆様にジャッジしていただきます!多数決により、多かった方の勝ちとなりますっ!!さあ、まずは先攻後攻決めジャンケンだああっ!!ジャンケンポン!!』

 鳳の出したパーの大きな手が、「よっしゃ!」という声と共に俺の出したグーの拳をギュッと包んだ。負けた!たかがジャンケンだが、ものすごく悔しかった。何より、先攻を取りたかった!くそっ!!

『では参りましょう!先攻は鳳颯斗!曲はアトランティスの”アオハル”!!』

 鳳は瞳を閉じ、じっと構えた。リズミカルな曲が流れ始めた瞬間、大きく開いた目で俺を見た。口角は上がり、首は振れ、大きな体が躍動する。俺は驚いた。その振り付けも、流れる曲にも、懐かしさを感じてならなかった。

「ポリカのCMの曲……」


                ****


 それは小学4年生の3月のことだ。忘れもしないCM撮影の日は、駿兄が施設を卒業する日と重なり、現在も世界で活躍するダンサー、イツキとの共演を果した初めてのメディアの仕事だった。そのCM曲とダンスが、目の前で全米1位を掲げていた。

 鳳のダンスを目の当たりにしながら、頭の中には当時の気持ちと映像が蘇った。別れが寂しくて、悲しかった。なのにその気持ちを体の奥に押し込んで、涙をこらえて、必死に世界的なダンサーに食らいついた。何時間も同じステップを踏み、何度も手を振り、己を消し去り、初めて一人のジェニーズJrになろうとしたのだった。

 目の前で何も知らずに踊る鳳は、今何を思っているのだろうか。初めて鳳に興味がわいた。同時に、胸でワクワクとした気持ちが、音を立て動き始めた。

 1パートのサビが終わった瞬間、鳳は動きを止めた。周りからは歓声と拍手が起こる。俺はそのアウェイの空気を消すように、後ろに振り返り、両手を広げてダン!と足を踏んだ。一瞬の静けさの中、俺はオーディエンスに視線を向けた。体育座りする生徒たちの前をなぞるようにゆっくり歩きながら、手を振る人には手を振り返し、ワクワクした顔をした人には笑って答えた。気持ちをつくり、イメージを膨らませ、スマホで動画を撮る琴次郎を見つけると、指を差して睨み、思いっきり笑った。ここからは、俺のステージだ。全員、俺だけ見てろ!

 間奏が終わった瞬間、鳳に振り返りステップを踏んだ。鳳に向けた視線を体の回る方へ移し、移し、手を伸ばし体を反らし、縮めて伸ばし、ターンアンドターン。サビの手前でピタッと全て止めた。首を傾け目を閉じると、やっぱりCM当時の気持ちが蘇る。俺自身は寂しくて、悲しくて仕方がない。なのに、ジェニーズの自分は踊ることが楽しくて、ワクワクしていた。

 静まる多目的室に、誰かがゴクリと唾を飲み込む音がした。ゆっくりまぶたを開き、天井に伸ばした手の先を見て重たくターンした。スマホの画面を見ていた琴次郎は「あ」と呟いた。

「なあ琴次、今の……」

「まるで琴次の舞踊みたいだったね」

 琴次郎の隣で楊貴と正彦が言った。琴次郎はその通りだと思った。

「唯我君……」

 でも、あそこにいたのは僕だけじゃない。猿太夫も、歌子姐さんだっていた。今、一瞬一瞬の中に、唯我君の今まで吸収した全てがあるんだ。

「どんだけカッコいいんだよ、唯我君」

 動き出した俺は笑顔を絶やさなかった。そうであろうと意識した。視線はオーディエンスへ、司会者へ、琴次郎たちへ、そして鳳に向けた。俺は今、誰よりこの場を楽しんでいる。気持ちがワクワクドキドキと揺れ動く。手拍子歓声に身を委ね、皆も楽しめ踊れと伝える。鳳にだって伝われと思っている。

 なあ鳳、俺は一人で踊ったことなんて一度もねえよ。それが、ジェニーズのアイドルなんだ。お前がなるべきは、それだろう!

 ステップを止め、上げた右手をゆっくり下ろし、鳳の胸を指差すと曲は終了した。肩は大きく上下し、酸素が肺へ入るのを感じた。手を下ろした瞬間、多目的室に歓声と拍手が沸き起こった。

『ここからが勝負だあ!2つのダンスを見終えたオーディエンスたち!挙手で投票をお願いします!』

 一層盛り上がる多目的室の中央で、俺は両手を腰につけ、呼吸を整えた。鳳はそんな俺を見つめていた。見下すような視線は変わらなかったが、その手には強く拳を握っていた。挙手の数を計数器カウンターで数える係が2人、多目的室中をウロウロとすると、サングラスの男がマイクを手に取った。

『さあ、結果が出そろいました!運命の時です!!まず!鳳颯斗、48票!そして、小山内唯我っ……』

 その場の誰もが固唾を飲み、男の声に耳を傾けた。

『48票!同点!なんと!10連勝をかけたダンスバトルは、引き分けだあ!!』

 辺りからは会話や雑音がザワザワと立った。俺はショックだった。同点、引き分けた……。勝てなかった!俯いていると、鳳の叫ぶ声がした。

「ふざけんなっ!!俺が、こいつと同点!?ありえない。ありえないっ!!」

 鳳はガラにもなく焦ったような顔をして、オーディエンスたちの周りをウロウロと歩き回った。

「数え間違いだろっ!もう一回やれよ!!」

『とは言われても……』

「っていうか、投票が偶数ってのがおかしいだろ!こんなの違う!やり直せ!初めから全部!!」

『投票に関しては、当日集まった人数であると承知してるでしょう』

 ハアハアと息を切らし、鳳は俺を見た。まるで、何か大切なものを無くしたガキのように目を潤ませ、鼻の頭を赤くしている。

「なあ、あんたもそう思うよな。もう一回、もう一回やろう!もう一回!!」

「もう一回なんて、やらねえよ」

「ああ?!んだと」

 こいつはガキか。こんな奴が、先にデビューすんのかよ。

「二度、同じステージはねえんだよ。だから、一回一回を本気で挑むんだろうが。そんなこともわかんねえのかよ、てめえは!」

「んだと!?」

 鳳の胸ぐらを掴み、顔面を近づけ叫んだ。多目的室は静まり返り、俺たちはそこから微動だにせず互いを睨み続けた。その時、予鈴が鳴った。

『さ、さあさあさあ!お時間がやって参りました!本日はお集まりいただきありがとうございました!これにて、本日の鳳颯斗ダンスバトルは終了となります!司会進行は私……』

 サングラスの男の声が響く中、生徒たちは各々動き始めた。睨み合う俺と鳳の間に琴次郎が割って入り、鳳の後ろには楊貴、俺の後ろには正彦が来て、肩や腕を掴んで引いた。

「二人とも、午後の授業が始まるよ。今日は解散しよう」

 鳳は楊貴の手を振り払うと、わざとらしく足音をドタドタと立てながら、多目的室を出ていった。俺はふうっと息を吐き、落ち着こうとした。

「小山内君、大丈夫?」

「正彦、俺は大丈夫。琴次郎も楊貴もサンキュ……」

 お礼を言う表情は、とても苦しそうに見えた。結んだ唇の奥で、無意識に歯を食いしばり、手には震えるほど拳を握っている。3人は俺をとても心配した。

「唯我君、今日はすっごいカッコよかった」

「琴次郎……」

「だな。ま、俺ほどではないけどな!」

「ヨーキが張り合えるものなんて少しもなかったよ?」

「んだとポチャ彦!」

「ヨーキは置いといて!僕、小山内君があんなふうに笑うの初めて見たよ!やっぱり小山内君は、プロのアイドルなんだね」

 「プロのアイドル」という言葉が耳に残った。確かに俺は、ジェニーズのアイドルとして立ったつもりだ。だけど、プロって何だ。鳳のようにデビューをしたら、プロなのだろうか……。

 次の時間は英語ⅠAだった。教室に移動をしたが、そこにいるはずの鳳はいなかった。その頃、鳳は屋上に一人いた。春の風が短くなった髪を撫でると、鳳は俯いた。悔しさで満ちる体は火がついたように熱く、ダンスバトルが終わっても、冷たい風に当たっても、なお冷めなかった。

 放課後、俺はダンスバトルの報告のために、富岡さんのダンススクールに足を運んだ。

「来たな、唯我。ダンスバトルはどうだった?」

「……負けました」

「ええ!?」

「いや。正確には、引き分けたんです。でも、勝てなきゃ負けだから……」

 俯く俺を見て、富岡さんは背をパンパンと叩いた。

「悔しいな」

「はい」

「動画見せろや。それを楽しみにしてたんだから」

 俺は琴次郎に撮ってもらった動画を富岡さんに見てもらった。動画を見終えた富岡さんは「唯我」と言った。

「唯我のダンス、これは金が取れるぜ」

 その一言で、俺はかなり救われた。


                ****


 施設に帰り、玄関に入ったところで優里子に会った。

「あ、唯我。おかえり」

「ただいま」

 俺は靴を脱ぎ、下駄箱に入れた。上履きにを手に持つとため息がこぼれた。その様子が気になり、優里子は俺に近寄った。

「どうしたの?何かあった?」

 優里子は首を傾げ、俺を見つめた。気持ちが沈み、鳳にダンスバトルで負けた悔しさが胸の中をめぐり続けている。そのことを、俺は優里子には言いたくなかった。しかし、「何でもない」と言うと、きっと優里子はまた心配した顔をするのだろう。

 ふと、酔っぱらった優里子が寝言のように言った言葉を思い出した。

「甘えられたいし、甘えたい」

 俺は額を優里子の肩に預け、手を握った。そうすると少しホッとして、しかしまたため息が落ちた。優里子はドキッとして、体に力が入った。肩にもたれる頭は案外重くて、背筋をピンと張った。

「言えるようになったら言う。今はこのまま、充電させて」

「ええ?こんなことで充電されるの?……ふふ。甘えん坊だなあ」

 優里子の手が俺の背をポンポンと軽く叩いてあやした。その手が”妄想の弟”を撫でているのだとわかっても、今はただ、その手の温もりを感じていたかった。



(第84話「鳳颯斗VS小山内唯我」おわり)

 次回更新:7月15日(水)21:00

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