第62話 映画『竹林のライオン』後編

 それは平日の午後、喫茶店でのことだ。

「阿武隈君ねえ。私たち、小学校までの彼しか知らないけど、優等生で、毎日勉強と習い事で忙しい人ってイメージだったな」

「わかる!穏やかな子でね、わからないことがある時はこうした方がいいよって教えてくれたり」

「だから、自宅で両親を殺害したっていうニュースを見た時は驚いた!あの阿武隈君が!?って……」

 刑事の泉澤は、阿武隈が少年時代を過ごした地域にいた小学校のクラスメイトたちに話を聞いていた。泉澤より年上の女の人達は両手で小さい子を抱えて「ねえ」と言い合った。

 泉澤の想像する少年時代の阿武隈は、普通の生徒と一緒に制服を着て学校に通う普通の少年のように思えた。

「だけど、友達がいたかどうかと言われると、いたような気はしないのよね」

「そうだね。休み時間も誰かと遊んでる姿は見たことないし、登下校も一人だったっていうイメージだもん」

「そうだったんですね……」

 当時の阿武隈は、学校が終わるとすぐに家に帰った。鍵を回し、家のドアを開けると、そこには誰もいない真っ暗な闇がこもるリビングが見える。いつも通り荷物をまとめ、誰もいない家から出て最寄のバス停に向かい、一人通っていた塾へと向かった。時計が10時を過ぎる頃、阿武隈はもう一度バスに乗り家に帰る。その頃には父親か母親が家にいる。

 その時いたのは母親だった。

「……ただいま」

「おかえり。こないだのテストの結果は返されましたか?」

「はい」

 荷物の中からクリアファイルを取り出すと、母親は奪い取るように阿武隈の手からファイルを取った。

「まあ、またC判定?この時期にこんな低い結果じゃあ、本番はどうなるのかしら。全く、どうしてもっと頑張れないの!?」

「すみません……」

 母親は、阿武隈の腹がグーっと鳴っても無視して「博己はねえ」とネチネチと嫌みを言い続ける。その間、阿武隈は立ち続けていた。顔を俯かせると、胸ぐらを掴まれ「真剣に聞きなさい!」と叫ばれる。阿武隈は「はい」とだけ答えた。

 父親が帰ってくると、今度は父親からもあれがダメだ、これがダメだと言われ続ける。阿武隈は何を言われても「はい」としか答えなかった。いや、それ以外のことを答えたくもなかった。

 何を言おうが、どれだけ努力しようが認めてくれない両親。その小さな家に阿武隈が存在できる場所はどこにもなく、目の前に立って睨みつけ、日々罵倒を繰り返す両親など、阿武隈にとっては血の繋がった他人でしかなくなっていた。

 全てが終わったと思えたのは、高校入試の結果を見た時だった。学校に貼り出された結果表の中に、阿武隈の持つ受験票の番号が載っていた。それは阿武隈にとって、苦しい日々からようやく時放たれた瞬間だった。

 周りには、友達や親と一緒に喜びや悲しみを分かち合う人々でごった返していたが、阿武隈の耳には何も聞こえていなかった。見える景色は遠くなり、ただ一人、阿武隈は受験票を握る手をだらりと下げて、立ち尽くした。

 周りのことなど、どうでもよかった。両親のことなど、もうどうでもよくなってしまった。


 中学校の卒業式を迎えたその日、胸にはピンク色の花が咲いていた。両手で受け取った卒業証書は美しく、その価値は自分にしか感じえない重さがあった。その日、阿武隈はとても清々しい顔で写真に写った。その卒業式に、両親の姿がないことさえ気にならない。阿武隈は、明日が楽しみでしょうがなかった。

「卒業式はどうでした?」

「皆、嬉しそうにしていました。先生にはちゃんと挨拶をしました」

「ならいいわ。ところで、卒業記念のお祝いが、金属バットで良かったの?」

「はい。ありがとうございます」

 阿武隈の両手には、重たい金属バットが手渡された。

「そんなもので、遊ぶ時間があなたにあるとは思えないけど」

「遊ぶものではありません。ちゃんと大事に使わせていただきます」

「あっそ」

 その時、家に父親が「ただいま」と帰ってきた。色のない家に、味のない夕飯が並ぶ。温かくも寒くもないリビングで、無言の食卓を家族3人が囲み、心地よさなど感じたことのないお風呂につかり、意味を感じられない歯磨きをする。

「お父さん、お母さん。おやすみなさい」

「はい。おやすみ」

 リビングのドアが閉じるその瞬間まで、阿武隈は両親の姿を見つめ続けた。それが最後だということを、阿武隈だけが知っていた。


 深夜を回る頃、阿武隈は両親の眠る部屋に息をひそめて忍び込んだ。手には、金属バットが握られている。窓から差し込む街灯が、阿武隈の無表情を浮かび上がらせる。

「お父さん……、お母さん……」

 阿武隈の声で目を覚ましたのは父親だった。阿武隈は決めていた。最初に目を覚ました方の頭から叩き割ることを。

「さようなら」

 声を上げる瞬間など与えなかった。金属バットは阿武隈の頭よりずっと高いところから振り下ろされた。その音に気付いた母親は恐怖し、固まった。動かない体の上から、血が滴る金属バットが落ちてくる。何度も、何度も、何度も……。

 阿武隈本人による通報を受けて到着した警察官たちは、全身を真っ赤に染めた阿武隈の姿に言葉を失った。現場は文字通り血の海と化している。一歩入れば、足元からピチャリと音がした。返り血で、家具もカーテンも真っ赤だった。

 警察官が両手に手錠をかけた少年は、無表情でぐちゃぐちゃになった両親の死体を見ている。その顔には、悲しみや怒りはなく、何かを全うしたような満足感のある雰囲気があったことに、警察官はゾッとした。


                 ****


「はあっはあっはあっ……」

「唯我君、大丈夫?」

「……」

「終わったよ。お疲れ様」

「……はい」

 髪の毛から赤い滴が落ちてくる。べったりと頬から首筋に血のりが落ちる。手に握る金属バットの握りからぐちゃっと音がする。汗と混ざる血のりで濡れる背に、堤監督の大きな温かい手が乗った。俺は息を切らして俯いていた。顔を上げられなかった。目の前に広がる寝室は、俺が初めて見た時とは全く違う部屋のように荒れ、真っ赤に染まっていた。視界の端で血色のない人形の手が力もなく落ちているのが見えると、足が重たくなった。

 スタジオにシャワー室に入ると、お湯に赤い液体が混ざって排水口に流れた。すると、胸の下からグッと何かが上がってきたが、吐き出せるようなものが胃になかったおかげで、嗚咽だけ上げてしゃがみ込んだ。

 帰る支度を終え、映像チェックをする堤監督に挨拶をした。

「お先に失礼します。ありがとうございました」

「ああ。お疲れ様。一人で大丈夫かい?顔色、悪いけど……」

「大丈夫です。ありがとうございました」

「悩んでしっかり作り込んできてくれた阿武隈、良かったよ。ただ……」

 堤監督は握った拳で俺の胸を軽く打った。

「役に、深く入り過ぎないようにね」

「はい」

 堤監督が触れる胸に、大きな穴が空いるような気がした。


                ****


 スタジオを出て、大きな通りに出た。街を歩く中、電車に揺られる間、どんなに時間が経とうとも、俺の胸の穴は埋まらない。ただボーっとして、何も考えることができない。いや、頭の中は無ではない。考え過ぎてまとまらないのかもしれない。

 赤く染まる両手、金属バットの重み、目の前で重なって倒れる両親の姿。思い出される度に、高揚感が膨らむ。しかし、切なさを伴ったひどい喪失感が押し寄せた。両親を失えた喜び。両親を失った苦しみ。

 街の中ですれ違う人たちが気になり、赤い物を見るとソワソワした。落ち着かない。両手をポケットに入れて、信号機が赤になるのを待つのも少ししんどかった。

「ただいま、施設長」

「唯我、おかえり。撮影お疲れ様」

 施設に帰って、いつものように職員室の施設長にただいまを言った。

「唯我、顔色悪いよ。夜ふかししないで、ゆっくり休みなね」

「うん」

 施設長の視線と、職員室の蛍光灯の冷たい光に、俺の視界は回り始めた。職員室の扉を閉じると、立っていられなくなり、床に膝をついた。

「ちょっと、唯我?」

 廊下を歩いて来た優里子が駆け寄ってきた。俺はしばらく優里子が認識できずにいた。ようやく顔を上げ優里子と目があった瞬間、ドクンと心臓が揺れた。嫌な揺れだった。

 腕を引っ張られ立ち上がるが、一人で立っていられない。優里子の腕に捕まって、俯いていた。

「唯我、具合悪そうよ。早く部屋行こう」

 優里子を掴む俺の手が震えている。優里子には、俯く俺を見れば何かがあったことはすぐわかった。俺の両手を握り、静かに言った。

「大丈夫?唯我」

 名前を呼んだ優里子の声が、俺の体の中に「唯我」とこだました。もう一度、心臓はドクンという。優里子の手の中で、自分の手が震えている。優里子の温度を感じると、腹の奥がゾワゾワした。

「何かあった?」

 優里子の声に、息づかいに、敏感に耳が反応した。余計に手が震えた。脈がドクンドクンとうるさかった。具体性のない衝動が体を襲う。何かがほしくなった。しかし、何が欲しくなったのかわからない。ただ、今だけは離れてほしくなかった。

「……唯我?」

 気づいたら、優里子に抱きついていた。優里子は突然のことで驚いたが、俺の腕や体がぐっと優里子の体に押し当てられているのを感じると、次第に恥ずかしくなった。

「な、何だ。どうした?あ、やっぱ何かあったんでしょ?は、話くらい聞くわよ。だから、その……」

 せ、せめて職員室から離れたい。そう思った優里子は俺の肩を持ち、力ずくで引き離した。俺は俯いて、ゆらゆらとして立っていた。

「唯我、わかった。場所、場所だけでも変えさせて。話そう!話せばわかるからっ」

 この時の俺は意識が半分飛んでいた。いや、飛んでいたのではなく、憑依にも近いものがあった。何にかと言えば、阿武隈にだ。ただ、それは決して映画の中にいた阿武隈ではない。俺が作り出して、俺の中に残ってしまった罪悪感と喪失感を抱く、妄想の阿武隈だと思う。

 焦る優里子を強引に引っ張り、すぐそばにあった居間に連れ込んだ。居間の中は真っ暗で、光はカーテンの間からふわりと差す月の光だけだった。ドアを閉め、驚く優里子を無視して、壁まで追い込み、両方の二の腕を掴んで壁に押し当て、動けなくした。

「唯我っ」

 顔を上げ、ゆっくり優里子に近づいた。優里子はキスされると思い焦った。思わず目をギュッと閉じると、俺の額は優里子の耳の後ろに寄せられた。鼻の曲線が優里子の首筋をなぞると、優里子は「ひゃあっ」と変な声を出した。

 頬を肩に寝かせると、優里子の匂いや体温がじんわりと感じられた。それがとても安心できた。胸の穴が、少しだけ埋まった気がした。

「ごめん」

 俺の息が、首筋を落ちていくのがくすぐったい。

「少しだけでいいから、そばにいて」

 俺の意識はそこで途切れた。二の腕を掴む手から力が抜けていく。優里子に体を寄せてじっとする俺は、まるでガキンチョがワガママを言っているようだった。そう思えると、ドキドキしていた優里子の体から力が抜け、壁を支えに静かに床に腰を下ろした。俺も一緒に座り込んだが離れない。

 何があったのかはわからない。しかし、今は聞くタイミングではない。外から差す月の光に照らされた居間に、俺の小さな声が「そばにいて」と響く。優里子には、俺を放っておけるわけがなかった。

「……唯我」

 頭をゆっくり撫でると、背後の服がめくれて、背中の肌にするりと俺の腕が回ってきた。

「うあっ。ひゃああっ!冷たいっ」

 細い腕は蛇のように動き、体をギュッと締め付けた。俺の手は冷たく、あらわになった生肌に秋の長夜の空気が当たってヒヤッとした。ただ、体が密着している正面は温かくて離れがたい。優里子は俺に抱きしめられたまま、どうしたらいいのかわからなかった。

 心臓はドキドキしておさまらない。これは「弟」の可愛いワガママなのか、一人の「男の子」に芽生えた性欲の一端なのかわからない。どちらにしろ、この時の優里子は俺に対してドキドキしていた。

 そのうち、優里子にもたれる俺はスーッと寝息を立てた。顔を覆う前髪をよけると、眉間にしわがよっていた。何て難しい顔してるのよ。

「この、エロガキめっ」

 眉間をグリグリしてやると、眉毛が垂れて、穏やかな寝顔になった。俺の頬に添えられた優里子の手は、力を失って落ちている俺の手に重なった。優里子はあごを上げ、ふうっと息を吐いた。

 一体、さっきまでの唯我は何だったのか。眠ったようで良かった。

 未だに胸の奥がドキドキと鳴って落ち着かない。優里子はもう一度、俺の眠る横顔を見た。

 押し付けられた力に、全然抵抗できなかった。こいつも、「男」なんだな。そう思ったのは初めてだった。


                ****


 次の朝、食堂に向かおうと階段を降りたところで優里子と会った。優里子はビクッとしていた。

「おはよう、優里子。あ、ただいま」

「………おはよう」

 優里子の様子がおかしかった。しばらく固まっていた優里子は、手で口元を隠し、視線を反らした。

「き、昨日は、寝れたの?あの後……」

 俺は朝起きて、自分がベッドの上にいたことに驚いたことしかわからない。「あの後」って何だ?

「撮影の後のこと?撮影終わってから電車に乗って、歩いてここまで帰ってきてから……。俺、そこから記憶ないんだ」

「は?」

「気づいたら朝だった。俺、ちゃんと部屋にたどり着けたんだな。すげえな。人間、あんなに意識が朦朧としていても、自分のベッドには戻れるんだな」

 俺は施設に帰ってから、ちゃんと施設長に「ただいま」を言ったことも、ましてや優里子と会ったことさえも、眠ったらきれいさっぱり忘れてしまった。優里子は徐々に顔を赤くして、目を潤ませた。

「……忘れたの?嘘でしょ。嘘でしょ!?」

「は?嘘?忘れた?何を」

「もうっ!信じらんない!!唯我のバカ!!」

 優里子は勝手に怒り始め、俺に向かって怒鳴ると、さっさと行ってしまった。俺は状況が飲み込めず、しばらく動けなかった。しばらくすると、英が黙って俺の横にやって来た。

「朝からどうしたの?上まで丸聞こえだったよ」

「何だよ、勝手にキレやがって。俺がなにしたってんだよ」

 英は全く状況を理解していなかったが、とりあえずテキトーに返事した。

「どうせエロいことだろ?」

 英の頭にげんこつを落とし、朝食をとってから施設を出た。

「おはよう、唯我君。昨日はちゃんと休めたみたいでよかった」

「え?」

「昨日、すごい顔色悪くして帰ったから、心配してたんだよ」

「……寝たら、昨日の撮影の後のこと、ほとんど忘れちゃってて……」

 堤監督はアッハッハッと大笑いした。その日の阿武隈の少年院時代の撮影は、とてもスムーズに進み、俺は予定通りのクランクアップを迎えた。

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