第79話 暇と5分のクリスマス

 暇だ。とにかく暇だ。どうしてこんなに暇なのか。答えは明らかだった。

 俺は2年前に買ったぶ厚い10年ダイヤリーに、時々日記を書いている。俺はベッドに寝転び、去年と一昨年の今日のページを開いた。

『今日、クリスマスライブの練習から帰ってきたら、優里子が咳き込んでいた。最近、優里子は風邪気味みたい』

『樹杏がまた遅刻した。しかも、またケンカした。大使館でのライブは大丈夫だろうか』

 いつもなら、この時期はクリスマスライブ、ジェニーズ舞台、ライブのため、平日は練習に明け暮れ、週末はステージに立っているはずなのだ。なのに、今年はそうはいかない。何もかもこの右足のせいだ。ようやく松葉杖を卒業しても、階段を降りる時、足を踏み込む時は、まだ痛みがある。もう普通に歩くということがどんな感覚だったのか忘れてしまいそうだ。

 その時、部屋のドアがノックも無しに開かれた。顔を出したのはみこだった。

「にいに、りんご食べよう!皮むいて!」

「はいはい」

 暇には慣れない。しかし、施設に戻ってきてからのみこは、俺にとにかくかまいたがり、俺の暇な時間を埋めてくれた。食堂の椅子に座れば、みこが俺の股の間に座り寄りかかってくる。皮をむいたりんごを「あーん」と口に運んでやると、とても喜んでモグモグする。居間にいれば俺の腕を抱きしめ、学校から帰ってくれば、右足の痛みなど関係なく飛び込んでくる。みこには一度キスされたことがある。だから顔が近づく瞬間だけは距離を意識した。

 みことの時間が増えた一方、優里子との会話は激減した。避けられているのではないかと思えるほどだ。今日だって、「おはよう」と挨拶しただけだ。一人で廊下を歩いていてもつまらない。しかし、ガキたちと寒い中庭で思いっきり遊べる足ではない。優里子とどこかに出かけたい。デートしたい。しかし、受験が終わるまでは我慢しなくてはならない。俺は思わずため息をついた。

 その時、廊下を一人で歩く俺の後ろ姿を見た優里子は、声をかけようとした。

「あ、ゆい」

「にいに!いた!!」

 名前を言いかけたその時、みこが廊下をタタタと走って俺に抱きついた。俺が右足でグッと踏み込んだのを見ると、まるで俺の痛みを感じたように、優里子は胸を押さえた。最近はずっとこうだ。声をかけようとしても、どこからともなくみこの声が響く。廊下、中庭、居間、食堂。どこにいても、俺はみこのものになっていた。優里子が俺に振ろうとした手を下ろすのを、英は遠くから見ていた。

 夜、俺がみこにご飯を食べさせている様子をチラッと見た優里子は、目を反らし、隣のないとにご飯を食べさせた。英は「うわあ、キモ……」と内心呟いた。

 充瑠の隣でご飯を食べる佳代も、優里子の様子には気づいていた。優里さん、わかりやすく寂しそうにしてる。そして唯君は、完全にみこちゃんの執事になってるわ。大丈夫かしら。もうすぐ、クリスマスなのに……。


                ****


 夕飯の後、居間にいた俺の股の間にはみこが座っていた。顔が近づくと、俺は背筋を伸ばし、あごを上げた。テレビを見ると、音楽番組『NEWステージ』が始まった。司会者の横に並んでいたのは、ジェニーズのジェットスターだった。

「あ、ジェットスターだ。唯我、誰かに会ったことある?」

 横に寝そべる文子はテレビを指さした。

「ああ。バックで踊ったこともある」

「あんたって、テレビ番組ではバックで踊らないよね」

「俺よりうまい奴はいくらでもいるからな」

「ぷぷ。悔しいでしょう」

「でも、にいには世界一カッコイイよ!」

 人をバカにしたような態度の文子を見るとイライラした。文子うぜえ。そして素敵な言葉で文子に言い返してくれたみこはとても可愛い。「サンキュ」と頭を撫でてやった。

『それでは参りましょう。ジェットスターの新曲です。どうぞ!』

 ラップから始まったリズミカルな新曲は、前奏部では体を一瞬振動させてピタッと止まり、もう一度振動、停止を繰り返した。Aメロディーに入った瞬間、ジェットスターらしい躍動感溢れる動きを見せた。俺は無意識にみこを抱きしめ、テレビに釘付けになった。

 俺にとって、ジェットスターは憧れのグループだ。そのバックでダンスできたのはほんの数回しかない。バックに立てるのは、ジェニーズJrの中でもダンス上級者だけだ。画面には、ジェットスターのメンバーの後ろに5人程のバックダンサーが立っている。

 曲のサビに入るとステージにいる全員がアップで映し出された。その中に、智樹がいた。よく見ると、バックダンサーたちは智樹の所属するD2-Jrのメンバーだった。

 智樹はカメラにアップで撮られた瞬間、揺れる前髪の下からクールな笑みを浮かべ首を傾げた。ステップの正確さ、動きの緩急、また画面映えする写り方までも意識した一瞬の映像に、俺は胸をグッと握られた。

 その時、眠ったないとを抱えた優里子が居間にやって来た。

「みっちゃん、てぃあちゃん、みこちゃん。おねむの時間ですよお」

「にいに、また明日。おやすみなさい」

「おやすみ」

 みこはもぞもぞと動いて、脇の隙間からずるりと抜け出した。みこを失った腕は立膝に乗りだらりと下がったが、手には固く拳が握られていた。まっすぐテレビを見つめる俺を横目にしながら、優里子はガキたちをつれて2階へと上がった。

 優里子はガキたちを寝かしつけた後、階段を降りている途中で文子とすれ違った。文ちゃんは部屋に戻ったけど、唯我はどうしたんだろう。優里子はそのまま居間の様子を見に行った。

 ドアを開くと、キュッと足を踏む音がした。見ると、居間の全面鏡が開かれ、その前で俺が踊っていた。

「ちょっと、唯我!」

「!!!……優里子」

「何動いてるのよ!また足が痛くなっちゃうじゃない!」

「つま先立ちしてれば平気だよ」

「それは平気とは言いません!どうして突然?」

「友達が踊ってるの見たら、じっとしてられなくて……」

 優里子の脳裏には、拳を握り、まるで睨むようにテレビに強い視線を向けていた俺の姿を浮かんだ。あれで、友達を見てた……?

「さっきのジェットスターの新曲、ここの動きにメリハリがあってカッコよかった。ギュッてして、スピード感保ってターン……」

 ターンしようと右足をついた瞬間、かかとにズキンと痛みが走った。「いっ!」と声を上げ、俺は体勢を崩し倒れてしまった。すぐに優里子が駆け寄り、背を支えた。

「大丈夫?!」

「ちょっと失敗した。いてて」

「バカ!だから言ったじゃない!足がちゃんと治ったら、友達とたくさん踊ってよ」

「だな。やめておく」

 顔を上げると、優里子が不安そうな顔をして俺を見つめていた。正面から目を合わせたのは、いつぶりだろうか。

「久々だな、何か」

「……うん。私もそう思った」

 じっと互いを見つめると、同時にぷっと吹き出し笑った。なんだ。同じこと考えてたのかよ。

「みこちゃん。施設に戻ってきてから、唯我にべっとりね」

「ああ」

「でも、唯我と一緒にいるとよく笑うし、よく食べてくれるし。元気になってくれてよかったわ」

「だな」

 優里子は手を膝に置き、視線を俺の右足のかかとに向けた。右足のかかとには、未だ黒いサポーターが巻かれている。

「こんなこと言っちゃあ失礼だけど、唯我が忙しくなくてよかった。毎年みたいに、クリスマスに向けて忙しく過ごされてたら、みこちゃんも英君も、落ち着いて過ごせていなかったかもしれないもの。ごめん、こんなこと言って」

「別にいいよ」

 俺もそう思う。みこが素直に甘えられる環境でよかった。それから、優里子が優しいのが嬉しい。

「でもね、唯我が今年のクリスマスは施設にいるなら、誕生日当日にパーティーできるよね。準備しとかなくっちゃ!」

「いいよ、別に。いつも通り、ガキたちのクリスマス会で」

「ええ?だって、一緒に過ごせるのにっ」

 そうか。今年は一緒に過ごせるのか!俺はワクッとした気持ちを顔に出さないように顔を反らした。

 優里子と俺の様子を、廊下を通りかかった英が、ドアの隙間から見ていた。俺を見つめる優里子の横顔は、頬がほんのり染まっていた。


                 ****


 次の休みの日、俺は施設の玄関で靴を履いた。

「唯我、気をつけてね。何かあったら連絡してね」

「にいに、いってらっしゃい!」

「ああ。いってきます」

 俺は優里子とみこに見送られ、施設を出た。俺の姿がなくなると、みこが優里子を見上げた。優里子はみこと目を合わせると、ニコッと微笑んだ。すると、みこはフンとそっぽを向いて離れていった。優里子は束ねた髪の毛先に指を通した。睨まれちゃった……。

 そこに英がやって来た。英は優里子に目もくれずに、玄関で靴を履き出した。

「英君もお出かけ?」

「うん」

「いってらっしゃい。気をつけてね」

 英はつま先をトントンとして靴を履くと、優里子に振り返った。

「優里子、最近唯我と全然話してないね。みこに遠慮してんの?」

 優里子はドキッとした。「遠慮」と言われてみればそうかもしれないが、単純に声をかけるタイミングを逃していただけだった。

「遠慮とは違うよ。でも、唯我と二人でいる時のみこちゃんは、とっても楽しそうで安心してる」

「……気持ちわる」

「え?」

「優里子ってさ、変だよね」

「変?」

「優里子にとって、唯我って何なの?」

「……弟よ。赤ちゃんの頃からずっと一緒に育ってきたしね。昔は泣き虫でね、これがまた」

「弟なわけないじゃん」

 優里子が昔話を始めようとすると、英はそれを遮るように言った。

「俺とみこは兄妹だけど、優里子と唯我は、姉弟じゃないよ」

「何が言いたいの?」

「いいや。思ったことを言っただけ。だけどさ、優里子がバカだなって思うのは」

「バカ?!」

「みこにやきもち妬いてるの、バレバレなんだよ」

「何言ってるの!してないしてないっ」

 優里子は頭も両手も振って否定した。その顔が真っ赤だった。それが可笑しくて、英はクスクス笑った。優里子は英を少し睨むと、言い返したい気持ちを抑えた。生意気な子。誰かさんみたい!

「優里子にとってさ、唯我は男だろ」

 優里子に振り返った英は鋭い目をしていた。父親の元を離れた英にとって、世の女の人たち全員が、父親を奪い去った介護士の女のように見えていた。

「ただの異性じゃん。そういうふうに見てんじゃん」

「んなっ!!!」

 優里子は真っ赤な顔をして固まった。英は想像通りの反応をされたことが可笑しくてたまらなかった。「ははっ」と笑うと、英は外へ駆け出していった。

 一人残された優里子は、驚き混乱した。英の言葉が、頭の中で何度もリピートした。英君には、私がそんなふうに見えるってこと?唯我のこと意識してるみたいな……?

「唯我は男だろ。ただの異性じゃん」

 ううん。違うもん。違うもん!優里子は頭を振った。もしかして私……、人恋しそうな寂しい女にでも見えてた!?ショック!

 優里子は重たいため息をついた。そういうふうに見えるってことは、無自覚に彼氏ほしいとでも思ってるのかな、私。そうなのかな……。

 下に向けた目線の先で、自分の手を広げた。

「俺と一緒にいろよ」

 いつか、俺が優里子の手を握って言った言葉が蘇ると、トクンと胸の奥で音がした。脳裏に浮かんでいたのは、ジールを演じた最終日の夜、優里子の前を歩いていた俺が振り返った瞬間の光景だった。

「弟なわけないじゃん」

 ……弟よ。唯我は弟だもん。

 その頃、俺はゆっくり街を歩いていた。すると、後ろから英が追いかけてきた。俺が体を揺らしながら歩く様子を見て、英は「ねえ」と言った。

「まだ足治らないの?」

「もう少しで治るよ。年明けには完治してる」

「おっそ」

「しょうがねえだろ。お前も出かけるところか?」

「俺も唯我と一緒に行く。何買いに行くの?」

「シャー芯」

「シャー芯!?そんなのそこのコンビニでいいじゃん!何でわざわざ遠いショッピングモールまで行くんだよ」

「他にも、見たいものがあるんだよ……」

 いちいちうるさい奴。俺は英から視線を反らした。英はそっぽを向いた俺の横顔と、その向こうに見える住宅にかかっていた電光の梯子を登るサンタクロースのイルミネーションを見つけた瞬間、ピンときた。

「ああ、クリスマス。つまりプレゼントだな。優里子にでも渡すの?」

 図星。顔が一瞬で火照った。英は「ふうん。そうなんだ」と呟きながら正面に体を戻した。

「悪いかよ」

「別に?俺には、優里子のいいところが全然わかんない。あのおばさんキモいじゃん。唯我、女の趣味悪いよ」

「お前も見る目がねえな」

 俺たちは互いににらみ合った。フンッと英が目を反らし、俺は「勝った」と心の中で小さくガッツポーズを取った。

 優里子には、何をあげようか。多分、こんなにも余裕のあるクリスマスは、来年の俺にはない。というよりも、なくていい。

 俺は、ジェニーズの活動が十分にできていないことに不安を感じていた。来年、また忙しく過ごせるために、俺は今、何ができるのだろうか。それを考えると、受験勉強どころではなくなってしまう。今頃、聖君や貴之、他のJrたちは汗を流しながらクリスマスライブの練習をしているのだろう。知っている様子を思い浮かべると、テレビに映る智樹を見た時のように、胸が誰かに捕まれるような感覚がした。


                ****


 12月25日、クリスマス。ガキたちは、枕元にあったプレゼントを掲げて朝から大はしゃぎしていた。皆でご飯を食べて、手をつないで歩き回る。施設には一日中、クリスマスの歌の大合唱が響いていた。こんなクリスマスは何年ぶりだろうか。とても穏やかな気持ちになった。

 午後3時、夜勤のために出勤した優里子の顔は真っ青だった。背を丸め、口を押さえると、「ゔぇっ」と喉の奥で唸った。

「唯我、た……、誕生日、おめでと……ゔ」

 全く嬉しくない。俺は「サンキュ」と一応返事をした。

「どうした?」

「ふづがよい……」

「二日酔い?昨日飲んだの?」

「気持ち悪くなるほど飲んでたつもりないのに……ゔぅ。で、でも、今日はみ、皆で楽しく過ごせるね。やっだねっ!」

 壁に手をつき、真っ青な顔の上で片方の口角が上がった。今日は全然楽しくなんて過ごせそうにない。思わずため息が出た。

「無理すんな。お前はいつも通りでいろよ」

 頭にポンと手を置くと、優里子の顔色が一瞬良くなったと思えたのに、すぐに下を向いて「ゔっ」とえずいていた。しかし、大人の事情など関係ないガキたちは、優里子を見つけると駆け寄り引っ張り合って庭に連れ去った。優里子は一生懸命笑顔をつくり、吐き気を我慢してガキたちと遊んでいた。

 さすがにテンションだけではガキたちと遊べなくなっていた英が、いつの間にか俺の横に立っていた。ニヤニヤした顔で俺を見上げている。

「いつプレゼント渡すんだよ」

「英……」

「渡すところ見たい」

「……させるかよ」

 英の頭を掴み、髪の毛をぐちゃぐちゃに混ぜるように撫でてやった。俺はそのまま部屋に戻ろうと廊下を歩いた。

 しかし困った。あの調子じゃあガキたちは優里子を離さないだろうし、優里子がいつダウンしてしまうかわからないし、英がニヤニヤして鬱陶しい。優里子にプレゼントを渡すタイミングがつかめない。どうしよう!


                ****


 時間はあっという間に過ぎてしまった。居間の時計は18時を過ぎている!どうしよう。俺はまだ優里子にプレゼントを渡せていない!パーカーのポケットの中には、優里子に渡すプレゼントが温め続けられている。そして、スマホには聖君貴之からメッセージが嵐のように届き続けていた。

『C少年、終了!今年はトップバッターいただいたぜ!』

『D2-Jrすげー!』

『ジャックウエスト登場!C少年でバックダンス担当!!』

 メッセージの中で、聖君と貴之がクリスマスライブの様子を逐一教えてくれていた。写真の中の聖君貴之はライトを浴びて、逆光の中、汗の流れる満面の笑みでピースしている。背後にはC少年のメンバーが笑っている。楽しそうだった。

「にいに、パーティーの準備終わったから、一緒に食堂に行こう」

「ああ」

 居間に俺を迎えに来てくれたみこに手を引かれ、廊下を歩きながらスマホをもう一度見た。送られてきたメッセージ、写真を見るだけで、俺はクリスマスライブの会場の爆音、熱気を感じた。しかし、実際に耳に聞こえてくるのはガキたちの笑い声だった。目の前に続いているのは、食堂に続く廊下だった。辺りには熱気ではなく、冷気が漂っている。

 思わず立ち止まった。右足のかかとから、ズキンとした痛みを感じた。俺は今、どこにいるのだろう。どこにいたいのだろう。

「にいに?」

「……いや、行こう」

 それから、俺は食堂で何年ぶりかのクリスマスパーティーで、誕生日当日のバースデーケーキを囲んで、ガキたちと過ごした。その間も、スマホはピロンと音を立て、聖君貴之からメッセージが届いたことを知らせ続けた。


                ****


 夜の11時を過ぎる頃、スマホには、聖君貴之からの最後のメッセージが届いた。

『今年もクリスマスライブ無事終了!』

『来年は一緒に立とうな!』

 一緒に送られてきた最後の写真には、クリスマスライブの達成感に満ちたJrたちの満面の笑顔が溢れていた。俺は「お疲れ様」とだけ返事して、スマホをテーブルに伏せた。

 クリスマスパーティーが終わった食堂は、それまでの大騒ぎが嘘だったように静かだった。俺は窓際の椅子に座り、テーブルの上に参考書とノート、ペン立てを並べていた。手は全く動かず、俺は頬杖をつき、中庭をボーッと眺めていた。すると、食堂に近づく足音が天井を跳ねて聞こえてきた。振り返ると、優里子がいた。

「唯我、まだいたの?」

「ああ」

「今日はすっごい冷え込むわね。寒い寒い。唯我、部屋で勉強すればいいのに」

「うん。まあ……」

 俺は中庭を眺めた。ボーッとしてしまうのは、眠いからなのかわからない。ただ、胸の内だけは空っぽで、パーティーで出た食事を腹いっぱいに食べたはずなのに、胸の中は埋まらなかった。

 優里子は静かに俺の隣に座った。

「今日、楽しかった?」

「うん」

「そんなふうには見えないわ」

「嘘じゃねえよ。嘘じゃねえけど……」

 だけど、満足していない。それはきっと、したいことが何もできていないからなのかもしれない。

「優里子さ」

「うん」

「足が治ったら、友達とたくさん踊ればいいって言ってくれただろ?」

「うん」

「……本当は、今日、踊っていたかった」

「唯我……」

 聖君貴之と一緒に、樹杏と一緒に、憧れのジェットスターと一緒に、あの熱いライブステージに立っていたかった。そうして毎年のように疲れ切って帰ってきて、優里子に出迎えてもらいたかった。笑って「おかえり。誕生日おめでとう」って言ってもらえれば、俺はきっと満足した。それができなかった。

「もうずっと、胸の中が空っぽだ」

 胸の中の空っぽは、勉強しても、みこと英の元気な姿に安心しても、ガキたちと遊んでも、優里子と一緒にいても埋まらない。

「事務所行って、レッスン受けて、ライブ出て、舞台出て、踊って、歌って、演じて……。それで自分ができるようになることが増えたら達成感があって、頼られるとすげえ嬉しくて、やってくれって言われて、安心してたんだ……」

「……」

「つくづく思うよ。俺はジェニーズの仕事に、自分で思っている以上に執着してるんだ」

 仕事をすることで安心を得ようとしている。声をかけられることで、自分の認知を図ろうとする。自分が必要とされ、そうじゃないと俺が生きている意味がなくなってしまうと、そんな不安を積もらせてしまう。

「それはさ、つまり唯我が本物になろうとしているってことでしょう?」

「本物?」

「皆が知ってるジェニーズの小山内唯我にさ。唯我のそれはもう、自分の進みたい道なんでしょう?」

 「道」という言葉に耳が止まった。最近、聞いたような気がする。「道」って何だ。優里子は下から覗き込むように俺を見た。

「つまり、人生かけてやりたいって思ってるってこと」

 琴次郎が前に言っていた「道」ってのは、そういう意味だったんだ。俺は納得した。胸の空白も、切なさに近い寂しさも、満たしてくれるのは「道」を進むための努力と結果なんだ。だから、クリスマスの今日、俺は何も満足できていないんだ。

「感慨深いよね。こんな小さかった唯我がさ、施設のためにジェニーズになるとか言って、生意気だなあ、大丈夫かなあなんて心配してたのに。いつの間にか、あんたの本物の夢になってるんだもの。私の心配も何もかも吸収して、いつの間にか、私より大きくなって」

「そんなの、今更だ。今にもっと大きくなるぜ」

「ふふっ。そうだといいな!」

 優里子がニコッと笑うと、腹の奥から熱が込み上げた。中庭の寒々しい景色なんて、俺には何も関係ないものに思えた。

「今日は、こうやってゆっくり誕生日を一緒に過ごせてよかった。二日酔いは予想外だったけど、それでも、今日だけは来なきゃって思ったの」

 優里子は背中に手を回し、ゴソゴソと何かを取り出すと俺に見せてきた。それは手のひらサイズの箱を緑色の光沢紙が覆い、真っ赤なリボンがついていた。

「はい、どうぞ!」

「何、これ」

「誕生日プレゼント」

「……は?さっきもらった」

「新しいリュックサックね?あれは施設の皆からのプレゼント!これは、私からのプレゼント」

 ……は?待て。待て、待て、待て!

「内緒よ。一生の秘密!だってね、決まりがあるの。職員は、施設の子に個人的な贈り物はしちゃいけないの。だから、これは私とあんただけの一生の秘密」

「優里子……」

「受け取ってよ」

 優里子の両手に挟まれたそれに片手を伸ばした。それは見た目より軽くて、まるで夢の中に浮いている物のようだった。

「開けてもいいか?」

「うん」

 包装紙を丁寧に開き、正方形の白い箱が出てきた。秘密の小さな玉手箱を開くと、中からおしゃれな定期券入れが出てきた。

「少しなら小銭も入るし、ポケットサイズだから使いやすそうでしょ?きっと、希望校に合格したら電車通学だから、使うかなあって思ったの」

 それは昔話にあるような、箱の中から出てきた信じられないような宝物だった。俺は沸騰しそうな頭を抱えた。目を閉じて、髪の毛をくしゃくしゃとかき上げた。頭の中を高速で整理整頓した。

「唯我?ごめん、迷惑だった?それなら……」

「んなわけねえだろ」

「本当?」

 とっさに声が出なかった。うなずいて、呟くように言った。

「嬉しすぎるだけ」

 しかし、静かな食堂には十分響いた。すっげえ嬉しい。けど、やられた。予想外だ。先に出されちまった。

 優里子は「良かった」とホッとした。すると、視線の先に赤い小さな箱が差し出された。

「……何これ」

「プレゼント」

「は?」

「クリスマスプレゼントだよ」

 優里子は黙ってしまった。プレゼントには触れようともしない。

「何だよ。受け取れねえのかよ」

「うん……」

「マジかよっ」

「だって!施設の決まりでね、職員は施設の子から個人的なプレゼントはもらえないって」

「お前のこれは何だよ!」

「たっ、誕生日プレゼントだってば!」

「京都で買ってきたヘアゴムは受け取ったじゃねえかよ!」

「あれは、唯我が内緒でくれたから!そっ、それに、お土産っていうか、プレゼントとか……、初めてくれたから、受け取りたかったのよ……」

 優里子は首に手を回した。髪を束ねるゴムには、肌触りの言いちりめんの花が咲いている。指で撫でると、受け取った時の嬉しさが蘇った。

「じゃあこれも受け取れるだろ」

「でっ、でも」

「一生秘密のクリスマスプレゼントだよ!」

「……」

 優里子は箱にゆっくりと両手を伸ばした。待ちきれずに強引に手に押し当てると、優里子は指の先でプレゼントを受け取った。

「開けて。見て」

 箱の中には、小さな赤いガラス玉がダイヤモンドみたいにカットされて埋め込まれたピアスと、黄色いハンカチが入っていた。

「わっ、可愛い。……何で、突然?プレゼントなんて、いつもくれたことなかったくせに」

「お礼……」

「お礼?」

 違う。それもあるけど、そうじゃない。ちゃんと言え!ちゃんと……。

「……優里子にあげたかったんだよ。特別だから」

 言ったはいいが、優里子のことを見ることはできなかった。「好きだから」とも言えなかった。なのに心臓はバクバクして止まらないし、顔からは火が噴きそうだ。情けない俺。

 優里子は俺が耳を赤くしていることに気がついた。袋を開け、外枠からピアスを外して耳につけた。「唯我、唯我」と呼ぶから振り返ると、優里子の耳には赤いガラス玉が、小さな星のように光っていた。

「どう?似合う?」

 俺は京都土産の花のヘアゴムを初めてつけてもらった時と同じように体が火照った。俺がしたプレゼントを身に着けてくれる優里子を見ると、どうしてもこうなってしまうらしい。体のどこもかしこもムズムズとして、モゴモゴとする。

「……当たり前だろ」

「当たり前?何それ。褒められてる気がしないんだけど」

「似合いそうだなって思って選んだんだよ。似合ってて当たり前だろ」

「……」

 優里子が黙ってしまった。俺は後悔した。何でこう、正直に言えないものか。「似合ってる」そう言えばいいだけなのに!瀬良ならサラリと言ったに違いない!うぜえ!!

 俺が顔を真っ赤にしていると、優里子がクスクスと笑い出した。

「そっか。こんな可愛いのが似合うと思ってくれたのね」

「……そう、だけど?」

「嬉しい!ありがとう、唯我」

 頬を染めて、嬉しそうに笑っている優里子は、今日一番に可愛かった。

「ゆ、優里子こそ……」

「うん?」

「何で、職員の決まり破ってまでくれたんだよ」

 俺は定期券入れを見せた。すると、優里子はそっぽを向いてしまった。

「それは……、あげたかったからよ。決まりを破っても、今日は、今日しかないから」

 優里子の頭の中には、一瞬、みこが俺に抱きついている様子が浮かんだ。

「唯我だって言ったじゃない。特別だからって」

「……それって」

「私にとって唯我は、特別なの」

 俺は期待した。それって、優里子が俺のことを……?

「大切な、だから。あげたかったのよ」

「…………、だよな。はああ。そうだと思った」

「何よ、その反応は!」

 落胆した。テーブルに頬を乗せ、優里子から顔を背けた。優里子が言う「特別」だなんて、「弟」以外に何があるってんだよ。だけど、「特別」は「特別」だ。俺はテーブルの上で顔を回して、優里子を見つめた。

「言っとくけど、お前の特別と、俺の特別は違うからな」

「え」

 優里子はそこで、俺が優里子の手に指を絡めていることに気がついた。

「なっ!何!?」

「ダメ。離すな」

「何で……」

 優里子は見るからに焦っていた。それが面白くて、可笑しくて、嬉しかった。

「特別だから」

 優里子は俺を拒めず、どうしたらいいのかわからなかった。ドキドキと胸の奥で気持ちが揺れている。体は火照っているのに、手先だけが冷たい。

 その時、優里子が「あ……」と呟いた。窓の外を見ると、雪がしとしとと降り始めていた。

「通りで冷えるわけね。唯我、ホワイトクリスマスになったね」

「ホワイトクリスマス?」

「知らないの?雪の降るクリスマスをそう呼ぶの。特別なクリスマスってことよ」

 「特別」という言葉には熱があった。俺は「特別」を飲み込み、「ふうん」と中庭に目をやった。

「来年は、きっとこんなふうに過ごせないね」

「ああ。……それでいい」

「今年は特別、いいクリスマスになったな。嬉しいな」

 俺も嬉しかった。俺にとっても、今年は特別なクリスマスになった。だけど、別に今年ばかりが特別というわけではない。

「俺は、毎年特別だけど」

「そうなの?」

「優里子がいれば、特別だ」

 俺は優里子の肩に頭を置いた。驚いたのか、優里子の手が一瞬離れたが、強引に握って引き寄せ、今度は両手で握った。絶対離してやらない。

「もう、クリスマスが終わるな」

「……あと、5分で終わるね」

 胸は秒数を数えるように脈打った。絡まる指先で揺れ、優里子の肩に触れるこめかみで揺れ、重なる腕の中で揺れる。俺の気持ちが伝わってしまってもいい。優里子の言う「特別」なんて、消えてしまえばいい。

 優里子は必死に冷静になろうとした。ドキドキという脈は指先に、肩に、腕に、ピアスを通した耳でも打っている。唯我にドキドキとかしてない。ただ、驚いてるだけ。それだけ……。「弟」なんだからっ。

 自分にそう言い聞かせていると、「なあ」と男の子の声がしてビクッと驚いた。

「世間一般の弟たちは、姉にこんなことすんのかな」

「…………、わかんない」

 俺は驚いた。てっきり、「そうなんじゃない?」なんて寝ぼけたようなことを返されるのかと思っていた。チラッと優里子の顔を見ると、頬杖をつき、潤んだ瞳を窓の外に向けていた。頬が少し赤く見えるのは、俺がそう見たいからかもしれない。

 ニヤけて止まらなかった。俺は初めて、その一瞬だけ、優里子の「弟」じゃなくなった気がした。

「雪、キレイね」

「うん」

 二人だけのたった5分間のホワイトクリスマスは、世界で最も一瞬の5分間だった。

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