第70話 俳優 小山内唯我の舞台

 その日、あごひげをきれいに整えた男が一人、観客席にいた。茶色地にチェックの入ったジャケット、桜色の蝶ネクタイをした男は、舞台演劇の専門誌『théâtre』の編集長である大河内信治という人だった。大河内さんは俺の立つ舞台を、大きく開いた目で見つめていた。

 代役嫌いで有名な大貫君の最後の舞台が、まさかのダブルキャスト。どんな子が大貫君の役を演じるのかと見に来てみれば、未知との遭遇、新たな発見をしてしまったと驚いている。千鶴君がこれだと決めた子にしか演じさせないジールには、安定した千鶴君のイマージュを感じることができる。しかし、今日のジールはどうだろうか。こんなジールは見たことない!


 そこはアンダーグラウンドのジールの友人、アサヒの住まいの中だった。壁一面を覆う本棚は、瓦礫と岩を上手に砕いて作ったデコボコ本棚だ。所々に置かれた大きな石は、アンダーグラウンドにはよく転がっているもので、住人たちはこれを椅子や机にして生活していた。ジールは椅子に腰かけて、足をプラプラと揺らしている。隣には、本を広げたアサヒがいる。

「ジール、地上の空は真っ青でね、とてもとても高くて、手を伸ばしても全く届かないんだよ」

「ハシゴを使えばいいじゃないか!」

「ハシゴでは間に合わないさ。多分」

 ジールは膝の上で頬杖をついて、退屈そうに「ふうん」と返事した。

「アサヒは地上のことを一番知っているはずなのに、いつも答えは多分だね」

「だって、見たことがないもの。いつか、この目にできたなら嬉しいな」

「だったら、俺と一緒に来ればいい!一緒に地上に行こうよ!アサヒ!」

 ジールは両手を広げて声高々に言った。穏やかな微笑みを浮かべるアサヒは立ち上がり、本棚から一冊の本を取った。

「ジールにこれをあげるよ」

「何だ何だ?絵本?」

「そう。地上の世界を描いた絵本だよ。よく読むといい。きっと、ジールの手助けをしてくれるさ」

「だけど絵本って……。アサヒは俺を子ども扱いしてるんだろ」

「無知のまま夢を見て、理想を言うばかりでは子どものままだ。行動しなくてはならない。その時は」

 次の瞬間、ブーブーっというサイレンと共に真っ赤なライトが点滅した。ジールは驚き、辺りを見回した。

「いっ、一体何の音だ!?」

「いけないっ。ジール、隠れるんだ!さあ、こっちへ!」

 アサヒは重たい本棚を観音扉のように開いた。奥には天井裏に続くハシゴがあった。

「何だよこれ!」

「さあ登れ。天井に扉があるだろう?開いて中に入るんだ」

「アサヒも一緒に」

 ジールはハシゴからアサヒへ手を伸ばした。しかし、アサヒは首をゆっくり振った。

「ジール、聞いておくれ」

「何だ」

「そこに入ったら、何があっても戻ってきてはいけないよ。いいかい?希望を声にし続けるんだ。ジールの言葉は、このアンダーグラウンドの世界を照らす太陽だ!」

「お、おい。アサヒ!アサヒ!!」

 ジールが天井裏に到着すると、アサヒは天井の扉を閉めてカギをかけた。すぐに本棚を元に戻し、肩でふうっと息を吐いた。正面に振り返ると、武装した集団がやって来て、アサヒに拳銃を向けた。

「アサヒ、お前をアンダーグラウンド逃亡を企てる主犯格として、国家反逆罪の罪で連行する!両手を上げろ!!」

「あなたたちはそれでいいのですか?」

「犯罪者の言葉など聞かぬ!」

「国の言うことに疑問を持ち、自分の力で考えることができなくてはならない。この暗闇のアンダーグラウンドで、あなたたちは、どんな希望を見るのでしょうか。私は、一人の少年の夢に希望の光を見るのです」

 アサヒがゆっくりと上げた手には、手榴弾が握られていた。それを見た集団は一斉に銃を構えた。

「それは地上に昇る太陽のような、強くて美しい光……」

 その頃、天井裏のジールは扉をドンドンと叩いてアサヒを呼び続けていた。すると、暗闇の奥から黄色い目玉がピカッと二つ光ってジールに近づいた。

「ヒッ!」

「お前、アサヒの友達のジールだな。おいらはグラモ。ここは地上に行くための秘密の通路さ。話の通り、お前はやかましい奴だな。扉をそんなに叩いていると、居場所がバレちゃうぞ!」

「何だよお前は!」

「シ―――ッ!アサヒがどんな思いでお前をここに連れ込んだのかわかんないのかよっ」

「え?」

 その時、天井の下から大きな爆発音がした。2人は思わず耳を塞ぎ、振動に耐えた。しばらくすると、焦げた匂いがした。

「焼け焦げる匂いがする。一体何が……。扉が開かない!」

「そりゃあカギがかかってるんだから、開くわけないだろう」

「カギはどこに?」

「ほらここにって、ああっ!!」

 グラモが胸から出して掲げたカギを、ジールがすぐに掴んでカギを開けた。ハシゴを降りると、部屋には煙が充満しており、ジールはむせながらも本棚を開いた。そこには、武装した集団とアサヒが倒れていた。

「アサヒ!!」

 ジールがアサヒを抱え上げた時、既にアサヒの呼吸は浅くなっていた。

「ジール……。戻ってきては……いけない」

「アサヒ、しっかりしろ!一体何が起こったんだ!どうしてこんなことに」

「僕はこれまで、ずっと地上に向かうための準備をしていたんだよ。今僕が捕まれば、全ての計画が水の泡だ。こうするのが、一番よかったんだ……」

「アサヒ……」

「ジール、君は地上を目指すんだ。君に、僕の意思を託したい……」

「アサヒも一緒じゃないと意味ないだろう!目を開けて。自分で起き上がれっ!」

「僕はね、君のまっすぐな瞳が大好きだ。君は地上に行くんだ。どうか、どうか……」

 震える手がジールの頬を一瞬撫でると、力が抜け、床に落ちた。

「待ってアサヒ……。君が誰よりも一番地上を見たいんじゃないか。……目を開けて、アサヒ……。アサヒッ!!」

 何度名前を呼んでも、アサヒは目を開けることはなかった。ジールは背を丸め、肩を震わせ、声にならぬ叫びを上げるように、アサヒを強く抱きしめた。


 モニター室の千鶴さんは、舞台の俺をジッと睨んだ。千鶴さんの演出や樹杏のジールでは、抱きしめたアサヒを置いてすぐに立ち上がり、歌いだすはずだった。しかし、俺は立ち上がらない。遅い。遅いっ!

「あいつ、何してんだ……」

 その様子は、楽屋のテレビに映し出された舞台の中継映像を見ていた樹杏も見ていた。

「唯我?」

 すると、呟くような小さな歌声が聞こえてきた。その声は観客席にいた優里子にも、大河内さんにも、うっすらと、しかしはっきりと聞こえてきた。


「空の色、青色黄色、赤色紫。それが世界の天井を染めている……」

 俯くジールの歌声は震えていた。顔を上げた時、目に浮かぶ涙がライトの光に照らされた。アサヒを見つめる横顔は悲しみに満ちている。

「大地は青く、果てしない。大地は固く、柔らかい。何もかもが初めて見る景色」

 そう教えてくれたのは君じゃないか、アサヒ!見たいと言ったのは、君じゃないか!

 ゆっくりとアサヒの体を床に寝かせると立ち上がり、ジールは涙を浮かべた目を空に向け、強く歌い始める。

「君の夢、君の見たかった世界には、朝日が昇る。君の夢、君の見たかった世界には、君の知らない、朝があるっ!」

 目をギュッと閉じ、空から顔を反らす。胸の前で握った拳が緩み、一瞬落ちる。しかし完全には落ちない。アサヒは「僕の意思を託したい。君は地上を目指すんだ」と言ったのだ。腹の下でもう一度強く拳を握ると、ゆっくりと持ち上げられた。

「……行こう!どんなに悲しいことがあろうと、そこにきっと希望の光は昇るのだから!」

 拳は胸を超え、頭を過ぎた。暗闇の底より遥か高くに存在するであろう、今は見ぬ大地を照らす太陽に、その手をかざした。

「俺は今、地上へ旅立とう!」


 歌の途中にも関わらず拍手が沸き起こった。大きな音で埋め尽くされた舞台の照明が落ち、暗闇の中を舞台装置が動き出す。大河内さんは大きな手をバチバチと叩いた。優里子は目を潤ませ手を叩き続けた。舞台が次のシーンに移るためもう一度照明が灯ったが、拍手は鳴りやまなかった。

「ふざけやがって、あんの野郎」

 低く響く千鶴さんの声に、モニター室にいたスタッフたちはビクッとした。一瞬で背筋を凍らせて固まった。怒ってる。めっちゃ怒ってる!皆そう思った。

「ち……、ちづさん?」

 すぐそばにいたスタッフは千鶴さんの顔を見て驚いた。千鶴さんは嬉しそうに笑っていた。

「俺のジールを、あいつ食いやがった」

 俺はアサヒ役の吾妻さんと一緒に通路を歩いた。吾妻さんは「お疲れ様」と俺の頭を撫でた。楽屋に戻った時、樹杏は備テレビの舞台中継にくぎ付けで、「ただいま」と入った俺に返事さえしてくれなかった。

「樹杏、俺どうだった?」

「……」

 何だよ。無視かよ。俺は仕方なく黙って腰を下ろして一息ついた。終わった。ちゃんとやり切った!俺は達成感と気持ちのいい疲労感に浸った。

 その時、ようやく樹杏が口を開いた。

「ねえ唯我」

「ん?」

「唯我が僕のこと”うらやましい”って……、あれ嘘でしょ」

「……嘘じゃねえけど」

 すると樹杏は立ち上がり、脱いでいた靴を履いた。

「どこ行くんだよ」

「練習室」

「何で今……」

「唯我。明日、もう一度お前に”うらやましい”って言わせてやるから、覚悟しとけよ」

 樹杏は俺を強く睨むと、楽屋を出てしまった。樹杏はスタスタと足早に通路を歩いた。

「よお、J!お疲れさ……」

 途中で吾妻さんとすれ違ったが、樹杏は完全無視して歩いて行ってしまった。

「何だあいつ。また唯我とケンカでもしたのかよ……」

 吾妻さんは「ったく」とまた歩き出した。

 樹杏の頭の中は、俺のジールの姿でいっぱいだった。練習室の扉を閉め、背を扉に預け考えた。あんなのジールじゃない。認めてやんない!僕の求めるジールで、唯我のジールなんかちづさんの頭から消してやるっ!僕こそが、最高のジールだ!


                ****


 俺の最終公演が終わった。カーテンコールの拍手を浴びる間、俺はスポットライトの下で頭を深々と下げた。ここに立たせてくれた全ての人へ、感謝を伝えたかった。顔を上げ、ライトの影にいる人々へ叫んだ。

「ありがとうございましたっ」

 震える声は、拍手の中にかき消えた。次に、優里子のいる席の方へ視線を向けた。優里子、俺が見えるか。見てくれているか。ここに今日まで立てたのは、誰よりも優里子のおかげだって伝えたい。俺は声を出さず、口だけ動かした。

 優里子は叩いていた手を止めた。俺の口パクが何を言っていたのかよくわかった。それは小学生だった俺が、舞台の最後の夜にかけた電話口の言葉と同じだった。

「たくさん、

 舞台から明かりが消えても、会場には大きな拍手が鳴り響き続けた。優里子の目に浮かぶ涙は、震える空気の中に落ちた。声が出てしまわないように、フーとゆっくり呼吸を繰り返した。

 大河内さんは観客席を立ち、拍手をしながら俺を見た。

 そこに立つのは、ジールを演じた一人の俳優であり、ファンに感謝を伝える微笑みを浮かべた一人のアイドルであった。その少年は観客に対して誠実であり、スポットライトの影に上手に素顔を隠している。今日のジールは彼の力のほんの一端に過ぎず、その一端がこれからどれだけ成長するのかと期待させる。それはまるで、希望の空に手を伸ばす少年ジールのように。

 舞台を終えた俺は、衣装を着替えて千鶴さんの元に向かった。

「よお、唯我。お疲れ様」

「今日もありがとうございました」

 千鶴さんは控室の机の上にお茶とお菓子を並べていた。千鶴さんの正面には、あごひげのあるダンディなオジサンがいた。

「大河内さん、こいつが今日のジールだよ」

「え?あ、本当だ!唯我君だ!」

「唯我、驚いてないで、こっち来い」

「はいっ」

 千鶴さんに手招きされるまま、俺は控室の中へ入った。大河内さんは「やあやあ!」と嬉しそうに笑いながら、俺に名刺を渡した。

「初めまして、唯我君。以後、お見知りおきを」

「小山内唯我です。よろしくお願いします」

「今日は素敵な舞台だったよ!記事ができたら事務所に雑誌を送らせてね!見てくれると嬉しいな」

「え、記事?」

「お前と樹杏の記事だってよ」

「Y&Jの?」

「いいや。、小山内唯我と、大貫樹杏の」

 千鶴さんの言葉が体の内側で、波紋を広げてこだました。全身が震え、胸に熱が灯り、目の前の景色が鮮やかに見え始めた。Y&Jの俺じゃない。ジェニーズの枠を超え、一人の俳優として立つ俺のことを見てくれたんだ。ただの比較対象になるかもしれないが、それでも実力も人気も高い樹杏と並べられる。光栄なことだ。

 俺は千鶴さんの控室を出て、通路を早足で進み、外に出た瞬間ダッシュした。向かったのは最寄の駅だ。そこに優里子が待っている。早く優里子に会いたい。優里子に会いたい!

 最寄り駅に到着した時には、ゼエゼエと息が切れ、汗が首筋を流れていった。あごの下を伝う汗を手の甲で拭い、息を整えていると「唯我」と呼ぶ優里子の声がした。顔を上げると、優里子が目の前で微笑んでいるのが見えた。

「唯我、お疲れ様」

 街の明かりが背後できらめき、優里子の下ろした髪がそよ風に透けていた。走り続けた体は燃えるように熱く、心臓が強く脈打っている。俺はもう一度、舞台の上のアンダーグラウンドに戻ってきたような気がした。


                ****


 6月らしい涼しい風が足元を通り過ぎる時、優里子のフワフワスカートが膝元で揺れた。ピアスの光る耳に髪の毛をかける指先は、マニキュアのツヤがつるんと曲線を引く。俺は優里子の横顔を盗み見ては、頬に熱が込み上げた。施設までの道を、できる限りゆっくりと歩いた。

「今日は楽しかったな。あの物語を千鶴さんが作ったなんてビックリ!すごい良かったあ」

「うん」

 俺は優里子の「千鶴さんに」という言葉にムッとした。何だよ。良かったのは千鶴さんで、俺じゃないのかよ。両手をズボンのポケットにギュッと押し込んだ。千鶴さんへの対抗意識は、小さな石ころ程の自信を隠して自慢に走らせた。

「今日の舞台のこと、今度雑誌に載るんだ」

「え、雑誌!?何の雑誌?」

「『théâtreシアター』っていう舞台演劇の専門誌。今日、そこの編集長と会った」

「へえ、すごいじゃない!本屋さんに並んだらすぐ買おう!」

 優里子が俺のことで驚いたり、楽しそうに笑う顔を見ると、腹の中に浮かんだ嫉妬混ざりの対抗心が、少しだけ消えた。同時に、そうやってスッキリしようとした自分のガキ臭さや余裕のなさが嫌になった。情けない俺……。

 優里子はさりげなく俺の横顔を見た。隣を歩く「弟」は、自分より背が高くなっていて、子どもらしい高い声は、いつの間にか遠くなった。自分の額を預けられるほど肩幅が広くなり、記憶の中に残る小さい可愛らしい手はどこにもなくて、シャツからのぞく腕はまだまだ細いのに、うっすらと筋肉の筋が見える。

 5年前、自分の置かれた立場や責任感で押し潰れてしまいそうになっていた幼い俺のことが、優里子は心配で心配でたまらなかった。それがどうだろう。施設では大きな声を上げない俺が、舞台の上で堂々と演技をし、 声高らかに歌い、拳を上げる。それは立派な一人の役者の姿をしていたのだ。

 いつの間に、こんなに大きくなってたんだろう。優里子は足を止めた。俺はすぐに立ち止まり、優里子に振り返った。

「どうした?」

「唯我。今日の舞台、私感動した。唯我すごかった。……すごかった!」

 大変だったよね。頑張ったね。まるで幼い「弟」をよしよしと褒めるような、そんな言葉は言えなかった。優里子が舞台を経て見つめる俺は、自分の知る「弟」には見えなかった。

「すごすぎて驚いた。私、唯我を見に行ったよ。でも、あれは……」

 あれは、私の「弟」ではなかった……。唯我が一人の役者としてそこにいた。一人のアイドルとして立派に立っていた。

「カッコよかった」

 振り返る顔は大人びている。だけど、小さいころから変わらない黒髪が、新月の夜をかける風になびく。年を重ねるごとに、ふと浮かべる微笑みが柔らかくなっていく。その微笑みが、たくさんの人に向けられるようになり、受け入れいられていく。

 知っているはずの「弟」が、遠くの誰かになっていくような気がした。私の「弟」が、私だけの「弟」ではなくなっていくのが、少し寂しい。「俺と一緒にいろよ」と言ったのは、こいつなのに。

 俺は優里子の前に立った。

「それ本当?」

「ほ、本当!」

 俺はめちゃくちゃ嬉しくてたまらなかった。優里子が初めて、俺のことを「カッコよかった」と言ってくれた!舞台を終えた達成感と高揚感は、優里子への期待を膨らませた。言葉だけでは足りない。欲が増す。だけど、その欲が伝わってほしくない。桃色の頬に触れたがった手にブレーキをかけ、そっと指先で輪郭をなぞった。

「……なら、笑って」

「え?」

「笑って、優里子」

 その瞬間、優里子の体のどこかで何かが強く揺れた。俺の指先が触れた頬が熱くなり、胸か腹か背中か頭か、どこかでドクンと繰り返す。それをごまかすように、優里子は「あははっ」と笑った。

「笑ってなんてお願いされたの、初めてよ。どうして私が笑うの?」

「笑う優里子が見たいからに決まってる。そのために頑張ったんだ」

 頬を撫でた手が、頭を撫でた。その瞬間、優里子は顔が火照った。

「たくさん、ありがとう。優里子」

 優里子は顔を上げ、大きな瞳で俺を見つめてきた。俺は照れくさくて、もう優里子を見つめていられなかった。正面に振り返り、もう一度歩き出した。

 優里子はしばらく動けなかった。どこかで鳴り続ける音が熱を帯び、目を潤ませ、先を行く俺の背を見つめた。俺は優里子に振り返り、ドキドキしながら手を伸ばした。

「優里子、疲れた?ほら、帰るぞ」

 私はこの大きな手を知らない。私から離れていく「弟」が、になるのかを想像できない。

「だ、大丈夫よ。私より、唯我の方が疲れてるでしょ?」

「あ、おいっ!」

 優里子は俺を追い越す時、俺の伸ばした手を取った。俺は手を引かれ、振り返った優里子の満面の笑みに見とれた。一瞬で顔が熱くなった。こんなの、反則だろ。ずりいよ、マジで……。だけど、握られるその手が、「弟」の手を握っているのは明らかだった。少しは「弟」から離れられたのかと思ったのに……。

「唯我、遅いよ。早く早くっ」

「嫌だよ。止まれ、優里子」

 優里子は立ち止まり、「何でよ」と困った顔をした。俺は優里子を睨んだ。

「ゆっくり帰りたい」

「そんなに疲れてるなら、タクシー呼ぶ?」

「そうじゃねえよ」

「はあ?人が心配してるってのに」

「そうじゃなくて、……優里子と一緒に、ゆっくり歩きたいんだよ」

 わかりやすく「どういうこと?」という顔をする優里子にイラッとした。繋いだ手を離し、指を絡めて握り直した。ゆっくり歩き始め、今度は俺が優里子の手を引いた。

「えっ……、ちょっと!」

「それに、俺が優里子の前を歩きたい」

「……」

 絡まる10本の指先に起こっていたドキドキという振動は、夜の道をひたひたと進む小さな一歩の中に紛れていく。しかし、街灯の下、目の前の背中に落ちる影の中に、はっきりと見えるものがあった。

 私の知らない唯我がいる。一人の「男の子」として成長して、生意気に大人ぶって、そこにいる。


                 ****


 樹杏の最終日であり、公演最終日の観客席には、樹杏ジールにくぎ付けの大河内さんがいた。

 これぞジール。これぞ千鶴君のファンタジズム!美しく輝く舞台の真ん中で、体全てで地下の太陽と化す表現。見上げる天井の、その先に広がる空の色を想像させる声、表情。これも樹杏君にしか出せない味だ。


「君の夢、君の見たかった世界には、君の知らない、朝がある。……行こう!どんなに悲しいことがあろうと、そこにきっと希望の光は昇るのだから!」


 樹杏の歌は高く伸びやかに会場に響く。舞台の上に広がるアンダーグラウンドに差した希望の光が、樹杏の歌声に乗って飛び出すようだった。観客は樹杏の声が途切れた瞬間、スイッチを入れたように大きな拍手をした。俺の時とは違うのがはっきりわかる。樹杏のジールに魅入られた人たちの感動が、アンダーグラウンドを震わせる。俺は楽屋のテレビを見ながら、膝の上で拳を握った。

『YorJ!?結果発表!!』

 その夜は、小さなレストランを貸し切った打ち上げが行われた。薄暗い店内の雰囲気には似つかわしくない音とテンションの大人たちで溢れていた。大声奇声、指笛拍手。その波の中心に、俺と樹杏が立っていた。

『本日20時をもって締め切られた投票ですが!まずは唯我の結果から発表しよう!投票数は……2366票!!そして、樹杏の投票数は……3021票!!』

 樹杏は「よっしゃあああああ!!」と飛び上がり、俺は床に拳を叩きつけた。くっそおおおお!!

「おおおお、唯我!大健闘じゃねえか!よくやったよ!」

 フハハハと大笑いする吾妻さんが、俺の背を叩いた。吾妻さんは顔を赤くして、すっかり酔っぱらっていた。

「全然よくないです!負けたんだから!」

「まあまあ、唯我。これでも一気飲みすればいいさ」

 大地さんは穏やかな声で言いながら、ジョッキグラスに入ったシュワシュワと泡のはじける黄金色の飲み物を手渡した。大地さんはニコニコしながら、「大丈夫。ただのショウガの甘い炭酸水だから」と言うが、少し信用ならなかった。周りの酔っ払いたちに煽られて、俺はジョッキに口をつけてグビグビ飲むと、大盛り上がりした。

 その時、いつにも増してテンションの高い樹杏が俺に抱きついてきた。樹杏の声は、キーンと耳鳴りを起こし、俺は腹の中ではじけ続ける炭酸を吐きそうになり口を押さえた。

「唯我!唯我!唯我あああっ!」

「耳元でうるせえ!いちいち引っ付くな!」

「だってだって……、今日くらい許してよね」

 胸の前に垂れる腕がキュッと締まる。くっつけられた頬が冷たくて、思いのほか柔らかい。寂しそうに呟いた声を、拒むことができなかった。

「いちいちウザいんだよ、お前」

「へへへ。ごめんごめん」

「樹杏。俺のジールは、お前から見てどうだ?」

「カッコイイ!」

「え」

「僕とは全然違うジールなんだもん。まあ、ちづさんが狙って作ってるっていうのもあるけどね。同じ役でも、捉え方とか演出方法だけで違いってすごく出るって思った。……僕には、唯我のジールはできない。多分、唯我も僕のジールはできない」

「うん。絶対できねえ」

「それがいいんだ!人気とか、実力とか、そんなの関係ない。僕らは役者で、表現者だから。それに、僕らの違いは最大の武器だ。それがY&Jでやる最大の意味だったんだから」

「俺らだから、できたのかな」

「僕たちだからこそ、できたんだよ!」

 樹杏のまぶしい笑顔につられて口元が緩んだ。樹杏の言葉は、とても単純で、とても嬉しかった。同時に、切なくなった。

 その時、レストランの中が暗くなり、「何だ何だ」と辺りがざわついた。すると、スタッフの一人がマイクを取り、『マイクテスト、マイクテスト』とエコーを響かせた。

『えー、お集まりの皆々様!本日まで、舞台お疲れ様でした!素晴らし舞台に参加でき、僕も大変嬉しいです。さて、本日はお疲れ会と共に、一人の少年の門出を祝う場を設けさせていただきました!J、こちらへ来てくださいね。ささ、どうぞどうぞ!』

 樹杏は「ええ?」と驚きながら、吾妻さんと大地さんに腕を引っ張られて皆の前に立たされた。千鶴さんからハグを受け、花束を渡された。レストランの中に拍手が起こり、樹杏は涙で赤いまつ毛を濡らし、太陽みたいに真っ赤な顔になった。

 俺はパチパチと拍手をした。しかし、強く多く叩くことができなかった。手を合わせる度、樹杏との距離がより離れていくように感じた。


                ****


 6月下旬、俺と樹杏は事務所の地下体育館で、Y&J最後の配信動画の撮影をした。ターンを決め、背を合わせる。その動画では、それまで一切崩さなかったルールを崩した。左右対称の鏡合わせのようなシンクロダンスをしてきた俺たちは、最後の最後に、初めて左右対称じゃない動きを取った。樹杏は下を向き、俺は上を向く。ゆっくりとカメラに視線を向け、次に互いに振り返り、目を合わせて微笑んだ。

「…………カット!終了です。お疲れ様でした」

 体育館にはY&Jと根子さん、小池君。他に撮影を見に来たC少年の聖君貴之や、撮影に来てくれたフリーカメラマンの所澤さん、事務所のスタッフたちが拍手をした。根子さんはあえて三脚のカメラの録画を止めなかった。画面上には、「ありがとうございました!」と頭を下げる俺たちに、聖君と貴之が走って駆け寄って来る様子や、スタッフたちが拍手をしながら近づいていく姿が映った。動画は樹杏が日本を離れる8月に公開された。

 衣装にしていたストレッチのよくきくスーツを丁寧にたたんで根子さんに渡す時、バラの花束を添えた。

「ネコちゃん。僕たちのワガママを聞いてくれて、ありがとうございました!」

「ありがとうございました」

「いいえ。私はとても楽しかったです。素敵な経験をさせてくれて、私の方こそありがとうございました」

「ほら、小池君にもどうぞ!」

 小池君には、エナジードリンクの束を渡した。

「うわあ、ありがてえ」

「ええ?ちょー棒読みじゃん!あははっ」

 その場に集まっていた人たち全員で、所澤さんに写真を撮ってもらった。その写真を施設に持ち帰り、優里子に渡した。

「皆楽しそうね」

「うん。楽しかった」

 写真中央の樹杏は、俺と肩を組んで笑っている。きっと、次に同じように並んで笑い合える日は遠い。それがいつになるのか想像できない。もしかしたらないのかもしれない。「僕たちだからこそできること」は、今度はいつできるのだろうか。

「優里子のファイルに入れておいて」

「わかった。見たくなったら、いつでも言ってね」

「サンキュ」

 優里子の視線を隠すように、俺は優里子の頭にポンと触れた。前髪を押さえられた優里子は目をつむり、「わっ」と声を上げた。さっさと離れて行った俺を見つめ、頬を膨らませた。

 ガキたちの笑う声が遠くから聞こえる中、廊下を歩く俺の足音だけがトントンと響いていた。あ、唯我。寂しいんだ。だから写真なんて預けて……。優里子は俺を追いかけた。

「唯我っ」

 階段を上がっていると、優里子に手を掴まれた。優里子の冷たい手の感触に驚いた。振り返ると、優里子は写真を胸に押し当てて俺を見上げていた。

「え、何?」

「唯我、あんたは一人じゃないからね。どこにいたって、あんたを思ってくれる人がたくさんいることを忘れないで」

「優里子……。うん。サンキュ」

 俺が柔らかく微笑んだのを見て、優里子は手を離した。今度は俺が優里子の手をギュッと握った。優里子は驚いて「わあっ!」と階段で叫んだ。

「相変わらず手え冷てえな」

「よ、余計なお世話よ」

「暑かったから、気持ちい」

 優里子の手のひらを頬に当てた。その瞬間、優里子は顔が真っ赤になって固まった。俺は優里子が顔を赤くしている様子を見て驚いた。優里子は目を潤ませて大きく見開いている。何、その顔……。

「優里子」

「な、何!?」

 何だ、その反応。

「今度、デートして」

「は!?」

「いつ空いてる?どこか行きたいところある?」

「……な、な」

 優里子はしばらく「な」を繰り返した。俺はしばらく返事を待ったが、次の瞬間、優里子は真っ赤を一層真っ赤にして爆発した。

「行かない!!」

「え!?」

「と、と、当分!デート禁止!!」

「何で!?」

「唯我は、じ、じゅ、受験生なんだから、勉強しなくちゃ!!」

「は?何だそれ!」

「それに、来週は修学旅行でしょ!?し、し、しっかりやんなさい!」

 優里子は叫ぶだけ叫ぶと、逃げるように階段を下りて行ってしまった。俺は一人階段に取り残された。

「デート、禁止?マジかよ……」

 俺はかなりショックだった。

 優里子は顔を真っ赤にしたまま玄関まで走り切った。息を整えながら、胸に手を当てた。突然動かされた体はバクバクと脈打っている。驚いて変なこと言っちゃった。ちょっとビックリしただけ。ちょっとね……。

「笑って、優里子」

 知らない「弟」が見えて、驚いただけ……。

 舞台を見終えた帰り道に聞いた俺の声が頭の中でリピートした。その時の表情と、階段で見た微笑みが重なった。酸素を巡らせようと脈打つ音の中に、違う音が混ざり始めたことに、優里子は当分気づかない。

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