第64話 痛みと気づき
「僕、イタリアには帰りたくない!!」
そう言って飛び出してきた樹杏は、俺を強く抱きしめた。俺はバランスが取れず、一歩二歩と部屋から廊下へ出た。その時には、廊下には俺たちの様子が気になった寝間着のガキたちがウロウロと集まっていた。視線がとても痛かった。
「樹杏、早く離れろよっ」
「唯我、夕飯食べよう。冷めちゃうよ」
「優里子っ」
「あ、樹杏君!」
優里子の声が階段から廊下へ響いた時、返事をするように樹杏の腹がグーっと鳴った。俺は樹杏を連れて食堂に向かった。席に座った樹杏は赤くなった鼻をズズッとすすり、用意されたカレーを涙目で見つめていた。
「樹杏君、カレー嫌だった?」
「優里子、甘やかさなくていい。こいつが勝手に来たんだ。用意してもらえるだけありがたいと思え」
「唯我、もっと優しくしてあげられないの?相棒じゃない」
「誰が相棒だ」
「もうっ」
「優里子ちゃん、大丈夫。カレー大好き。だけど、悲しくて……」
「ゆっくりでいいから食べた方がいいわよ。落ち込んでる時こそ、美味しいものたっくさん食べて元気出して」
「優しいね、優里子ちゃん。好きになっちゃいそう」
「俺が許すわけねえだろ」
「何で唯我が許すのよ」
「嫌だから」
「何が嫌なのよ」
隣同士で座る俺と優里子が睨み合うのを見て、樹杏はプッと吹き出した。
「相変わらず仲いいなあ、二人とも。妬けちゃうなあ」
「樹杏君……。生意気な弟でしょう?大変なんだから」
優里子が笑って答えた瞬間、俺の体にグサリと矢が刺さるのを見た樹杏は、腹を抱えて笑った。それを見て、俺と優里子は顔を合わせた。よかった。樹杏がようやく笑ったと安心した。
食器を片付けたテーブルの上には、マグカップからホットミルクの湯気が立っていた。樹杏は、俺と大使館で別れた後のことを話してくれた。
「大使の任期が来年の9月で終わる?」
「うん。任期を終えたらイタリアに帰るって。僕とママも、一緒にイタリアに来いって……」
樹杏の目に、もう一度涙が浮かんだ。
「樹杏だけでも残れないのか?」
「僕もそう言ったんだ。僕は日本に残る。日本で仕事してたいって!そしたら……」
クリスマスライブの打ち合わせを終えた後、一人大使館に残った樹杏は父親と話をすべく、大使室にいた。部屋の奥にある大きな窓からは、陽の光がよく差し込んでくる。おかげで樹杏から見た大使の姿は真っ黒だった。逆光の中、大使は鋭く光らせた青い瞳を向けた。
「J、君は自分が何者かわかっているかい?」
「は?んだよ、それ」
「君は大貫樹杏。大使の息子なんだよ。それがどういう意味を持っているのか、小さい頃から何度も言い聞かせただろう」
「イタリア大使の命は母国のもの、大使の家族の命は母国そのもの。それが何だっていうんだよ。僕には関係ない!」
「関係ないはずがあるまい」
「関係ないだろ!そんなのあんたの都合だ。僕を、家族を巻き込むな!もう、うんざりなんだよ……」
「J、君の身に何かあったらどうする。離れていては守れるものも守れない」
「守ってもらわなくていい。僕は自分の力で生きていける!」
「私はそうは思わない。私と共に来なさい」
「嫌だ!!」
「どうして人の話を聞こうとしないんだ!」
「あんたもだろう!」
「何だと」
「僕はここに、ここにっ……」
怒りと共に募る思いが、樹杏ののどをふさいだ。自分の言葉を聞いてもらえないかもしれないという不安と、聞いてほしいという希望が入り交ざり、声が震えた。
「感謝を伝えに来たんだ……」
「感謝?」
「Y&Jを、ここに呼んでくれたこと。これまで、僕の活動を一度たりとも認めてくれなかったあんたが、僕を一人のパフォーマーとして、ゲストとして、あんたのパーティーに呼んでくれたこと……。だから、グラツィエって……」
樹杏にとって、父親は一番近い場所にいる家族であり、一番遠くに立つ偉大な人で、一番自分のことを認めてほしい人だった。その人に自分の思いが伝わらない、伝えきれない。意思はあっても抗えない。抗える力と責任力を持てない。樹杏は涙の浮かぶ目にギュッと力を入れると、大使室を飛び出した。
807号室の扉を閉めて、息苦しい体を両腕に抱えて一晩中泣いた。悔しくて、寂しくて、悲しかった。
施設の食堂で、樹杏は伸ばした長袖を指で抑えて落ちる涙を吸わせていた。
「ひどいのは小池君さ」
「小池君?」
「小池君は、もう4月には知ってたんだ。だから、僕へのお仕事の依頼の調整を既にしちゃってて、来年の9月以降のお仕事については一切引き受けていないんだ。事は全て、僕の知らぬところで、僕の承諾もないまま進んでた。全部決定事項さ。僕の抗う隙なんて1ミリもない……」
「……じゃあ、Y&Jは?」
「……来年の夏で終わり。本当に終わり」
樹杏はポロポロと泣き出した。目も鼻も頬も赤くなり、透明でぬるい滴がテーブルや樹杏のズボンに溶けていく。来年に決まった別れが受け入れ難く、樹杏の悔しさや切なさが伝わってくる。俺は頭を抱えた。樹杏はどうすることもできないという。そうだろうか。本当に、何もできないのだろうか。
「……これからどうなるのかを考えても、すぐに答えは出ないと思う。今は、目の前の仕事をちゃんとこなすべきだ。大使館のステージには出よう」
「やだ。出たくない」
「来年イタリアに行くのと、今回のステージに出ないのは関係ない」
「あるよ!認めることになるじゃんか!」
「認める?」
「ステージに出たら、来年イタリアに行くことを認めるようなもんだ。クソ親父のいいつけを守るだけのいい子ちゃんになんかなりたくない!僕は出ない!」
「樹杏、お前一人のステージじゃないんだ。俺たちのステージなんだよ。Y&Jで立つことのできる、数少ないステージ」
「わかってる」
「わかってない!お前のところの親子問題があるのはわかった。だけど、これは俺たちにに依頼された仕事なんだよ。お前の個人的感情のために蹴っていい仕事じゃない!」
「唯我のわからずや!!」
「ああ、結構だよ!公私混同野郎!お前はもっとプロ意識高い奴だと思ってたよ」
「っ……」
「クリスマスは出る。お前の事情なんか知るかよ」
俺は怒鳴るだけ怒鳴り、席を立った。これ以上樹杏の顔を合わせても、イライラするばかりで話が進まない気がした。
「唯我、もっと樹杏君の話を聞いてあげて」
優里子のことも無視して、俺は食堂の出入り口へ足を向けた。すると、樹杏がポツと呟いた。
「…………唯我がうらやましい」
その一言に足は止まった。振り返ると、樹杏は背を丸め俯いていた。
「何だと?」
「家に縛られない、親に縛られない。自由な唯我がうらやましい。……親のいない唯我がうらやましい」
俺は樹杏の胸ぐらを掴み、拳を大きく振り上げた。
「唯我っ!!」
ガシャーン!ガタガタドンという大きな音が職員室まで聞こえてきた。施設長とクレアおばさんが食堂に駆けつけた時には、椅子やテーブルがひっくり返り、そこに樹杏が重なって倒れていた。すぐそばには、怒りで我を忘れた俺と、俺を後ろから力いっぱい抱きしめ抑えている優里子がいた。
「ちょっと唯我!落ち着いて!!」
「離せっ!!」
「落ち着きなさい、唯我!一体、どうしたんだい?」
「樹杏君、大丈夫?」
クレアおばさんは、体に力を入れられない樹杏の背を支えてゆっくり起き上がらせた。樹杏の左頬は真っ赤に腫れ、口元は小さく切れて血がにじんでいた。
「呉羽さん、樹杏君を医務室へ」
「はいっ」
クレアおばさんは樹杏を連れて食堂を出ていった。ふうっと息を吐き、施設長は俺の前に立った。
「唯我がやったの?どうして樹杏君を倒したの?」
「あいつが悪い。ワガママばっか言って、挙げ句……」
樹杏の呟いた「自由な唯我がうらやましい」という言葉が、鋭い刃となって俺の胸を刺す。口にするのも痛くてたまらなかった。
「俺が……、親がいなくてうらやましいって」
「……」
施設長は、涙を浮かべて俯く俺に手を上げた。叩かれると思って目を閉じると、頬にふわっと施設長の手が降って落ちてきた。その手に誘導され、顔を上げると、施設長は苦しそうな顔をしていた。
「たとえ嫌なことを言われても、相手を傷つけてはいけない。痛みでは、何も解決できない。わかってるだろう」
施設長の手の当たる頬が、熱くて痛くてたまらなかった。俺は優里子から逃れ、食堂を出ていった。静まり返った食堂の中、施設長は黙々とテーブルと椅子を起こした。
「優里子、ここは僕がやっておくから、唯我をお願い」
「お父さん……」
「今日は夜勤じゃないだろう?唯我が落ち着いたら、気をつけてお帰り」
樹杏が医務室で手当を受けていると、廊下をダンダンと歩いていく音が聞こえた。樹杏は、それが俺だとわかっていた。足音が医務室を通り過ぎると、今度は優里子が駆け寄っていく足音がして、樹杏は医務室のドアが開かなかったことに安心した。
「唯我、唯我っ。待って!」
優里子は俺の手を掴み、足を止めた。
「ほっとけよ。今は一人に」
「今は一人になっちゃダメ!」
「優里……」
「一人にならないで、唯我」
****
施設の玄関先の時計は、9時を過ぎている。冷え込む夜の空気が頬を刺し、はあっと吐いた息が白く揺れ、街頭の光の中に消えていく。とっくに勤務を終えて帰るはずの優里子が、俺の隣で空を見上げている。
「お前、まだ帰らないの?」
「あんたの頭が冷えるまでは一緒にいる。少しは、冷えた?」
「……お前の方が先に冷えそう」
「そうよ。寒いわよ。手も足も、ほっぺも耳も!」
「今日、あの耳当て買えばよかった」
「いや、あれ小ちゃい子用よ。温かかったけど、いらないわ」
「似合ってたのに」
「バカにしてるでしょ!」
「してない」
「してるもん!」
ふくらませる頬も、鼻の頭も、息を吐きつける指先も赤くなっている。それなのに、優里子は歩道の手すりに背を預けたまま動こうとはしない。心配そうに俺を見つめる。そんな顔をさせるのも嫌だし、俺のために、寒空の下で優里子が一緒になって体を冷やすのも申し訳なかった。これで優里子が風邪でも引いて、仕事を休むことになって、会えなくなるのも嫌だ。
「優里子」
「何?」
「もう十分冷えたから、帰れよ」
俺のせいで優里子が苦しくなっても助けてやれない。早く帰ってほしい。「一人にならないで」その一言だけで、俺の怒りも悲しみも、穏やかに消えていったのだから。
その時、優里子の両手が俺の頬を覆った。白い息を吐いて温め続けていたはずの手は、俺の頬よりも冷たかった。
「やだ。私の手の方が冷たいみたい」
「……冷た過ぎ」
「ふふっ。本当、冷え性なんてやんなっちゃう」
優里子の手に、俺の手を重ねた。小さくて冷たい手は、冬に触るにはあまりに心地よくない。だけど、とても離し難かった。
「さっき……」
「うん?」
「樹杏に公私混同って言った時、昔のことを思い出した」
「昔って?」
「ポリカのCM撮影した時のこと。あの時の俺は、公私混同もいいところで、それを真剣に怒ってくれた友達がいたんだ」
その人は、今では少し疎遠になっているD2-Jrというグループの智樹のことだ。智樹は、幼くて気持ちばかりで走る俺に、「ふざけんな!」と怒鳴った。
「今になって、あの時の智樹の気持ちがわかった……」
俺は、Y&Jに仕事の依頼があったことが嬉しかった。樹杏と立てるステージは特別だ。だけど、そこに挑む樹杏と俺の気持ちが違うことがショックだった。
「人のこと、俺が偉そうに言えるわけねえのに……。樹杏の顔面殴るとか、何様だよって……」
「唯我……」
****
その夜、寝床をガキたちの部屋に用意してもらった樹杏は、昔の自分の夢を見た。
幼い頃のことだ。何という病気ではないが、もともと体の弱かった母親は、いつも真っ白い病室の中でしか会うことができなかった。病室で会う樹杏の母親は、樹杏と同じ赤毛を揺らし、太陽の温かい光の中で笑って樹杏を出迎えた。しかし、樹杏の頭を優しく撫でる母親の顔は、いつも窓の向こうを向いている。
「今日も、パパは来ていないのね。仕方ないわよね」
母親が会いたいと思う人は自分じゃない。樹杏に目もくれず、大きな屋敷で偉そうにしている父親だ。
どこにいても上辺の挨拶しかされない。学校のクラスメイトたちは、「大使の息子」にしか興味がない。誰も自分のことを見てくれない。寂しかった。それでも樹杏は笑った。笑うことで、弱い自分を隠した。
大使館のパーティーに参加した樹杏は、つまらなさそうに俯いて、一人壁に寄りかかっていた。面倒くさい。楽しくない。大人や子どもたちが話しかけてきたら、笑顔と愛想を振りまくゲームはとても簡単で退屈だった。そんな樹杏に声をかけたのが、偶然にもパーティーに招待されていた千鶴さんだった。
「お前、楽しそうじゃないな」
千鶴さんは、上辺だけで笑って「こんばんは」と挨拶するガキの、背中と壁の間に隠す手や、プラプラと暇そうに揺れる足を見落とさなかった。しゃがみ込み、樹杏の顔を覗き込んだ。
「退屈してるんだったら、俺と楽しいこと、一緒にしようぜ」
それから樹杏の俳優活動が始まった。自分を守るためだけに身に着けた愛想と笑顔は、樹杏の最大の武器となった。世界には、嘘だらけの自分でいることをほめてくれる人たちがたくさんいて、それは家族からも親近の友達からも得ることができなかった、認めてもらえるという強い喜びを感じられるものだった。
僕は誰からも必要とされる僕でいるために、僕自身の価値を高めるために頑張るんだ。誰にも僕の居場所を奪わせない。誰かじゃなくて、僕を必要とする世界にするのは、僕自身だ。
そんな俳優生活の中で、樹杏は千鶴さんからあるジェニーズJrのことを聞く。
「小山内唯我?そんな名前、知らなーい」
「そうか。いつか会わせてやるよ。あれはイケメンに育つぞお」
「ええ?興味なーい!」
「そんなこと言うなよ。いつか、お前と並ぶジェニーズになる奴だぜ」
ちづさんがそこまで言う奴がいるんだ。会うことがあったら、一生千鶴さんの目に写らないように、絶対潰してやる。
「もしかして唯我!?僕、僕、大貫樹杏!皆はJって呼ぶよ!ちづさんから唯我のことは聞いててさ、会いたかったんだ!!同い年にめちゃくそイケメンいるって!うわあ!本当にイケメンだああ!会えて嬉しいよ!唯我!よろしくね!!」
なあんだ。ただの素人じゃん!ちづさんが言うから、どんな奴かと思ったけど、大したことないじゃん。どうせこいつも、俳優の大貫樹杏を認める。それでいい。それで十分だ。
「唯我も踊ろう!あ、唯我もちづさんの振り付けだ!一緒!」
「お前が千鶴さんなら、俺は裕二郎だ」
何それ。考えたことなかった。
「もしかして青春隊の3人全部踊れたりすんの?」
「……まあな」
「すげー!!」
こいつ、すげー変な奴!
その素人は、樹杏が持っていない武器を持って現れた。愛想のかけらもなくて、樹杏に遠慮がない。演技力はからっきしだけど、ダンスが得意で、何に対しても真っすぐで、純粋で、壁を作らず、学ぼうとする姿勢に迷いがない。樹杏が最も恐れたのは、貪欲に、何でもすぐに吸収してしまうところだった。
「唯我は歌は好き?演技は好き?」
「え」
「僕は好き。ダンスも好き。だから舞台に立つのが一番大好き。それから、取柄のなかった僕にできることをくれたちづさんが大好き」
この素人をちづさんが連れてきたのには、理由がある。その理由は、何となくわかっていた。
「……僕はね、唯我がここに来た理由は、僕の代役になるためだと思ってる。僕にとって、僕の役を奪おうとする人は敵だ。ジールは絶対渡さない」
渡さない。僕のものは何一つ、奪わせない。
「俺に、お前の代役は無理だ。奪えるわけない」
「そう思うのは唯我だけ。渡さないって思ってるのも、僕だけ。だけど……」
樹杏はわかっていた。自分を守り続けた武器は、こいつには通用しない。そして、このブラックホールみたいに何でも身に着けようとするこいつの武器が、自分の鎧にヒビを入れ始めていたこともわかっていた。
「敵だけど、僕は唯我とは仲良しでいたいんだ」
うらやましい。「バカかよ」と言いたくなるほどの正直さも、思わず涙が出てきてしまいそうになる眼差しも、うらやましい。
「何だよそれ。別にどうでもいい」
黒いストレートヘア、印象的な瞳。
「俺、お前が真剣に舞台を作ろうとしているのは、本当にすごいと思うんだ」
樹杏が演技にかけてきた時間を、ダンスにかけてきたのだとわかるキレイなステップ。
「もし、お前の言う通り、千鶴さんが何か考えてるってんなら、俺はそれに応えたい。だけど、そうすることでお前の敵になっても、俺はお前を嫌わない」
目の前にいるそいつは、俳優でも、「大使の息子」でもない、たった一人の大貫樹杏という人間を見てくれていることがわかっていた。
「だから、その変な顔を直してくれ……」
樹杏の持っていないもの、いや、かつて捨てたものが、そこで宝石のようにキラキラと光っていた。樹杏は、自分の居場所を奪うかもしれないそいつのことを、いつの間にか大好きになっていた。
****
目を覚まし、体を起こすと、807号室ではない場所で、よく知りもしないガキたちに囲まれていることに樹杏は少し驚いた。壁にかかる時計は6時を過ぎている。しばらくボーっとして、顔を横に振った。寝室の空気はひんやりとしているが、窓から差し込む日差しは温かかった。
小さい頃の夢なんて、久々に見たな。僕って本当、嫌な奴だなあ。
その時、タンッと床を蹴る音が微かに聞こえた。樹杏は寝間着のまま施設の中をうろうろした。居間の前に来ると、聞き覚えのある音楽と、シューズが弾む音がした。ドアの窓を覗くと、真っ白な朝日の光の中で一人踊る俺がいた。
この曲、Aファイブの曲だ。Y&Jで年明けに撮影する予定のダンス……。もう練習始めてるの?
樹杏は、昨晩の俺が言った言葉を思い出した。
「今は、目の前の仕事をちゃんとこなすべきだ」
「樹杏、お前一人のステージじゃないんだ。俺たちのステージなんだよ。Y&Jで立つことのできる、数少ないステージ」
唯我は、Y&Jのステージを大切にしてくれている。それなのに、僕は自分のことばっかり考えて、唯我の気持ちなんて何も考えていなかった。
「別にどうでもいい」
「お前の敵になっても、俺はお前を嫌わない」
居間のドアが開き、俺は動きを止めた。入ってきた樹杏は、俺から視線を反らしている。
「唯我……」
「いいとこに来たな。お前もやれ」
「うえっ!?」
俺はすぐに樹杏の腕を掴み、居間の真ん中まで引っ張り入れた。
「ちょっと、唯我!起きたてでダンスとかキツイって!」
「お前、舞台稽古の朝は汗だくになって踊ってるじゃんか」
「あれは、顔洗って歯磨いて、ご飯食べて、準備万端でやってるんだよ!今は無理!」
「別に今日ぐらいいいだろ」
「い・や・だ!!」
「そうやって、お前はいつもっ……」
その時、樹杏の頬を覆う湿布と、口元の絆創膏が目に入った。それは樹杏の腕を握る俺の手がつけた傷だった。罪悪感と後悔が胸をギュッと締めつけた。手を離すと、樹杏の青い瞳が俺を写した。
「ごめん、樹杏。昨日は……」
「え……」
「痛かったろう。ごめんな」
樹杏はポロポロと泣き出した。頭を振って、離れていった俺の手を取った。
「僕の方こそごめん!最低なこと言った。……ごめん。ごめん、唯我」
僕なんかより、唯我の方が痛かったに決まってる。嫌われても仕方がない。なのに、自分勝手に思ってしまう。
「僕のこと、嫌いにならないで……」
「なるわけねえよ、樹杏」
「唯我……」
「俺はお前を、嫌わない」
樹杏は、まるで小さい頃の自分と俺が、もう一度俺と出会ったような気持ちになった。
****
樹杏は制服を着て、一緒に施設を出た。樹杏とは、俺の通学路を途中まで一緒に歩いた。
「もう一度パパに話をするよ。僕は日本にいたいんだって」
「それでもイタリアに行かなきゃいけないって言われたら?」
「……それでも、理解だけでもほしい。僕は大使の息子だけど、ジェニーズの大貫樹杏なんだって。今回のことはさ、僕が嫌なこと面倒くさいことから逃げ続けた結果なんだ。気づいた今、やらなきゃいけないんだ」
学校に到着すると、頬に大きな湿布を付けた樹杏を見て、クラスメイトたちは心配の声を上げた。
「樹杏君、そのほっぺたどうしたの?」
「痛そう……」
「何かあったの?大丈夫?」
「お大事にね」
「皆……、ありがとう。大丈夫だよ」
この時、樹杏は少しだけ気づいたことがある。もしかして、「大使の息子」じゃなくて、一人の人間、大貫樹杏を見てくれている人は結構いるのかもしれない。
「J、唯我君から聞いたよ。ケンカしたんだって?」
ヒソヒソと声をかけてきたのは、長谷川だった。
「徹……。あはは。恥ずかしいなあ。でもね、僕が悪かったんだ。それを唯我はちゃんと教えてくれただけだよ」
「もし、唯我君から嫌なことをされたら、僕に言ってね。すぐ懲らしめに行くから」
「うん。ありがとう、徹」
僕が気づけていないことが、たくさんあるかもしれない。スマホを取り出し、恐ろしいほどの小池君からの着信数を見て、顔を青くした。次に、「クソ親父」と登録された大使のアドレス宛にメールを打った。
大使は、大使室の机の上で光ったスマホを確認すると、フッと微笑んだ。
「ようやくか。随分待ったものだ」
画面には、樹杏から届いたメールが表示されていた。
『近いうちに、時間をくれ。話したいことが、たくさんあるんだ』
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