第75話 何になる!?

 真夏の太陽に焼かれるアスファルトに向かって、ホースを通った水が7色に光りながら噴き出す。滑走路周辺に立つ作業員は、上下長袖の服に身を包み、炎天下の水鏡の上を歩いていた。国際便の搭乗ロビーに並ぶ椅子に座る樹杏は、見慣れているはずの空港の様子を見つめていた。

 こんな暑い中、今頃、唯我はJr祭か。

「はあ。僕の見送りが、小池君だけとは悲しいなあ」

「ええ、すみませんねえ。失礼なガキンチョめ」

「君こそ、最後まで失礼なマネージャーだよ」

 両膝の上で頬杖をつく樹杏の隣で、小池君はため息交じりに言った。樹杏が一番気に食わなかったのは、小池君の格好だった。

「何さ!一人で浮かれて、アロハシャツなんて着てさ!似合ってないからね!」

「ええ、浮かれてますとも!これから5日、俺はアロハでバカンスですから!」

「ずるいずるいずるい!!」

「静かにしなさい!」

 小池君は樹杏の頭を掴んで下げた。解放された樹杏は「つまんなーい」と口を尖らせて呟いた。樹杏はバッグの中から雑誌『théâtre』を取り出した。表紙にはジールの恰好をした自分が大きく載っている。ペラペラとめくっていくと、樹杏の特集ページが現れる。細かい文字の背景に、愛嬌たっぷりに笑う幼い樹杏から、少しずつ成長する姿の写真が並んでいる。

 次に5月から6月にかけて行われた舞台『ジール スタンドオンザグラウンド』のページが見開きで載っていた。樹杏の満面の笑みの横に、同じようにジールの恰好をした俺が愛想のかけらもない表情で立っているのを見ると、樹杏はクスッと笑った。

「唯我君。今日はJr祭初日で見送りに来れなくて、残念ですね」

「……ははっ。来たら殴って追い返してやるさ。公私混同野郎ってね」

 俯く口元は笑っているが、クリンクリンの赤毛に隠れた目には、少し涙が光って見えた。全く、正直じゃないんだから。小池君はふうっと鼻から息を吐き切り、見なかったことにした。

「Jは、イタリアで舞台演技のスクールに通うんだっけ?せいぜい頑張れ、一人でな」

「フンだ!小池君がいなくたって、僕は一人でやっていけるさ!」

「強がっちゃって」

「それは小池君でしょう?僕がいなくなって寂しいくせに」

「むしろ清々するわ」

「金づるだったろうに」

「こき使われて、こちとら過労死ラインで働かされたんだ。少しは休ませろ」

「ああ言えばこう言う」

「文句は言うわ、すぐへこたれるわ、おんぶさせるわ」

「嫌んなっちゃうね」

「嫌んなっちまうよ」

 二人ははあっと重たいため息をついた。樹杏は俯いた顔を上げなかった。小池君は椅子の背もたれに預けた頭を下げなかった。

 2人の付き合いは6年程になる。樹杏が千鶴さんにスカウトされて、すぐに小池君が樹杏のサポート兼お目付け役としてそばにいるようになった。小池君は、樹杏のワガママに嫌気がさすこともしばしばあったものの、演技に対する真剣な姿勢には、ガキンチョとはいえ尊敬できた。2人には、2人にしか共有できなかったものがたくさんあった。

「お礼なんて、一生言ってやらないんだから。鬼畜マネージャーめ」

「俺だってそうだ。ケツの青い役者バカ」

 同時に鼻をすする音を立てた時、搭乗開始のアナウンスが鳴った。

「ほら、さっさと行っちまえ」

 手のひらで涙を拭った小池君は、最後まで樹杏を睨んだ。指で赤いまつ毛を濡らす涙を指でなぞり、「そうする」と言いながらふふっと笑った。

「チャオ、小池君」

「あばよ、

 樹杏は驚いた。小池君が樹杏を呼ぶ時は、いつも「J」だった。聞きなれない自分の名前に、思わず笑った。

「へへっ。樹杏だって。変なの」

 チャオ、大好きな日本。チャオ、唯我……。

 樹杏は両親と共に空へと旅立ち、小池君は鼻をすすりながらキャリーケースを引き、涙で濡れる目元をサングラスで隠した。

 その頃、俺はJr祭の会場で一人空を見上げていた。真っ青な空の中を、白い飛行機が雲を引いて飛んでいくのを見ると、俺は樹杏のことを考えてしまう。今頃、空の上か。すると、隣にいた聖君貴之が声をかけてきた。

「唯我、Jのこと考えてるでしょ」

「え?」

「そらそやろ。相棒やし」

「見送り、行かなくて良かったのかよ」

「……樹杏は、俺が行かないのわかってんだろ。きっと」

「そっか」

「二人らしいなあ」

 俺はJr祭の初日、何度も空を見上げた。去年は二人で立ったJr祭のステージに、俺は一人で他のグループのバッグダンスに立っていた。しかし、体は一つでも心は2人でいるような気がして、寂しさは少しも感じなかった。きっと、この先のステージには、いつだって隣に樹杏がいるのだろうと思えた。

 飛行機が空に雲を引いた次の日から、会場は大雨に打たれた。Jr祭はやむなく延期の上、後日、都内の屋内会場でステージ演技のみが行われたのだった。

 樹杏の持っていた『théâtre』を見たのは、Jr祭が終わってからのことだ。根子さんにもらった『théâtre』を施設に持って帰ると、優里子は既に本屋で買っていて、自分の机の引き出しに大事にしまい込んでいた。


                ****


 夏休み中旬、俺は施設長と共に中学校の教室にいた。三者面談だ。

「小山内君の成績であれば、近隣の学校はもちろん、私立高の推薦も可能です。一般入試も問題なく通るかと思います」

「そうですか」

「その後、小山内君は進路について答えは出せましたか?」

「……行く意味はあるってところまでは、理解できました」

「一歩前進ですね」

「先生。唯我の進路は、どれくらいまでに決まっていれば、高校入試に間に合うものでしょうか」

「そうですねえ。入試が始まるのは年明けです。願書の提出は、早いところでクリスマス前というところもあります。選択肢を多くしたいのであれば、早めに、できれば、秋までにというのが良いかと。ただ、もし中学を卒業してすぐ社会へ出るとなれば、また変わってくるのですが……」

「すみません。俺、はっきりしなくて……」

「いいのよ、小山内君。進路っていうのはね、あなたの将来への最初の分岐点なの。自分のために、よく考えるといいわ」

「はい」

 三者面談は想像以上に気力を使うということがわかった。おかげで教室を出た足は重く、背中に樹杏でも乗っているかのような重さを感じた。昇降口まで来ると、体育館の方から、女子バレー部の「ナイサー!」という掛け声と、バレーボールが打ちつけられる音が響いて聞こえてきた。

「どうしたんだい、唯我?」

 俺は知っていた。既に8月も折り返しを迎え、中学3年生の大半が部活を引退している。体育館の女子バレー部にも、午後から始まる男子バスケ部にも、校舎に響く「ラ」の音を重ねる吹奏楽部にも、大沢や康平、泉美はいないのだ。皆、もう受験生になったのだ。俺は、何になればいいんだろう。ジェニーズの小山内唯我にしかなれないのだろうか。

「施設長。俺、やっぱり今日レッスン行ってくる」

「え?今日は無い日って言ってたのに」

「うん。でも、何かジッとしてられなくて……」

 俺は施設に帰ると、すぐにレッスンの準備をして出て行った。向かったのは事務所ではなく、都内のスタジオだった。


                ****


「唯我じゃん。今日はレッスンの予定なかったよな」

 スキンヘッドに灰色グラスのメガネをした富岡さんは、今日は来る予定のなかった俺を見て驚いていた。そこは元青春隊メンバーの富岡圭司さんが立ち上げたダンススクールのスタジオで、千鶴さんのライブ以来、事務所のレッスンと並行して通うスクールだった。

「遊びに来ました」

「あははっ!そうか。歓迎するぜ。だけど今日は……」

 俺たちが話していると、廊下の向こうからカランコロンという下駄の足音がした。振り返ると、そこに和服を着た人がやって来た。薄化粧をして、長くつややかな黒髪をオールバックにしてポニーテールでまとめている。美人だが、着物は男物で肩もはっている。

「トミー、来たよお」

「おお、歌子!」

 ひらひらと上品に手を振る姿は美しく、わたあめのようにふわふわとした裏声で、名前は「歌子」。俺にはその人が男なのか女なのか判断ができなかった。隣に立つと、富岡さんと同じくらいの高身長だった。流し目がゆっくりと俺に向くと、クッと赤い唇が上がった。

「あらん?見たことない子がいるねえ」

「ジェニーズの後輩」

「お、小山内唯我です」

「へえ、通りで整った顔なんだ。可愛いねえ。おいくつ?」

「14です。中3です」

「あたいは歌紫太うたしたってんだ。よろしくね。漢字はねえ、歌に紫、それからあ……」

 歌子さんは体をかがめ、俺の耳元で囁いた。

「ふっとい……の太よ。いやあん!顔真っ赤!可愛いねえ」

 あははっと笑う歌子さんに、富岡さんは「いじめるな」と呆れたように言った。俺は顔から耳まで真っ赤になり、生ぬるい息が吹かれた耳を手で覆がった。

「あたいんことは、歌子でいいよ。そう中3かい。うちのきんと一緒だ。今日はこの子も遊び相手?」

「その予定はなかったが、入れてもいいだろう。お前、ヒマだろ?」

「え」

 「遊び相手」とは何だ。な、何をするつもりだ!?俺は普通にダンスをしに来たはずだったのに!

「なら、琴の次も呼ぼうか。あいつこそヒマしてるさ。ちょっと待ってな」

 歌子さんは持っていた巾着からスマホを出し耳に当てると、そのまま廊下を歩いて行った。富岡さんはクスクス笑い、俺の肩にポンと手を置いた。

「富岡さん、今日はおじゃまして良かったですか?」

「ああ、いいだろ。ただ、メンバーのキャラ濃いぞ。覚悟しとけ」

「あの、歌子さんて何かしてらっしゃる方なんですか?」

「お前知らないの?あいつ歌舞伎役者だよ。女形やらせれば、それはもう絶世の美女だぜ」

「歌舞伎!」

 俺は中学校の音楽の授業の鑑賞でしか見たことがない。それも適当に見て適当な感想しか持たなかった。俺には未知の世界だ。

「あっらーん!唯我ちゅわん!」

 その時、聞き覚えのある男の声がした。振り返ると、事務所のオカマコーチが走ってきた。

「お疲れっす!」

「トミーお疲れ様。相変わらずカッコイイわあ!で、唯我ちゅわん。おひさー」

「お、お久しぶりです」

「トミーのところでレッスンしてるって本当だったのねえ。何なに?今日は一緒に遊んでくれるのん?」

「え」

「あはははっ!露骨に困った顔すんな、唯我。遊ぶっつったって、ストレス発散のために踊るって話だ。残念ながら、ご期待のいかがわしい遊びは一切ないぜ」

「なっ!期待なんてしてませんっ」

 俺の真っ赤な顔を見て、富岡さんは「嘘こけ!」と腹を抱えて笑った。

「あー!カマッチョー!久しぶりい」

「あら!歌子お!」

 歌子さんは電話ついでに動きやすい格好に着替えてきた。オカマコーチと両手を合わせ、女子のようにキャッキャと話ていた。俺より背が高く、骨格のいい男二人の様子を見ていると、先が思いやられた。

 しかし、レッスン室での男たちは、それはキレッキレのダンスをし続けた。オカマコーチのレベルはよく知っていたが、歌子さんのダンスはとても優雅で美しかった。まるでバレリーナがポップダンスを踊っているようなしなやかさがあった。

「唯我、お前遅れてるぜっ」

「はいっ」

 少ししか踊っていないはずなのに、汗が止まらなくなった。息つぎをしていると2人に置いていかれ、富岡さんに指摘される。持ってきていたポリカはすぐに無くなり、俺は踊っている男たちの水分も買ってこいとおつかいを頼まれた。これは、大変な時に来てしまったと後悔した。しかし、汗をかいたり、ポリカを飲んだり、そうすることで、俺の胸の中にあったモヤモヤが少しずつ晴れていくのを感じた。

 スタジオを出たときには、外は真っ暗だった。俺たちは気持ちいい疲労感と空腹感に見舞われ、夕飯を食べに行こうと街を歩き出した。

「あ、ようやく繋がった!おい琴の次、姐さんの電話に返しもしないとは……」

 歌子さんは誰かと電話をしていた。通話が終わると、「全く」と言ってから、俺の肩を組んできた。

「これから琴の次来るってさあ!ごめんなさいね、唯我君。もうすぐ同い年の奴が来るからね」

「はあ……」

 この人が呼ぶ男って、オカマなのかな。俺はまた大変な人が来そうだと不安になった。

「お店に入ったら、悩みでも聞いてあげるわん、唯我ちゅわん!」

「悩み?」

「こ・い・の!うふん♡」

 オカマコーチは俺にウィンクした。背中にゾゾゾと悪寒が走った。そんなこと、この人たちには絶対言えるわけない。ただのネタにされるに決まってる!


                ****


 店に入ると、案内されたのは個室の座敷だった。俺以外の男たちの前には泡の立つお酒と、サラダや刺し身が並んだ。時間が経つと、顔を赤くしたオカマコーチと歌子さんが、女子のように手をひらひらさせながら話し出し、俺の肩を組んで頬をすり寄せた。その様子を見ている富岡さんは爆笑していた。

「そっかああ!進路ね進路!懐かしいわあ」

「唯我ちゅわんも、とうとう高校生になるのねん。こーんな小さくてね、バク転ができるようになりたいって言ってた子がねえ」

「さっすがジェニーズ!バク転できるのお?見たい見たいいっ!」

「こんなところでやらせねえよ!ったく、酔っぱらいどもが」

「進路なら、とりあえず適当な高校行っとけって話じゃなあいい?」

「いいなあ。あたいは選べなかったものお。公立の普通の高校生にどんだけ憧れたことか!」

「そうか。近江屋おうみやは私立だもんな」

「まあねん。はあ、若いって素晴らしいわあ!うらやましい!このピチピチ肌がうらやましい!」

「いやあん!歌子だけうらやましいい!私もおお!!」

 酔ったおじさん2人に頬をつままれ、撫でられ抱き寄せられても、何も楽しくなかった。富岡さんは、俺が顔を青くしているのをパシャパシャとスマホを鳴らしながら爆笑するばかりだ。

 その時、座敷の扉がガラリと開いた。そこには、俺と同い年くらいの男子がいた。ふさふさまつ毛の目力が強く、色白な男子だった。

「歌子姐さん」

「あらあ、遅かったじゃない!琴の次」

「遅いもんですか。実家から飛んで来たんですよ。もうお風呂入ろうって服も脱いで」

「そのまま来ても良かったのにい」

「全裸でですか?未成年とはいえ捕まりますよ。全く、私は酔っ払いのはしたない会話には加わりませんよ」

「ノリ悪いわねえん!」

「この状況において、ノる必要性を感じないだけです」

 とてもしっかりした応対をする「琴の次」は、扉を背にして正座した。富岡さんは手を上げ「よおっ」と声をかけた。

「お久しうしておりました、富岡さん。歌子姐さんが、いつもお世話になっております」

「琴の次、紹介するぜ。こいつは」

「存じております。小山内唯我君でしょう?ジェニーズの」

「へえ、知ってるんだ」

「はい。『青春・熟語』の萩野君。毎週見てます」

「あ……、ありがとうございます」

「本物はテレビで見るよりめちゃくちゃイケメンですねえ。感動しました」

 俺は頭を横に振った。俺なんかより「琴の次」がイケメンである。なんて端正な顔立ちで、振る舞いの上品な人だろうか。俺の周りにはこんなしっかりした男はいない!思い浮かぶのは、康平や長谷川、樹杏に聖君貴之のヘラヘラ笑う顔だった。

「私は綿谷琴次郎きんじろうと申します。歌子姐さんはじめ、皆様には”琴の次”と呼ばれています。以後、お見知りおきを」

「小山内唯我です。よろしくお願いします」

 正座する琴次郎は、手を揃え頭を下げた。俺も同じように頭を下げた。

「私、実は小山内君のことは、もう随分前から知っておりました」

「え?」

「ドラマ『シークレットハート』のいさみちゃん役。あれはとても良かった。同い年にこんな男の子がいると思い、衝撃を受けたことをよく覚えています」

「あ、あれは、俺は全然……」

 それは俺が小学5年生の時に出演したドラマの役だった。その名前を聞くのも懐かしく、思い出すと、とても苦労したドラマだったという気持ちが蘇った。

「あたい、それ知ってるよお。琴の次と毎週見てたもの」

「へえ。そんな良かったのか?」

「トミー知らないのん?唯我ちゅわん、体は男だけど、中身は女っていう複雑な役やってたのよん」

「へえ。難しそうな」

「そうそう!だけどねえ、これが上手なのよ!しかも美少女よ、美少女!ちょっと検索しちゃおっと」

 そうして歌子さんはスマホで検索した画面を富岡さんに見せた。次に俺にスマホの画面を見せてきた。

「これ、琴の次よ」

「ええ!?」

 そこには、歌舞伎の化粧に女形の衣装をまとう琴次郎が写っていた。白塗りの顔に真っ赤な口紅、小顔の下に細い首筋。ピンク色の振袖には、白い紙吹雪が舞っている。これを琴次郎だと思わずに見たら、美人なお姫様の写真にしか見えない。

「私は当時、自分が男でありながら女形をすることに抵抗を持っていました。男ならば、カッコよく見栄を張りたいじゃないですか。ですが、あのドラマを見た時、黒いランドセルを背負う美少女に心奪われたのです。男でありながら、女役ができる。これってすごいことなんじゃないかって……。その時、私の悩みは吹っ切れたのです。小山内君のおかげとしか言いようがありません。あれ以来、私は、あなたのファンなのです」

「綿谷さん……」

「よかったら、今日を機にお友達になりたいです。どうか名前で呼んでくださいな」

「だ、だったら俺も、名前で呼んでくれ。琴次郎」

「嬉しいな。よろしく、唯我君」

 俺たちは握手をした。その手の上に、ひたと歌子さんの手が乗った。

「ねえねえ、あたいは知ってるんだよ?琴の次」

「何を?」

「唯我君、タイプなんじゃない?」

「……何言ってるんだい、歌子姐さん」

「唯我君、気をつけたほうがいいわよお。琴の次はバイだから」

 俺は歌子さんの言う「バイ」の意味がわからなかった。頭を傾げ、「バイ?」と言うと、「バイってのはあ」と歌子さんが言い出したが、「ちょっと、姐さん」と琴次郎が口を挟んだ。

「余計なことは言わなくて良いの。ね?私たちは今、友情を結んだところなのですから」

「まあまあ、ムキになっちゃって」

「唯我君、今度私の出る舞台を見に来ない?」

「えっと……」

「おい、唯我。歌舞伎はいいぞ。すっげえいいぞ!」

 富岡さんが声を大にして言うと、歌子さんが「嬉しいもう」と照れてくねくねと動いた。富岡さんが言うのなら、本当なのだろう。

「行ってみようかな」

「やった。じゃあ連絡先を交換しましょう!」

 琴次郎が混ざり、お酒の席は一層盛り上がりを見せたが、それも徐々に静まった。歌子さんは背後の壁に寄りかかってウトウトし始め、オカマコーチは歌子さんの肩にもたれて眠っている。富岡さんは静かに日本酒をトトッとお猪口に注いで、スマホを指でなぞっている。おかげでお酒を一滴も飲んでいない未成年男子2人が、居酒屋で冷たい緑茶を飲みながら酒のつまみをつついていた。

「進路?どの高校に進学するかってこと?」

「ああ」

「私は今通ってる中学校が附属だから、そのまま高校へ上がるよ。唯我君は公立を考えてるの?」

「いや、そんな具体的なところも決まってなくて……。高校行かないって言ったら、絶対行けって言われて」

「高校に行かないでどうするんだい?」

「仕事と、レッスンと、演技の勉強とか、そういうことに時間を使えたら」

「ああ。それは、気持ちはわかるよ。私も公演前はできる限り稽古してたいって思うもの」

「だろ?やっぱり同じような仕事を持つ人はそうなんだ。少し安心した」

「行かないってのもね、確かに選択肢の一つだよね。唯我君は、もう自分の道を決めてるんだものね」

「自分の道?」

「ジェニーズアイドルとして、生きていくってことさ」

「それは、そうだけど……」

 俺は、改めて「道」と言われると少し困惑した。それは、いつも言う単純な「頑張る」という言葉の意味とは違うように感じた。

 その時、歌子さんのスマホが鳴った。歌子さんは目をつむったままスマホを耳に当て、「申し申しそうらえいかがあ?」という、わけのわからない言葉を呟いた。

「あらん、カンちゃん!……え?今あ?うん、そうよお。ええ、いるわ。琴の次ならここに……」

「何です?歌子姐さん」

「え?いや、カンちゃんから、あたいがどこにいるかっていうラブコール?」

「ああ。勘兵衛さんには、私がどこに行くかって伝えてるから」

「すっごい興奮しちゃって、まあ……。どうしたの、カンちゃん?ふふっ。今夜はあたいを抱きしめてくれるのん?」

「ちがわいっ!!!!」

 男の声と共に、扉がガラガラビシャンと勢いよく開いた。そこには、汗まみれでゼエゼエ息を切らせた坊主の男が立っていた。大声と扉の大きな音にビックリした俺たちは、一瞬固まった。眠っていたオカマコーチさえ「何事!?」と起き上がった。

「勘兵衛さん、どうしたんです?」

「おおっ……、ゼエゼエ、琴の次……フーフー」

「とりあえず、息を整えて。落ち着いて」

 琴次郎はテーブルの上の水を取り、適当なコップに注ぐと、坊主の男に渡した。男は「サンキュウ」と水を一気飲みした。ガアアッ!と声を上げ深呼吸すると、またも大きな声を上げた。そのハキハキとした声は、舞台に立つ俳優のそれであった。

「歌子、琴の次!聞いてくれるか!?」

「もちろんです」

「なあにいん?」

「猿飛舞台の猿太夫えんだゆうが落っこちて、骨折だって!」

「「ええ!?」」

 俺と富岡さん、オカマコーチは全く話に入っていけなかった。3人して目を合わせ、「何のことだろう」と首を傾げた。

「どうすんだい?舞台は来週だろう?猿太夫が欠けちゃあ、舞台の構成も変わってくるんだろう?」

「ですよね。それに人気のキャラでしょう?欠くわけにも……」

「ああ、そうなんだよ。くそお!どうして琴の次はバク転ができないんだ!!」

「やろうと思ったこともありませんよ。それに、猿太夫はかなりアクロバットな役じゃないですか。私には無理でしょうよ」

「どうしようどうしよう!!開演まで、あと一週間なんだよ!!」

 男は坊主頭を抱えて大きく揺らし、ワーワーと大声を上げ続けた。オーバーリアクションを見れば、心底困っているというのがよくわかった。

 「そうさねえ……。あたいより小柄でえ」と歌子さん。

 「バク転ができて」と琴次郎。

 「舞台出演の経験ある奴!!どこかにいねえかい!?」と男は叫ぶ。

 歌子さんが「そうさねえ」と頬に添えた手に顔を傾けた時、その場に集まっていた全員が「「んん?」」と顔を上げた。

 「あたいより小柄で、琴の次くらいの背丈でえ……」と歌子さん。

 「バク転ができてえ?」とオカマコーチ。

 「舞台出演の経験がある奴……」と富岡さんが言う。

 次の瞬間、全員が俺を指差した。

「「いるじゃん!!」」

「……え、俺っ!?」

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