第63話 Y&Jのクリスマスについて

 12月末のクリスマスライブの練習が始まる頃、俺と樹杏は根子さんに呼ばれて事務室にいた。

「今年のクリスマスライブのトップバッターを、Y&Jにお願いすることとなりました」

「嘘!やったあ!!」

「あの、どれだけ踊れるんですか?」

「え、どれだけって?」

「そうだった。樹杏は一度もクリスマスライブに出たことないもんな。Jrグループが踊ることができるのは、例年ライブ開始の10分弱。そこに10グループくらい詰め込まれてるから、踊れる時間はかなり限られてるんだよ」

「げっ!!忙しいんだね!」

「ちなみに、Y&Jに用意された時間は30秒です」

「30秒!?」

「いや、他のJrだってそれくらいだぜ。去年、聖君たちのいるC少年がそれくらいだった」

「そっかあ。でも、真ん中のステージにY&Jで立てるんだ!30秒!!」

 そう言うと、樹杏は涙をちょちょぎらせた。背を丸め、老人のように体を小さくしぼませた。

「唯我、来年はもっと立てるようなグループになろうね」

「ああ、樹杏」

「それから、クリスマスの予定について、Y&Jにもう一つお知らせがあります」

「何、何!?」

「クリスマスライブの25日についてですが、Y&Jでステージに立っていただいた後、すぐに会場を移動します」

「移動?」

「どこへ?」

「イタリア大使館です」

「イタリア大使館!?それって……」

 イタリア大使と聞いて、すぐに頭に浮かんだのは樹杏のことだ。こいつはイタリア大使の息子であり、イタリア大使館とはつまり、樹杏のホームグランドと言っても過言ではない。樹杏が喜びそうな話じゃないかと目をやると、隣の大使の息子は、青い瞳をまん丸にして、根子さんの言葉に固まっていた。

「は……?大使館?」

「はい。25日の大使館パーティーで踊ってほしいという依頼がありました。つまり、このお仕事は樹杏君のお父様からの依頼になります」

 樹杏は口をポカンと開けたままだった。俺には意外な反応に思えた。いつものハイテンションはどこにいったんだ。俺は樹杏の肩を持ち揺すった。

「おい、樹杏?」

「唯我……。何か、何か変だよ」

「変って、一体何が」

「あのが、こんな依頼するわけないもん!すんごい……、キモい!!」

「は?」

 クソ親父って……。樹杏は、親しくないジェニーズJrたちへの拒否感に似た態度を示した。俺の腕にしがみつき、袖をギュッと握った。

「根子ちゃん、これって断れないの?断って!」

「樹杏、何言ってるんだよ」

「ねえ、お願い!」

 樹杏の必死さは、とても異様だった。しかし、どんなに拒否しようとも、根子さんの返答は一つだった。

「やっていただきますよ、樹杏君」

「……、そんなあ」

 樹杏は俯き、額を俺の肩に乗せた。わかりやすく落ち込んでいる樹杏を無視して、根子さんは話を続けた。

「今度、一緒に大使館へ打ち合わせに行きましょう。詳細はそちらで確認します。よろしくお願いします」


                ****


 後日、俺と樹杏はジャケットに青、赤のネクタイをして、小池君の運転する車で大使館に向かった。車の後方座席で窓に頭を預けている樹杏は、いかにも不服そうだった。「触るな危険」という掲示をした工事現場のフェンスの向こうに隠れるように、樹杏は息を潜めている。運転する小池君は、慣れているのか樹杏を完全無視し、助手席の根子さんは、バックミラー越しに樹杏をチラッと見てから俺を見る。居心地が悪かった。

「さて、到着しました」

 車から降りた瞬間、俺は大使館の外装に目を奪われた。ベージュがかった壁には一切の汚れはなく、窓格子は金色で、花の形をしたランプが正面の扉を上品な装いに仕立てている。2階の窓から伸びるベランダの柵は芸術的な彫刻のようで、それがキラリと光ると、イタリア大使館はまるでギリシャ神話の神殿のように見えた。

「すげえ」

「別にすごくないよ」

 つんけんとした物言いで樹杏が呟いた。俺が振り返ると、樹杏は口を尖らせてそっぽを向く。今日のこいつは何なんだ。ムカつく。その時、大使館の大きな正面扉が開いた。

「チャオ!Y&J!皆様!」

 大使館の中から、革靴をタンタンとリズミカルに鳴らしながら、満面の笑みを浮かべた外国人男性が両手を広げてやって来た。まるでミュージカルの一コマのような登場だった。黒い髪の毛をしっかり固め、スレンダーな体にフィットした上品な光沢感のある紺色のスーツを着こなすその人は、樹杏と同じ真っ青な瞳をしていた。

「大貫大使、本日はお招きいただきありがとうございます。私はJrマネージャーの根子です。隣の者は樹杏君のマネージャー小池です。よろしくお願いいたします」

「ネエコ!何てチャーミングな名前だろう!クールな微笑みの温かさは、まるで春の木漏れ日のようだね。あなたはとっても素敵な人だ。よろしく、ミスネエコ」

 男性は根子さんと握手しながら、さりげなく反対の手で肩を引き寄せると、根子さんの両頬にチュパチュパと軽いキスをした。俺はとても驚き、頬を赤くした。

 初対面の女の人に、一瞬でたくさんの誉め言葉を並べた上にキスをする。俺には絶対できない。文化の違いもあるのかもしれない。だが、この人自身のコミュニケーション力の高さは、樹杏のそれに似ている。しかし、当の本人には自覚がない。

「人前でよくできるよねえ。恥ずかしい」

 いや、お前もしてるよねえ!俺は樹杏に度々唇を向けられる羞恥行為を思い出した。ある時は突然に、ある時はイタズラの延長で、ある時は押し倒し、ある時は施設の医務室で優里子の頬に!!

 根子さんは「恐れ入ります」とクールに全てを受け流していた。何を言われても何をされても動じない根子さんはさすがである。一人で火照っている自分が恥ずかしくなった。

 その時、大使が俺に視線を移し、近づいて来た。その青い瞳には、樹杏とは違う強い力があり、俺は大使と合わせた目を離せなかった。正面に立つ大使は遠くから見るよりずっと背が高く、俺はあごを上げた。

「君が小山内唯我君だね。初めまして。僕は大貫ジャンカルロ。僕のことはジャンでいいよ。日本人とイタリア人のハーフなんだ。仕事を引き受けてくれて感謝する」

「こちらこそ、ありがとうございます」

 顔の彫りが深く、鼻が高い。見た目は完全に外国人なのに、その口から発せられる流暢な日本語に驚く。体の前に伸びてきた手をギュッと握った。俺の手よりずっと大きくて温かい。俺は少し緊張した。これが、母国を背負って日本で働く人か。樹杏の父親。イケメンだ。ダンディーだ!すごい、カッコイイ……。

「そんな緊張することないよ、唯我。パパは威圧的すぎなんだ」

「……樹杏、お前なあ」

 樹杏は俯いた顔を一向に上げようとしない。俺が声をかけようが、目の前に大使が立とうが、不服そうな顔は地面を向いていた。

「いいんだよ、唯我君。Jはいつもこんな感じさ」

 大使は申し訳なさそうな顔で笑った。むしろ俺の方が申し訳ない気持ちになった。俺には、樹杏と大使の距離感に覚えがあるような気がした。頭に浮かんだのは、真っ白い病室で見た、英と車いすの英の父親の様子だった。

 打ち合わせは根子さんの進行により淡々と進んだ。当日の流れ、内容、地図上の移動経路を確認すると、大使が自ら大使館の中を案内してくれた。

「こちらがクリスマスパーティーの会場になります。当日は立食パーティーが行われていますので、Y&Jには、袖から直接ステージに上がっていただきたい」

 俺は配布されたプリントを手に大使の話を聞いていたが、樹杏は両手をズボンのポケットに入れて、そっぽを向いている。終始態度が悪い。

 打ち合わせが終わると、大使自ら玄関先まで見送りをしてくれた。根子さんと小池君は大使に頭を下げると、先に車に乗り込んだ。

「唯我君、当日を楽しみにしているよ」

「はい。全力で務めます」

「ハハハ!かたいかたい!もっとフランクでいいのに」

「い、いえ……」

 大使なんて偉い人に、そんな態度とれねえよ。頭を横に振っていると、ポンと大使の大きな手が肩に降りてきた。

「僕はいつも君に感謝している」

「感謝?」

「いつも、Jと仲良くしてくれてありがとう。あの子はワガママで、気分屋で、マイペースで……。付き合いにくいかもしれないけれど、これからも仲良くしてくれたら嬉しいよ」

 大使は、面白くなさそうにしている樹杏を背に隠すように俺の前に立っていた。大使の微笑みはとても優しかったが、どこか寂しげに感じられた。

「俺の方こそ、感謝がつきません」

「え?」

「俺とユニットを組むには、樹杏はあまりにもったいない。だけど、樹杏がいるから、俺はY&Jの小山内唯我でいられるんです」

「唯我君……」

「本人には言ったことないですけど……。いつか樹杏に、隣に立つのが俺で良かったと、俺じゃなきゃダメだと言わせてやるって、そう思ってます」

「そうか」

 大使の右手は、握手を求めて俺の前に伸びた。

「すまない……。ありがとう。唯我君」

 ……すまない?

「いえ。こちらこそ」

 俺は大使と最後に握手をして、車に乗り込んだ。樹杏は大使館に残ると言って、俺と根子さん、小池君の乗った車を見送った。樹杏と大使は門の向こうに車が消えると、同じ青い瞳で互いを睨んだ。

「何か言いたげだねえ、マイJ」

「あんたに話がある」

「奇遇だね。僕もだよ」

 車の中では、大貫親子の話をした。

「俺は今回の仕事、今まで受けてきた仕事の中で一番不安っす」

「あら、どうして?」

「Jは大使のことが大っ嫌いすから」

「大使が言ってました。樹杏はいつもあんな態度だって。どうして嫌いなんですか?」

「Jの母親は、Jが小さい頃に体を壊して、未だにずっと入退院を繰り返しているんす」

「え?」

「その原因は大使なのに、大使は見舞いにも行かないし仕事ばっかりだって、一度ぼやいていたことがありますよ」

「樹杏君、そんなことを……」

「……俺、初耳です。家が嫌で、家出同然で807号室にいるんだっていうことしか知らなかった……。体の弱い母親がいたんですか……」

 俺は少しショックだった。俺が聞かなかったということもあるが、樹杏の抱える問題や、母親の事情を、俺は一切知らなかった。何より、いつもバカみたいに明るい樹杏に、そんな秘密があったということが信じられない。

「唯我君、気にすることないっすよ。Jは家のことをあまり話したがらないから、知らない人も多い。それに、Jは知ってほしいことがあればすぐ喋りたがるすから」

 それは確かに。俺と根子さんは、「あのねあのね!!」とハイテンションで話す樹杏の姿を思い浮かべた。


                ****


 施設に帰ると、ガキたちは居間に集められ、施設長の話を聞いていた。

「年明けの1月、英君とみこちゃんが一時帰宅します。というのも、お父様が2人との暮らしを強く希望しているからです。期限はとりあえず2か月。英君、みこちゃんには、その2か月の生活を経て、お父様との生活を続けるか、施設に残るか、今後のことを考えてもらえる機会にしてほしい。僕たちは、2人と離れ離れになるのがちょっと寂しいけど、2人にとっていい答えが出ることを祈ってます」

 英はいつも以上に面白くなさそうな顔をして俯き、俺にくっついているみこの腕には、とても強い力が入っていた。

 話が終わると、俺は施設長に呼ばれて職員室に入った。そこには優里子と佳代がいた。

「唯我にお願いがあるんだ」

「何?」

「英君とみこちゃんへのプレゼントを選んできてほしいんだ」

「英とみこへのプレゼント?俺が?」

「英君と唯我は仲がいいから、好きなものとかもわかるかなって話をしてたんだ」

「いや、英とは別に仲良しじゃあ……」

「本当はね、優里子と佳代ちゃんにお願いをしたんだけど、どうしても佳代ちゃんが都合つかないって」

「そうなの。唯君、ごめんなさい。どうしても都合がつかなくて……」

 佳代は胸の前で手の平を合わせ、悪気もなくにっこり笑っていた。何でそんなに笑ってるんだよ。

「俺、これからクリスマスイブの練習で忙しいんだけど……」

「そうだよね。いや、唯我には時間を見つけてもらって、2お買い物をお願いしたいんだけど、やっぱり難し」

「行きます」

 俺は施設長の言葉を遮って即答した。そういうことか。グッジョブ佳代!ありがとう!

 それから数日後、俺はショッピングモールの子供服売り場の一角に優里子と2人でいた。

「それってすごくない?言わば大使館ライブじゃん!」

 優里子は小さい女の子用の手袋をいくつか手に取りながら言った。優里子には、クリスマスライブの後、イタリア大使館で踊ることを話した。

「確かに、そうとも言える」

「そっかあ。また忙しくなりそうだけど、素敵なクリスマスになりそうね」

「まあ、そうなんだけど……」

「だけど?」

 いよいよ本格化し始めたクリスマスライブの練習のおかげで、俺は自由な時間を持つことが日に日に難しくなっていた。この時期は例年、年末に向けジェニーズ舞台が立て続けに行われ、関東を中心にライブが行われる。その度に俺は舞台にライブに駆け回る。今年はそれに加えて、NTK教育テレビの『青春・熟語』のドラマ撮影も重なる。優里子と出かける時間を作るのが難しいことは目に見えていた。しかし、目の前で頭を傾げる優里子に、正直に「デートできる時間がなくて残念だ」とは言えなかった。

「ねえ唯我。英君は何がいいかなあ」

「何がいいだろう」

「あんた、いつも英君と一緒にいるじゃない。何か好きなものとかわかんないの?」

「一緒にいるってか、あいつが勝手に俺の部屋に来るだけというか……」

 俺はいつも部屋に来る英の様子を思い浮かべた。英はいつもベッドで漫画を読み、ギターを弾く。それでもヒマになると、俺の出演映像作品を流したり、ジェニーズのライブDVDを見始める。だからといって、別に楽しそうではない。あいつは何が好きなんだ……。

 優里子がご機嫌でプレゼントを選ぶ中、俺は首だけマネキンが付けているうさぎの耳当てをボーッと見ていた。ぶっちゃけ英のプレゼントとかどうでもいい。俺は優里子との施設長公認のデートを楽しみたい。

「決めた!唯我、みこちゃんにはこれにするわ」

 優里子はピンク色のマフラーと手袋を手に俺のそばに駆け寄って来た。

「みこちゃんはピンクが好きだから、ピッタリでしょ?」

「似合いそうだな」

「ふふっ。でしょう?」

 ふにゃあっと笑う優里子は、まるで小動物のようだった。俺はうさぎの耳当てを手に取ると、優里子に被せた。

「うわあ、あったかいい」

 うわあ、似合うなあ!細く柔らかい髪の毛が耳当ての周りで少し乱れて飛んでいる。耳当てに挟まれた頬は少し盛り上がる。それは、どんぐりを頬に詰めたリスのようだった。何より心臓をドキドキさせていたのは、耳当てから離せなくなった両手が、まるで優里子の頬を包んでいるような画になっていることだ。あまりに可愛いすぎる。これ、キスしてもいいやつかなあ。…………しねえけど。

「あ、唯我!あの帽子、英君に似合いそうよ!」

「ああ、じゃあそれで」

「あんた今ちゃんと見たの?」

「見た見た」

「振り返ってもいないじゃない!」

「でも似合うよきっと」

「ちゃんと見て!ちゃんと選んであげて!」

「はい、見た。選んだ」

「ちょっと、唯我!いい加減離しなさいよ!」

 帰る時には、片手にみこと英に渡すプレゼントの入った紙袋、反対の手に帰りがけに買ったコーヒーを持っていた。車を止めている屋上に出ると、秋の冷たい風が吹きつけた。

「うわっ、寒っ!唯我、コーヒー持ってて。車のカギ取らなきゃ」

「はい」

 優里子からコーヒーを受け取る瞬間、カップの温かさよりも優里子の指先の冷たさに驚いた。カギを取り出した優里子は「ありがとう」と手を伸ばし、俺の手からコーヒーを受け取った。その瞬間、優里子の冷えた手の上に、コーヒーの熱を帯びた指先を重ねた。

「えっ!な、何?」

「優里子の手、冷た……」

「あんたの手が熱すぎるのよ」

 それはそうだ。俺は今、全身熱くて心臓が強く脈打っている。指先がドクンと震える。

「少しはあったまる?」

「……コーヒーの方があったかいわ」

「ちぇっ」

 俺は手を下ろし、車のある方向へ歩いた。正面には、西の空に沈み始めた真っ赤な太陽があった。隣を歩く優里子をチラッと見ると、目を潤ませて頬を赤く染めているように見えた。西日で透き通る優里子の髪の毛が、絹糸みたいに柔らかくなびいている。いつもは黒い瞳が茶色く透き通って光っている。チラッと見える耳元で、施設ではつけないピアスが星のようにまたたく。

「何よ。ジロジロ見て……」

「うっ!!い、いや……。何でもない」

 盗み見ていたのがバレたと思って焦った。俺はすぐに顔をそむけた。鈍感優里子が気づくほどジロジロ見てたのか、俺……。恥ずかしい。

 その時、上着のポケットに入れていたスマホが鳴った。取り出すと、画面には根子さんの名前と着信中のマークが表示されていた。

「根子さんから電話だ。先行ってて」

「うん。車にエンジンかけとくね」

「うん。……あ、お疲れ様です。小山内です」

 まるで社会人のように丁寧な言葉で話す俺は、優里子の知る中2の「弟」とは少し違うように感じられた。手にはまだ、俺の指の重なった感覚が残っている。その感覚を意識した時、優里子は居間での夜のことを思い出した。秋の長夜、二人きりの居間の中で耳の裏をかすめた鼻先の感触が蘇るとくすぐったくなって、ピアスのついた耳たぶを指でなぞった。あの夜を、俺自身が覚えていないということに安堵するが、少し寂しいような気もする。

 私の知らぬところで、唯我は勝手に大人になっていくんだなあ。ヒュオオと音を立て屋上を駆け抜ける風は、残っていたはずの俺の手の温度や感触を吹き飛ばす。キュッと握った拳にハアと息を吐いて当てたが、十分に温まることはなかった。

 その時、優里子のカバンの中でスマホが音を鳴らした。

「もしもし、お父さん?どうしたの?」

『優里子、そこに唯我いる?』

「いるよ。お買い物終わってね、これから帰るところ。唯我は事務所の人から電話がきてて、今話し中よ」

『そっか……』

「何かあった?」

『ああ、それが……』

 電話口の施設長は、ヒソヒソと話した。

「ええ?!」

「は?樹杏が行方不明!?」

 優里子は俺の大きな声に驚き、俺に振り返った。優里子は耳からスマホを離し、俺に近寄ってきた。俺の耳元では、根子さんの話が続いていた。

『昨夜、小池君と言い争っていたのを、事務所の関係者も見ていたのですけど、今日になって一切連絡が取れなくなったそうで……』

「唯我、唯我」

「え?」

『それで、小池君が思い当たるところを探しているようなんですが、見つからないようなんです。唯我君、何かお心当たりはありませんか?』

「樹杏君、施設に来てるって。今、お父さんから電話があって」

「……根子さん。樹杏、見つかりました」

『え!?本当ですか?』

「うちの施設に来てるって」

 俺と優里子はすぐに施設に戻った。俺の部屋には、荷物で太ったリュックサックと一緒になって背を丸めた樹杏が、膝を抱えて座っていた。

「樹杏」

 ゆっくり上げた顔は、真っ赤に腫らした目に、水たまりのように涙を浮かべていた。俺に気がついた樹杏は、立ち上がると黙ってギュッと力強く俺を抱きしめた。

「……おい、お前何しに来たんだよ。小池君も根子さんもお前のこと探して」

「クリスマスライブ、やりたくない……」

「だから、それは」

「やったら僕、イタリアに帰らなきゃいけなくなる。日本を離れなきゃならなくなっちゃう。そんなの嫌だ!」

「え、イタリア?日本を離れる?」

「僕、イタリアには帰りたくない!!」

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