第55話 2人のイライラ

 ジェニーズJrの舞台は最終日を迎えた。舞台中央に現れた巨大で真っ白な扉は、美しい装飾に彩られている。重たい扉が開いた瞬間、舞台の上は煙幕に覆われた。煙幕の中に人影が二つ現れ、そこにスポットライトが当たった。

「この部屋の扉が勝手に開くなんて……。不思議なこともあるもんだ」

「いつから俺以外を簡単に通すようになったんだ?樹杏」

「戯れに、宵が初めて……」

 その瞬間、舞台上の煙幕は消え、Y&Jの姿が現れた。映画同様、青と赤の王子服がライトの下でキラキラ光る。拍手の鳴る会場には、Y&Jの曲が流れだす。


 千鶴さんはモニター室で舞台を見つめていた。モニターにはY&Jが踊る姿が写っている。

「どうしたんですか?千鶴さん。眉間にしわがよっちゃいますよ」

「おっと、いかんいかん!いや、Jの奴、すっごいダンス上手くなったなと思って」

「ああ、そうですねえ。唯我君が上手だから、引っ張られてるんじゃないすか?唯我君も、歌うまなJに感化されてる感じですよね。ハイトーンなんかはセクトみたいですし」

「だよねえ。Y&J、分かりやすくうまくなってるよねえ」

「まあ、関東Jrがこれだけ集まった舞台すから、競争心あおられてたのかもしれませんね」

「それは狙い通りだぜ」

「さすがっす。そろそろフィナーレですよ。スタンバイお願いします」

「はあい。行ってくるよ」

 映画・舞台共にストーリーはほとんど同じだ。きらびやかな城に集められたジェニーズJrたちは、その夜にだけ幕を開く特別なステージに立つべく、ダンスや歌でパフォーマンスバトルを繰り返す。そうして最後、舞台の上に現れたキングとJrたちが一緒に歌って踊るのだ。キングはもちろん千鶴さんだ。

「今宵集まりしJrの諸君、君たちの素敵な未来を、麗しき姫たちに捧ごう!」

 観客たちの熱気が舞台の上へと上昇する。歓声も拍手も今日までの舞台の中で一番大きい。俺たちはその熱量と圧力に負けじと足に力を込め、腹に息を入れ、手を伸ばした。


                 ****


 樹杏と二人で「今日が一番すごかったね」と話しながら服を着替えていると、C少年の聖君が俺たちを呼んだ。

「おーい!Y&J!ちづさんがお呼びだぞ!」

 俺たちは早々に荷物をまとめ、千鶴さんのところに向かった。すると、そこには根子さんと樹杏のマネージャー小池君がいた。

「お前ら、次の俺のライブに来い」

「千鶴さんのライブ!?」

「えっ!?嘘っ!やったあああっ!!!」

「日程は8月から9月にかけて、名古屋で3公演、静岡で4公演、東京で4公演。お前らにお願いしたいのは、オープニングで歌う”疾風”のダンス、それから途中で入れるトークショー。これは紹介だけな。あとフィナーレの青春隊メドレー。7月はステージの練習にも参加してもらう。いいな」

「「はい!!」」

 ミーティングルームを出ても、樹杏は「やったやった!」と喜んでいる。テンションの高い樹杏は俺の背中を叩き続けていた。はあ、泰一みたいだ。そう思うと、「兄ちゃん、兄ちゃん!」と駄々をこねる泰一の姿が目に浮かんだ。少しの寂しさを感じながら、ガキすぎる樹杏に呆れた。

 会場の外には、打ち上げに行くJrたちが大勢集まっていた。C少年の聖君と貴之が俺に手を振り駆け寄ってきた。相変わらず、樹杏はJrたちが近づいてくると俺の背後に隠れてしまう。

「この後の打ち上げ、唯我たちも行くやろ?」

「Jも行こう!たくさん話そうぜ!」

「僕……」

「樹杏、行こうぜ。皆いい奴だから、楽しいよ」

「……唯我が一緒にいてくれるなら、行く。お腹空いたし」

「よっしゃ!決まりや!」

「途中でちづさんも合流するって!」

 俺が「そうなんだ」と言うと、さっきまで隠れていた赤毛が姿を現し、一人でスタスタ歩き出した。

「それを早く言ってよね!渋って損しちゃうところだった!」

 取り残された聖君、貴之は、樹杏の変貌ぶりに驚いた。俺はクスクス笑った。

「突然スイッチ入った?」

「何で?」

「あいつ、千鶴さん大好きなだけから」


                ****


 優雅なクラシック曲が流れる店内では、白いクロスの敷かれたテーブルの上に、ガラスの器の中で揺れるキャンドルと金色の泡の柱が立つスパークリングワイン、銀色のナイフとフォーク、美しく盛り付けられた料理のお皿が並んでいる。ガラス張りの向こうには、星のように瞬く街の灯りが、真っ暗な海と空の間に浮かんでいた。

 優里子はその光景をボーっと見ていると、俺の小さな声を思い出した。

「俺……、優里子が誰かの彼女になるの、嫌だ」

 唯我、あれからずっと怒ってる。私と話してくれないし、すぐ部屋に引っ込んじゃうし。今日だって、舞台に行くって施設を出る時も、私のこと睨んで無視したし……。どうして怒ってるんだろう。

「最近、よくデートしてる奴」

 道端で大泣きする大沢を前に笑っている俺の姿も思い出す。そして、優里子の手に絡まってきた俺の手の感触、まっすぐ向かってくる視線も思い出す。

「俺と一緒にいろよってこと」

 「一緒にいろよ」ってどういうこと?意味わかんない。あいつ好きな人いるんでしょ?あんなに怒ってるくせに、私に何を求めてるの!?ああ、だんだんムカムカしてきたっ!

「……子。優里子?」

「……あ、ごめんなさい」

「ううん。俺ばっかり一方的に話してごめん」

「いいえ。お話聞くの、楽しいです」

 正面には、優し気に頬えむ瀬良がいた。優里子は信じられない現実を目の前にして、少し緊張していた。話なんて全然頭に入ってこないし、目の前に並ぶ見目麗しい料理たちが美味しすぎて、食が進まなかった。

「ここ、とっても素敵ですね。大人っぽい」

「ははは。でしょう?」

「お、お恥ずかしながら、こんなところにディナーに来たのは初めてでして……」

「そっか。それは良かった。ワイン、おかわりいる?」

「い、いいえいいえ!瀬良先輩、車の運転あってノンアルなのに、私ばっかり飲めませんよ。そ、それに……、この間みたいになっちゃったら恥ずかしいんで」

 嗚咽を繰り返す姿なんて、瀬良先輩には二度と見せたくない!思い出すだけで嫌になる。優里子は気を紛らわそうとパクっと料理を口に運んだ。視線を上げると、瀬良と目が合った。瀬良の微笑みに、胸の奥からはドキッと音がした。

「酔っても全然構わないよ。ちゃんと家に送るし」

「……いえ。大人として、それは恥ずかしいです」

「何だ。酔ってる優里子、可愛かったんだけどなあ。残念」

 いちいち可愛いとか言わないでほしい!優里子は顔を真っ赤にした。優里子には全く余裕がなかった。

 あわあわとしている優里子を見ると、瀬良はあの夜のことを思い出した。瀬良からの突然の告白に動揺する優里子は、自分が瀬良に抱きしめられていることが信じられず、また吐き気に耐えきれず、返事もしないで猛ダッシュで逃げ帰ったのだった。一人置いてけぼりにされた瀬良は、自転車を止めていた俺と目を合わせ微笑むと、ちょうどよくやって来たタクシーに乗って帰ったのだった。

 タクシーに乗る寸前、タクシーのバックライトに照らされた俺は、黙って瀬良を睨んでいた。瀬良は、俺が瀬良のことが嫌いなことも、その理由も何となく理解した。俺に優里子を抱きしめるところを見せつけるなんて、かなりの意地悪をしたことも自覚していた。

「小山内君、だっけ。時々病院に来てくれている施設の男の子」

「ああ、はい。何か失礼がありました?」

「いやいや。どんな子かなあと思ってさ」

「優しい子ですよ。愛想は良くないけど、皆のことを守ってくれる、強くてカッコいい男の子なんです。赤ちゃんの頃から施設にいるので、私にとっては弟みたいなもんで」

「弟ねえ」

 あの時見た目は、ただの「弟」の目ではなかったよね。瀬良はふふっと笑った。

「優里子」

「はい」

「もし、その”弟”が、優里子のことを異性として好きだって言ってきたら、どうする?」

「……あはは。ないですよ、そんなの。絶対!」

「どうして?」

「あいつ、最近好きな子ができたみたいなんです。よくデートしてるそうです」

「へえ。そっか……」

「それに、どうやら反抗期みたいなんです!最近、私の顔見るなり嫌そうな顔して部屋に行っちゃうんです。私、怒らせる理由もないのに無視されてて!」

 優里子の俺の話は止まらなかった。聞けば聞くほど、それは反抗期の反応ではなくて、自分への嫉妬で、優里子へのやきもちじゃないかと思えてならなかった。瀬良は俺のことを少し気の毒に思った。しかし、プンプンしながら言う優里子は、ちょっとだけ楽しそうだった。


                 ****


 打ち上げ会場は、甲高いガキの声でワイワイと盛り上がっている。俺はスマホを見ていた。そこには優里子とのメッセージのやりとりが写っていた。画面を少し上にスクロールすると、俺と泰一の北海道旅行の最後に送ったやりとりが現れる。

『いつか、一緒に来よう』

『あんたがスーパーアイドルになったらね』

「唯我、スマホ見て何ニヤけてんのさ」

 俺はビクッとして体をカチコチにした。声をかけてきた隣の樹杏は、聖君と貴之に肩を組まれている。すっかり打ち解け合っている様子だった。

「し、してねえし!」

「してましたあ!ねえ、聖君!貴之!」

「何や何や!彼女か?」

「え!?唯我って童貞じゃないの!?」

「どっ!!」

「いや、童貞でしょ。まだキスもできてないよ?唯我」

「うるせえ!」

「あ、そう言えば!唯我って、彼女をJに寝取られたって噂あったよな!あれ本当?」

「何だその噂!」

「俺も聞いたことあるで!で、どうなん?噂のJさん」

「ふふん。まあねえ」

「うおっ!マジか!!」

「僕の方が魅力的だしい。そりゃあときめかれちゃっても仕方ないっていうかあ」

「嘘ばっか言ってんなアホ!!」

 俺が樹杏を押し倒しているところに、千鶴さんが現れた。会場は「待ってましたっ」という雄叫びと拍手で盛り上がった。千鶴さんは俺たちをじっと見つめて固まった。

「あ、ちづさん!待ってたよ!!」

「千鶴さん……」

「ふっ。イチャイチャしてんな807号室」

「はーい!いつもしてまーす!」

「おいこら。また誤解を招くような言い方しやがって!」

 樹杏が俺に腕を回して抱きついてきた。その間に千鶴さんは奥の上座に案内された。周りには俺よりずっと大人のJrが集まり、楽しそうに話をしている。千鶴さんは長い足を片方立てて、その膝に長い腕を置いている。細くて爪先まできれいな指でグラスを持つ姿がカッコいい。基本的にお酒を飲まないから、手に持つグラスの中は水だけど大人っぽくて、何というか、色気があった。

 打ち上げは解散となり、Jrたちは各々帰路についた。樹杏はマネージャーの小池君に強制連行されて行ってしまったし、一人になった俺も、他のJrたちのように最寄の駅まで移動しようとしていた時だった。

「唯我!」

「はい」

「久々に、乗ってくか?」

 千鶴さんは車のキーを見せて微笑んだ。俺が千鶴さんの車の助手席に回っている様子を、D2-Jrの智樹が遠くから見ていた。

「ん?どうした、智樹。帰ろう」

「ああ、うん」

 智樹は、車に乗り込む俺よりも、満足そうに笑う千鶴さんの方が気になった。


                ****


 千鶴さんの車の中から見る夜の街は面白い。店頭を照らす明かりはカラフルで、まるでお祭りの屋台が並んでいるように思えた。歩道を歩く人たちには、それぞれに特徴がある。疲れて家に帰ろうとする人。酔って千鳥足の人。客引きに立ちながら、スマホをいじるのに忙しい人。仲間とワイワイ笑顔で歩いている人。

 運転席の千鶴さんに目を向けると、千鶴さんも俺をじっと見ていたのでばっちり目が合った。驚いて固まった。

「な、何ですか?」

「あはは。いや、大きくなったなあと思って」

「そりゃあ、成長期ですから」

「身長何センチ?」

「4月の測定で、160センチ」

「そっか。きっとまだまだ伸びるぜ」

「本当ですか?俺、背高くなりたいです」

「男は皆そうだよな。よく食べ、よく動き、よく寝ろ!寝るが重要だな」

「千鶴さんは何センチですか?」

「俺?178。いやあ、180超えたかったよなあ。まあ、15歳からずっと忙しくて、寝るヒマを惜しんでたからだよ。後悔、後悔」

「……でも、カッコイイから十分じゃないですか」

「それは確かに」

 大きな交差点で赤信号に止まった。千鶴さんは相変わらず女子みたいに髪がサラサラで長い。鼻筋が通ってて、まつ毛が長くて目は切れ長だ。薄すぎず厚すぎない唇は、いつもスマイルの形をキープするアイドルリップ。細身の体に合わないビックシャツの袖をめくり、そこから筋の入る男らしい腕が伸びている。ハンドルを握る左手にはシンプルな腕時計、窓の角で頬杖をつく右手には革で編まれた細い水色のブレスレットをしている。こういうアクセサリーからも、大人っぽいカッコイイ雰囲気がかもし出されている。

「何ジロジロ見てんだよ」

「……カッコイイなあと思って」

「そんなこと知ってるよ」

 堂々とそれ言えるのがすげえ。しかし誰も否定はできないんだから、無敵だな。

「腕時計とか、ブレスレットとか、服装とか……」

 もう全部カッコイイ。しかし、そこまではっきり言う勇気がなかった。勝てる要素がないことをはっきり口にはしたくないという、ただの意地だ。

「あははっ!そうかそうか!わかった。お前もカッコつけたいお年頃だよな」

「そういうわけじゃあ……」

「ほら、照れない照れない。いいじゃん。カッコつけろよな。お前はアイドルなんだから、堂々とカッコつけろ!ほら、参考にしてみ」

 信号が青になる直前、千鶴さんは右手のブレスレットを外して俺に見せてきた。車が進む中、俺はブレスレットを見つめた。

「つけてみ」

 言われるまま、右手の手首につけてみた。露骨にカッコつけているような気分になって、恥ずかしくなった。

「似合う似合う!唯我はイメージカラー青だもんな。バッチリじゃん」

「恥ずかしいです」

「外しちゃうの?似合ってるのに。俺さ、よくそのブレスレット似合わないって言われるんだ。俺ってイメージが黒か赤なんだって」

「はい、わかります。でも、これ似合ってますよ。千鶴さん」

 外そうとブレスレットのステンレスの留め金をつまんだ時、内側にイニシャルが彫られているのが見えた。それは千鶴さんのイニシャルとは違うようだった。

「Y.O?千鶴さんのイニシャルはC.A?」

「………ああ。貰い物なんだ、それ」

「へえ。……彼女、とか?」

「うん。世界で一番、大切な女性ひと

 ふうん。その人が「Y.O」さん。千鶴さんにもそういう人いるんだな。そりゃそっか。

「俺と同じイニシャルですね。その人」

「…………だな」


                ****


 優里子は瀬良の車で施設の前まで送ってもらった。車のドアを閉じると、見送りのために車を降りた瀬良が、優里子の隣に立った。

「今日は、ありがとうございました。ごはん、とっても美味しかったです」

「どういたしまして。でも、施設で良かったの?ちゃんとお家まで」

「いいですいいです!うちならここから徒歩圏内ですし、瀬良先輩に悪いので……」

「そんなの気にしなくていいのに。相変わらず遠慮しいなんだな、優里子は」

「いや、そんな……」

「俺の方こそ、今日はありがとうね。会えてよかった」

 優里子は瀬良の微笑みに、一気に頬を赤くした。

 千鶴さんの車がもうすぐそこに施設が見える辺りまで着た時だった。施設の前に、優里子と瀬良が立って話しているのが見えた。

「あ、優里子ちゃんだ。あれ、彼氏?」

「じゃないです。絶・対!」

 俺は強く言った。それが気になり、千鶴さんは玄関先の二人が見えるところで車を止め、エンジンも切った。辺りは街灯だけの光で照らされた。

「もう少し、ここにいようか。お前が言うように彼氏じゃないってならさ、そんな怖い顔して帰る必要ないだろ?落ち着けよ」

「……はい」

 俺はしばらく車の中から、二人の様子を見ることにした。

 ……それにしても、優里子の恰好が可愛すぎる!!何だあのミニスカのワンピース!!可愛いすぎるだろ!!あんな可愛い優里子を、あのいかにも高そうな白いスポーツカーに乗せてデートしていただと!?瀬良うぜえ!うぜええええ!!

「その後だけど、てぃあらちゃんは退院して一時預かり所で生活してる。ないと君は来月の頭には退院できるだろうって。今は俺たちで預け先を検討してる。この施設も候補の一つさ。ただ、そうするにしても、不破さんの返事次第なんだけどね」

「そうですか。二人のためを思えばっ……」

 優里子はそこまで言うと、自分が言おうとしていることは、瀬良は求めていないことを思い出した。

「いえ、何でも……」

 瀬良には、口を閉ざす優里子が何を言おうとしていたのかは分かった。瀬良は優里子の手を取り、微笑んだ。

「そういう優しいところが、いいなと俺は思う」

「え……」

「優里子って、可愛いよね」

 優里子はあからさまに照れた。瀬良は何かを言い続けているのを見ていると、俺はますますイライラを募らせた。隣の千鶴さんは、内心で「おいおい」と呟いた。

 優里子に何度も照れるように顔を反らされると、瀬良は意識を強めてしまう。自分の方が照れくさくなってしまう。それは優里子への期待へと変わっていく。

「優里子、あの返事、考えてくれた?」

「……!」

「あの夜、俺の言ったこと。覚えてる?」

「……覚えては、います」

 優里子は思い出すと恥ずかしくてたまらず、顔を手で覆った。その瞬間、俺は頭の中の糸がプチンと切れた。

「千鶴さん、ありがとうございましたっ」

「え?おいっ」

 俺は車を降り、早足で優里子たちに近づいた。車の中にいた俺には、二人の会話は一切聞こえてこない。それでも、瀬良が下心丸出しで優里子の手を握っていることだけはよく分かった。それに、優里子が瀬良の前でしおらしくしているのがムカつく!

「お返事は、もう少し考えさせてください」

「そっか。ま、気長に待つとするよ」

「……ただいま、優里子」

「ゆっ、唯我!お、おかえり」

 優里子は反射的に瀬良に握られていた手を離した。瀬良は手をポケットにしまうと、俺にニコッと微笑んだ。

「こんばんは、小山内君」

「早く帰れば」

「ちょっと、唯我!失礼よっ」

「優里子、早く施設の中入ろうぜ」

「え、ちょっと!」

 俺はあえて瀬良が握っていた手を取り、強引に優里子を施設の中へ引っ張った。去り際にギンギンに瀬良の睨んでやると、瀬良はニコニコしながら手を振ってきた。余裕ぶりやがって!こんにゃろう!

 しばらくすると、瀬良は静かに道を引き返した。その一部始終を見ていた千鶴さんは、車の中で腹を押さえてクスクス笑っていた。

「面白いもん見たなあ。唯我も男の子だねえ。あんなちびっ子だったのに、いつの間にか成長しちゃってるんだなあ。健全だねえ。感動しちゃうぜ。……年上好きかあ。そっか」

 俺は玄関に入っても、優里子の手を握っていた。

「ちょっと唯我、瀬良先輩に挨拶しそびれちゃったじゃない!もう帰っちゃったし」

「あっそ」

「瀬良先輩がね、いい知らせをくれたわ。てぃあらちゃんとないと君、どこかの施設で預かることになりそうよ」

「そうかよ」

「……ねえ、怒ってる?どうして?」

 俺は優里子に振り返り、手に力を入れた。優里子が握られた手を少し痛がって、「った……」と顔をしかめても無視した。

「優里子が、瀬良としゃべってるのを見るとムカつくんだよ。あいつ、優里子に対してわかりやすく下心見せてんじゃんか」

「何それ。瀬良先輩は全然悪い人じゃないわ。あんた、何勝手にイラついてんのよ」

「優里子にもイラついてんだよ」

「は?私が何したってのよ」

「鈍感なところ!」

「鈍感じゃないわ!」

「あと、あいつの前だとしおらしくしてさ、何かわい子ぶってんだよ」

「か、かわい子ぶってなんて」

「一歩引いてんじゃん」

「っ……」

「言いたいこと飲み込むみたいにしてるだろう。俺の前にいる優里子は、言いたいこと素直に言えてるくせに、あいつの前では言えないのかよ」

 優里子には心当たりがあった。些細なことも、自分の中で解決できていないことも、瀬良の前では一度考えてしまう。言葉を選んでしまう。さっきの二人の会話にだって、聞いてほしいことが、本当はあったはずだった。

「意思があるなら、引くな」

 優里子が今にも泣きそうな顔をして俯いている。俺は言いたいことを全て言えてスッキリしていたが、優里子の様子を見たら少し罪悪感を感じた。強く握っていた手を離した。その時、右手首に千鶴さんのブレスレットが垂れていた。

「あ、これ……」

「何それ……」

「これは千鶴さんの」

「カッコつけてんのは、唯我も一緒じゃない!!」

 優里子はそう言って、施設の玄関を出て行った。俺の横を通り過ぎる時、優里子は手で涙を拭っていた。俺はとても反省した。自分勝手なこと、一方的に言い過ぎた。首をさすると、右手首でブレスレットが揺れた。これも、今度返さなくちゃ。

 優里子は道の角を曲がったところで、涙を拭った。なんて大人げないんだろう。最後なんて、ただの逆切れじゃない。勝手にイラついてたのは、私の方だ。


                 ****


「あれ!ないっ!!……あいつ、持って帰ったな」

 その頃、自宅の地下駐車場に車を止めた千鶴さんはブレスレットがないことに気づいた。車内のどこにも見当たらず、すぐに持っているのは俺だと気付いた。

 自宅の玄関を開けると、室内は既に電気がついていた。ドアを開けると、ポロロンとピアノの音がした。

「千鶴、おじゃましてまーす。今日も今日とて遅えなあ」

「トミーか。ただいま」

 それは青春隊のメンバーの富岡圭司だった。スキンヘッドで千鶴さんの黒いスウェットを勝手に着て、正面に広げる楽譜にペンを入れながら、キーボードを鳴らしている。

「お前、来てるなら来てると連絡を入れろ。合鍵持ってるとはいえ、俺がここに女の子でも連れてきてたらどうするんだよ」

「あはは!写真撮って週刊誌に高値で売ってやる」

「ひどい奴」

「てか、あるわけねえだろ。千鶴に女なんて」

「……、ひどい奴」

 千鶴さんは車のカギをキーケースにしまった。その時、富岡さんは右手のブレスレットがないことに気が付いた。

「あれ?ブレスレットは?」

「ああ、お年頃のJrに貸してるんだ」

「は!?お前が命くらい大切にしてるブレスレットだろ!?信じらんねえ」

「今度会う予定あるから、すぐ戻ってくるさ」

「戻ってこなかったらどうするんだよ」

「……ああ、それは考えてなかったな。無くされたら、さすがに泣くな」

「どんだけ信頼してんだ、そのJr。むしろ、会ってみてえわ」

「じゃあ、今度の俺のライブ手伝ってよ。そいつも来るからさ」

「……金くれるなら行くぜ」

「わかったよ。依頼してやるから来い」

「やりいっ!」

「ったく、どこのヤクザだよ。トミーは」

 腕時計を置いた棚には、若かりし頃の青春隊3人で写る写真が飾られていた。真ん中には15歳のまだ短髪だった千鶴さん、右側には17歳のまだ天然パーマの髪がふさふさしている富岡さん、そして左側には、満面の笑みで千鶴さんと肩を組む15歳の比嘉裕一郎さんがいた。黒髪ストレートの髪の毛は、写真からしてもサラサラなのがわかる。笑う目のまつ毛は長く、扇を開いたようにきれいに広がっていた。


(第56話「2人のイライラ」おわり)

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