第80話 自己推薦入試

 早朝の居間に、シューズの音がリズミカルに響いていた。流れる曲は青春隊の「疾風」だ。千鶴さん、富岡さん、裕二郎さん3人の振り付けを踊り終えた時、俺は右足をタンタンと踏んだ。黒いサポーターを外したかかとに、痛みは全く感じられなかった。

「よしっ!!」

 年明けの事務所に行くと、多くのジェニーズ関係者で溢れ、エントランスはザワザワとしていた。俺はすぐに事務室の根子さんに挨拶に行った。

「あけましておめでとうございます。唯我君。足の完治おめでとうございます」

「あけましておめでとうございます。すみません。長くお休みをいただいて」

「問題ありません。練習室は、今日は予定がいっぱいですので、ダンスの練習ができないんですが」

「はい。富岡さんに連絡して、スタジオの一室をお借りできることになっています」

「そうですか。いよいよですね。唯我君」

「はいっ。頑張ります」

 事務室を出ると、ジェニーズの先輩たちとすれ違った。ジェットスターの敦美あつみさん、ジャックウエストの純君、セクトの葉君、レゴリスの矢久間、Aファイブの津本さん。俺のことを覚えてくれている人は声をかけ、肩を叩き、手を振ってくれた。全員キラキラアイドルオーラ全開のイケメンたちだった。あの人たちに一日でも早く追いつきたい。津本さんが撫でた頭に触れると、力が湧いてきた。

「そこ、邪魔」

 その時、後ろからD2-Jrが現れた。D2-Jrの雰囲気はとても重たくて、少し怖かった。俺は「すみません」と壁に寄り道を開けた。D2-Jrの後方には、他のメンバーと同じようにピリピリとした緊張感を漂わせた智樹がいた。智樹は俺を睨むようにチラッと見ると、そのまま通り過ぎてしまった。

 俺は12月に見たテレビの中の智樹を思い出した。磨かれてきたのは、ダンスの技術だけじゃない。画面への映り方、見せ方まで計算された動きには、経験と努力の積み重ねがあったことを感じさせた。

「唯我!あけおめっ!」

 千鶴さんの声がすると、肩をグッと組む腕が俺を引き寄せた。千鶴さんのアイドルスマイルが顔のすぐ横で光った。

「千鶴さん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

「おう。よろしく!今日、トミーと約束してるんだろ?」

「はい。入試の自己アピール用に用意するダンスの練習をさせてもらうのに、ここで待ち合わせています」

「俺も行く。見てやるよ」

「ありがとうございます!」

 D2-Jrのメンバーと歩く智樹は、後ろに振り返り、俺と千鶴さんの様子を見ていた。そのことにメンバーの一人が気づき、声をかけた。

「智樹、何見てんの?千鶴さん?」

「あの2人、よくからんでるよな」

「そういや、映画の時も一緒に帰ってたっけ」

「うん」

 D2-Jrの正面からは富岡さんが歩いて来た。富岡さんに気づいたメンバーは立ち止まり、頭を下げ挨拶した。富岡さんは手を上げて「うす」と返した。最後尾の智樹が富岡さんとすれ違い、顔を上げ歩き出す。富岡さんは、智樹の会話をふと聞いてしまった。

「この間、やたらとジェニーズに詳しい人に会ってさ。そいつがしつこく唯我のこと聞いてきたんだよ」

 俺の名前を聞いた瞬間、富岡さんは一瞬立ち止まった。離れていく智樹たちをチラッと見て、耳をすませた。

「へえ。何で?」

「さあ。っていうか、何で唯我?って感じじゃね」

「だな」

 遠くなる会話を、富岡さんはそれ以上聞き取れなかった。エントランスにいた千鶴さんは富岡さんに気づき、「おーい!トミー」と声を響かせた。富岡さんは、千鶴さんの隣に俺がいることに気がつくと早足で近づき、間に入ると肩を組んだ。

「さあ、踊りまくろうぜ!」

 富岡さんは千鶴さんに耳打ちした。

「後で時間くれ。ちょっと気になることがある」

「いいぜ」


                 ****

 

 富岡さんのダンススタジオの一室で、俺は柔軟体操をした。ウォーミングアップの練習曲に合わせてステップ練習、腕肩の振り上げと順番に体を動かし、可動域を確認する。全て終わった時、右足をタンタンと踏んだ。痛みはない。遠慮せずに動ける!俺はとても嬉しかった。

「さて、始めよう。唯我、振りは覚えてきたんだろうなあ」

「はい。お願いします!」

 富岡さんは「よし」と曲をかけた。俺は覚えてきたダンスを披露した。しかし、自分が思っているように体は動いていなかった。曲が終わると、富岡さんは両手を組んで俺を睨んだ。

「それで覚えてきたのかよ。マジで笑えるんだけど」

 そう言いながら富岡さんは1ミリも笑っていない。俺は富岡さんの前に正座して、「すみませんでした」と頭を下げた。その時、富岡さんが呼んでくれたオカマコーチがスタジオにやって来て、俺たちの練習風景を覗いた。レッスン室の隅で椅子に座る千鶴さんを見つけると、オカマコーチはドアを閉めた。

「唯我ちゅわん、足治ったのねん」

「そうみたいだけど、なんだか動きがぎこちない。っていうか……」

「訛ってるわ。完全に」

 2人が見守る中、俺は富岡さんに大声で怒鳴られながら踊りまくった。途中でオカマコーチがアドバイスをくれ、また踊り、また怒鳴られる。その様子を、千鶴さんはじっと見つめた。

「唯我、怪我があったとはいえ、お前には時間がない。入試本番はいつだっけ?」

「に……、2週間後です」

「あらやだん!2週間後!?」

「てめえ、これから本番まで眠れると思うなよ。入試ごときなんて甘っちょろいことは言わせねえ。お前はジェニーズなんだよ!」

「はい……」

「死ぬ気でやれや!!」

「はいっ!!」

 それから俺は、起きている間は踊り続けた。移動の電車の中では曲を聴きながらイメージを膨らませ、施設に帰ると、ガキたちの食事の時間、風呂の時間は居間を独占させてもらった。朝練は継続し、学校に登校するギリギリまで踊った。おかげで授業中は催眠術にかけられるように酷い眠気に襲われた。

 そうして、受験当日の朝は来た。

「受験票、生徒手帳、筆記用具、シューズ。それから」

「ある。ある!全部あるよ!ちゃんと確認した」

「それから、はい!かつ丼弁当!」

 優里子は風呂敷に包んだお弁当を持たせてくれた。小さいわりには重量があった。俺はクリスマスにもらったリュックサックの中からシューズを取り出し、お弁当をしまい、背負った。

「悔いなく、しっかり頑張ってきて!」

「サンキュ。いってきます」

「いってらっしゃい!唯我!頑張れ!!」

 優里子は両手をグッと握って見せた。俺も手に拳を握って見せた。絶対合格してやる!それでもって、優里子とデートに行くんだ!気合は十分だった。


                ****


 琴次郎と体験授業に来たことがあるので、高校までの道には迷わなかった。受験票を片手に、指定された教室へと入ると、いろいろな制服を着た中学生たちが俺を睨んだ。空気は緊張と気合でピリピリとしている。受験番号のある席に座ると、横目で睨まれているような空気に上下左右から挟まれた。はあと息を吐いた。まるでオーディション会場だ。息苦しい。落ち着け。落ち着け……。

 俺はリュックサックに手を入れて筆記用具を出した。まず、午前中は適性検査。お昼休みを挟んだら、自己アピール試験。続いて面接。リュックサックに手を入れたついでに荷物の確認をした。スマホは電源を切り、優里子からもらった定期入れを見つめた。優里子の「唯我!頑張れ!!」という声が蘇ると元気が出た。お弁当もある。午後の自己アピール試験のために用意したダンスのCD。それから運動着、靴下。それから……。

 俺はリュックサックの中を、しばらくガサガサと漁った。あるはずのものがなかった。あれ……?あれ!?

 その時、試験監督が教室に入って来た。教室には、一気に緊張感が広がった。

「10分後、適性検査を始めます。5分前には着席下さい。その後、適性検査の説明。時間になりましたら、試験を開始します」

 心臓がバクバクと鳴り出した。絶対必要なものがない。シューズがない!!俺は自分がここまでに来た道のりを思い出した。施設の玄関でリュックサックの中から取り出したシューズは、お弁当のおかげで入らなかった。だから手で持つことにした。そのまま最寄のバス停でバスに乗り、駅で電車に乗った。手に持つシューズが邪魔で、改札を入るのに手間取った。ここまでは絶対持ってた!どこでシューズは無くなった!?

 そうして思い出した。通勤時間の電車の中、偶然空いた目の前の席に座ると、電車の温かさ、心地よい揺れに、思わずウトウトした。腹の前でリュックを抱え、シューズは手からぶら下げていたから床についていた。ウトウトしたために、学校の最寄駅に着いた瞬間、慌てて電車を降りた。改札を難なく抜け、あとは向かうだけと安心して、ここまでやって来た!つまり、俺は電車の中にシューズを置いてきてしまった。

「それでは、5分前となりました。適性検査の説明を始めます」

 シューズのことを考えていたら、いつの間にか時間が経ってしまった。試験監督の説明なんか聞いていられなかった。試験でシューズを忘れるなんて最悪だ。どうしよう。いや、もうどうしようもねえだろ。でも、何かできないか。何かっ……!

「それでは、始めて下さい」

 チャイムと同時に適性検査が始まった。周りからは、一斉に問題用紙をめくる音、鉛筆を動かす音が聞こえてきた。俺は焦っていた。まずは問題用紙をめくり、鉛筆を持った。しかし、頭の中はシューズのことでいっぱいだった。

「唯我、今頃は適性試験か」

「そうね。受かるといいわね」

 施設の職員室にいた優里子と佳代は、時計を見ながら話していた。

「そういえば、佳代ちゃんは、4月から隣の市の保育園に務めるのよね。おめでとう」

「ありがとう、優里さん」

「ねえねえ、ここだけの話。駿君とは何か話してたりするの?」

「駿君と?いいえ、何も」

「またまたあ!そろそろ結婚の話とかさあ」

「ま、まさかっ!全然まだだよ」

「そうなの?」

「そういう優里さんは?」

「ええ、私こそないよお。あ、でも最近は」

 その時、優里子のスマホが鳴った。見ると、俺からの着信が入っていた。

「は、はいっ!唯我!?」

『……優里子』

「何?試験は?」

『次、数学。その次に英語。じゃなくて……、その……』

 電話口の俺の声は、明らかに暗かった。

「どうしたの?」

 俺は優里子の心配そうな声を聞いた時、ものすごく後悔した。優里子にかけるんじゃなかった。他の人にかけるべきだった。っていうか、もう諦めて裸足でやっても良かったよな。混乱してるな、俺。はあと息を吐き、頭を抱えて言った。

「……電車の中に、シューズ忘れた」

 うわあ、マジでカッコ悪い。

『唯我、唯我!』

「何?」

『一回乗り換えあったよね。どこで落としちゃったかわかる?』

「多分、高校の最寄駅で降りる時……」

『お昼の時間、何時まで?』

「え?13時半まで」

『わかった!』  

 電話はブツンと切れた。何が「わかった」なんだ?腕時計を見ると、もうすぐ着席の時間だった。もう一度スマホの電源を切り、席に戻った。しかし、口に出せたせいか、諦めがついたようで落ち着いた。もう裸足でいいか。ダンスで落ちるのはものすごく悔しいけど、適性検査と面接ぐらいはしっかりやらなくちゃ。俺はすっかり緊張感を失った。

 その頃、優里子は施設の電話で誰かと話をしていた。

「はい……。はい、わかりました。ありがとうございます!失礼します!」

 受話器を置くと、優里子は荷物をまとめて立ち上がった。

「ゆ、優里さん。どこ行くの?」

「ごめん、佳代ちゃん。施設長が来たら、お叱りは帰ってから受けますって伝えといて!」

「……、わかったわ。気をつけて」

「うん!いってきます!」

 優里子はダッシュで職員室を出て行った。


                ****


 受験をする私立青鶯せいおう高校は、校舎の中は基本的に外履きで移動することができる。清掃は業者が入り、体育館やレッスン室等の特別な部屋だけは靴を履き替えるようになっている。だからシューズを持ってくるはずだった。

 昼休みの時間、次の自己アピール試験のために用意された更衣室で制服を脱いでいた。俺はため息が止まらなかった。もうダメだ。まず裸足でやろうというところでもうダメだ。恥ずかしい。しかも、優里子に電話して、シューズ忘れたって言っちゃったよ。カッコ悪くて恥ずかしい。富岡さんには時間を割いてダンスの練習をお願いしたのに、受験落ちたら怒鳴られるどころじゃない。信用を失う。もうダメだ。

「はああ」

「おい、お前さっきからため息うるせえんだよ。ウゼエからやめろ」

 隣にいた同じ教室にいた男に声をかけられた。振り向くと、バッチリ目が合った。俺よりずっと身長が高く、長い髪の毛を後頭部でまとめてお団子にしている。キレイな顔立ちなのに、あごにひげをたくわえている。俺より筋肉質で、肩や腕にはうらやましい筋肉の筋が見えていた。本当にこいつは中学生か?俺は思わず見つめてしまった。

「あ、知ってる顔だ!お前、俺のことわかる?」

「……いいや」

「そっか。まあいいや。今後会うこともあるかもしんねえから、握手しとこうぜ。

 先輩?こいつ、何言ってんだ。とりあえず俺は差し出された手を握り返した。すると、ため息が出てしまった。

「その陰湿なため息やめろよな。何、適性検査うまくいかなったのかよ」

「いいえ。これからうまくいかない予定です」

「これから?自己アピール?何すんの?」

「ダンス」

「へえ。俺と一緒。まあ、ジェニーズなら歌かダンスだよな。敵じゃねえけど」

 俺は男の「俺と一緒」の言葉に反応した。男の手にはシューズが握られていた。しかし、何も言葉が出てこなかった。顔を反らした俺を見て、男は俺の周辺を見回した。リュックサック、着替え、靴下は出ているが、ダンスシューズが見当たらない。

「もしかして、シューズ忘れたの?」

 図星。

「貸してやろうか?サイズいくつ?」

「……28」

 嘘である。本当は27センチだが、俺は無用の虚勢を張った。

「マジか。俺のとピッタリじゃん!」

 ピッタリかよちくしょう!その答えは俺の精神的PPをかなり減らした。

「受験番号は?ああ、俺の後だ。俺が履いた後でよかったら貸すぜ?」

「えっ!!??」

「遠慮すんなよ。絶対渡してやるって」

「……本当に?」

「おう!だけど、条件がある」

「条件?」

 時計は13時20分を過ぎていた。優里子は電車に揺られていた。あともう少し。あともう少し!電車は徐々にスピードを落とし、停止した。優里子はドアが開いた瞬間、ダッシュした。手に抱えていたのは、俺が電車に忘れたシューズだった。

 優里子は走りながら電話をかけた。

『ただいま、電波の届かない場所にいるか、電源が入っていません』

「唯我!気づいてよ!」

 真冬の街の中に、はあっと吐く息が白く浮かんでは消えた。肌はピリピリとし、赤くなっていく。俺のスマホは更衣室のロッカーの中で息を潜めていた。


                ****


 自己アピール試験は各部屋に数十人の受験生が集められ、準備してきた自己アピールの内容を一人3分以内で披露することになっている。そして、更衣室で声をかけてきた男が試験官の前に立った。

「お名前と自己アピールの内容をお願いします」

「はい!鳳颯斗おおとりはやとです!自己アピールの内容はダンスです!よろしくお願いします!」

 俺はこいつがどんなダンスをする奴なのか気になっていた。そうして始まったのは、洋楽に合わせたヒップホップダンスだった。振りは大胆に大きく、しかし手先までしっかり意識のいき届いた繊細なダンスだった。

 俺はこいつの出した「条件」を思い出した。

「条件?」

「俺の名は鳳颯斗。覚えとけ。そして今日のうちに検索しとけ」

「検索?鳳……」

「俺は、鳳、颯斗!!」

 視線の動き、軸の安定性、メトロノームのように正確なステップには、プロ意識を感じざるを得ない。こいつ、何者だ。

「ありがとうございました!!」

「では、次の人……」

 鳳は一人舞台を終えると、用意されたパイプ椅子の席に戻った。席に戻る一瞬、端の席にいた俺の横でタタンとステップを踏んだ。すると、そこにシューズだけを残し、鳳は自分の席に戻った。俺は鳳をチラッと見た。鳳は余裕そうにウィンクした。置いていかれたシューズに手を伸ばし、足を入れた。生ぬるい。だけど、シューズを履いたという安心感があった。体に入っていた無駄な力が抜け、ピッタリとは言えない靴の紐をギュッと結ぶと、ようやく気持ちが引き締まった。

「ありがとうございました!」

「では次の人」

「はいっ」

 俺は立ち上がり、試験官の前に立った。

「お名前と自己アピールの内容をお願いします」

「小山内唯我です。自己アピールの内容はダンスです。よろしくお願いします」

「始めて下さい」

 用意した曲はジェットスターの曲だ。それも、ジェットスターの曲の中でも最難関レベルのダンスとされる曲だ。前奏の一音目の瞬間、右足を強く踏み込んだ。アップテンポに合わせたステップはリズム感が命だ。腕、肩、首、視線の動きには、1ミリのずれも許されない。しかし表情は豊かに。目の前の観客を意識する。それは、テレビの中にいた智樹のように。

 俺のダンスを、鳳は両手を組み睨むように見つめた。あれが今の小山内唯我。クソ下手だな。だけど、視線を引きつける。次の動きを見たくなる。ワクワクさせるっ!鳳はフッと笑った。

 自己アピール試験が終わり、制服に着替えると、最後は個人面接が待っていた。

「志望理由について、もう少しお伺いしますが、なぜ通信制を希望されているのでしょうか?」

「はい。通信制を希望する理由は……」

 試験が終了し、高校の正門を出た頃には18時を過ぎていた。肌をさす空気は朝より冷え込み、はあと吐いた白い息は街灯の光に吸い込まれた。終わった。疲れた。受験の合否は一週間後に郵送で送られる。1月下旬に予定される一般入試に向けて勉強をしつつ、その日を待つしかない。

 俺はスマホを取り出し、電源を入れた。すると、スマホの着信履歴に優里子から何十件もの着信があったことがわかった。電話が集中してかかってきていた時間は、ちょうどお昼休みの時間だった。一体、何の電話だったのだろうか。とりあえず電話をかけることにしたが、何度かけ直しても優里子は出なかった。


                 ****


 施設の職員室には、浮かない顔をしたクレアおばさんがいた。その時、施設の電話が鳴った。

「はい。立並児童養護施設でございます。あら、唯我君!……そう、もう帰って来たのね。お迎えは?バスね。わかりました。気をつけね」

『あの……』

「何?」

『優里子は、今日はもう帰りましたか?』

「……いいえ。まだいるわ」

『電話、代わってもらえますか?』

「今はダメね。会議室にいるの……」

『会議室?』

 クレアおばさんは、電気のついた会議室を見つめた。中では、目尻を赤くした優里子がパソコンを打ち続けていた。画面には、「始末書」が表示されていた。

 バスを降り、施設の玄関に腰を下ろすと、入試が終わったという実感が沸いた。緊張は解かれ、大岩でも降ってきたように一気に疲れを感じる。すると背後から小さい手が俺を抱きしめた。

「にいに!おかえりっ!!」

「みこ、ただいま」

 頭を撫でてやると、満足げに笑った。俺は足に引っついたみこを連れて、職員室のドアを開けた。

「ただいま」

「唯我、おかえり」

「おかえりなさい。入試お疲れ様!」

 職員室にいた施設長、クレアおばさんが笑顔で迎えてくれた。しかし、優里子がいない。優里子の席にはバッグが置かれたままで、施設のどこかにいることだけはわかった。

「施設長、優里子は?」

「優里子は……」

 施設長はチラッと会議室を見た。「ちょっと待ってなさい」と施設長は会議室へ向かった。会議室の中に声をかけると、そこから優里子がやってきた。

「唯我っ!」

 優里子は駆け寄り、廊下に出るとドアを閉めた。職員室に残った施設長は、首をさすりながら深いため息をこぼした。

「唯我、試験はどうなった?シューズなしでやったの?!」

「いや。受験生の一人が親切で、シューズを貸してくれたんだ。それでやった」

「足は大丈夫だった?」

「ああ、何ともない。一日全力を尽くしたつもりだよ。けど、優里子に電話する前にやった国語の試験は、ひどい結果になりそうだけど……」

「そう。何とかなったんだ。よかった!」

 そう言って笑う優里子の目尻が赤いのが気になった。

「あ、そうだ。優里子、昼休みの時間にたくさん電話かけてくれてたんだよな。ごめん。俺、電源切ってたんだ。何の電話だった?……あ、電話で思い出した。地下鉄の会社に電話して、落とし物にあればシューズ取りにいかなくちゃ……」

 その時、目の前に見覚えのあるシューズケースが現れた。

「え?俺のシューズ……!何で!?」

「……電話したのは、これを届けるためよ」

 俺はすぐに察した。午前中に電話でした会話の中で、優里子はどの電車で落としたか、昼休みは何時までなのかを聞いた。そして、昼休み中にかかってきていたたくさんの着信と、目の前のシューズは、優里子がシューズを探して、俺に届けようとしてくれていたことを示していた。

「でもよかった!試験が無事に終わって!親切にしてくれた人と次に会えた時は、お礼言わなきゃね」

 俺は足元にみこがいることをすっかり忘れていた。「にいに?」という呟き声にも気づかず、俺は優里子を抱き寄せた。腕には少しずつ力が入った。

「唯我、ちょっと……」

「ごめん。マジで……」

「い、いや。別に」

「ありがとう」

「……、うん」

 優里子が背中をポンポンと、眠るガキの腹を触るように叩いた。俺は優里子を離し、赤い目を見つめた。

「目、どうした?泣いたの?」

「あ、いや。これは……」

「怒られてたんだよね。施設長の怖い声も、ねねの声も、廊下にずっと聞こえてたもん」

 もう一度俺の足に引っついたみこが言った。優里子は「みこちゃん、シー!」と口の前で人差し指を立てた。

「それって、俺のシューズのことで?」

「その……」

 はっきりと言わない態度から、俺の言ったことが合っていることがわかった。俺は優里子の手を引いて職員室に入り、まっすぐ施設長席に向かった。

「施設長、優里子のことだけど」

「何だい?」

「優里子は俺が忘れたシューズをすぐに取りに行ってくれたんだ。そのことにすぐ気づけなかったのは俺で、そもそも俺が電車の中にシューズを忘れなければよかったんだ。優里子は何も悪くないっ」

「ちょっと、唯我!」

「優里子が怒られる必要はなかった。俺が悪かったんだ。怒られるなら、俺の方だ」

 施設長は机の上で両手の指を組み、ふうと息を吐いた。

「確かに、唯我の不注意はあったと思うよ。でも、僕が怒ったのは、シューズを取りに行ったことで、施設にいるはずの優里子がいなくなってしまったことだ。職員一人がいなくなったとしても、フォローはできる。だけど、もし子どもたちに何かあったら?守るべきを守れなかったら?今日の優里子の行動はあまりに軽率で無責任だった。それを怒ったんだ」

「だけど、全部俺が悪かったんです。だから優里子だけを責めないで」

「唯我、これは大人としての責任を持つべきという指導だ。わかりなさい」

「そうよ、唯我。私も施設長の言う通りだったと思ってる。だからいいの。受験が無事に終わってよかったよ」

 赤い目尻が笑っている。だけど、嬉しくなかった。

「俺は、優里子が俺のせいで泣くのは嫌だ!」

「唯我……」

「施設長、すみませんでした」

 頭を下げると、施設長のため息が聞こえた。許してもらえないのかと不安を感じ、顔を上げることができなかった。

「わかった。なら2人にしてほしいことがあるから、それで許します」

「してほしいこと?」

「うん。唯我、施設の子が高校生になった時、銀行口座をつくるんだ。いつもは僕が手続きをして、通帳とカードを渡しているけれど、唯我は自分でつくりに行きなさい。優里子はそれについて行くこと。いいね?」

 施設長は「まったく……」と呆れたように呟いて、笑っていた。

「いい結果を祈ってるよ、唯我」


                ****


 それは、年始の富岡さんのスタジオで、俺がダンスの練習を終えてからのことだ。千鶴さんは富岡さんに引き留められ、レッスン室にいた。

「千鶴。お前、当分唯我と距離取れ」

「あ?んでトミーにそんなこと言われなきゃいけねんだよ」

「Jrが、誰かに唯我のこと聞かれたって話してるのを偶然聞いたんだ。多分、聞いてきたのは週刊誌関係の奴だ」

「……!」

「どこまで何の情報がいってるかはわかんねえけど、15年前から、お前のことは何があっても報道しないのが、奴ら界隈の暗黙のルールだ。だけど、それは唯我には当てはまらない。卑怯な奴はきっと考えるぜ。唯我を餌食にすりゃあ、その関係者について記事にすることができる。暗黙なんてのは、世間様には無関係だからな」

「……はあ。俺も甘かったってことか」

「そう言わざるを得ん。唯我一人なら、事務所で守れる。お前は当分関わるな」

「ドライブも?」

「もってのほかだ!」

「チッ……。わかった。ありがとな、トミー」

 千鶴さんは立ち上がり、レッスン室のドアに手をかけた。

「おい、千鶴!」

「何だよ」

「……言わねえの?唯我に」

「時が来たら言うさ。必ず……」

「裕二郎には?」

「ははっ。今日はよく口が回るじゃねえか。なあ、トミー」

 千鶴さんは振り返ると、富岡さんを睨みつけた。

「吐いたらぶっ殺す」

「……おお、怖っ。どっちがヤクザだよ」

「いいや。俺らはアイドルだろ」

 千鶴さんは冷たく微笑むと、「またな」と出て行った。千鶴さんは足早にスタジオを抜け、車に乗った。その日も手首には水色のブレスレットがあった。ハンドルにかけた腕に、金具の裏の「Y.O」というイニシャルが光っていた。

 あいつのことを守るのは、誰でもねえ。俺だ。

 グッと拳を握ると、千鶴さんは静かにその場を後にした。

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