第60話 憧れの姿

 夕日が空を赤くし、住宅街には空腹を刺激するだしの香りが漂っていた。制服のまま背負うリュックからネギの頭を丸出しにして走る泰一は、ゆったりと犬の散歩をするおじいさんに「こんばんは!」と挨拶した。

 実家の前で急ブレーキをかけ、ブロック塀に埋め込まれたポストを覗くと、「園畠泰一様」という封筒が入っていた。宛名の文字を見ただけで、泰一は誰から届いた手紙かわかったが、裏に見知った字体で「小山内唯我」とあるのをしっかり確認した。胸の中で嬉しさが一気に膨らみ、キラキラする目を大きく開けた。玄関の扉をガラリを開き、元気いっぱいの声で「ただいまあ!」と言った。

 ダダダと慌ただしい足音が台所に近づくと、泰一のおばあさんは振り返った。

「ばあちゃん、ただいまあ!」

「はいはい。おかえり。おつかいありがとねえ」

「お母さん、ただいまあ」

 リビングを覗くと、泰一のお母さんがいた。畳の床に足を折って座り、泰一に振り返ると、細々しい声で「おかえり、泰一」と言った。泰一はお母さんが笑うと嬉しくて、ニッと笑って返した。

「お母さんがテレビ見てる!あ、『青春・熟語』!僕これ大好き!」

「そう。よかったわ」

「あ、そうだそうだ!兄ちゃんから手紙が来てたんだった!ばあちゃん、ちょっと待ってて!すぐ夕飯の手伝いするね!」

「はいはい」

 泰一は封筒を開け、中から手紙と写真を撮り出した。写真には、施設長と優里子、施設のガキたちが写っていた。

「あ、新しい子がいる。赤ちゃんが来たんだ!兄ちゃん一番でかいな。隣の佳代姉より背高いじゃん」

 ふふっと笑っていると、そこで「ん?」と違和感を覚えた。

「あれ?佳代姉がいる……」


                 ****


 9月初めの日曜日、充瑠はポッカンと口を開けて固まっていた。施設長は施設のガキたちを居間に集めた。

「9月からボランティアに来てくれることになりました、短期大学1年生の佳代ちゃんです。皆、よろしくね」

「え、佳代姉じゃん!」

「3月に出てった人だ」

「今日からお世話になります。どうぞよろしくね」

 すると充瑠が今までに見せない猛ダッシュで、佳代の足に抱きついた。

「ねえね!ねえね!」

「うん。ねえねだよ。充瑠」

 充瑠は力いっぱい佳代の足を抱きしめた。そこに、ないとを抱いた優里子が来た。足元には優里子のズボンを掴んで離さないてぃあらがいた。

「佳代ちゃん、この子がてぃあらちゃん。この子がないと君。8月に来たのよ」

「初めまして。てぃあらちゃん、ないと君。2人とも、ステキなお名前ね。よろしくね」

 人見知りのてぃあらは優里子の後ろに隠れながらも、チラッと佳代を見ていた。その時、玄関のドアの開く音と足音が聞こえた。てぃあらが玄関に走り、みこがそれを追いかけるように走った。

「おかえり、にいに!」

「おかありい!」

「みこ、てぃあ、ただいま」

 俺は来週に控える千鶴さんの東京会場ライブのリハーサルから帰ってきたところだった。出迎えてくれた2人の頭を撫でていると、充瑠のくっつく足が近づいてきたのが見えた。顔を上げると、そこに佳代がいた。

「唯君、おかえり」

「佳代……。ただいま」

 佳代は、みことてぃあらが俺の腕を抱きかかえて頬を膨らまし合っている姿を見て、ぷっと笑った。泰一には、この日撮った写真を送ってやった。

 佳代が来た初日の夜は、施設のガキたち皆して手を振り見送った。俺は佳代と外に出た。

「バス停まで送る」

「ありがとう、唯君」

 遠くの空が、まだぼんやりと明るいが、辺りは既に真っ暗で、バス停には俺と佳代以外誰もいなかった。

「短大はどう?」

「思ったより忙しいわ。本当はね、前期のうちにもボランティアに来たかったんだけど、授業と実習とバイトとテストみたいな感じで全然ヒマを作れなくって……」

「駿兄には会ってるの?」

「お家が近所だから、困った時は呼んだり呼ばれたりしてる」

「へえ。施設にいた時は、駿兄、絶対佳代のこと部屋に入れなかったのに、今は入れるんだ」

 当時、駿兄は佳代と話す時は必ず誰かの目に留まる場所で話していた。居間、食堂、廊下。それで突然佳代が部屋を訪ねて来た時は、手を広げて通せんぼした。理由は簡単だ。駿兄の所有する女子には見せられない秘蔵書物は堂々と本棚に並べられていたからだ。

「佳代も駿兄呼ぶんだ」

「だってね、天井が結構高くて、電球替えられなかったんだもの」

「ああ、そういうこと。俺てっきり……」

 てっきり、イチャイチャちゅっちゅの甘々な大人時間を過ごしているんだと思った。佳代は首を傾げて俺を見た。

「てっきり?」

「いや、何でもない」

 自分の思春期全開の妄想なんて、恥ずかしくて話せやしない。

「唯君は、最近はどうですか?優里さんとは」

「……ストレートだな」

 俺は火照る顔を手で覆って俯いた。佳代はクスクス笑った。ふうっと息を吐き、胸に刺さる言葉を呟いた。

「相変わらず、”弟”だよ」

「そうなの?」

「そうだよ。特に何もない……。あ、いや……」

「ん?」

 佳代が首を傾けて、俺の顔をじっと見てきた。佳代には既に、俺が何か隠したことがバレている。夜の静けさと暗闇に、ゆでだこみたいに真っ赤になった顔を沈めて言った。

「……ぎゅってした」

「ぎゅ?」

「夏に、嫌な野郎がいたんだ。優里子の手を何度も何度も握るスケベ野郎が。そいつは結局フラれたみたいだけど、そいつと何かあった夜、優里子一人で泣いてて、それで思わず……」

 俺は水族館から出た2人を追って、大沢を置いて帰って来た日の夜を思い出した。一人で道に立っていた優里子は少し寂し気で、小さい涙をポロポロこぼして泣き止まなかった。ドキドキする胸を押し当てて、腕一杯に優里子を抱きしめた。

 俺は、その時抱きしめた優里子の体の柔らかさも、形も匂いも温度も覚えている。それを思い出して、脳みそが沸騰した。こうなると、佳代に何かを隠すことは余計に難しくなる。

 昔から、俺は佳代には何でも話せてしまうきらいがある。壁がなく、嫌味がなく、透明な澄んだ水の中に広がる波紋が、胸の中に心地よく広がるような感覚がする。そして、いつも佳代は静かに頷き、優しい言葉を返してくれると知っている。だからスイッチが入ってしまったら、恥ずかしい気持ちなんて忘れて、佳代にいろいろ話してしまいそうだ。耳まで熱くなってきた。

「もう、質問は勘弁してください……」

「あはは。わかりました」

 その時、バスのヘッドライトが俺たちを照らした。目の前に停車したバスはドアを開いた。

「じゃあね、唯君。また今度」

「ああ。気をつけて」

 バスの椅子に座る佳代が手を振った。俺も手を振ると、バスは走って行った。バスに揺られる佳代は、俺の言葉を思い出していた。

「……ぎゅってした」

 佳代は、ないとを抱く優里子と、施設に帰ってきた俺の「おかえり」「ただいま」のやり取りを見て、充瑠が来たばかりの頃の自分と駿兄の姿を重ねた。一番記憶に残っているのは、優里子が俺に向ける表情だった。上向きの顔は、佳代の知る優里子の元気な笑顔に加え、頬はほんのり色づいていた。それは微々たる変化だった。しかし、佳代は思った。あれは、ただの「弟」に向ける顔だったかしら。佳代はニヤける口元を手で隠し、小さな期待を胸の内にしまった。


                 ****


 千鶴さんのライブは最終日を迎えた。ライブ最後にある青春隊メドレーは千鶴さんを正面に、Y&Jはその他のプロのダンサーたちに混ざりバックダンスを踊った。背を支える骨の一つ一つが糸でつながり、それが波を立てるように踊るのは、富岡さんが教えてくれたジャズファンクというダンスだった。

 富岡さんに見せてもらった動画のような、海藻がうねうねとする動きには程遠い。技術が足りない。また、富岡さんが声を大にして言ったエロさなど、中2の男子には全く出せそうにない。しかし、周りのプロダンサーは海藻、いやロープ、いや、もはや風の曲線をなぞるように動く。反らした体の上に持ち上がる胸の膨らみ、コンパスで描いたようなお尻のラインを、ライトの光が強調させる。大人の魅力が、このステージには溢れていた。

 全日通しても、Y&Jにはそれが全くないことがはっきりわかったし、身に着いたとは少しも言えなかった。それが俺も樹杏も悔しかった。

『皆さん、本日はいかがでしたでしょうか。お楽しみいただけたのであれば、これほど嬉しいことはありません。また皆様にお会いできるのを楽しみにしております!』

 拍手喝采の中、ライブは終了した。全てが終わり、衣装を脱いだパフォーマー全員が、観客席に集められた。俺と樹杏は、演奏者、バックダンサーたちに混ざって席についた。樹杏が「一体なんだろうね」と呟いていると、隣に座っていた美人のバックダンサーが答えてくれた。

「君たち、参加は初めてだから知らないのか。ちづさんはね、ライブ全日程が終わると、こうして参加者全員を集めてね、私たちだけに歌ってくれるのよ」

「へえ!贅沢だね!」

 その時、観客席の明かりが消えた。ステージに静かに落ちるスポットライトの下には、椅子とキーボードが用意されている。舞台に千鶴さんが現れると、観客席のメンバーからは拍手が起こった。千鶴さんは椅子に座り、肩から下げるアコースティックギターをじゃらりんと弾いた。その間に富岡さんが現れて、千鶴さんの横にあるキーボードに構えた。

 2人は目を合わせると、千鶴さんのギターに合わせて富岡さんが弾き始めた。それは明るい曲調のバラードだった。

「あ、”ラブストーリー”。僕これ好きなんだよねえ。唯我、聞いたことある?」

「いや、初めてじゃないんだけど……。そっか。この曲って歌があったんだ」

「何それ、どういうこと?」

「千鶴さんの車の中で、伴奏だけで流れてるのをよく聞くから」

 樹杏が「へえ」と言っていると、さっきの美人が「あら?」と呟いた。

「珍しい。ちづさん、”ラブストーリー”あんまり歌わないのよね。いつもはね、もっとポップで楽しい曲をやるのよ。ラッキーね、Y&J」

 樹杏は「あざーす」と笑い、俺は軽く会釈した。俺はしばし千鶴さんの歌声に耳を傾けた。明るい曲調に合わない歌詞が切なかった。


 雨の日に出会った君は、水色のよく似合う人だった。俺は頑なな君を、強引に晴れた空の下へと連れ去った。

 あまり笑顔を見せてくれない君に、最初に惹かれたのは俺だけど、一度だけ言ってくれた「愛してる」を、俺は一生忘れない。

 今はいない君のことを、俺は今でも愛してる。


 そんな内容の歌だった。

 俺は千鶴さんと「水色」と「君」を結びつけ想像した時、俺が一度持ち帰ってしまった水色のブレスレットを思い浮かべた。「Y.O」というイニシャルの「世界で一番大切な女性ひと」のことを歌っているのかもしれない。

 まるで小さな子どもを撫でるようにギターを弾く千鶴さんの横顔が、とても優しくて、温かくて、切なく見えて、カッコよかった。


                ****


 樹杏はいつものようにマネージャー小池君に拉致されさっさと姿を消し、スタッフの皆に頭を下げ終わる頃、千鶴さんが俺を呼んだ。

「唯我、乗ってけよ」

「あ、俺も乗る」

 そう言って車の2列目に乗った富岡さんを、千鶴さんは最寄駅に落とすように置いて行った。車の中には、運転する千鶴さんと助手席の俺だけになった。

「あの、富岡さんはいいでしょうか」

「構わないよ。勝手に乗ったのあいつだし。どこまでとか言ってねえし。俺は唯我が乗ってくれればそれでいいの」

「……いつもありがとうございます」

「なんのなんの」

 車の中には、千鶴さんが歌った「ラブストーリー」が流れていた。

「この曲、歌詞があるって知りませんでした」

「そっか。車の中だと歌声は流さねえからな。聞く?」

「聞きたいです。いい曲でした」

「嬉しいねえ」

 車の中には千鶴さんの歌声が流れた。それはとても優しい歌声だった。ライブが終わったことでONにしていた体から力が抜けたのか、聞いているうちに、だんだんと眠気に襲われた。

「会場で聞いた時は、切ない歌だなって思ったんです」

「まあ、そうだな」

「でも、今聞いてると、何だかとっても……」

 とっても懐かしい気がして、心地いんです。そう言おうと思った時には、既に俺は目を閉じていた。

「あれ、唯我寝ちゃったの?おおーい……」

 千鶴さんの問いかけに俺はスーッという寝息で返事した。赤信号で止まった車の中で、千鶴さんは俺の寝顔を覗き込んだ。穏やかな寝顔には、街灯の光が落ちている。

 まっすぐな黒髪が輪郭をなぞる。閉じる目には、扇を開いたようにきれいに広がるまつ毛が伸びている。

「……長いまつ毛。柔らかいストレートの髪。ったく、うらやましいぜ」

 千鶴さんはかたんと窓際に傾いた俺の頭を引き寄せると、額にキスをした。もちろん、寝ている俺は知る由もない。千鶴さんは、ふっと優し気に微笑むとハンドルを握り直し、車内に流れる「ラブソング」を口ずさんだ。

「……おい、コウ。撮ったか?今の!」

「はい。撮りましたよ。ケンちゃん!」

「相手誰だよ」

「うーん……。暗くて見えにくい……。記事には載せるには弱い写真だよ」

 それは千鶴さんの知らぬところで起こっていた。千鶴さんの車とは反対車線に偶然居合わせた車の中、ハンドルを握るその人はタバコを加え、助手席にいる人は、とっさに手にしたデジタルカメラの画面を確認している。2人は、とある週刊誌の編集者だった。

「っち。どっかでUターンすんぞ」

「はいよお」

 2人の車は大きい通りを進んだ。しかし、進めど進めどUターンできる場所が見つからない。十字路にも当たらなかった。

「あ、もう無理っすね。コレ」

「くっそおおおっ!!」

 運転手の上げた雄叫びは、車のエンジン音に消えた。後に、この一枚の写真をきっかけに、俺と千鶴さん、周辺の人たちを巻き込んで、一大事が起こるのだった。


                ****


「……唯我、唯我。着いたぞ」

「んあ……」

「起きろ!」

 目をこすると、目の前には施設があった。俺は荷物を抱えて車を降りた。

「あの、ありがとうございました。すみません。俺、ほとんど寝ちゃって」

「本当だよ。いろいろ話したいこともあったってのに……」

「話?」

「ああ。お前、歌の練習ってどれくらいしてる?」

「十分には、できてないです。ダンスの方が好きで」

「だろうな。だから聞いたんだよ」

 グサッと胸を刺された。千鶴さんは呆れたようにふうっと一息ついた。千鶴さんは「ったく」と少し怒るような声を出しているのに、顔は笑っている。

「時々しかしてやれねえけど、俺んとこに歌の練習しに来い」

「え?」

「これ、連絡先。何でも連絡してこいよな」

 爽やかに笑う千鶴さんはポケットから小さなカードを出した。

「あ、ありがとうございます。……え、何で突然?お、俺、そんな歌下手で有名とか?ショック……」

 俺は指先にある千鶴さんの名刺を見つめた。名刺は小刻みに震え、俺の顔は青ざめていた。それを見て千鶴さんは大笑いした。

「あははっ!ごめん、唯我!連絡先渡したいがために、順番を間違えた!悪い悪いっ。ふふふっ」

「ど、どういうことですか?」

 千鶴さんはニヤリと笑った。

「来年、また『ジール』をやるって言ったら、お前やるか?」

「『ジール』……」

 それは小学5年生の時に樹杏の代役として出演した舞台『ジール スタンドオンザグラウンド』のことだ。あの時は、セリフと歌、身動きを覚えるだけで精一杯だったことを覚えている。あの体験がきっかけで、自分に足りないことがたくさん見えて、勉強して、ダンス以外のことを少しずつ身に着けるようになった。

「やりたいです。また、樹杏と一緒にやりたいです!」

「あははっ!Jと同じこと言ったな!」

「え?」

「あの代役嫌いのJがな、Y&Jでやりたいって言ったんだ。その時も笑ったよ!最初は、俺が面白そうだなと思ってはち合わせた2人だったけどよ。お前ら、2人で成長してるんだなって思えた。俺は一人で勝手に嬉しい」

「千鶴さん……」

「まあ、だからお前の歌をみたいんだ。俺の記憶の唯我は、ダンスは上手でも歌はからっきしだ。それじゃあジェニーズのアイドルとしては力不足だ」

 千鶴さんの一言一言が、背後から矢になって貫いて行く。痛みを否定できるものを、今の俺は何も持ち合わせていなかった。

「唯我、新たなY&Jになれ。お前自身の力で」

 真剣な眼差しに「はい」と答えることしかできない。千鶴さんの表情はフッと緩み、その口元が街灯に照らされ優しく微笑んだ。俺には千鶴さんが怒っているのか、呆れているのか、楽しいのか楽しみなのか読み取れなかった。

「……千鶴さんって、どうして俺に時間つくってくれるんですか?」

「……何、それ」

「だって、絶対忙しいし」

「まあね」

「なのに、歌の練習に来いとか……。あと、施設まで送ってくれるのだって、結構時間かかりますし。何で……」

 俺は千鶴さんとの時間がとても特別だ。一緒にいて心地が良いというのもある。それは同じジェニーズとしての好意であり、憧れの気持ちが強いからだと思う。度々声がかかるのだって嬉しい。けれど、その声一つ一つに甘えてしまっていいのか、迷惑ではないかと少し不安になることがる。

 すると、千鶴さんの手が俺の頭に伸びてきた。わしゃわしゃに髪の毛を混ぜられると、乱暴に放り投げられた。

「うぬぼれんなよ。声をかける時はな、ちゃんと考えがあって声をかけているんだ」

「……」

「覚えとけよ。俺が声をかける間は、お前は二流三流なんだよ。いつか、お前が俺を呼べるようなアイドルになれ」

「それは」

「できないなんて言うなよ。唯我、俺みたいなアイドルになるんだろ?」

 それは、社会常識も何も知らなかったガキの頃に、俺が千鶴さんに言ったことのある言葉だ。自分の力も、千鶴さんの実力も知らぬバカ丸出しのセリフだったと、今では恥ずかしい黒歴史の一つとなっている。

「俺は今も、出会った頃に言ったお前の言葉を覚えている」

「千鶴さん、あれは……」

「男が言ったことを取り消すんじゃねえ。俺のようにはなれないと思ったら、そこがお前の限界だぜ」

「……」

「自分の限界見据えて生きるなんて、カッコ悪いじゃねえかよ。俺たちはアイドルなんだぜ。もっと堂々とカッコつけて行こうぜ、唯我!」

「……はい」

 ああ、どうして千鶴さんはこうもカッコイイのだろう。俺の胸の奥にある小さな灯が、パチッと音を立て熱を持ち始める。この人のようになりたいと、もう一度強く想った。

 車を降り、助手席の窓から顔をのぞかせると、千鶴さんの手が俺の頭の撫で、髪の毛をするりと指が通った。

「じゃあな」

「はい。また」

 頭を下げると、千鶴さんの車は真っ暗な街の中へ消えて行った。もらったカードをもう一度見て、ポケットに大切にしまい、施設の玄関へ入った。俺の耳には、未だに「ラブストーリー」が響いていた。


                 ****


「ギターがほしいの?」

「……ダメ、かな」

 次の日、俺は施設長に言った。とても緊張した。俺の心臓はドキンドキンと強く脈打っていた。

 昨日の千鶴さんの姿が、まるでカメラのシャッターを切ったような鮮明な静止画が頭の中に浮かんでいる。この千鶴さんがとにかくカッコよくて魅力的だった。

 しかし、俺がギターがほしいと思った理由は、決して俺がカッコつけたいからではない。千鶴さんに指摘されたように、歌の練習不足を解消するためで、それは音楽の勉強のためで、そしてそれはジェニーズの活動に、しいては『ジール』のためになると考えたからだ。決して千鶴さんのように「ラブストーリー」を弾き語れるようになって、優里子に「カッコいい」と言ってほしいからではない!断じてっ!

「うん。いいよ。今度買いに行こうか」

「本当?」

「僕もね、唯我くらいの時はギターやってたんだよ」

「そうなんだ」

よね。ギター弾けるのって」

 悪気もなくニッコリ笑って言った施設長から思わず視線を逸らした。俺は素直に「そうだよね」とは答えられなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る