第61話 映画『竹林のライオン』前編

映画『竹林のライオン』

 世の中を震撼させる連続殺人が起こった。犯人の阿武隈あぶくま博己は報道陣の前でも奇怪な笑い声を上げるような男だった。人々が恐れる連続殺人犯、阿武隈博己と、被害者たちの関係性に違和感を持ち始めた刑事、泉澤絵里は、阿武隈の過去を調べ始める。そこには、阿武隈の悲しい過去があった。


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 10月初めのことだ。俺はその日、都内のスタジオの一室にいた。正面には、ニコニコと笑う堤監督がいた。

「僕は君に教えたはずだよ。演技とは、何だっけ?」

「……表現です」

「だよねえ。わかってるよねえ。なのに、オーディションの時の君の”怒り”は何だい?あれは表現だったかい?ん?」

「いいえ。俺個人の”怒り”でした」

「そうだねえ。僕も選考のためにオーディションで撮影した映像見たんだよ。あれは決して表現ではなかったよねえ。僕は君にもう一度演技について教えなきゃいけないのかと思ったよ」

 堤監督は大きく広げた手で、俺の頭をグリグリと押した。笑顔なのに怒っているのがとても怖かった。背が縮みそうだったが、拒むことはできない。その時、俺の肩を組んできた人がいた。

「監督、唯我が脚本読み込んできてるのくらい、さっきの読み合わせでわかってるでしょう。大丈夫ですよ」

「吾妻君。君ねえ」

 明るい笑顔を浮かべるその人は吾妻さんといった。目つきが悪く、べらぼう口調は不良を思わせる。その人は、俺が小学生の時に樹杏の代役で参加した舞台『ジール スタンドオンザグラウンド』で、穏やかな青年アサヒ役を演じた人だった。吾妻さんは、阿武隈博己という物語の犯人役男の成人期を演じ、俺はその少年期を演じる。

「こいつが何かヘマした時は俺にも言ってください。シメてやりますから」

 吾妻さんは気さくに俺と肩を組んでくるのだが、向けられる表情はいつもニヤリとしている。怖かった。


 阿武隈少年は、共働きの両親の一人っ子だった。両親共に有名大学を卒業し、エリートの道を進む人である。阿武隈少年は小さい頃から厳しく育てられ、習い事や塾で忙しく、友達と遊ぶヒマなどなく、少しでも成績が落ちれば、両親からの罵倒を受けた。

 将来への勝手な期待は、阿武隈少年にとって重圧でしかなかった。自由な時間など与えられず、好きなことを探すことさえ許されず、強制的に負わされる責任は、阿武隈少年を精神的に追い詰めた。

 そして、中学校の卒業式を終えた夜、阿武隈少年は金属バットを手に、眠る両親へと何度も振り上げた。警察が到着した時には、両親の寝室は血の海と化していた。

その後、阿武隈少年は高校生時代を少年院で過ごすことになる。


 ここまでが俺の演じる阿武隈の幼少期だ。阿武隈の境遇は俺とは全く違う。教育熱心な両親。何不自由のない家庭環境。俺はこれまで、そうした環境があることはとても恵まれたことだと思っていた。しかし、本人の望まない環境下で受ける一方的な愛情は、殺意に変わってしまうほどの重圧となることもあるのだ。それはあまりに遠い世界の話で、俺には想像もつかない。

「俺、阿武隈の”怒り”がわからなくて……」

「具体的には何がわからないんだい?」

「……親を殺したいって心境って何ですか?意味わからないんですけど」

 そう言うと、堤監督も吾妻さんも微笑ましいものを見るような顔をして、「いい子だなあ」と言って頭を撫でてきた。いや、そういうものではない。根本的にわからないんだ。親を知らない俺にとって、親を殺したいと思った阿武隈の「怒り」は、全く理解できなかった。


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 俺は学校で康平、泉美、大沢に柔らかいニュアンスで聞いてみた。

「親にムカついたこと?あはは!しょっちゅうだよ!」

「私もだよ。昨日なんて、お父さんが勝手に私の残してたプリン食べちゃって」

「ふふふ。うちもそれでよくケンカになる。あるあるだね」

「俺なんかさあ」

 そうして親子あるある話で盛り上がり、俺の欲しい答えは全く出てこなくなる。そこで同じ質問を優里子にもしてみた。その話をしたのは、食堂で夕飯を食べている時だ。

「そうだなあ。日常はあんまりないけれど、高校受験の頃は、お母さんのことも、お父さんのことも結構嫌になってたなあ」

「どうして?」

「勉強しろってうるさくて」

「……何だ、そんなことで」

「そんなことでもね、毎日繰り返されてみなさいよ。ムカつくったらムカつくんだから!」

「どうしてムカついたの?」

「自分ではやらなきゃいけないことだってわかってたし、自分ではものすごーく頑張ってるって思ってるの。でも、毎日言われ続けるとね、自分のしてる努力は全然足りないって言われているように感じられて、すごく辛かった。褒められもしないから、認めてもらえてるっていう達成感もないの。私の頑張りって、一体何のために必要なんだろう、意味あんのかなあって思えてくるのよ。それがしんどい。でも、やらなきゃいけないってのがまた辛い。そんな感じ」

「なるほど……」

 俺は「うーん」と考えた。夕食は手が進まず、たまに箸を取ってもペン回しのように手の中で動かすだけだった。見かねた優里子は俺の皿の中に自分の箸を指した。

「え、おいっ」

 次の瞬間、箸の先に持ったプチトマトを、優里子は強引に俺の口へと入れた。

「考え込みながらじゃ、せっかくの夕飯も冷めちゃうわ!どうせ考えるなら、食べ終わってからにしなさいよ。あとそれから、考え込みすぎないでね……」

「……はい」

 火照る頬の中ではじけたトマトは、甘くて酸っぱかった。優里子のおかげで遠すぎて見えもしなかった阿武隈少年の後ろ姿がぼんやり見えたような気がした。

 事務所でY&Jの動画のダンスの練習をした日、樹杏にも話を聞いた。

「ふうん。両親を恨んでる設定かあ。それなら僕の話はかなり参考になるかもね」

「樹杏が?」

「パパもママも教育熱心な方でさ、勉強もそうだけど、習い事もいろいろしたよ」

 ここに阿武隈と同じような境遇のやつがいた!俺は「それで?」と前傾姿勢で聞いた。

「でも、どれも気に入らなかった。楽しくないんだもん。だから逃げたの」

「逃げた?」

「ジェニーズに」

「そうだったのか」

 そういえば、俺は樹杏がジェニーズにいる理由を知らない。

「ジェニーズに逃げたってのはどういうことだ?」

「何してても楽しくなくなっちゃった頃にね、ちづさんに出会ったんだ。”お前、楽しそうじゃないな。だったら、楽しいこと一緒にしようぜ”って口説かれたの。ああ、懐かしい」

 いつもヒマワリみたいに満面の笑みを浮かべ、ハイテンションでいる樹杏が、教育熱心な両親から強制されて勉強と教養を身に着けさせられる。楽しくなくて、笑顔も無くして俯いている。俺は想像した。その姿に、阿武隈はどれくらい重なるだろうか。

 千鶴さんに出会いジェニーズの活動を通して笑うようになった樹杏と、苦しくても逃げずに耐え続けた阿武隈。阿武隈の怒りは、その我慢の中にあったのかもしれない。

 少しずつだが、阿武隈少年の姿が掴めてきた。阿武隈少年の抱えていた思いや苦しさは「怒り」となり体の中に蓄積し、いつしかそれが「殺意」へと変貌した。それを考えると、俺にも覚えがあるように思えた。

 小学生の頃、俺はいじめを受け続ける日々の中で「怒り」を積み、ポケットの中でカッターをいじるようになった。いつか、いじめていたあいつらの首をカッターで切り裂いてやるとまで思っていたこともある。

 なるほど。「怒り」は人に凶器を持たせるのかもしれない。俺や樹杏は、その寸でのところで千鶴さんと出会い、凶器ではなく、希望を手にすることができたんだ。

 わからないのは、阿武隈少年が持った殺意だった。


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 その日の帰り、駅から施設までの道を自転車で移動していると、施設の最寄のバス停に佳代が立っていた。

「唯君、おかえり」

「ただいま。お疲れ様」

 俺はバスが来るまでの間、佳代と一緒にバスを待つことにした。

「へえ。映画の撮影か」

「ああ。再来週にはクランクインだ」

「どんな役なの?」

「……中学校の卒業式の日に、両親を殺す子ども役」

「うわあ。難しそうねえ」

「ああ、そうなんだよ。怒りが殺意になるっていうのは理解できるんだ。だけど、相手は親だぜ。親を殺すって、どんな心境だよって感じ……」

 俺にとって、親子の役というのは難しい。親がいたことのない俺には想像がつかない。親って何?親のいる子どもってどんな感じ?どんな人格でどんな生活をしていて、どんな気持ちで生きてるのか。どう接しているのかわからない。これまでも何度か親子の演技をしてきたが、その度に思考を重ねて、一生懸命作り上げた役たちばかりだ。

 佳代は「そうか。そうだよね」と頷くと、一瞬、ものすごく静かになった。俯く口からは、いつも以上に小さな声がした。

「その子は、強い子ね」

「え……」

「私は、できなかったもの」

「……」

 佳代は両手を伸ばし、手首を見つめた。佳代の手首は、蒸せる真夏でも着ている長袖の内側に隠れている。

「どんなに辛くても、両親に刃を向けることができなかった。怖かった。だから、自分に向けることしかできなかった。自分に向ける分には、何も怖くなかったから……」

 一瞬浮かべた真っ黒な無表情は、いつもニコニコしている佳代からは想像もできない。俺は、佳代が施設で生活していた理由をはっきり知らないけれど、育ちのよさそうな佳代が施設にいた事情は、確実にあるのだと思った。

 そして、やって来たバスに乗った佳代は、いつものように穏やかな笑顔を浮かべて手を振った。

「その子は、強い子ね。私は、できなかったもの。……どんなに辛くても、両親に刃を向けることができなかった。怖かった」

 誰に聞いても出てこなかった言葉に、俺はかなり衝撃を受けた。


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 その日の撮影は夕方からだった。真っ暗なスタジオの一角だけが熱いほどライトが照らされている。吾妻さん演じる阿武隈が、事情聴取を受けるシーンと、牢獄でのシーンだ。


「どうして3人を殺害したの?」

「……したかったから」

「そんな自分勝手な理由で、人の命を奪っていいと思ってるの?」

 尋問を続ける女性刑事、泉澤絵里は、阿武隈をまっすぐ見つめた。少しの沈黙の後、俯いていた阿武隈はクックッと笑い出し、その声は徐々に大きくなっていった。それは笑い声というより、奇声に近かった。

「思ったからやったに決まってる!お前らは何もわかってない。行動に伴う正当な理由を、お前らの定規で計るな!」

「私はあなたを理解したいの」

「理解……。ははっ!理解、理解理解理解理解理解理解理解!そんなつもりも無いやつが、何を言う」

 阿武隈の甲高い笑い声が続く。泉澤は阿武隈を見つめる時、その瞳に見える折れないまっすぐな狂気に、恐怖が込み上げた。しかし、引いてはいけなかった。引くことなどできるはずがなかった。

「己の正義こそが正しいと、バカのように思っているのだろう」

「あなたのしたことは、間違っている」

「ひっ、はははははっ!!可愛い可愛い刑事さん、何も知らずによくまあ言える!ふはははははあはははっ」

 笑い続けた阿武隈は灰色の牢獄に戻った。一人になると、尋問の時の様子とは別人のように変わってしまう。息さえもしていないのではないかと思えるほど静まるのだった。俯く顔は無表情で、まるで魂でも抜けたもののように見えた。

「何なんでしょうか。あの男は……」

「もしかしたら、私たちには、まだ何も見えていないのかもしれない。阿武隈の抱え込む真実を……」


 堤監督の「カット」という声でカチンコが鳴った。牢獄の中に設置されている冷たいベットに座る阿武隈は無表情だった。しかし、決して何も思っていないわけではない。俯く顔には、悲しみや怒りはなく、何かを全うしたような満足感のある雰囲気があった。

「うん。オーケー」

「吾妻さん、オーケーです!お疲れ様でした」

 スタッフの声で、ようやく吾妻さんが顔を上げて笑った。周りのスタッフに笑顔で「お疲れ様」と声をかけてから、吾妻さんは俺のところへやって来た。吾妻さんの髪色は樹杏くらい赤茶色かった。

「唯我どう?俺の阿武隈スタイル」

「はい。驚きました」

「だろ!」

 吾妻さんはスマホを構え、俺とのツーショットをSNSに上げた。

「何か掴めたかい?阿武隈少年」

「まだです……」

「唯我君。俺の阿武隈と、君の阿武隈は違う人間だが、決して全く違うわけじゃない。今日の俺の演技から、盗めるもんは盗んでいけよ?」

「はい。ありがとうございます」

 その時、スタッフから「次の撮影が始まります」と声をかけられた吾妻さんは、まるでさっきまで奇声を発していた阿武隈ではないようにニッと笑って現場へと戻って行った。俺も撮影を見ようと動き出した時、俺はあるセットの前で立ち止まった。

 そこは畳の敷かれた小さな寝室だった。立派なタンスは長年使われてきたような傷やシミが再現されている。色あせた畳からは、ホコリが舞い上がりそうだ。

 その部屋は、阿武隈少年が両親をなぶり殺しをすることになる部屋である。

「私は、できなかったもの。……怖かった」

 佳代の消えてしまいそうな声と、もう二度と見ることはないだろうあの真っ黒な影に沈む無表情、それから、体の前に伸ばしていた両手を思い出した。伸ばした手に何を求めていたのか、俺にはわからない。佳代が怖くてできなかったことを、俺は阿武隈になって、この部屋でやるんだ。


                ****


 撮影の始まる直前、根子さんを通じて堤監督から呼び出しがあった。

「うん。それでいいと思うよ。狂気的であるほどいい」

「わかりました」

 耳元でチョキチョキと聞こえていた音は消え、軽くブローをされた後で、「終わりましたー」と声がした。体を覆っていたケープを取られると、前髪が重たく残ったキノコみたいな髪型になっていた。

「うん。ばっちり!優等生だね」

「……バンドマンみたい」

 首をさすっていると、堤監督は「似合うねえ」と笑った。そして、いよいよ俺の演じる阿武隈の撮影が始まった。

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