第58話 7月28日のデート

 黒田川水族館の入り口に、最初に到着したのは大沢だった。白いTシャツに黄色のワンピースを重ね着して、手には小さなかごバッグを持っている。腕時計は待ち合わせの5分前を差していた。

「大沢、お待たせ。待たせて悪かったな」

 俺の声にビックリして顔を上げると、大沢は目を大きく開いて俺を見た。その日の私服は千鶴さんの私服を真似した。黒のスキニーズボンに白いビックシャツを着て、千鶴さんのように袖を折って腕を出した。大沢にどんな風に見られたかわからないが、千鶴さんがカッコよかったので、俺なりにはおしゃれだと思っている。

「ふ、二人はまだだよっ」

「遅いな、あいつら。中入ってようぜ。ここじゃあ暑いだろ」

「う、うん」

 大沢は顔を赤くして俯いている。きっと暑さにやられたんだろう。

 俺たちの様子を遠くの柱から盗み見ていたのは泉美と康平だった。泉美は笑いが止まらなくて、肩を震わせていた。

「成美めっちゃ照れとるし。ちょーウケる!」

「ねえ、俺たちも行こうぜ」

「ダメに決まってるだろうが!私たちはドタキャン設定だからね!尾行はバレちゃいけないのだから、慎重に動きたまえよ」

「へえへえ」

 泉美が「連絡入れとかなきゃ」とスマホをいじった。康平は内心で「面倒くせえ。休みたい」と思っていたが、強引な泉美が手を引っ張った。

「え!?ゆゆゆ、唯我!二人とも来れないって!」

「本当だ。何だよ、誘ってきたくせに。どうする?二人で行ってもなあ。出直すか?」

 大沢は必死に考えた。出直す……。きっとその方が唯我のためだ。でもでも、二人で水族館とか、まるでデートじゃん!唯我とデデデート!?そんなの困るよねえ。唯我はジェニーズ!迷惑になるのは嫌だなあ。で、でも、今後唯我とデートすることなんてある!?ない。絶対ないっ!!!っていうかこれ自体、泉美たちの策略か!!

「……ゆ、唯我が、いいいいのなら」

「え?」

「こここここのまま、二人で行かない?!」

「……」

 言っちゃったああああっ!!!ヤバいヤバい!唯我から返事ない。絶対困ってる!大沢は目をグルグル回しながら、真っ赤な顔を上げた。心臓が破裂しそうな爆音を上げるので、自分の声が聞こえない。

「ほ、ほら!せっかくここまで来たんだし!むしろ交通費もったいないっていうか!二人にも後で文句つけやすいというか何というかあれなんだけども」

 俺は大沢の早口とタコみたいに真っ赤にしている顔を見たら面白くなってしまった。腹を押さえてクスクス笑った。

「大沢、落ち着け。必死過ぎ」

「必死って!しし失礼なっ」

「行こうか。大沢」

「……へ?」

「それで、ドタキャンした二人には今度罰ゲームな。ほら、行くぞ」

 俺と目を合わせた大沢は、そこでようやく笑った。

「うんっ!」

 物陰に隠れる泉美と康平に気づかぬまま、俺と大沢は道順に沿って歩いて行く。サバンナの生き物、深海の魚、大きなアーチの中を悠々と空を飛ぶように動くエイ。それはとても眩しくて、きれいな光景だった。

 俺は魚を見ていたが、大沢が俺をじっと見るので気になって仕方がない。大沢に目をやると、パチッと目が合った。

「どうした、大沢」

「あ、あの……。ゆ、唯我。一つ、お願いを聞いてほしい」

「ああ。いいけど」

 大沢は顔を赤くして俯くと、右手を伸ばしてきた。その手が少し震えていて、まるで手を繋いでほしいような姿に見えて、思わずドキッとした。影で見守る泉美と康平は、まるでドラマのワンシーンのような様子にドキドキが止まらない。

「あのっ!」

「はい……」

「写真、撮らせて下さい!一枚だけっ!!」

「……はい?」

 俺は力んでいた肩から力を抜き、泉美は目を押さえて天を仰ぎ、康平は口を押さえて大爆笑した。

 俺は大沢が伸ばした右手の方向に立ち、まるで何かの撮影のようにポーズの指示を受けた。アーチ状の水槽を見上げて一枚。そのまま正面から一枚。あごを引けと言われて一枚。視線をカメラに向けろと一枚。大沢は遠くから少しずつ近づいてきた。一枚どころではない写真を撮られた。

「あ、ありがとうございましたっ!」

「い、いえ」

「あの、私ってマジで唯我のファンだったんだ……。自覚しちゃった。だって、これまで延長線上にあるもんだと思ってたの。でも、違うみたい……」

「何だそりゃ」

 大沢はこの時まで、ジェニーズ小山内唯我の追っかけである自分は、恋愛感情の延長線の上にいるものだと思っていた。しかし、追っかけの自分は、実はとっくに恋愛感情から独立して存在していたということに、この時初めて気がついた。ジェニーズ小山内唯我のファンである大沢は、俺に写真を見せてきた。

「これっ!これが一番いい!見て見て!」

「いや、自分の写真を見せられても……」

 その時、通路の奥の暗いところを歩くカップルが見えた。一瞬、それが優里子のように見えた。

「唯我?」

「……何でもない。次行こうぜ」

 そんなわけねえよな。俺たちはそのまま順路に沿って進んで行った。その時、深海コーナーの水槽をじっと見つめていた優里子の隣には、瀬良がいた。優里子は瀬良を忘れたかのようにじっと水槽の中を見つめていた。

「もしかして、魚とか好きなの?」

「はい。海の魚ってキレイですよね。……あ、動いたっ!瀬良先輩、この子ようやく動きましたよ!」

 優里子がキラキラした目で笑っているのを見ると、瀬良もクスッと笑った。


                ****


「あ!あと30分で始まるって、イルカショー」

「ちょうどいいじゃん」

「ああ、でも椅子は満席だよ」

「じゃあここで立ってればいいんじゃね」

「そうだね。十分見やすいし」

 俺たちはイルカショーの円形のプールにやって来た。一番上の通路の手すりに寄りかかると、観客席が一望できた。

「360度見えるね」

「だな。大沢、あの2人カッパ着てるぜ」

「本当だ!そんなに濡れちゃうのかなあ」

 俺が指を差したカップルの正体は、泉美と康平だった。しかし、今日一度も会っていない二人を見ても、俺も大沢はピンと来なかった。カッパのフードを深々を被る2人は「バレてない?」「だと思うぜ」と確認し合った。

「……こういう会場で踊ったことってねえな」

「ライブのこと?」

「うん。メインで踊るジェニーズの先輩はステージを離れて踊ることもあるけど、俺はメインステージの後ろばっかりいるから」

「そっか」

「360度か。そこまで意識したことないかも……」

「へえ。唯我がステージの話してるの、珍しいね」

「え、そうか?」

「そうだよ」

 俺はよく話している気でいた。思えば、学校で仕事の話は予定のこと以外はあまり話さないような気がする。じゃあ俺はどこで話してるんだっけ。そして優里子の顔が浮かぶと納得した。そうか。優里子か……。

 その時、視界の端でカップルの姿を捉えた。それは優里子と瀬良だった。二人はカッパを着たカップルの後ろの席に座った。にこやかに話している優里子を見ると、俺はムカついた。

「唯我、どうしたの?」

 大沢の「唯我」の声に優里子が気づき、こちらに顔を上げた。

「あれ、唯我?」

「え?」

 優里子と一緒に瀬良まで顔を向けてきた。瀬良の顔なんて見たくもない。俺はじっと睨んだ。瀬良はいつものようにフッと笑った。

 優里子と瀬良の前に座っている泉美と康平は、俺が自分たちのことを睨んでいるのだと勘違いした。嘘をついたことが気づかれて俺が怒っているんだと肝を冷やした。

「唯我、めっちゃ睨んでくるじゃんか!泉美のせいだかんな!」

「絶交とかされたらごめん」

「ごめんじゃすまねえだろっ」

 しばらくすると、円形のプールの中にイルカが泳ぎ始めた。観客からはワッと歓声が上がり、大音量の音楽と一緒に、天井にはプロジェクションマッピングが投影された。

 大沢は、俺の機嫌が一変したことに気づき困ってしまった。俺はジャンプするイルカとは違う方向を睨んでいる。その方向を見ると、小学校の卒業式以来見る優里子と、見知らぬ男の人が肩を並べている姿を見つけた。

 ああ、なるほど。唯我、分かりやすすぎ……。

 大沢は、それまでの楽しかった気分はどこかへ飛んで行っていしまった。


                ****


 イルカショーが終わり、観客たちが席を立ち水族館の方へと移動した。俺は席から離れた瀬良と優里子の前にあえて立って、2人を睨んだ。

「やあ、小山内君。偶然だね」

「だな……」

「唯我、あんた瀬良先輩に対して、その態度は失礼よ」

「別に、こいつに礼儀正しく振る舞う理由は俺にはねえよ」

「もう!唯我っ」

「まあまあ、優里子。落ち着いて」

 瀬良は優里子の腕を掴んだ。一歩前に出ると、自分の背後に優里子を隠し、堂々と俺を上から見下ろしやがった。

「悪いけど今デート中だから、君に構ってあげられないんだよね。話があるなら今度聞いてあげる」

「てめえ……」

「君だって、今デート中でしょ?」

「え?」

 振り返ると、困った顔して立っている大沢がいた。俺は瀬良に言われるまで、大沢と2人きりで水族館を歩いていた行為が「デート」だったとは思わなかった。瀬良は「じゃあねっ」と振り返り、さり気なく優里子の手を握り歩いて行ってしまった。

 それを見て頭にきた。追いかけようとした時、俯く大沢が背中の服を握った。俺は動けなくなり、手に拳を握り、動こうとする足を黙らせた。

「お、お2人さあん……。やっほー……」

「ぐ、偶然だねえ。……じゃないんだけどねえ。ははは」

 そこに泉美と康平がやって来た。俺は頭にきていたせいで2人を思いっきり睨んだ。2人はヒッと肩を上げて「ごめんなさいっ!!」「もうしませんっ!!」と謝った。その時、大沢が「唯我!」と大きな声を出した。

「大沢……」

 顔を上げた大沢は、いつもの笑顔を浮かべて言った。

「私のことは気にしないで。行って……」

 すると大沢の手が背中から離れた。

「サンキュ」

 俺はすぐに瀬良と優里子を追った。大沢の手はダラリと垂れた。俯く大沢を心配した泉美と康平は声をかけた。

「成美、大丈夫?」

「小山内の奴、どこに走って行っちまいやがったんだよ。なあ、大沢さん」

 その時、大沢はその場にしゃがみ込み、強く大きなため息をもらした。

「大沢さん?大丈夫?」

「頑張れるかなって、少し思えたんだけどなあ。……唯我のこと、ずっと見てきたからわかる。ううん、わかってた。やっぱり、私が入り込む隙間なんてどこにもないよ」

「成美……」

 大沢は俯く顔を手で覆った。指で目をなぞり、鼻と口を覆うように両手を合わせると、俺が走って行った方向をじっと見つめた。

「私は、あの人のことを好きでいる唯我を、好きになっちゃったんだよ……」

 俺は瀬良と優里子を追って水族館を出ると、人混みの中をかき分けて2人を探した。夕方の空は薄暗く、少しずつ点灯する明かりが星のように輝き始めていた。


                 ****


「唯我君もお年頃なんだね。優里子の言う通り、気難しい時期だ」

「ですね。本当に……」

 優里子は瀬良の運転する車に乗っていた。車の中は、街の景色を投影する映画館のように静かで、さっきまでいた水族館の中の盛り上がりや、たくさんの人たちの足音が遠い過去のようだった。

 優里子はイルカショーの後のことを思い出した。瀬良に手を握られて、離れていく俺の表情は、怒っているのに悲しそうで、まるで何かを伝えようとしているようだった。

 あの後、唯我はどうしたんだろう。ちゃんと友達と帰ったかしら。あの女の子と……。

「俺と一緒にいろよってこと」

 優里子は、俺の声と同時に小さな手が指と指の間を埋めた時の感触を思い出し、握られた手に視線を落とした。

「小山内君と一緒にいた子、彼女かな」

「え?」

「前に優里子言ってたろ?小山内君、最近好きな子ができて、よくデートしてるって」

「そうですね。そうかも……」

 そうよ。唯我、好きな子いるって言ってた。この間下校してる時だって、あんなに笑って……。

 大沢が大泣きしている横で笑っていた俺の様子を思い出すと、胸の中に小さな空間ができたような感覚がした。音もなく、はっきりとしない感情が、何の形も示さないまま胸の中に浮かんでいた。

 すっかり暗くなった頃、施設の前に車を止め、二人は車を降りた。

「瀬良先輩、お誘いありがとうございました。楽しかったです」

「ならよかった」

「それにしても、また施設の前でいいの?」

「いいんです。実は、昨日持って帰るはずのものを忘れてしまってて……」

 家に送らせないとか、警戒されてんな、俺。瀬良は目に写らない優里子の気持ちの距離が見えてしまいそうだった。瀬良は申し訳なさそうに笑う優里子の手を取り、軽く握った。

「今日は、俺も楽しかった。いや、いつも楽しいんだ。優里子と一緒にいるの」

「瀬良先輩……」

「好きだよ、優里子。忘れないで」

「……」

 優里子は頬を染めて俯いた。瀬良にちゃんと返事ができていないことが申し訳ない。しかし、今感じるドキドキが自分の本当の気持ちなのか、はっきりしなかった。ただ記憶の中に残る、学生だった頃に瀬良にときめいていた気持ちが掘り起こされて動いているのか、それとも雰囲気に流されているのかわからない。ただ、手を握ってくれる瀬良の大きな手よりも、思い出すのは、中2のガキンチョの手の感触だった。

「優里子が誰かの彼女になるの嫌だって、あれ本当だからな」

「……どういう意味よ」

「俺と一緒にいろよってこと」

 何度も思い出す言葉に感じるはっきりしない気持ちが、そこにはあった。わかっているのは、瀬良の告白よりも中2のガキンチョが言った言葉の方が、ずっと嬉しかったということだ。

「瀬良先輩、私、瀬良先輩に遠慮しちゃうところがあるんです。そういうの、私っぽくないって怒った奴がいたんです」

「うん」

「私も、誰かに遠慮している自分は、自分らしくないかなって思います」

「……そっか」

 瀬良の手がすっと離れていった。優里子は手を後ろに隠した。

「こんな私のことを、好きだと言ってくれて嬉しかったです。学生の私だったら、きっと興奮して寝れなくなっちゃう!……ありがとうございました」

「うん。こちらこそ、楽しい時間をたくさんありがとう」

 瀬良の微笑みに、優里子はドキッとする。けれど、きっとその微笑みは、自分だけに向けられるものではないのだと思った。

「じゃあ、俺は帰るね。優里子も気をつけてね」

「はい。ありがとうございます」

「明日は、不破さんにもう一度話をする予定なんだ。説得できるように頑張るよ」

「はい……」

 優里子は「あっ」と口を開いたが、一度閉じた。

「意思があるなら、引くな」

 俺の言葉が耳によみがえった時、優里子は拳を両手に握り、飲み込んだ言葉を吐き出した。

「きっと説得して下さい……」

「え?」

「ずっと、言うの我慢してたんですけど、言わせて下さいっ」

「……」

「あの子たちを、うちの施設で預からせて下さい!そのために、あの母親を必ず説得して下さい!」

「優里子、それは」

「自分勝手な意見だって、わかってます。だけど、抑えていられません。あの子たちの未来がかかってるんですからっ!」

 瀬良の言葉を遮って、優里子は言った。

「瀬良先輩ならできます。きっと説得して下さい!きっと……、きっとです!!」

 優里子のまっすぐな瞳は強く、キラキラしていた。瀬良はその目が好きだった。

「ああ、きっとだ。約束するよ」


                 ****


 すっかり二人を見失った俺は、よやく自転車に乗ったところだった。俺は焦っていた。どうしよう。あのまま優里子が瀬良とくっついたらどうしよう!それを考えるだけで腹がねじれてしまいそうになる。

 一人でイライラしながら施設の前まで来ると、施設の横に優里子が立っていた。優里子は自転車の音に気づきこちらを見ると、ゆっくり近づいてきた。

「優里子……?」

「おかえり。唯我」

「た、いま……。何でここにいんの?」

「うん。唯我を待ってた」

「……」

 初夏の湿った風が、互いの髪の毛をとくように過ぎていく。辺りは真っ暗で、小さな街灯の明かりと施設の職員室からもれる光だけしかなかった。目の前の優里子は笑っているが、少し様子が変だった。

「瀬良先輩ね、てぃあらちゃんとないと君のお母さん、明日必ず説得してみせるって。そうしたら、今度こそ二人を施設に預けたいって」

「……ああ、そうかよ」

 何だ。また瀬良の話か。俺は目を反らした。ザワアッと風の音がする中、優里子が鼻をスンと鳴らす音がした。見ると、優里子が静かに泣いていた。俺は歩道の手すりに自転車を立てかけて、優里子に近づいた。

「優里子?」

「ああ、ごめん。泣くつもりなんてないのにな。変だな……」

「まさか瀬良に何か言われたとか?されたとか?大丈夫?」

「ははは。平気平気!違うの。私、ずっと唯我に謝れてなかったから、謝りたかっただけなの。それだけなの……」

 優里子の涙は街灯の光を含んで落ちていく。まるで金色のビーズが落ちてはじけていくように、真っ暗な地面で一瞬光って吸い込まれた。優里子の手を取ると、優里子が握り返してきて驚いた。涙は止まらないのに、優里子は寂しそうに笑っている。

「優里子が謝ることなんて何もないよ。俺が勝手に怒ってただけ。怒ってたっていうか、男の意地っていうかプライドっていうか……。俺は瀬良が嫌いだったから、優里子と一緒にいてほしくなかったっていうか……。……ごめん、優里子」

「何だそれ。ただのヤキモチじゃん」

「……そうとも言う、かもしれない」

「そうだったんだ。なんだ」

 優里子は消えそうな声で呟いた。手を離してしまうと風にさらわれて消えてしまうんじゃないかと思った。俺からまた離れてしまうんじゃないかと思った。それは絶対に嫌だった。

 一歩前に踏み込み、握る手を引いて、前に落ちてきた頭と体を両手で引き寄せた。横から優里子の髪が流れて、鼻の頭を掠める。火照った息が肩に落ち、小さな涙がシャツを濡らす。密着する体は熱いけど、風にさらされた優里子の腕はひんやりと冷たかった。

「……唯我、いつの間に身長こんなに伸びてたの?今、いくつ?」

「4月は160センチだった」

「私と一緒じゃない」

「……一緒じゃねえよ」

 一緒じゃない。一緒であってたまるか。

 優里子は額を俺の肩に預け、片方のシャツの裾をきゅっと握った。俺は、密着する体の間でドキドキしている心臓は、一体どっちの心臓だろうかと想像した。


                 ****


 7月下旬、てぃあらちゃんとないと君が施設にやって来た。一緒にやって来たのは瀬良だった。

「それでは施設長、2人のことをよろしくお願いします」

「はい。お任せ下さい。瀬良さん、お疲れ様でした」

「はい。ありがとうございます……」

 てぃあらちゃんを抱きしめる優里子が瀬良に近づいた。

「てぃあらちゃん、ハイタッチ!」

 すると、小さな手が瀬良の上げた手のひらにぱちんと触れて、「タッチ!」とてぃあらちゃんの満足げな笑みが浮かんだ。

「てぃあらちゃん、元気でね。ないと君のこともよろしくね、優里子」

「はい。元気な子に育てますね!」

 2人は笑ってお別れした。瀬良が施設から出ると、外に俺がいた。

「こんにちは。小山内君。元気?」

「おかげさまで」

「それはいいことだ。てぃあらちゃん、ないと君のこと、よろしくね」

「言われなくても」

 瀬良はふふっと笑うと、「あ、そうだ」と振り返った。

「優里子にね、聞いてみたんだよ。君のこと好きかどうか」

「んなっ!!」

「何て言ったと思う?」

「な……なっ……」

「ま、教えてあげないんだけどね」

「なっ!!!」

 瀬良は、驚いて「な」しか言えてない俺を笑いながら歩いて行った。その後ろ姿は真夏にも関わらず爽やかで、フリフリ振ってる手の銀の腕時計がきらりと光る。

「君も頑張りたまえよ。タレント活動!」

「タ、タレントじゃねえよっ!」

「え?違うの?」

 足を止め、振り返った瀬良に向かって、俺は「Y」を示すピースサインをした。

「俺は、ジェニーズの小山内唯我だ。ちゃんと覚えとけ!」

「あははっ!そうか。ジェニーズの小山内唯我か!……じゃあな、小山内唯我!」

 瀬良はピースサインを見せると、振り返って行ってしまった。瀬良は俺よりずっと大人で、意地悪なところもあるけれど、誰にだって優しくて、お金もあって、センスもよくて、カッコいい奴だった。実はそう思っていたことは、一生内緒にしようと思った。


                ****


 瀬良は歩きながら、水族館デートの夜の最後を思い出していた。優里子から離れた後、車のドアに手をかけた時だった。

「優里子」

「はい」

「優里子は小山内君のこと、好き?」

 聞かれると思っていなかったという顔をした後、優里子は優しく微笑んだ。

「はい。大好きです」

 その微笑みは、自分には決して向けられないものだということが、この瞬間、瀬良にははっきりわかってしまった。

「小山内君も、優里子のこと大好きだと思うよ」

「知ってます。ずっと前から」

 優里子は笑顔を絶やさなかった。瀬良はもう一つわかってしまったことがある。優里子のいう「大好き」は、あくまで「弟」への愛情であって、はっきりとした恋愛感情ではない。だけど、その淡い気持ちは、蝶が羽化するためにようやく柔らかい寝処を準備し始めたような状態のように思えた。

「君の想いはいつ届くかな。ジェニーズの小山内唯我」


(第58話「7月28日のデート」おわり)

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