第71話 修学旅行(前編)

「では、夏までの予定は以上の通りになりますので、よろしくお願いします」

「はい。お願いします」

 俺は事務所の事務室で根子さんと話していた。A4用紙には、夏休みにあるJr祭までの予定が入っていた。8月の欄にあるJr祭の文字を見ると、そこから目が離せなくなった。

「樹杏君、7月中には807号室を出るそうです」

「聞きました。いよいよって感じですね」

「ええ。Jr祭りの日は、お見送りに行かなくて大丈夫ですか?私、車走らせますよ?」

「……いえ。大丈夫です。いつもありがとうございます」

 Jr祭一日目、その日は樹杏がイタリアへ出航する日だ。「大丈夫」とは言っても、寂しい気持ちは変わらない。しかし、公私混同野郎樹杏を殴った俺が、「見送りに行きたいです」などとは、口が裂けても言えない。胸のうちに沸く雲は、予定表を折る時に、一緒に畳んで手帳にしまい込んだ。

「今週は修学旅行ですね。怪我のないように、お気をつけて」

「はい。行ってきます」


                ****


 2泊3日の修学旅行の目的地は、京都と奈良だ。新幹線の中はクラスメイトたちの声で溢れている。ライブに向かうために何度も乗っている新幹線なのに落ち着かなかった。小さな窓の向こうを見ると、青々と輝く田園風景が広がっている。まるで、紙芝居の絵が高速でめくられていくようだった。

「小山内、ポキット食べる?」

 目の前の席から康平が頭を出し、腕を伸ばしてきた。手に持つ赤い箱の中には、見慣れた細長いチョコの菓子があった。

「サンキュ」

「俺、新幹線初めてなんだ!小山内は?」

 康平は、まるで小さなガキのように目をキラキラさせている。片手に持つお菓子がルンルンと揺れていた。

「ライブで何度か乗ってる。もうすぐ名古屋だよ」

「さすがジェニーズ!」

「さすがってなんだ」

「お二人とも、遊びに来たよー」

「おお!泉美、大沢さん!」

 俺の隣の空席に、泉美が大沢を座らせた。泉美は手に持っていたカメラを構えた。

「はい撮るよー!はい、Yポース!」

「泉美、その掛け声やめろ」

 泉美にとって、俺というジェニーズJrはネタだった。いつもニヤニヤしながらからかってくる。あまり好きではないが、しかし、泉美のまったりとした雰囲気にだまされて、嫌な気持ちは吐いた息が見えないのと同じように流れて消えてしまう。

「いいではないか!ノリだもの。ねー成美。Yポースいいよねえ。好きだよね。ね!?」

「うっ……。ま、まあね」

 泉美が大沢に「好き」と言わせたがっているとわかると、大沢は顔を赤くして呟いた。大沢がチラッと俺を見ると、バッチリ目が合ってしまった。

「ハハハ!だって、ファンだもの!」

 大沢はポニーテールの毛先を手に取りクリクリ動かして見せながら、顔を赤くしたまま「アハハ」と笑った。大沢の「好き」は、ジェニーズJr小山内唯我のファンということだ。俺はとても嬉しい。

「サンキュ、大沢」

「……どうぞよろしく」

 握手をすると、泉美のカメラがパシャパシャ音を立てた。泉美は終始ニヤニヤしていて、康平はゲラゲラ笑っている。大沢は楽しそうにしているし、俺は少しずつワクワクし始めた。

 ようやく外を歩いたのは、その日のお昼だった。昼ごはんで腹を満たした中学生たちは、奈良公園を歩いた。人馴れしている鹿はとても傲慢な神様の使いのようで、持ってもいない鹿せんべいをよこせと、康平に頭突きをしていた。傍から見ていても面白い光景に、俺はスマホを構えた。周りからもカメラの音が鳴っているのが聞こえるから、他の人たちからしても笑える様子なのだろうと思っていた。

「ねえ、成美。小山内君、自分が盗み撮りされてるの、気づいてなくない?」

「でしょうねえ。いっつもそうだもん。行事の度に撮られまくってるの、知らないのは唯我だけよ。体育祭なんてすごかったじゃない。朝から保護者が席取りしてさ、唯我が出てくる競技には雨でも降るみたいにバシャバシャって!」

「ああ、だったよねえ」

 そう言いながら、大沢は俺にカメラを構えて連写していた。泉美は脳内で「お前もかよ」呟き、俺から一定の距離を取って盗撮する女子たちを見回した。

「小山内君って、本当に自分のことに疎いんだね」

「天然だもの」

 大沢はカメラの中に映る俺の姿にニヤけていた。楽しそう、唯我。

「あ、成美!ギャルたちが小山内君に絡んで写真撮ってるよ!」

「い、いいじゃない。別に」

「知らないでしょ!あの妙に距離近いスッピン風メイクの達人、星野さんって、小山内君ラブで有名なんだよ?」

 それは隣のクラスの女子のことだ。星野さんという女子は、同じクラスになった覚えも、ましてや友達になった覚えもないが、俺を見かけてはフレンドリーに話しかけてくる女子だった。前髪をキレイに整え、長いふわふわの髪の毛を二つ結びにし、常に唇はウルウルとしている。泉美はギャルと言うが、俺にはよく笑う女子が2、3人集まったグループにしか見えなかった。

「そ、それは知ってるけど」

「何でも、この修学旅行で告るつもりらしいよ」

「……へえ」

 大沢はドキッとして一瞬固まった。

「あんた、乗り遅れちゃうよ!」

「乗らなくてよくない?」

「なんで成美はいつもそうなの!?全然面白くないっ!」

「あんたも大概失礼ね!いいのよ、私は……」

 私の気持ちに対する唯我の答えなんて、分かりきってるじゃない。言ったところで、ファンだからとしか思われない。握手して、「ありがとう」って言われるわ、きっと。

 大沢は、ギャルたちに囲まれて仕方なく写真を撮られている俺を見つめた。鹿の背後から、それは恨めしそうに俺を睨む康平を見つけ、泉美と指を差して笑った。


               ****


 夜には京都に到着し、大きなホテルに皆で泊まった。夕飯は部屋ごとに出された鍋で、同じ部屋の男たちが一瞬で平らげてしまった。大浴場で風呂を終え、部屋に戻ると罰ゲーム有りのトランプ大会が行われた。ババ抜きで最後ま残ってしまったのは俺だった。

「小山内罰ゲーム!」

「「イエーイ!!」」

「最悪」

「罰ゲームは、女子部屋に行くでーす!」

「夜の10時!無防備な女子たちと写真を撮ってこい!!」

「うらやましいなあ!小山内!」

「何だそれ!ガキ臭い罰ゲームだなあ」

 俺は強制的に部屋を追い出された。片手にスマホを持ち、部屋のドアノブをガチャガチャと回すが開かない。俺はどうしようもないと諦めた。女子部屋、女子部屋ねえ。どこの誰でもいいのなら、大沢んとこだな。事情を言えば、大沢はわかってくれるだろ。

 ドアをノックすると、違和感があるほど静まり返る部屋から顔を出したのは、案の定大沢だった。

「あ、あれ?唯我!?」

「悪い、こんな時間に……」

「え、え!?小山内君来たの!?」

「おいでよおいでよー!」

「なんだあ!先生かと思ってビビったじゃん!」

 ドアの向こうから泉美をはじめ、他の女子たちの手が伸びてきた。俺は強制的に引き入れられた。

「こんばんはあ、小山内君」

「ようこそ!秘密の花園へ!なんちゃって!」

「どこが秘密だよ!花園なんてどこにあるんだよ!」

 男子部屋とは比べ物にならないほど布団も荷物も整理され、部屋中に女子特有の花のような甘い匂いが漂っている。キャハハという甲高い声に溢れた部屋は、俺からすれば、まさに秘密の花園だった。

 いつもは結んでいる髪を下ろして揺らし、ジャージの下に見える体操服の胸元がたゆんとして布団に吸い込まれ、チラッと見える鎖骨が何の警戒心もなくつややかに光って見える。中央に散らばるトランプを囲んで、布団の上に寝転がるツヤツヤ肌の女子たちの図は、健康的な男子中学生には刺激が強い。俺は耳やら胸やら目やら鼻やら、やられる前にさっさと出ていくことに決めた。

「で、唯我は何しに来たの?」

「あっ、ああ。それが……」

 事情を話すと、「え!小山内君と写真!?」「喜んで!!」と俺の周りに花の香りを漂わせた女子たちが集まった。タイマーセットしたスマホに向かって3カウントでパシャとスマホで写真を撮り終え、俺はすぐに玄関先へ向かった。女子たちは手を伸ばし、俺の背中のジャージを引っ張った。

「やーめーろーっ!」

「ダメダメ!」

「聞きたいこといっぱいあるんだからあ!!」

「小山内君を、帰らせるなあ!!」

 俺を掴んだ女子たちは「おお!!」と声を上げ、俺より低かろう握力を全開にした。

「フハハハ!このまま脱がしてしまえー!」

「泉美、お前悪ノリがひどいぞ!」

 秘密の花園に立ち入った俺に、精神的刺激を与える女子たちがヤーヤーという鳴き声を上げる妖怪の類に変貌した時、俺のスマホが鳴った。康平からの電話だった。玄関横のトイレのドアの淵に手をかけたところだった。肩から下がり始めた体操服から俺の生肌が露出されると、ヤーヤー妖怪たちは「キャー!」っと悲鳴を上げた。

「こ、康平っ!助けに来い!!」

『今はダメだ!』

「は!?」

『さっき、こっちに見回りの先生来た!しばらくそっちにいろ!!お前の身のためだ!』

「ふざけんなっ!」

 その時、泉美のスマホが鳴った。

「ゲッ!!見回り、隣のクラス終わるって!」

「嘘っ!こっち来るじゃん!」

「電気消せっ!」

 女子たちは行動が素早かった。布団を取り、ライトの明かりを消し、散らかしていたお菓子とトランプを布団の中に隠蔽した。

「唯我!早く!!」

「うわっ」

 その時、ドアのカギが開いた。布団の上には一筋の光が差した。

「皆さん、寝てますか?失礼しますよー」

 ズシンズシンという足音が近づく。その頃、俺は玄関横のトイレにいた。崩した態勢を支えるのは、微妙な位置を踏んだ片足と、壁についた右肘だけだった。そこから動けない理由があった。俺の体の前に、大沢がいたからだ。少しでもあごを引くと、胸の前で俯く大沢の額があった。少しでも距離を間違えればキスできてしまう。俺は顔を上げ、必死に倒れないように耐えた。

「あら?大沢さんは?」

「っと……とトトトイレですっ!」

 大沢の声がトイレに響くと同時に、生温かい息が俺の首筋を上った。大沢が少しでも動くと、下ろした髪が揺れ、鼻の頭がジャージを撫でた。くすぐったい。恥ずかしい。

「大沢さん、大丈夫?」

「あ、はい。平気です」

「体調に変化があれば、すぐ言って下さいね」

「はいっ!」

 体調の変化?今まさにしてるって!!だって、だって……!!

 大沢はチラッと視線を上げた。そこに俺がいる。俺が視線を落とすと目が合ってしまった。俺の影の中にいた大沢は、顔が真っ赤だった。

「大丈夫か?」

 静かな声でそう言った。耳をかすめる声が、大沢を余計に火照らせた。胸はドキンドキンと強く音を立てる。その度に脳みそは揺れ、湯立ち、平常心ではいられなかった。

「星野さんって、小山内君ラブで有名なんだよ?……何でも、この修学旅行で告るつもりらしいよ」

 泉美の声と共に、昼間の奈良公園での風景が思い出された。大沢から見た星野さんと俺は仲良さそうで、自分よりもずっとお似合いに見えた。嫌な熱が体を震わせ、大沢を火照らせた。ゆっくりと大沢の両手が俺の背に周り、ジャージを掴んだ。

「皆、ちゃんと寝なさいね。失礼します」

 カチャンとカギのかかる音がして、隣の部屋から「失礼しますよー」という担任の声がしたところで、女子たちは緊張を解いた。布団からカタツムリのように首を伸ばし、プハァと深呼吸した。

「はあ、ドキドキしたあ!」

「てか、小山内君は?」

「……あれ?ていうか、成美は?」

 大沢を探して泉美がトイレに来た。トイレには、壁に寄りかかってしゃがみ込む大沢がいた。大沢は両手で顔を覆い、立膝の中に顔を埋めていた。

「あれ、成美だけ?小山内君は?」

「帰った……」

「あら、いつの間に……。ん?どうした?」

「泉美、私……」

 大沢は両手から顔半分を上げた。その真っ赤な顔に泉美は驚いた。

「唯我に、抱きついちゃった……」


               ****


 俺は足早に部屋に向かっていた。ドアのノック音と「俺」と呟いた声が、静まり返る廊下に響いた。ようやく目の前のドアが開き、ニヤニヤする康平が顔を出した。

「ミッションは成功したか?」

「うるせえ」

 俺は康平の頭を掴んで放り投げた。康平はよろけて床に手足をついた。

「何だよ。写真は?あ、わかった!撮れなくて俺に八つ当たりしたな!?」

「そんなに知りたきゃ、明日女子たちに聞けよ。泉美と大沢の班……」

 俺は布団にもぐった。同じ部屋の野郎たちは「面白くねえの!」と笑った。そんなの構ってられる余裕がなかった。俺は「大沢」と口にした瞬間、喉のところで言葉が詰まってしまった。

 布団の中の薄暗さは、女子部屋のトイレの薄暗さに似ていた。大沢が手を回し、ギュッと背中のジャージを掴んできた時の感覚が蘇ると、脳みそが湯だち、混乱した。大沢の腕が俺の脇でゆっくりとしまると、額と鼻、口が、俺の胸の中に押し込まれた。息がジャージを貫通して、胸をジワァと温めた。

 その瞬間、ドクンと体が揺れた。同時に、得体の知れない拒否反応が起こった。大沢に触れられたのが嫌だったのではなく、己が触れているのが優里子じゃないという、たったそれだけのことだった。そして、そうやって拒否した自分に安心した。

 すごく失礼なことだ。胸に残る、生温かさが消えない。体が重なった部分が熱をもっていて忘れられない。困った。困った。

 その時、布団にもぐった大沢も同じように思っていた。

 明日、どんな顔して会えばいいだろう……。

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