第73話 大沢の好きな人

 修学旅行明けの月曜日、俺はティーンズ雑誌で特集が組まれるという『青春・熟語』の取材のため、共演者と共に都内のおしゃれ歩道、キャロットストリートにいた。平日の午前中はさほど人影はない。俺は『青春・熟語』の役、”萩野君”の制服を着ていた。

 ベンチに座ってカメラに視線を向けるとパシャリ、顔を反らしてニコリとするとパシャリ、ストリートの柵に体を預け、ポケットに手を入れ視線を動かすとパシャパシャパシャリ。

 これまでも何度か写真撮影の経験はあるものの、俺は写真に撮られることが少し苦手だった。カメラのシャッター音を聞いてしまうと体はカチコチに固まってしまうので、いつも聞かないフリをする。カメラのレンズが地面に向かうと、俺はようやく肩の力を抜いた。

君、ありがとう!次、ちゃん、君!カモン!」

「オッケーオッケー!」

「可愛く撮ってよね!よろぴー」

 「夢坂ちゃん、塚田君」とは役の名前で、二人は武石ユリア、岡本将暉というティーンズモデルだった。今日のカメラマンは被写体となる人物のことを、役の名前で呼びたがる人だった。出番を終えた俺は、もう一人の共演者である朝倉麻耶の元へ戻った。

「おかえりなさい」

「ただいま」

「唯我君、写真得意じゃないんですね。ジェニーズなのに」

「ああ、バレた?」

「動きがロボットみたいでした」

「カメラマンさんが役の名前で呼んでくれるから助かったよ。あの場にがいたら、もっと固かったと思うから」

 つまり、己が被写体なのではなく、萩野君が被写体だったということであり、それはカメラの前で演技することと同じだった。舞台『ジール スタンドオンザグラウンド』のジールの写真撮影の時のように、そこに立つのは俺ではなくキャラクターであれば良いのだ。その方がずっと緊張しないで済んだ。

「それが読み取れました。萩野君なら、もう少し柔らかい表情で写りそうなイメージですから」

「ダメ出しとかやめてくれ。外から見て、写真に撮られてたのは俺だった?萩野だった?」

「萩野君でしたよ?7割程はね」

 ふふっと笑う麻耶は、子役時代に樹杏と共演経験もある。役者としては、かなりのベテランである。俺は『青春・熟語』で友人になって以来、麻耶は頼れる俳優仲間となった。

「にしても、さすがモデルさん。あの2人、シャッターの音止まりませんね」

「だな」

 2人がポーズを決める度に連写の音がした。視線の向き、口角の角度、腕の動き、制服のスカートや袖のほんの少しの揺れにさえ、カメラマンはシャッターをきった。

「センキュー2人とも!最後に皆で撮ろう!向こうから歩いて来てちょーだい!」

 俺と麻耶は「はい」と返事をしてユリアと将暉と合流した。カメラマンから数メートル離れた場所から、皆で話しながら笑いながら、ゆっくりと歩いてカメラマンの前にやって来る。それを何度か繰り返し、カメラマンが満足したところで撮影は終わった。

「出来上がるの、楽しみにしてます!」

「ユリアちゃん!またよろしくね!」

 ユリアはティーンズ雑誌で人気のモデルであり、今日のカメラマンとは何度も一緒に仕事をしているらしい。スタッフたちに手を振ると、ユリアは満面の笑みで俺たちのところに戻ってきた。

「ねえねえ皆あ!雑誌ができたら、ドラマ撮影の時に持ってくるからさあ、サインちょうだいよ!宝物にすんだあ!」

「マジかよ!やべえ、練習しとこう!」

「俺も……」

「スタッフの人に、今日の写真現像をお願いしちゃったから、受け取ったら配布しまーす!」

「ユリア、今どき現像写真かよっ」

「いつもみたいにデコってから渡されると困るので、そのままの状態でくださいね」

「ええ!?ダメ?可愛いのにっ」

「俺からもお願いするよ、ユリア」

「唯我まで!皆ノリが大事ってこともあんじゃん!」

「そういう時もあるけど、今回はそのままで。これやるから」

「わあ、八つ橋だあ!あ、そっか!唯我、先週修学旅行だったんだあ!いいなあ」

「俺にもくれんの?サンキュー!」

「唯我君、ありがとうございます」

 俺は持ってきていた紙袋の中からお土産を出し、3人に渡した。

「いいなあいいなあ!私とまーやんは高校入ったばっかだから、修学旅行来年だよね。ほら、高校って2年生で行くじゃん?」

「ですね。沖縄に行く予定ですよね。岡本君は今年高2ですけど、修学旅行はどちらに行かれるんですか?」

「オーストラリア!3泊4日。秋に行くから、何かお土産買ってくるわ」

「楽しみにしとくー!」

 俺たちは午前中の撮影を終え、それぞれ学校や次の仕事に向かうため解散した。俺はYシャツにズボン、片手に学ランを持ち、電車に乗った。


                ****


「ねえ、大沢さん」

「何?」

「唯我君とは、どんな関係なの?」

 大沢が隣のクラスのギャルたちに囲まれたのは、体育館横の女子トイレの中だった。体育館を使用する人が使うトイレのため、授業や部活の時間ではない限り、人はほとんど来ない。大沢は電気もついていないトイレの中、目の前でほくそ笑む星野さん以外に視線のやり場がなかった。

 何、その質問……。大沢はとても困った。何て言えば、この子に通じるのかしら。

「ただの、クラスメイトよ。それ以上の関係なんて何もないわ」

「ただのクラスメイトがさあ、川沿いを2人きりで歩くことなんてあるかなあ?」

「私たち、大沢さんと唯我君が2人きりで川沿いを歩いてるところ、見たんだよねえ」

 それは大沢にとっては思い出したくない場面だった。心臓をグッと掴まれたような嫌な痛みを感じた。

「偶然そうなっただけよ。別に特別なことがあったわけじゃない。それを聞いて、星野さんは何かしたいの?私に言いたいことがあるなら、はっきり言ってもらえないかな?こんなところに呼び出されて、もうすぐお昼休みも終わっちゃうのに……」

「そしたら、一つお願いしてもいい?」

「何?」

「大沢さん、今後唯我君に近づかないで」

「……はい?」

「口きかないで。それから、近づいてもほしくない」

 大沢は珍しくイラっとした。何それ。この子、さっきから何言ってんの?大沢はため息混じりに言った。

「意味わかんない」

「は?何、口答えすんの?ケンカ売ってる?」

「はなからケンカ腰で来たのはそっちじゃない。黙って聞いていれば、なんて自分勝手なのかしら……」

「いけない?あんた見てるとこっちがイライラすんのよ。ただのクラスメイト?下心がなきゃさあ、修学旅行で、川沿いで、2人きりになろうとする?見え見えで嫌な感じ。ウザイんだよねえ、そういうの」

「……」

「適当な気持ちで、唯我君に近づかないで。私は、本気なの。本気で、唯我君のことが好きなの」

「本気?何それ……」

「だから恋人になって、唯我君のこと、幸せにしたいの。支えたいの。唯我君の事が何よりも大切なの」

「だから、それが自分勝手なんじゃないって言ってんの」

「あんたに、私の気持ちがわかるわけない。私は、ずっとずっと、唯我君のことが好きだったんだから!」

「星野さんこそ!私の何を知って適当な気持ちだなんて言ってんのよ!?」

 大沢は、星野さんの「ずっと好き」という言葉を聞いて、それまで我慢してきたイライラを爆発させた。その声はトイレの中を反響し、体育館に通じる廊下に響いた。廊下には、大沢を追いかけた泉美、康平、教室で大沢に声をかけたクラスメイト、その他の野次馬たちが息を潜めて集まっていた。

「成美のあんな声、初めて聞いた……」

「これ、先生呼んだ方が良くない?」

「でも、成美なら穏やかに場を収めてくれるんじゃあ」

「この状況のどこが穏やかだよ!泉美のバカ!」

「声が大きい!康平のバカ!」

 泉美は先生なんかよりも、早く俺が来ることを祈った。早く早く早く!小山内君来てっ!しかし、先に現場に来たのは生徒指導の先生だった。

「君たち、昼休み終わるだろう!さあ、教室に戻りなさい!」

「でも、先生!中にまだっ」

「成美が」

「ここは先生に任せなさい」

 野次馬生徒たちは先生の腕によってトイレから引き離され、黙っていることしかできずにいた。その時、クラスメイトの女子が「あっ!」と声を上げた。

「小山内君が来た!」

「「何!?」」

 泉美と康平は昇降口にダッシュした。学校に到着した俺は、のんきに靴を履き替えていた。そこに、血相を変えた泉美と康平がやって来た。

「小山内っ!!」

「おう、偶然だな。おはよう」

「挨拶などどうでもいいんじゃ!来て!小山内君!」

「はあ?そっち、教室じゃねえだろ」

 泉美と康平は俺の両手を掴むと、持ち上げるかのようにトイレに向かった。女子トイレの前には生徒たちが集まり、わかりやすく、とても物々しい様子だった。

「君、落ち着きなさいっ」

「何を知って、幸せにしたいだなんて言ってんの!?」

 叫ぶような大きな声には聞き覚えがあった。

「……え、大沢?」

「そうだよ」

「泉美、一体何が起こって……」

「小山内、よおく聞いとけよ」

「え?」

「お願い、小山内君。聞いてあげて。成美の気持ちを。ちゃんと聞いてほしいの」

 泉美は目を潤ませてそう言った。その表情も、腕を掴む手の震えも、大沢の強く響く声からも、これがただ事ではないことが伝わった。同時に、それは俺が関係しているのだと理解した。俺の頭には、修学旅行の京都の川沿いで、大沢がまつ毛を濡らして笑った顔が浮かんだ。

「唯我の何を支えるの!?何が本気よ!何が大切よ!!ずっとずっと好きだった?だったらわかるんじゃない?唯我が何を大切にしようとしているのか!」

「何よ。そんなのわかるわ!だって、ずっと見てきたんだからっ」

「じゃあ言ってごらんよ。わかってるんでしょう?」

「唯我君は、カッコよくて、余計なこと言わなくて、優しくて、周りのことよく見てて、クールで、それでっ、それで……」

「ダンスが上手で運動神経抜群で?ジェニーズのアイドルで、テレビにも映画にも出てて?芸能人?そんな感じ?何それ……。そんな表面のことしか見てないわけ?笑わせないでよ!」

「唯我君が私のことを好きになってくれたら、きっと大切にしてくれる!そういう優しさがあるって、私わかってるっ」

「唯我があんたのこと、好きになるわけないじゃない」

「何ですって?!」

「大切にしてくれる?そういう優しさがある?目が悪いにも程がある。鈍いにも程がある」

「さっきから、私のことバカにしてるでしょ!」

「あの日、川沿いで私と唯我がデートしているようにでも見えた?それで嫉妬した?バカバカしい。そんなわけないでしょう?」

 頭にきた星野さんは手を振り上げ大沢に近づいた。しかし、後ろから先生に腕を掴まれ、それ以上進めなかった。

「唯我にとって、ジェニーズの活動はお遊びじゃないの。自分の家族のため、大切な人たちを守るための活動なの。決して中途半端な気持ちでなんかやってない!一生かけて、その道を進もうとする覚悟を持ってるの。だから、その気持ちは何より強い。何より……」

「わかりきったこと、言ってんなっ!」

「そう言い切れるなら、わかるでしょう?私たちが唯我の心のほんの少しの隙間にさえ入ることは許されない。どんなに私たちの想いが強いとしても、唯我は受け入れない。あなたのことも私のことも、唯我は、好きにはならない……」

 それは、俺がジェニーズになると決めたきっかけをくれた大沢だからこそ、俺が優里子に片思いしていることを理解している大沢だからこそ言えることだった。大沢が俺をよくわかってくれていることが嬉しかった。同時に、俺は初めて大沢の「好き」という言葉の意味を知った。

「星野さんの恋はきっと、ジェニーズの唯我への恋なのでしょう?私は違う。私は、小山内唯我という一人の男の子に、恋をしたの」

 ……大沢。

「唯我は一生、他の誰にも振り向かない。それがわかっていても、それでも、私はずっとずっと、唯我が好きだった。大好きだった。誰よりも、長く、強く、大好きだった。この気持ちの半分でも、あなたは理解できる?星野さん」

「……」

「私は星野さんが唯我を好きになったこと、共感できる。私たち、そういう友達になれたかもしれないのにっ」

「大沢さん……」

「なのに卑怯よ!私を囲んで、お願いしたいことが、まるで小さい子のワガママみたい。そんなことで、あなたの気持ちは収まるの?違うでしょう?」

「私はっ」

「どうして違うかわかる?あなたが、あなたの気持ちを伝えるべきは私じゃないからよ。何より大切で、誰よりも大好きだって、私じゃなくて唯我に言うべきでしょう?」

 その時、トイレの中に入ってくる足音がした。星野さんは振り返り、そこに立っていた俺を見つけた。

「唯我君……。まさかあんた、唯我君がいるのをわかっててっ」

 俺が星野さんへ近づくと、星野さんの腕を掴んでいた先生が離れ、トイレの出入り口へと他のギャルたちを連れて行ってくれた。俺は星野さんと向かい合わせに立った。星野さんは、俺と全く目を合わせてくれなかった。

「えっと、唯我君。あの、私……」

 俯く口からは、はっきりしない声が落ちていく。俺は星野さんの横を抜け、奥の壁際に追いやられていた大沢の正面に立った。

「大沢、大丈夫?」

「うん。大丈夫よ。ありがとう……」

 その時、星野さんは「唯我君!」と声を上げた。

「唯我君、私ね、私……。ずっと唯我君のこと」

 大沢を背の後ろに隠すように、星野さんに振り返った。大沢は目の前の背中を見た。すると、頭の中に小学4年生の頃の出来事が思い出された。当時、俺をいじめていた男子にからかわれた大沢は、俺の背中に守られたと思った。その瞬間、まだ自分のしたいことにも出会えていなかった小さな男に、大沢は恋をしたのだった。

「俺は、俺の大切なを泣かす奴は、嫌いだ」

「!!」

「君に優しくなんて、きっと一生無理。二度と、大沢に近づくな」

「でも、あのね、唯我君っ」

「悪いけど、もう俺に話しかけてくんな」

 そう言って、星野さんだけを見つめた。星野さんは涙目になって後ずさりして、走ってトイレを出て行った。俺はふうっと息を吐いた。

「おい、大沢。終わったぞ」

「うん。そうだね」

「登校して最初にこれはキツイな。気力かなり使った」

「そうだろうなって思った」

「……おい、出て来いよ。大沢」

 首を半分回した時、震えた手がキュッと背中のシャツを掴んだ。

「わかってる。でも、足が棒になっちゃってて……。あ、先行っていいよ。私、もう少し落ち着いてから、行くからさ」

 俯いて、震える手を離すこともできそうにない奴を、一人置いていけるわけなかった。振り返り、大沢の腕を取った瞬間、ポロッと何かが光って落ちて、床でチャンと音を立てた。

「こっち見ないでっ……」

「大沢……」

「私、本当に嫌な奴なの。星野さんの話聞きながらね、私の方が上だって比べてさ、星野さんのこと、見下したかったの。星野さんより、私の方が良いんだって、そう思いたかったの。本当、最低。本当、嫌な奴だよね」

 いっそ肯定してくれた方が気が楽だ。いっそ嫌いになってくれた方がスッキリする。唯我のこと、諦められる……。

「俺は、そうは思わない」

 だけど、唯我がそんなことする人ではないことを知ってる。

「それだけ、気持ちが強いってことだ。……俺は競争する場所にいるから、そういう強さの大切さをよく知ってる」

 相手を思いやれる唯我の強さも優しさも、知ってる。ずっとずっと、見てきたんだから……。

「唯我、聞いてくれる?」

「うん……」

「大好きなの。ファンとか言って、ごまかすことしかできなかったけど、好きなの。唯我のことが、ずっと、ずっと……」

 ジェニーズの小山内唯我になるより前から、好きだったの。前に立って、その背中で守ってくれた唯我のことが、大好きなの。

「大沢、俺にもずっと好きな人がいるんだ」

「知ってる」

「好きになってくれて、ありがとう。……ごめんな」

 大沢の頭が小さく横に揺れた。顔が上がり、一瞬笑みが浮かんだ。しかし、それはすぐに大粒の涙の中に消えた。トイレの中には、俯く大沢の鼻をスッと鳴らす音だけがした。

「ねえ、唯我」

「うん?」

「一瞬でいいの。軽くでいいの。…………ぎゅってして」

 涙で揺れる肩に置いた手を、慎重に背中に回した。もう片方の手で大沢のポニーテールの頭を覆い、胸に引き寄せた。火照っている大沢の体は燃えるように熱かった。きっと大沢が俺にワガママを言うのは、これが最初で最後だろうと思った。その熱を全部吸い上げるつもりで、長く、強く、抱きしめた。


                 ****


 放課後、文子と一緒に廊下を歩いていた優里子は、施設の居間を静かに覗く施設長を見つけた。

「お父さん、どうしたの?」

「優里子、シー」

 口の前で人差し指を立てた施設長は、小さな声で言った。

「学校から帰って来てからずっとあんな感じでね、職員室に呼びたくても呼べないんだよ」

 施設長が見ていたのは、居間の中にしゃがみ込み、幼いないとを抱きしめる俺の様子だった。てぃあらは俺の脇から、腕も足も回してくっついている。背中には、半分眠るようにブラブラとぶら下がる充瑠がいる。俺はチビたちに囲まれ、俯いていた。それは珍しい様子だった。

「私呼んで来てあげるよ」

 怖いもの知らず、というよりも、空気の読めない文子は簡単に扉を開き、「おおい、唯我!」と声をかけた。文子は四つん這いになって俺の前まで来ると、首を傾け顔色を見た。

「施設長があんたのこと呼んでるよ。唯我」

「……」

「ねえ、何かあったかしらないけれど、そんなに人肌恋しいなら、私のことも抱いていいよ?どうする?ん?」

 文子は俺に両手を広げて見せた。チビたちはボヤァと文子を見つめた。すると、それまでお地蔵のように微動だにしなかった俺が動き出したことで、チビたちは手を離した。チビたちが離れた俺は、あろうことか文子を抱きしめた。文子はかわい子ぶって「キャッ」と声を上げたが、俺は何もツッコまない。次の瞬間、俺は文子を床に抱き下ろした。文子が「いやあん」とクソ気色悪い声を上げたところで、バンと居間の扉が開いた。施設長と優里子の大きな声が轟いた。

「「唯我!!ちょっと職員室に来なさいっ!!!」」

 職員室に呼び出しをくらった俺は、中学の担任の先生からの連絡を受けた施設長と話をした。学校に登校して、午後の授業にも参加できず、2人の女子生徒のもめ事に加わった理由や、結末まで、施設長は黙って聞いてくれた。

「担任の先生もね、唯我に非はないと仰ってくれていたよ。唯我の話を聞いても、僕もそう思う」

「俺は、どうするのが一番良かったのかな。星野さんを傷つけて、大沢のことだって……」

 大沢の言っていた「ずっと」は、俺が優里子を想ってきた時間と同じだけ長いのかもしれない。それだけ長く長く、たった一人を思い続けることの辛さや苦しさを、俺はよく理解できる。そして、辛さと同時に感じられる、たくさんの喜びも。だからこそ、俺は最後に強く強く大沢を抱きしめた。それは決して愛の抱擁ではなかったけれど、ただのハグにも、川沿いで交わした握手にも、精一杯の「ありがとう」が伝わればいい。そう思った。

「起こったことは変えられない。だから、忘れないことが肝心だよ」

「忘れないこと?」

「どんな出来事が、どんな人たちの、どんな思いで起こったのかを、唯我だけは忘れちゃダメだ。僕からはそれだけ」

「……わかった」

 施設長の微笑みは、「大丈夫だよ」と言ってくれているような優しい表情だった。

「でも、もう一つ言っていいかな?」

「何?」

「年頃の女の子をね、軽々しく抱きしめて押し倒しちゃいけないよ。いいね?」

 施設長の大きな手が、ドンと音が鳴りそうなほど重く肩に落ちてきた。ニコニコとした表情の後ろには、「二度とするなよ」という強迫にも近いオーラが溢れていた。俺は「はい……」と呟くように返事した。

 職員室を出ると、腕を組んでムスッとした顔の優里子に会った。

「このエロガキ。文子ちゃんを押し倒すなんて、どうかしてるわ。失礼よ!」

「……いや、マジであれはどうかしてたわ。あろうことか、まさかあのキモイ文子を抱きしめるなんて……。自分で自分が信じられない!ああ、鳥肌が立つ!」

「だから、いちいち失礼なのよ!あんたは!」

 自分のことを最も信じられないのは、抱きしめてしまった文子の体が、肉付きの良さなのか何なのか、意外にも柔らかくて気持ちよく感じてしまったことだった。思い出すと、自分の気持ち悪さに震えた。思わず出たため息は、とても重たかった。

「にしても、子どもたちにあんなに囲まれた唯我は初めて見たな。ふふっ。面白かった。どうしてあんなことになってたの?」

「それは……」

 それは、大沢を抱きしめたという、優里子以外の人に触れてしまったことへの後悔、いや罪悪感がとても強かったからだ。まるで、彼氏彼女でもないのに浮気をしてしまったような嫌悪感に耐えられず、しかし優里子を抱きしめることもできなかったために起こったのだった。

「優里子が許してくれたなら、起こりえなかったんだ。文子のことだって」

「何?私が許すことって」

 隣で優里子は首を傾げた。「何のこと?」という顔にムカついた。しかし、浮気をした俺が、今、優里子に触れていいのかわからないし、それを許してしまうのは甘えだと思った。両手をズボンのポケットに押し込んだ。

「あのさ、優里子……」

「何?」

「俺が、女子から告白されたって言ったら、お前どう思う?」

「……」

 しばらく優里子は黙っていた。俺に当てる視線は、俺の目というよりも、その奥の奥に向かっている。まるで答えを探しているようだった。しばらくして、優里子は「あ……」と視線を反らした。

「そうなんだ、って感じ。私には、関係ないんじゃない?」

「関係ない、か……」

「あ、でもでも!どんな子から告白されたのかは気になっちゃうな!唯我を好きになった子って、どんな子」

「関係なかったらさ、そもそもこんな質問もしねえけど」

「どういう意味?」

「少しは考えろよ」

「は?考えてもわかんないから聞いてんのっ」

「俺のこと、少しは気にしてくれよってこと!」

 結局、俺はイラつきを優里子にぶつけてしまった。そうしないように気をつけていたはずなのに。自分の不甲斐なさに呆れると、思わずため息がこぼれた。俺は階段を上り、部屋に戻った。

 廊下に一人取り残された優里子は階段を見上げて立ち止まった。何あれ。言いたいことだけ言って逃げてったのかしら。嫌な感じ!

「女子から告白された」

 その声を思い出すと、胸の内でとげとげしい気持ちがムクムクと一瞬膨らんで、空気の抜けるボールのようにシュウンと小さく収まった。別に、私には関係ないわよね。うん、関係ないわ……。しかし、もやっとした気持ちがしばらく残っていた。


                 ****


 その夜、康平は自分のベッドに腰掛け、床に座る泉美と大沢を見つめていた。

「そうなの。初めて唯我のステージを見たのは小学生の頃で、夏にやってる」

「わかった!Jr祭りだな!」

「それそれ!友達と一緒に行ってさ……。熱くて忙しくて、もうクタクタって感じ!でもね、唯我とちゃんと握手したのはその時が初めてだったな」

「へえ。疲れも吹っ飛んだのではない?」

「本当に」

 泉美と大沢は、ローテーブルに置かれた皿にたんもりと用意されたお菓子をパクパク食べながら話していた。大沢が時計を見ると、夜の9時を過ぎていた。

「ああ、思い出話だけで3時間も経っちゃった。康平君、ごめんね」

「いや、いいよ」

「かなり興味深い話だったしね」

「ああ。結構楽しかった。また話してよ」

「ありがとう、2人とも」

 3人は表の道まで一緒に行くと、そこで解散した。大沢は手を大きく振り、笑って帰って行った。康平と泉美は、大沢の背中が見えなくなるまで見送った。

「成美、少しは元気出たかな」

「だといいけど、どうかな」

 2人は、離れていく大沢と、修学旅行の2日目、錦市場の中を一人鴨川へと向かった大沢の姿が重なった。その時、大沢は2人にお願いをしていた。

「……二人とも、一つお願いしてもいい?」

「何でも言ってよ!」

「うんうん」

「私、唯我に謝ってくる。……多分、めちゃくちゃ落ち込んで帰ってくるから、よかったら、私の話、聞いてくれる?」

「「いいよ!」」

 大沢は「ありがとう」と笑って2人と別れたのだった。

「大沢さんって素直ではあるけど……。案外、一番奥の気持ちは隠してる気がする」

「……何それ。俺はわかってるぜアピール?」

「ええ、そうですが何か?」

「いらないんじゃ!無駄な俺イケメン臭とか臭くてたまらんわ!」

「うっぜ!泉美うっぜ!」

「ええ、何か?」

 その頃、一人で歩く大沢は、目に溜め込んだ涙をこぼすまいと、顔を上げて瞬きを止めていた。車がシャーッと通り過ぎ、ランニングする人の足音が遠くに移る。道沿いに植えられた木々は、風に揺れてサワサワと合唱する。それは橙色の鴨川で聞いた音と似ていた。

 大沢は、記憶する俺の表情を思い浮かべた。驚いた顔、真剣な顔、鼻で笑った顔、照れた顔、焦る顔、恥ずかしがる顔。体の中を反響し続ける「大沢」と呼ぶ俺の声。大沢が一番俺らしいと思って浮かべる顔は、口元よりも、目で笑った穏やかな表情だった。

「好きになってくれて、ありがとう」

 「ありがとう」の言葉が大沢を痛く傷つけた。それなのに、受けた傷を癒やすのも、「ありがとう」だった。耐えきれず目を閉じると、大粒の涙が頬を伝って落ちた。

 好きだ。好きだ……!唯我のことが……。

「大好きだった……」

 その小さな声は、街の夜を漂う湿った風がさらってしまった。

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