第81話 ベージュのセーター

 午前中で終わった学校から帰り、施設の職員室でA4サイズの茶封筒を受け取った。それは青鶯高校からの自己推薦入試の結果だった。施設長、クレアおばさん、佳代に見守られる中、俺は封を切った。中から出てきた書類には、「合格通知」と書かれていた。

「「やったあああああああっ!!」」

「よくやったね!唯我!!」

「おめでとう、唯我君!」

「唯君!合格おめでとう!」

「ありがとうございます!」

 職員室の中は大人たちの大声と拍手で溢れた。その日は夜勤のため午後に出勤した優里子は、車を降りると胸がバクバクと脈打っていた。唯我はどうなった?受かった?落ちた?はやる気持ちを抑えて玄関に入ると、正面の壁に寄りかかり、スマホをいじる俺がいた。優里子はすぐに駆け寄った。

「唯我っ!結果は!?」

 俺はスマホを尻のポケットにしまい、優里子に近づいた。優里子は俺の両手を握り、じっと俺を見つめた。

「受かった!」

「やったあああっ!唯我、おめでとう!!」

 優里子は喜びのあまり飛びつくように俺に抱きついた。俺はよろけそうになるのを必死にこらえ、優里子の背に手を回した。

「優里子、サンキュ!ありがとう!」

「ううん!100パーセント、唯我の実力だよ!おめでとう!」

 優里子は地面に足を下ろし離れると、満面の笑みを浮かべた。その顔が見たかった!外の冷気にさらされ赤くなっていた優里子の頬を両手で包んだ。

「優里子、通帳つくりにいくぞ。そのままデートに行こうぜ!いつ行く?すぐ行こう!」

「ちょっと、もう少し落ち着いてからでもいいじゃない」

「嫌だ!どんだけ我慢してたと思ってるんだよ!こちとら行きたくて行きたくてたまらなかったのに!!」

「そ、そんなに!?唯我、どんだけ嬉しいのよっ」

 ハッとした。俺としたことが、本音駄々洩れだった!突然恥ずかしくなり、優里子の頬から手を離した。たどたどしく「い、いや……。その……」と焦っていると、優里子がクスクスと笑った。手が伸びると、俺の頭を撫でた。

「後でスケジュール確認する。もう少し待ってなさい」

「お、おう」

「よしっ」

 俺は「弟」扱いされた気分になり、ムッとした。しかし、優里子は上機嫌で鼻歌を歌いながら職員室へ向かった。俺は玄関に立ったまま、撫でられた頭をさすった。優里子の手の跡が熱をもってくっきりと残っているのが恥ずかしくて、嬉しかった。


                ****


 優里子と俺の久しぶりのデートは、青鶯高校の一般入試が終わった次の日に行った。俺は銀行の緑色の通帳に「小山内唯我」という名前が明記されているのを見ると、ワクワクした。

「今度事務所に行った時に、根子さんに口座番号を伝えてね。それから覚えておいて。この通帳の印鑑はこれよこれ!絶対無くさないでね!」

「わかってる。一生大事にする」

「あはは!一生は大げさね」

 優里子から受け取った印鑑には、小さい丸枠の中にしっかりと「小山内」とあった。どこの血筋のものだかわからない俺の苗字の印鑑はかなり希少で、百円均一ショップで見かけることは滅多にない。今日のために、優里子が印鑑屋さんで見繕ってくれたのだった。

 銀行を出ると、優里子は施設に電話をかけた。

「はい、終了しました。お言葉に甘えて、今日は午後休をいただきます。唯我はそのままお出かけしてから帰ります。はい、よろしくお願いします」

 スマホをカバンにしまい、優里子は俺に顔を上げた。

「さて、今日はどこに行くんでしょうか?」

「スポッチャン」

 地下鉄にしばらく揺れ、商業施設内にあるスポーツゲームのアミューズメントパークに到着した。俺たちが最初にやったのは、バスケットボールのゲームだった。

「もう!全然入んない!終わっちゃう終わっちゃう!!ッキャー!!」

「うるせえ」

 優里子が運動音痴なことはよく知っていたが、いちいち声を上げるとは思わなかった。俺は可笑しくてたまらず、ずっと腹がけいれんしてならなかった。優里子はゲームが終わるごとに息を切らし、喉が乾くのか飲み物が欠かせなかった。

「唯我の方が入りやすかったのよ!」

「んなわけねえだろ」

「次、卓球やろう!」

「声上げんなよ」

 そう言っても出てしまうものは出てしまうらしかった。キャーキャーわめきながら、優里子はラケットを空振りし続けた。優里子は何をしても下手くそだったが、何でもかんでもやりたがった。

「ローラースケートやろう!」

「あ、テニスコート空いてるじゃん!」

「バレーやってないよ!」

「ボーリング忘れてたっ」

 二人できているおかげで、コートに入るとやり続けるしかない。コートを後にするたびに息を切らしているが、優里子は笑顔を絶やさなかった。

「唯我、バッティング上手じゃん!どうしたら当たるのかなあ」

「当たらないことねえから、わかんねえ」

「ちょっとくらい教えてよ」

「じゃあ、まずそのテニスみたいな打ち方やめろ」

「ええ?」

 優里子はバットを構えるが、まるでテニスラケットを振るようにスイングする。軌道がまっすぐ回っていない上に、優里子自身がバットに振り回されている。

「唯我、動画撮ってよ!どんな振り方してんのか見たいわ」

「……なるほど!」

 俺は、その手があった!と自分のスマホを構えた。これで堂々と優里子を写真に収めることができる!

 優里子は「行くよお!」とバットを構えるが、相変わらずテニス打ちを続ける。空振りすると「キャー!」と声を上げ、バットにグルンと体を回されるのが可笑しくて可愛い。俺は動画を回しながら、体よく優里子のことをバシャバシャと隠し撮りした。

「もう一回!」

 すると、奇跡的にボールがバットに当たり、カキーンといい音が響いた。優里子はガキのようにキャッキャッとジャンプして喜んだ。

「あー!!唯我!当たった当たった!!」

「次構えろよ!来るぞ!」

「う、うん!……キャー!!」

「ぶっ!アハハハッ!」

「もう!笑いすぎ!!」

 俺は腹を押さえながら、しかしカメラはしっかり優里子を捉えた。画像データの中は、まるで俺の頭の中のように優里子の笑顔でいっぱいになっていた。見返すと、自動的に口元がフニャリと曲がった。

「カラオケは……、さすがに入れないねえ。時間的にも難しいね」

「俺、カラオケは別に入らなくていい」

「唯我の歌う『ラブソング』、聞きたかったな」

 それは千鶴さんの歌で、俺がよく部屋でギターを弾きながら口ずさんでいる歌だった。

「……下手だから嫌だ」

「ええ!?」

「荷物まとめて出ようぜ。もう結構楽しんだし」

 スポッチャンを出ると、商業施設の中をゆっくり歩いた。通路の横にはファッション系のショップが並び続けていた。

「『ラブソング』って、千鶴さんの実体験かなんかなのかなあ。かなり具体的な物語のある歌詞じゃない。そういうの聞いたことないの?」

 『ラブソング』の歌詞の内容は、「水色の似合う君」との出会いと別れを歌っている。俺は、いつしか持ち帰ってしまった水色のブレスレットと、そこに刻まれていた、千鶴さんの「一番大事な女性ひと」のイニシャルを思い出した。『ラブソング』は千鶴さんの実体験ではないかと内心思っている。だが、余計なことは言うまい。俺は「さあ」と適当に返事した。

「水色の似合う君、ねえ。そんな清楚な素敵な人になりたいもんだわ」

「優里子は水色より、赤の方が似合うよ。ほら、赤いセーター。これとか似合っ」

 そこまで言っておきながら、だんだん照れくさくなった。俺は呟くように「いそう……」と言った。ついつい言ってしまった。出てしまった言葉を戻すことはできず、しかし本当のことなので否定するのはやめた。

 優里子は俺が指差した店頭のマネキンが着ている、襟元にボリュームのあるタートルネックのセーターを見てギョッとした。

「私に?こんな若者色のセーターなんて着れないよ!いくつだと思ってるの?」

「まだ若いじゃん」

「24なんておばさんじゃん!そりゃ、こういうの着たい気持ちはあるけどさあ」

 そう言って優里子はマネキンの横にかかっていた赤いセーターを手に取り、体に当てて見せた。

「どうよ、これ。さすがに若作りしすぎよ」

「いや、そんなことは……」

 いや、むしろ似合ってる!俺は少し頬が熱くなった。

「あ、ベージュのもある。いいなあ。ねえ、どっちがいいかな」

 優里子は同じ形の赤とベージュのセーターを並べて見せた。俺は腕を組み、じっと見つめた。ベージュも捨てがたい。でも、優里子はやっぱり赤が似合う。でも……。俺はかなり真剣に考えた。

 優里子は俺にジーと見られているのが、だんだん恥ずかしくなってきた。恥ずかしさを紛らわすように、優里子はアハハと笑った。

「やっぱり、おばさんにこんな色、痛すぎるよね。ハハハ」

「どっちも似合うよ」

「へ!?」

「でも、ベージュかな」

「さっきは赤が似合うって言ってたのに、どうして?」

「そのピアスに合ってるから」

 赤は優里子にとても似合っている。だが、俺がプレゼントしたピアスを付けてくれるなら、色が重なっていない方が嬉しい。ピアスが目立つ方が嬉しい。

 優里子は耳たぶを触った。顔が熱くて喉が狭くなる。「そう」と言いながら、優里子はベージュのセーターを鏡の前で合わせた。

「着てみれば?」

「うえっ!?でも、唯我のこと待たせちゃう」

「いいよ。ゆっくり選べばいいじゃん」

「……うん」

 優里子が試着室にいる間、俺はスマホをいじりながら待っていた。しばらくすると試着室のカーテンが開き、「唯我」と声をかけられた。カーテンが開かれると、ベージュのセーターを着た優里子が現れた。

「ど、どう?」

 ウエストに付属品のベルトが巻かれているから、思ったより体のラインが浮かんで見える。気持ち長めのセーターの裾がふんわりと腰回りを覆い、そこからスキニージーパンの細い足が伸びている。何より、小顔効果抜群のタートルネックから覗く赤いピアスがキラリと光って綺麗だった。おかげで優里子の大きな瞳がうるうるとして見える。

「やっぱり変かな」

 俺は声が出なかった。頭を振る他ない。俺はニヤける口元を手で隠した。

「う……。似合ってる……」

「ええ?本当?信じられないんだけど」

「可愛いって!」

 言うにも見るにも心臓がバクバクと動いた。上げてしまった声は店内に響き、優里子や他の客、店員からの視線が俺に集中した。脳天からジュワーと湯気が立ったのがわかった。恥ずかしくて恥ずかしくて、その場にいられず、俯いた顔を手で隠して店を出た。

「俺、向こうで待ってるから」

「わかった。すぐ行く」

 優里子は試着室の中で着替えながら、俺の赤面する様子を思い出していた。唯我ったら、何恥ずかしがってんのかしら。ふふ、可愛いのは唯我じゃん。脱いだベージュのセーターを見つめると、俺の言葉が思い出された。

「そのピアスに合ってるから」

 しばらくすると、優里子が紙袋を持って店から出てきた。

「お待たせ。へへ、買っちゃった」

「っ!!ふ、ふうん……」

 照れくさくて優里子のことを見ていられなかった。俺が似合ってると言った服を選んでくれたことが嬉しかった。しかし、俺の態度は、優里子からするととても素っ気なく見えていた。

「今度、これ着て友達と合コ……」

 そこで優里子は言葉を詰まらせた。

「のっ!飲みに行こうっと!楽しみ」

「ふうん」

 なんだ。俺とのデートに着てきてくれればいいのに。

 優里子はドキドキしていた。焦ったあ。勢いで言っちゃうところだったあ!優里子はチラッと俺を見た。すると、英が言った言葉を思い出した。

「唯我は男だろ。異性じゃん。そういうふうに見てんじゃん」

 思わず頭を振った。ないない!全く意識してないし!っていうか、唯我にその気がないんだし!そこで優里子はニンマリと笑った。そうだ、イタズラしてやろう。クックックと笑うと、優里子は俺と腕を組んだ。

「唯我!」

「っ!!」

「スポッチャン行って、服買って、これから夕飯でしょ?何か、今までのデートよりも、今日はデートって感じしない?」

 優里子は「姉」としてのいらぬ威厳、大人としての微かな余裕を俺に見せつけようとした。俺は突然の腕組みと、その満面の笑顔にノックアウト、思考は停止した。しかし、優里子は無反応の俺にまじまじと見つめられると、徐々に恥ずかしくなった。顔がゆでだこみたいに真っ赤になると、バッと手を離した。

「アハハ!なーんちゃって!ハハハハハ」

 優里子はスタスタと前を歩いて行く。俺はようやく脳のブレーカーをONにして、優里子の後を歩いた。ああいうの、突然やめて欲しい。してほしくないのではなくて、どうしたらいいのかわからなくなるから困る。ただ、「デートって感じ」という言葉が脳内で揺れ続いた。


                ****


 夕飯は駅近くのビルにある居酒屋に入った。乾杯とグラスを鳴らし、一口つけた。

「唯我、なんでこんなに居酒屋さんに慣れてるの?お通しの意味わかる?」

「わかるよ、それくらい」

「誰と来てるの?!」

「……知り合いのおっさんたちだよ」

 俺の頭の中には、富岡さんをはじめ、オカマコーチや歌子さん、琴次郎の顔が浮かんだ。

「まさかお酒飲んでないでしょうね」

「飲んだことねえよ。居酒屋は初めてじゃないけど、個室じゃないところは初めて」

 俺の居酒屋のイメージが個室なのは、確実に芸能人たちと入る居酒屋だからだ。周りには、木のテーブルと椅子が島のように並び、若い客、サラリーマンたちがお酒とつまみを囲み過ごしている。ワハハと笑う声が近いと、俺まで楽しい気分になりそうだ。それはとても新鮮だった。

 優里子は両手で頬杖をつき、周りをキョロキョロと見て微笑む俺を見つめた。

「もう唯我の交友関係がわからなくなっちゃったな。いつからわからなくなっただろう」

「別に言う必要もねえじゃん」

「まあねえ……」

 そりゃそうだと優里子は納得した。お通しでやって来た味噌キャベツを箸でつまみ、口に含むとパリパリと音を立てた。俺が優里子の様子を見ていると、優里子は顔を上げた。

「なあに?」

「……気になる?交友関係」

「……いいえ?」

「なんだ。つまんねえの」

 そう言われると、聞きたくなってしまう。しかし、聞いてしまったら、まるで気にしているようじゃない。優里子はそう思うと、プイッと顔を反らした。

「俺は、気になる」

「え?」

「一応きくけど……。今、気になる奴とかいないよな」

「……まあね?そういう唯我はどうなのよ」

「……まあね」

「どういう意味?あ、中学では告白とかされたの?彼女いたりした?どうなのよ」

「彼女はいない。告白は……」

 思い出が頭の中を巡った。言うのも申し訳なく、また照れくさくなり「言わない」と顔を反らした。

「なんだ。つまんねえの」

「俺の真似したな?」

「ふふふ。わかった?」

「ったく。すぐからかう」

「ごめんごめん」

 優里子はフフッと笑いながら、グラスの中で泡立つお酒に口をつけた。俺はクリスマスの優里子の顔色の悪さを思い出した。

「優里子って、お酒弱いんだよな」

「まあ、強くはないな。周りの友達に合わせて最初はビール、っていう癖はついたけど、2杯目からはカクテルにしちゃうのがいつものパターン」

「俺も早くお酒飲めるようになりたいな」

「あと5年は待たなくちゃ」

「俺、多分優里子よりはお酒強いと思うぜ」

「言ったな?そしたら5年後、証明してもらわなくちゃね」

「臨むところだ」

「5年後かあ。一緒に飲むのが楽しみだなあ」

「それって、5年後一緒に飲むって約束してくれるってこと?」

「もちろんよ」

 お酒にふわっと染まった頬が上がり、ふにゃりと笑った。すると優里子は「ちょっとお手洗いに」と席を立った。俺は自分のグラスを手に取った。黄金色のジンジャーエールがシュワシュワと音を立てる様子がビールに似ているから、居酒屋に来た時は格好つけて頼むのが俺の定番だった。これが5年後、本物のビールに代わって、優里子と一緒に飲むんだ。俺は5年後の約束を、胸の奥にある鍵付きの宝箱にしまった。一人でニヤけていると、近くの席に座っていた女の人2人が席を立ち、俺に近づいてきた。

 5年後か。私、29歳じゃん。怖いなあ……。優里子はトイレの洗面台で手を洗い、正面の鏡を見つめた。何も工夫せず、ただ下ろしている髪の毛、化粧っけのない顔に、女子力の低下を感じた。私、29歳には結婚してるかしら……。思わずハアとため息をついた。

 席に戻ろうと歩いていると、俺が女の人に話しかけられているのを見つけた。

「大学生?学年は?どこ大?」

「私たちA学の2年生なの」

「よかったら私たちと飲まない?」

 唯我が学生にナンパされてる!優里子は物陰に身を潜め、俺の様子を見守った。プププ。唯我、困ってるんじゃない?貴重映像だわ。

「いや、連れと一緒に来てるので……」

「連れって?お友達?男子?」

「だったら友達も一緒にさ」

「いえ。……と」

 優里子は驚き固まった。

「あ、そうなんだ。彼女かあ……」

「そっか。残念だな。こんなイケメンの彼女とか、うらやましい」

 女の人が離れた頃、優里子が戻ってきた。俺は少しムッとした。

「遅かったな」

「うん……」

 もう少し早く帰ってきてくれれば、面倒くさいことにならなかったのに。優里子は黙って席に座った。顔が真っ赤だった。

「お前、どうした?顔真っ赤だけど」

 伸ばした手に、優里子はビクッと反応した。目を大きく開けて、俺をじっと見た。わかりやすく様子がおかしかった。

「もしかして、もう酔っぱらった?」

「うっ……」

「とりあえず、水もらおうぜ」

 俺は店員に向かって手を上げて、「お冷お願いします」と慣れたように言った。優里子と目を合わせると、視線を反らされた。やっぱり様子がおかしい。その時、優里子の腹がグーっと鳴った。余計に真っ赤にした顔に、俺は思わず笑った。

「なんだ。腹減ってるだけかよ。なら何か頼もうぜ。俺、餃子食べたい」

「うん。いいよ」

 優里子は火照った頬に手を添えた。落ち着いてよ、心臓。驚いただけじゃない。ふうっと息を吐くと、「彼女」と言った俺の声が頭の中で響いた。次に、やっぱり英の言葉が蘇った。

「そういうふうに見てんじゃん」

 これは、かなり重症だ……。


                ****


 2月に入ると、寒さは一層増した。公立高校の受験シーズンになると、ほとんどの生徒が学校には来なくなった。そのため、その日も私立高校の受験を決めた生徒が数人だけやって来て、午前中に顔を合わせるとすぐに下校となった。俺は施設で制服を脱ぎ、すぐに事務所に向かった。

「津本さんのドラマですか?」

「はい。津本さん直々の推薦です。4月から始まる医療ドラマで、各話完結のお話のうち、第9回目の出演をお願いしたいのです。撮影は3月中旬です。役柄は、津本さん演じる医師の務める病院に入院してきた議員のわがままお坊ちゃん、といったところです。こちらが台本になります」

「わかりました」

「それから、『青春・熟語』3期の春回の撮影が2月下旬に行われます。それから」

 根子さんは、俺の入試が終わったと同時にスケジュールをびっしりと組んできた。この1年と、それから右足の怪我で休んでいた期間分だけ、3月まで忙しくなりそうだった。それは、とてもありがたいことだった。

 事務所から帰ってくる頃には、外はすっかり真っ暗だった。施設の最寄駅のロータリーには、ライトをつけた車が走り、駅前に並ぶ居酒屋とコンビニの明かりが道を照らしている。俺はロータリーを抜け、自転車置き場に向かう間に、ある車とすれ違っていたことに気づかなかった。それは優里子の車だった。運転しているのは優里子のお母さん、千代子さんだ。助手席の扉が開くと、そこから優里子が出てきた。

「じゃあ、終わったら連絡ちょうだいね」

「わかった。いってきます」

 優里子のまぶたや唇が濡れたようにツヤツヤとしている。千代子さんは、優里子が滅多にはかないミニスカートと黒のタイツに目がいった。相変わらず、あの子は予定が服装に出てわかりやすわねえ。ヒールの低いパンプスをカツンと鳴らして駅に向かう姿を見送ると、車を走らせ去っていった。優里子は改札を抜けホームに向かった。耳には、赤いピアスがキラリと光っていた。

 電車で移動した先で、優里子は創作居酒屋のお店の前で女友達と合流した。上着を手に持つと、友達の綾香さんはビックリした。

「優里子が、女の子の恰好してるっ!!」

「似合う?」

「可愛いよ!どうしたの?」

「お、弟が選んでくれたの」

 優里子が着ていたのは、俺とのデートの時に買ったベージュのタートルネックセーターだった。

「出た、優里子の”妄想の弟”!あんた、まだそれ言うの?」

「妄想じゃないもん!唯我は大事な”弟”なんだから」

「自慢の”弟”な。ハイハイ。ほら、中に入ろう!男性陣がお待ちかねだぞ!今日も頑張るぞ、合コン!」

「オ、オー!」


                 ****


 夕飯を終え、風呂も終え、あとは眠るだけとなった夜の10時。俺は根子さんから受け取った台本を机に広げていた。すると、一緒に置いていたスマホが鳴った。画面には、「優里子」と表示された。

「もしもしっ」

『ああ、もしもし?』

「どうしたんだよ、こんな時間に」

 優里子からの電話に興奮したのもつかの間だった。

『今、駅に帰ってきたところなの。迎えに来て、

「……は?お母さん?」

『んじゃ、待ってるねえ』

 それは俺宛ての電話ではないようだった。電話は切れ、間違い電話であることを伝えそびれた。そもそも電話口の優里子の声がおかしかった。とても浮わついていて、まるでお酒に酔った歌子さんのようだった。しかも俺の声を聞いても気づかなかったようだし……。あいつ、酔ってるな?下には夜勤の施設長がいる。言うべきか?だけど、俺は今日、一日休みだった優里子に会っていない。俺は一つ、思いついてしまった。

 その頃、駅のロータリーにあるベンチで、優里子は一緒に帰ってきた友達の綾香さんの肩に頭を預けて眠っていた。

「優里子、あんた本当にお母さん呼んだんだよね?遅くない?」

「そうかなあ。へへへ」

「信用ならねえなあ。もう、さっさとタクシー捕まえるんだった!」

 その時、ロータリーを走る人が優里子と綾香さんの前にやって来た。上着は前を全開にして、手にはマフラーを持っている。真夏の外で動いた後のようにダラダラと流れる汗をシャツの袖で拭っている。息を切らし、肩は大きく上下に動いていた。

「……優里子?」

 綾香さんは、俺を見て頭の中で叫んだ。イ、イケメン来たー!!いや、でも何で突然登場したイケメンが、優里子を呼んでいるの?!誰!?

 その時、目を覚ました優里子が俺の声に反応した。頭をゆっくり上げて、ボーッと俺を見た。

「あ、唯我?どうしたの?」

「どうしたじゃねえよ。お前が俺に電話かけてきたんだろ」

「んん……。そうだっけ?」

「そうだよ。何でこんなに酔ってるんだよ」

 綾香さんは、俺と優里子の会話から察した。

「あ!もしかして、優里子の”妄想の弟”!?」

「も、妄想……?」

「優里子が昔から自慢してた”弟”がいるの。でも、頑なに写真も何も見せてくれないから、皆して優里子には”妄想の弟”がいるってからかってたの!本当にいた!」

 俺は優里子を可哀想に思った。

「あの、こいつ、どうしてこんなに酔っぱらってるんですか?」

「それが、今日の合コンで」

「合コン!?」

「合コンの途中からどんどんお酒が進んじゃって、こんなことに……」

 手を取ると、コックリコックリとする優里子は顔を上げて、へへっと笑った。ビックリするほど可愛くて、ビックリした。

「最近どうも様子がおかしくて……。12月頃に合コンに誘ってほしいって言うから、クリスマスイブの合コンに誘ったら、今日みたいに飲みだしちゃって」

「クリスマスイブの合コン!?」

「もう全然ダメよ。お酒に強くもないくせに飲んじゃうから、男性陣たちも引いちゃって」

 俺は理解した。それでクリスマスの日、二日酔いになってたのか!

「そういえば、今日の服は”弟”に見繕ってもらったって自慢してたよ?」

「え?」

 俺はまさかと思い、優里子の上着の下を覗き込んだ。見ると、それはベージュのタートルネックセーターで、しかも耳には赤いピアスがあった。

「センスいいね。合コンの男性陣にも、かなりウケよかったし」

「……優里子、引き取ります。ご迷惑おかけしました」

「いいって、別に」

 俺は優里子を強引に立たせると、フラフラと揺れる肩を引き寄せた。

「弟さん、優里子のことよろしく」

「弟じゃありません」

「え、そうなの?」

「小山内唯我といいます。優里子の……、彼氏、狙ってるんで、もうこいつのこと、合コンに誘わないでもらえます?」

「……あ、そうなの……」

「失礼します」

 俺は半分眠りながら歩く優里子を支えながら歩いた。


                ****


 帰り道、優里子が体を大きく揺らしながらゆっくりと歩く姿を見ていた。俺は腹が立っていた。絶対手なんか貸してやらない。

「優里子」

「なあにい?」

「お前、最近合コン行ってるの?」

「そう」

「……俺、前に言ったよな。優里子が誰かと付き合うの嫌だって。俺と一緒にいろよって。しかも、よりにもよって……」

 よりにもよって、俺が選んだベージュのセーターに赤いピアスまでして、合コンに行くとかあり得ない。しかも茶色いチェックのミニスカートに黒のタイツ、ヒールまで履いている。可愛い恰好がこの上なくムカついた。

「こんなことなら、似合うとか言わなきゃよかった」

「だってえ、私、人恋しい奴に見られるんだもの」

「誰に?」

「英君に言われたの。英君には、私が唯我に色目を使ってるように見えるみたいなの。そんなつもりないのにい!」

 色目くらい、少しは使ってくれてもいいのに。同時に英に対してイラッとした。あいつ、余計なこと言いやがって!

「それで、合コン行くようになったっての?ムカつく」

「でも全然ダメ!全然……」

「あ、おいっ」

 優里子はその場にしゃがみ込んだ。気持ち悪いのかと思い、丸まった背に手を置くと、優里子は呟くように言った。

「全然、唯我以上にいいと思える人がいないの」

「……」

「意味わかんない。私、唯我といると、時々ドキドキしちゃうの。だから、英君の言ったことに気づかされた面もあって、無意識に、彼氏ほしさに唯我にドキドキしちゃってるんだってわかったというか……」

「何だ、それ……」

「私はさ、姉でありたいの。唯我にとって、一番頼れる特別な存在でありたいの。唯我に必要とされたいし、デートに行きたいし、舞台に誘ってほしいんだもん!」

 俯く優里子が声を張ると、車も走らなくなった静かな道に響いた。白い息は風に流され、常に冷たい優里子の手先が一層冷えていくのが見てとれた。対して俺は、全身熱くてたまらなかった。吐く息は湯気のように熱があり、一度汗を吸ったシャツの内側には、じわりと汗が浮かんだ。俺は優里子の頭に手を置いた。

「なあ、それってさ、姉じゃないとできないわけ?」

「……」

「か、彼女でもいいじゃん……」

「……」

 無反応の優里子の顔を覗き込み、「優里子?」と声をかけた。すると、優里子は抱えた足の膝に額を乗せたまま目を閉じて眠っていた。こいつ、本当にムカつく!俺は生まれてからずっとしたことがなかったが、初めて優里子をバシバシ叩いた。

「おい、起きろ。起きろっ!!」

「……ん、もう立てないよ」

「いや、立て」

「歩けないよお」

「っざけんな。歩け!」

 優里子は俺の手を取り、ゆっくり立ち上がった。ムスッとした顔は、いつもよりも化粧がされている。俺とのデートではつけてくれないアイシャドーと口紅が、街灯の光を反射させる。上着から伸びるタートルネックと、耳元で光る赤いピアスを見ると、腹が立って仕方なかった。それなのに、優里子が言った「特別な存在でありたい」という率直な言葉には、怒りを和らげる力があった。

「おぶって」

「……嫌だ。自分で歩け」

 振り向いて歩き出そうとした瞬間、優里子が背後から抱きしめてきた。

「おぶって!」

「……ガキかよ」

 優里子が後ろでクスクスと笑っているのがわかった。「唯我」と寝ぼけた声で囁かれると、俺は脳天から湯気を噴き上げた。もう立っていられなかった。しゃがみ込み、優里子の体がポタンと落ちてきたのを受け止めると立ち上がった。思っていたより、優里子の体はずっと軽かった。

「高い、高い。子どもたちもこれくらいの高さで、高い高いされてるのかなあ。ふふふ」

「優里子、お前もう合コン行くなよな」

「ええ?だって、まだ彼氏見つけてないよお」

「俺以外で探すな」

「はあ、彼氏ほしいなあ」

「おい、酔っ払い。人の話を聞け」

「私、強引な人に弱いってよく言われるの。オレオレ系?ふふふ。よく言えば、引っ張っていってくれる人?」

「思ったより単純じゃねえかよ」

「優しくされたいし、優しくしたい。甘えたいし、甘えられたい。そうだったら、ほんの少しの束縛だって、大事にしてくれているんだって思える」

「ふうん」

「いっぱい抱きしめられたいな」

 首に回る優里子の腕が、きゅっと力が入ると体が引き寄せられた。ドキッとした。そんなの、してもいいならしてやるよ。

「手を繋ぎたいな」

「してやるよ」

 俺だったら、お前のしてほしいこと全部する。

「好きって言われたい」

「……好きだ」

「愛してるって言われたい」

「あいっ……」

 言おうとしたが、気持ちが溢れすぎて喉を通らず潰れた。情けねえ。

「キスされたい」

 肩から垂れる優里子の首に振り向くと、目は閉じ、唇が浮いたような無防備な横顔が目の前にあった。立ち止まり、首をめいっぱい回し、優里子の頬にキスをした。

 唇が離れると、優里子はとうとう眠ってしまった。俺は、唇に残る頬の感触を探り、してしまったことを思い出すと、全身から火が噴いた。唇はムズムズとして落ち着かず、ムギュッと噛んだ。股の間は、意思だけではどうしようもなく、ムクムクと起き上がる。どうか、優里子が突然起きませんように。


                ****


「おはよう、唯我。今日も朝練?」

「しせっ、施設長。おはよう」

 時計が6時を過ぎた頃、施設長が玄関前の廊下を通りかかると、靴を履いて立っている俺がいた。俺はビックリした。

「何で、靴履いてるの?しかも、朝練用のジャージじゃないね」

「あ、いや。足のケガもあったからさ、たまには朝の散歩もアリかと思って……」

「あ、そうなのね。でもそれだったら一言かけてね」

「うん。でも、俺やっぱり踊りたいからやめておく。居間に行ってくる」

「はい。頑張ってね」

 俺はドキドキした。何故なら、俺は人生初の朝帰りの瞬間だったからだ。

 昨晩、優里子に会いたいがために、門限を過ぎた施設をこっそり抜けたは良かったが、優里子をおぶって自宅まで連れ帰り、千代子さんの車で施設に戻ってきてみると、どこもかしこも鍵がしまっていた。施設長にも内緒で施設を抜け出したことがバレれば、俺はひどく𠮟られてしまう。そこで、千代子さんからの提案で、早朝に戻ればいいという計画を企てた。まさに今、俺は作戦通り帰って来たのだった。

 靴を脱いで、そそくさと施設長の脇を通り抜けた瞬間、施設長の鼻が反応した。あれ?今一瞬、僕ん家の匂いがしたような……。気のせいかと、施設長は歩き出した。

 俺から施設長の家の匂いがしたのは、あながち間違いではない。昨晩、俺は施設長の家でお風呂をいただき、汗を吸ったシャツと下着は洗濯されて乾燥までしてもらい、茶の間に敷いてもらった布団で眠ったのだった。多分、寝間着に用意してもらった長袖Tシャツとズボンは、施設長のものだ。

 夜勤明けの施設長が家に帰ると、案の定二日酔いとなった優里子がリビングのテーブルにうつ伏していた。

「お父さん、おかえり」

「ただいま。また二日酔い?今日の勤務は大丈夫?」

「午後出勤だから、それまでには回復すると思う。うう、頭痛い……」

 施設長は呆れたとため息をこぼした。

「お母さんは?」

「う……。2階のベランダでお客さん用の布団干してるよ」

「そっか。うん?お客さん用?」

「そう。何でだろうね」

 その家に一晩俺がいたことは、千代子さんと俺だけの秘密だ。そして、優里子の頬にキスをしたことは、俺だけの一生の秘密である。

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