第68話 スタンドアンダーザグラウンド

 4月半ば、いよいよ舞台『ジール スタンドオンザグラウンド』の立ち稽古が始まった。稽古場には朝の7時半には着いたが、既に樹杏がいた。

「唯我、おはよう!」

「はよう」

 樹杏に近づく途中、後ろから勢いよく肩を組まれた。俺は前のめりになった体を起こした。

「おー唯我!久しぶり!」

「吾妻さんっ」

  目つきもガラも悪く、一見どこかのチンピラのような風情を持つその人は、映画『竹林のライオン』で「阿武隈」という役を演じた人であり、前回のジールでアサヒという温厚な役で共に舞台に立った人だった。俺は小学生だった頃、この人のことがとても怖かった。今ではすっかり慣れたものだ。

「ライオンではお世話になりました」

「唯我、久しぶり。大きくなったね」

「大地さん、お久しぶりです。よろしくお願いします」

  稽古場には、小学生の時に一緒に稽古をした人たちが勢揃いしていた。そして、樹杏が「いくよー」と声をかけ、一斉にダンスが始まった。俺はとても懐かしい気持ちになって、またここに戻ってきたと思った。ここは樹杏と出会った場所で、俺自身に足りないものがたくさんあることを教えてくれた場所で、樹杏と一緒に仕事をできる、最後の場所になるんだ。

「おはよう、諸君」

「「はようございますっ」」

 朝のダンスが終わる頃、千鶴さんがやって来た。挨拶の波の中、千鶴さんは俺と樹杏のそばに来た。

「おはよう。Y&J!」

「おはようございます」

「おはようございます。ちづさん!」

「さあ、気合入れろよ。今日は新たな始まりだ」

「「はいっ」」

  舞台稽古は声出しから始まり、立ち回りを確認をした。その日の稽古を終え、共演者たちが帰る中、俺と樹杏、千鶴さんは歌の練習をし続けた。

「唯我、声もっと遠くに飛ばせ。口開けろ!口!」

  俺の声は地声に近いが、樹杏の声は歌声として部屋中に響いている。その差は歌っていても大きな違いを感じた。口に含んだ水が胃へと落ちる時、イガイガする喉を水が触っていくのが気持ちよかった。

「唯我はさあ、もうちょっと喉を開いて腹から息通すように練習しなよ」

「わかった。はあ……。キャリアの違いを感じる……」

「へっへーん。僕に追いつくには、まだ10年はかかるだろうね」

「ジールまでには何とかしてやる」

「おい、Y&J。そろそろ閉めるぞ」

「はあい!」

  樹杏と俺の演技や歌の実力は一目瞭然で、稽古場に立つ度に、樹杏に劣る自分に腹が立ち、悔しくて脳みそは何度も沸騰した。俺は早急に樹杏に追いつかなければならず、施設でも自主練をした。

 居間でテレビを見るガキたちに混ざり、うつ伏せになって両肘をつき腰を上げ、体幹に力を入れ呼吸を意識した。すると背中にてぃあらと充瑠が乗っかってくる。俺の顔は真っ赤になり腕がプルプルと震えているのを見て、文子が爆笑した。部屋では、スマホでストップウォッチを表示し30秒をカウントする間、息を吐き続けた。息を吸って胸を膨らませ、もう一度息を吐くのを繰り返す。稽古中に録音した樹杏の歌声を流して口ずさみ、数年前にもらった台本と、新しい台本を机に広げた。

 以前の俺は、樹杏の代役を任され、たった数日でつくったつぎはぎだらけのジールという着ぐるみを、ようやっと頭から被った程度にしか表現できなかった。しかし、今回は違う。樹杏の代役ではなく、俺がジールを演じるんだ。これまでにやったドラマや映画の役作りで学んだことをフル活用する。俺のジールは、どんなジールにできるだろうか。こうしたい、ああしたいと思う時、自室の机上には未開拓の「アンダーグラウンド」が広がり、俺はワクワクして、ダンスをしている時のような興奮がこみ上げた。


                ****


 ザッザッザという穴を掘り進める作業の音が絶えず響いている。そこに不満そうな顔をした男が立っていた。

「地上?あれこそ伝説だ。迷信だ!」

「輝く世界は、信じないと見つけられない。天から光が降り注ぐ伝説の世界、地上がどこかに実在するって、信じさえすれば、この暗」


 ここで千鶴さんの雷声が落ちた。

「お前、唯我!!言ってるだけで伝わると思ってんのか!!足りねえんだよ!」

「すみませんっ。もう一度」

「樹杏、次いけ。唯我はもっと考えろ」

「でも俺っ」

「次始めたいんだよ。邪魔だ!」

 俺はその場に立ち尽くしたが、すぐに共演者の俳優が背を押して稽古場から離された。気づけば廊下に立たされていた。俺は両手で頭を抱えてうずくまった。くそ、くそっ!最後まで立たせてもらえなかった。セリフさえ言い切れず……。ちくしょう!

 答えがすぐほしくて待ちきれなかった。できないことを指摘されるとイライラした。しかし、それは俺に足りないものであることは確かで、イライラしたり怒ったりするのは筋違いだとわかっていた。怒るだけでは何も生まれない。一つ一つ、ちゃんと理解して身に着けろ。樹杏に早く追いつけ。追い越せ!

「ええっと……」

  俺はポケットに差し込んでいたペンを取り出した。メモするものが何もなかったので、千鶴さんに指摘されたことを腕にメモした。するとドアがダンと勢いよく開き、大泣きする樹杏が飛び出してきた。

  樹杏は俺にも構わず廊下をダッシュして奥へと行ってしまった。俺は小学生の時のことを思い出した。樹杏は階段の隅に腰を下ろして膝を抱えて泣いていた。きっとその時と同じで、樹杏は人気のない角を見つけてめそめそ泣いているんだろう。

  連れ戻しに行きたい気持ちはあったが、それはできなかった。その時間は、今の俺にはなかった。俺は開かれた扉の中に戻り、共演者たちからの視線、千鶴さんの眼光の前に立ち、頭を下げた。

「樹杏がいないなら、俺に時間を下さい!もう一度、お願いします!」

「理解も整理もできてない奴に用はない!」

「整理は、できてます!お願いします!」


                ****


「いいねえ、Y&J」

 シャッターを押し続ける所澤さんは、年中ジェニーズの追っかけをするフリーのカメラマンである。初めてY&Jの写真を撮ってくれたのもこの人だ。俺と樹杏は、ジールの衣装を着て並び、真っ白なライトを浴びていた。

「相変わらずいい笑顔の樹杏君、それから、相変わらず笑わない唯我君。君たちはいいコンビだね」

「でしょう?所澤さん!」

「俺、そんなに笑ってない?」

「え、笑ってたつもりだったの?全然笑ってないよ!」

「そうだね。全然笑ってない」

  俺なりには十分笑っているつもりだった。樹杏がブハハと爆笑しているのがムカついて、脇に手を入れてくすぐってやった。その間も、シャッター音は海に立つ波のように絶えず俺たちに押し寄せた。耐えきれなくなった樹杏は床に膝をつき、ゼエゼエと呼吸した。その様子を見て、俺は清々した。

「ふふふ。仲良しだなあ」

「そうだよ!」

「違います」

「アハハ。いつかの『MyJe』に載ってた答えと一緒だね」

  『MyJe』とは、月に一度刊行されるジェニーズの雑誌だ。初めてY&Jで記事には、大きな文字で「仲良しですか?」「はい!」「いいえ!」と載っていた。

「今度の『MyJe』のインタビューでも、同じ質問されたよね。ちょーネタにされてるよね、僕らの仲良し発言」

「いいように面白がられてるだけだろ」

「でもいいじゃん!」

「さて、ピン撮りといこうか。まずは唯我君」

「はい」

 メイクさんに少し髪の毛を整えられ、一人ライトの中に立った。見上げると真っ白な光でいっぱいで、足元を見ると真っ暗な影が溜まっている様子が不思議だった。

 ライトの光の届かない影の中に、カメラを構えた所澤さんや笑顔の樹杏、他にもたくさんのスタッフが息を潜めているのがわかった。そこはまるで、ジールの暮らすアンダーザグラウンドのようだった。つまり、俺の立つ場所は、アンダーザグラウンドと、オンザグラウンドの狭間なのだと気づいた。指示を受け、カメラに視線を送った。ここに立っているのは「小山内唯我」じゃなく、「ジール」なんだと理解した。

 その日の写真がポスターになった。ホームページには、ポスターと一緒に千鶴さんの提案したY&Jないし「YorJ投票」を行うというお知らせが発表されていた。投票はチケットに記載のあるコードから投票することができることになっている。これはどちらのジールが良かったか、というよりも、俺と樹杏の実質的な人気投票となるのだ。

 夜9時半、舞台のホームページを見ていた優里子は、職員室で目をキラキラさせていた。画面には樹杏と俺のジールの姿が映り、詳細な情報が載っていた。そうなんだそうなんだ!唯我と樹杏君が人気投票するんだ!いいなあ。観に行きたいなあ。でも、観に行けないか。

 優里子はふっと笑った。優里子には、自分で作ったルールがあった。ホームページに映る樹杏を見ると、小学5年生だった樹杏が施設の医務室のベッドにいた時のことが思い出された。

「優里子ちゃんは、舞台見に行かないの?」

 その幼く表裏のない質問に、優里子は正直な気持ちで答えた。

「本当は見たいよ。だけどね、私は待ってるの」

「待ってる?」

「唯我にね、見に来てほしいって言われるのを待ってるの」

 そんなルールを決めてからおよそ5年が経った。未だ、優里子は俺からの誘いを待っている。

 その時、職員室の扉がガラッと開いた。廊下から顔を出したのは俺だった。

「ただいま」

「おかえりなさい。唯我、夕飯もうあるからね」

「優里子、ちょっと……」

 優里子は俺に呼ばれて職員室を出た。

「何よ」

 俺は背負っていたリュックサックから白い封筒を出して優里子に渡した。

「これは?」

「6月の舞台のチケット。優里子の分だけもらった」

「……え、私の分だけ?」

「優里子だけは絶対誘おうと思ってたんだ。俺のジール最終日だから、その日の予定は明けとけよ」

 チケットを渡す時、少しだけ緊張した。しかし、ドキンと胸の奥で強く音が鳴ったのは優里子の方だった。優里子は手元のチケットを見た。そこには『ジール スタンドオンザグラウンド (sideY)』とあり、職員室で見ていた投票コードが記載されていた。優里子にとってそのチケットは、宝物のしまわれた扉の鍵のようにワクワクとドキドキを与えるものだった。

「嘘。信じらんない……」

「う、嘘じゃないし、信じていいよ。……来てくれるか?」

「うん。絶対行くに決まってる!すっごい嬉しい!ありがとう、唯我!」

「他の奴らには内緒な」

「何か、悪い気がするなあ。でも……」

 それでも、来てほしいと言ってくれたことが何より嬉しい。優里子は胸にチケットを押し当てて頬を赤くした。

 俺は事務所からの帰り道に優里子と話をした時のことを思い出した。「いろいろこれから」の中に、優里子の「弟」じゃない俺になれることを期待した。

「稽古はどう?順調?」

「もう佳境だよ。明日の劇場舞台の稽古には、樹杏の密着取材があるんだって」

「さすが樹杏君!有名人だね!密着ってことは、何かの番組とか?」

「うん。日曜日にやってる有名人の人生史を見るみたいな……」

「ああ!”波乱は笑えば福が来る”ね!いつやるんだろう」

「確か5月中旬の舞台公演期間中」

「なるほど。舞台宣伝ね」

 次の日、劇場舞台を借りての通し稽古が行われるのと同時に、樹杏の密着取材が行われた。その日一日、樹杏がどこにいても後ろにカメラがくっついてくる。劇場の舞台裏の控室、廊下、舞台袖まで、どこまでもカメラが追いかけてくる。とても不思議な光景だった。これが密着取材というやつか。何とも煩わしそうに見えるが、樹杏は終始ニコニコしてカメラにピースをした。

「小さい頃から芸能界にいると、場慣れしてるよな」

「本当に。いつもはあんなチャランポランに見えるのに。動じないでいつも通りでいられるところはプロだよな」

 昼食を食べる口をカメラに向けている樹杏を見つめながら、周りの先輩たちが話をしていた。その内容に、俺も納得した。俺だったら、同じようにできるだろうか。いや、できそうにない。

「唯我君、ちょっといいでしょうか」

 昼食を食べ終わる頃、劇場に来ていた根子さんが俺を呼んだ。廊下に出ると、根子さんの隣には見知らぬラフな格好の男が立っていた。

「唯我君に、一つお願いがありまして」

「何でしょうか」

 その話は、樹杏を驚かせる秘密の企画だった。


                ****


 劇場の出入り口に掲示されるポスターの下には、毎日の投票数が示される掲示板の並ぶ特設コーナーが設置された。舞台初日、集まった観客たちは用意された特設コーナーを写真に取り、SNSに上げた。 初日トップバッターは樹杏ジールだ。


「君の夢、君の見たかった世界には、君の知らない、朝がある。…行こう!どんなに悲しいことがあろうと、そこにきっと希望の光は昇るのだから!俺は今、地上へ旅立とう!」


 樹杏ジールは堂々としたもので、笑顔の絶えない明るい性格の少年という印象だった。樹杏ジールが空高く顔を上げ、手を広げて長く伸ばし、高らかに希望の歌を歌いあげると、会場には大喝采が響いた。俺は午後の公演に向けて会場に設置された練習室で歌の練習をした。

「…そこにきっと希望の光は昇るのだから!俺は今、地上へ旅立とう!」

 スマホからジールの曲の伴奏を流し、歌に合わせて立ち回り、呼吸と視線を意識しながら歌った。その様子を千鶴さんが見守った。

「唯我、最後のところ、もう少し下からゆっくり顔を上げろ。手も一緒に」

「はい」

 ポリカを飲んでいると、練習室の扉が開いた。現れたのは、未だにジールの衣装を着た樹杏だった。

「終わったよー!!あ、ちづさんここにいたんだ!秘密の特訓してたな!?」

「そんなところかな」

「唯我ずるい!」

「俺は午後があるんだから、練習したかったんだ」

  樹杏は頬をリスのように膨らませて俺を睨んだ。荷物をまとめ、樹杏と千鶴さんの後を追うように練習室を出た。少しずつ、緊張感が押し寄せていた。通路を歩く足が重い。背筋が固まり始める。俺は顔を上げ、スーっと空気を胸いっぱいに吸い込み、ハーっとゆっくり息を吐いた。 失敗なんてしない。後悔しない。ベストを尽くすんだ!

  午後、俺は樹杏と同じジールの衣装を身に着けて、幕に覆われた暗い舞台の上にいた。下に顔を向け、目を閉じ、開演を知らせるブザー音を待つ。まるでジェニーズのライブで踊りだすタイミングを図るように、脈はリズムよく鼓動した。

 ブザー音が響き、スポットライトと同時に頭上から幕を上げる音が降る。俺は目を開きながら顔を上げた。ジールは、もうすぐ来たる希望を見る。


               ****


  施設の職員室にいた優里子は、玄関からガラガラと扉を引く音に反応した。次に職員室の扉が開くと、「ただいま」と俺が顔を出した。窓の向こうは真っ暗で、時計は8時を過ぎていた。

「おかえり、唯我」

「おう」

  扉は閉じ、俺は食堂へ向かった。優里子の前の席にいたクレアおばさんは、「優里子ちゃん」と声をかけた。

「唯我君と夕飯しておいで」

「呉羽さん、ありがとうございます」

  優里子はすぐに俺を追いかけた。俺が 廊下を歩いていると、後ろから駆け足で優里子がやって来た。優里子はニコッと微笑み、俺はその表情に癒やされた。

「舞台初日はどうだった?」

「……歌が」

「歌?」

「俺の歌声、全然響かないんだ。どうしよう……。リハもゲネプロも終えて、未だにこれはまずい。本当にまずい」

「歌……。唯我の歌かあ」

「何だよ」

「唯我が歌ってるのなんて、想像もつかないよ」

「お前、Jr舞台の映画も、CDも聞いたことあるだろ。俺の歌ってるの」

「そりゃ聞いたことはあるよ。でも、歌ってるのも、舞台に立ってるのも見たことないじゃない」

  優里子に言われて、俺は気がついた。思えば、優里子に俺が舞台に立っている姿は、初めてのライブと、小学生の頃のJr祭りでしか見せたことがない。ましてや演劇舞台は皆無だ。

「そっか……」

「だからね、楽しみなの。下手でもいいの。私、楽しみなんだ」

  優里子は背の後ろで手を結び、少し俯く横顔に潤んだまつ毛が光の線を帯びている。ぷっくり膨らむ唇が「楽しみ」と言うから、俺は嬉しくて照れくさくなる。一人で照れくさくなったのが恥ずかしくて、顔を反らした。ただ、その唇が「下手でもいい」と言ったのが気に入らなかった。

「……はは」

「何笑ってるのよ」

  振り返り、優里子の顔を覗き込むと、優里子はあごを引いて、もう一度「何よ」と言った。

 もどかしい。「楽しみ」と言ってくれる優里子が好きで、「下手でもいい」と言った優里子が嫌いだ。

「ぜってえ、"下手"なんて言わせねえからな」

「……」

「良かった。優里子を誘ったのが今日じゃなくて」

「え?」

「俺の舞台最終日、楽しみにしとけよ」

「……うん。だから、楽しみなんだってば!」

「はははっ」

  優里子が可愛い。だから、舞台を見た優里子には、絶対笑顔になってもらおう。それはもう満面の笑顔に!

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