第53話 怒りの行き先

 昨年に公開されたジェニーズJr出演映画の舞台が、いよいよ明日から始まる。映画出演Jrのメンバーはそのままに、演出や構成を考えたのは、映画の監督をしていた秋川千鶴さんだ。それはさながらジェニーズ舞台のようだった。

 出演者はその日最終リハーサルのため、観客のいない舞台に立っていた。舞台のライトが消えると、千鶴さんは満足そうに笑って拍手した。

『ゲネプロお疲れ様!明日はもっといい舞台にしよう!』

 もう一度ついたライトの下で、Jrたちは声を上げ拍手した。樹杏はふうっと息を吐くと、隣の俺をチラ見した。樹杏から見ても、今日の俺は分かりやすくイライラしていた。舞台から降り通路を歩いていると、隣を歩く樹杏が睨んできた。

「唯我、態度悪すぎ。イライラだだ漏れてるけど」

「お前には関係ない」

「大アリなんですけど。やりにくいんですけど!」

 頬を膨らませる樹杏が鬱陶しくて、赤いクリクリ髪の中に手を突っ込みグリグリ押してやった。樹杏は「やあっ」と嫌がって俺を睨んだ。

「八つ当たりは嫌よ!私のこと、都合のいいように使わないで!」

「女キャラ、キモい」

 樹杏がムキーッと俺を叩いていると、廊下の前方からD2-Jrの大人たちが歩いてきた。その中に智樹がいた。すれ違うメンバーたちに「お疲れ様でした」と頭を下げ、智樹が目の前を通り過ぎる時、顔を向け手を上げた。

「智樹、お疲れ様」

 智樹は呟くような声で「お疲れ」と返事をして、一瞬俺を見ただけで行ってしまった。空中に残されてしまった手は、自分の首を撫でた。

「……」

「いよいよ本性を隠さなくなったな、あいつ」

 俺の後ろに隠れていた樹杏がひょっこり顔を出した。

「樹杏、何言ってんだよ」

「唯我は、まだあいつのこと好きなの?」

「友達なんだから」

「それは唯我のっ……!いや……。とにかく、僕はあいつ嫌いだな。いい奴じゃない」

「お前、智樹のこと何にも知らないくせに。智樹はな、俺がJrになったばっかりの頃、右も左もわかんないのを助けてくれて、たくさん教えてくれたんだ。……俺のJrの基礎は全部、智樹が作ってくれたんだ。嫌いになるわけないだろう」

 社会性なんて言葉も知らず、協調性さえ持ち合わせなかった俺が、今たくさんの仲間と笑って舞台に立てるようになったのは智樹のおかけだ。仕事の向き合い方、ダンスの練習方法、それだって、誰よりも真剣に取り組んでいた智樹を見て学んだことだ。

 樹杏は不服そうに「あっそ」と言って廊下を歩いていった。こいつは智樹のことになると、他のJrには示さない拒否反応を起こす。意味がわからない。

 その時、後ろから根子さんが俺を呼び、近づいてきた。

「唯我君!」

「はい」

「明日、午後の舞台が終わったらすぐに会場を出発しますからね。映画のオーディション、お忘れないように」

「わかってます。よろしくお願いします」

「お願いします」

「唯我、明日舞台初日とオーディション重なってんの?いっそがしいねえ!」

 その通り。俺の明日は大忙しだ。


                ****


 その頃、瀬良は入院するキャバ嬢の子どもたち、てぃあらちゃんとないと君の様子を見にやって来ていた。てぃあらちゃんの病室に入ると、そこに優里子がいた。

「……今度は優里子か」

「あ、瀬良先輩。お疲れ様です」

 優里子は眠るてぃあらちゃんのお腹をポンポンとリズムよく撫でていた。

「さっき眠ったんです。最近は、ようやくリラックスして眠れるようになったって看護師さんが言っていました。食べて寝ることができるようになれば、回復は早いでしょうね。良かった」

「俺もさっきお医者さんに話聞いてきたところ。ないと君の体も、ようやく落ち着いてきたみたいだ。だけど、まだ容体安定とは断言できないって」

「そうですか。早く良くなりますように……」

 優里子はてぃあらちゃんに微笑み、小さな声で言った。その優しい横顔に、瀬良は思わずドキッとした。

 病院を出ると、二人は肩を並べてゆっくり歩いた。優里子も瀬良も、少し緊張した。

「今日はどうしたの?仕事は?」

「今日はお休みなんです。だから、二人の様子ゆっくり見れるかなあって思って」

「心配してくれてありがとな。あの子たちも、会いに来てくれる人がいるだけで気持ちが全然違うだろうさ」

「だといいんですけど。……その後、あの親子のことで親展はあったんですか?」

「ほとんど無しさ。いい報告が早くできればいいんだけどね。ごめん……」

「あ、いいえ……」

 優里子は一度視線を下に向けてから、空気を吸い込むように顔を上げた。

「瀬良先輩、短大の頃から全然変わってなくてビックリします!話しやすいし、優しいし、今でも子ども好きなんですね」

「まあね。可愛いよね、子ども」

「はい!皆可愛いです!」

 瀬良は目をキラキラさせて言う優里子に見とれた。瀬良が固まっているのに気づいた優里子は、恥ずかしそうにして「ご、ごめんなさいっ」と下を向いた。頬も耳も赤くする優里子を見て、瀬良はあははっと笑った。

「変わらないのは、優里子も一緒だろ」

「へ?」

「学生の頃と変わらず、好きなことにまっすぐで、キラキラしてる。そういうの、いいよね」

「えっ!!」

「あ、いや……。無神経でごめん。率直にそう思うんだ」

「あ……わ、わかってます!それに、今は何も関係ないですし……」

 優里子の言う「今は何も関係ない」という意味は、二人にしかわからない。瀬良は俯く優里子が髪を耳にかける姿を見つめた。

「俺、今日はこのまま直帰なんだ。優里子、もし時間あるなら、ご飯一緒に行かない?」

 瀬良は爽やかにサラリと言った。優里子には断る理由がなかった。


                ****


 それは優里子が短大生になった秋のことだ。午後の温かい日差しが二人を照らしていた教室には、静かに机と椅子が並んでいる。優里子は顔を真っ赤にして、声を震わせて言った。

「瀬良先輩のことが、大好きです。付き合って下さいっ」

 瀬良は驚いた。後輩が目をつぶって力いっぱい言ってくれた言葉が、素直に嬉しかった。しかし、瀬良は人の気持ちには、誠実に答えたかった。

「ありがとう。でも、……同じ気持ちで答えてやれない。ごめんな」

 優里子は目に涙が浮かんだが、瀬良が正直に返事をしてくれたことで納得した。頭を振った顔を上げた時、悲しそうに笑っているまつ毛に光る涙と、赤く染まった頬を見て、瀬良は罪悪感とほんの少しの後悔と、嬉しさと一緒に感じる自信を、胸の内に隠したのだった。


                ****


 夜、真っ暗な道を歩く優里子の足はフラフラしていた。目も開かず、頬は真っ赤だった。隣を歩く瀬良は少し困っていた。

「優里子、1杯しか飲んでなかったよね?そんなにお酒弱かったっけ?」

「いえ、そんなことないと思うんですけど……」

 言いながら、優里子は口を押さえ「ゔっ」と喉を鳴らした。優里子はお酒に酔っていたのではなく、あまりの緊張に吐き気をもよおしていた。学生の頃に憧れていた人と二人で食事をしただけだというのに、瀬良を目の前にすると、当時の気持ちや思い出のシーンが蘇ってしまう。見えない波が押し寄せて、口から飲み込んでしまったものが胸の中をいっぱいにしていた。

「ほら、危ないから手……」

 そう言うと、瀬良は優里子に手を伸ばした。優里子はドキッとして、もう一度口元を手で押さえて頭を振った。無理無理!爆発しちゃう!

「……じゃあ、俺の袖でも掴んどけよ。マジで危ない」

 瀬良の大きな手が強引に優里子の手を取り、瀬良のひじ元の服を掴ませた。掴んだ手の先に、瀬良の手の温度が残っている。そこから全身に熱が周り、優里子の脳みそは一瞬で湯だった。

 優里子は顔を上げた。スーツ姿の瀬良の大きな背中が、大人っぽくて頼もしくて素敵に見えた。スーツの袖を掴む指先は震え、胸はドキドキして落ち着かない。だけどそれは、今の自分の気持ちというよりは、学生当時の瀬良に憧れていた自分の気持ちが蘇っているだけだということは、よくわかっていた。

「瀬良先輩って、昔から本当に優しくて、カッコよくて、良い人ですよね……」

「え、突然何?」

「……すっごい、緊張してるんです。今……」

 すると、突然瀬良が足を止めた。優里子は瀬良の背中に突っ込み、顔面をぶつけた。鼻を押さえて痛がっていると、瀬良が優里子をまっすぐ見つめているのに気が付いた。

「そんなこと言われると、困るんだけど……」

「……、何がでしょうか?」

 瀬良は予想だにしなかった返事に頭をガクッとうな垂れた。背中にぶつけた鼻を押さえる優里子には、暗い道の上で、赤くなっている瀬良の顔がよく見えていない。瀬良は軽いため息をするように言った。

「優里子のいいところだってわかってるよ。そういう天然なところ」

「私、天然ではないです……」

 優里子は生まれてこの方、自分が天然であることを全く自覚しない。瀬良は少し呆れたが、そんな優里子のことも可愛いと思えた。

「久々に再会した優里子がさ、何も変わらないのが嬉しくて、可愛いと思ったんだ。だけど、優里子からしたら、そんなの今更だろう?だって、俺一度優里子のことフッてるんだから……」

 その頃、俺は最寄駅に置いていた自転車に乗っていた。施設までの道の途中、歩道のど真ん中に立って道をふさいでいる男女がいた。よく見ると、高身長の男は瀬良で、横にいるのは優里子のようだった。神妙な面持ちで瀬良が何かを言っているのがわかった。

「優里子は、今は何も関係ないとか言ってたけど、あるよ……」

「え……」

「今、俺があの時優里子が言ってくれた言葉をそのまま言ったら、優里子はどうする?」

 優里子は固まり、俺は思わず自転車を止めた。瀬良は俺に気づくと、フッと笑った。すると、瀬良は優里子の頭に手を回し、体に引き寄せ抱きしめた。

「俺と、付き合ってほしい」


                 ****


 次の日、拍手に包まれた初日舞台の幕が下りると、出演者たちは一斉に舞台袖に流れた。しかし、俺だけは足がカチコチに固まっていた。

「ちょっと、唯我!何してんの?早く上がらなきゃ、オーディション遅れちゃうよ!」

 樹杏はスポットライトの消えた舞台から俺を引きずって下ろし、根子さんに預けた。根子さんは車の中でボーっとしている俺を見て、不安しか感じられなかった。

「体調が悪いんですか?それとも、痛めたところがありますか?」

「いえ全く……、問題ありません……」

 話す声に全く気力がなかった。「問題あるんですけど」と根子さんは頭の中でツッコんだ。

「オーディションですよ。気合、入ってますか?」

「はい……」

「そうですか。でしたら、落ちたらしばらくライブ等のお仕事を少し減らします」

「……はい!?」

「気持ちって大事ですよ。一番のピンチの時、自分を助けられるのは、自分自信なんですから」

「……」

「いいですね!」

 俺は返事をしなかった。その余裕がなかった。

 オーディション会場に到着すると、すでにオーディションはほとんど終わっていて、人がいなかった。俺は受付に名前と要件を伝え、オーディション会場に案内してもらった。入った部屋には、2次選考の審査員が揃っていた。

「小山内唯我です。よろしくお願いします」

「はい、よろしく。ここに荷物を置いてもらって、別室に移動します」

「はい」

 案内された別室に入ると、そこは扉を開けた瞬間、白い煙幕のようなものが立ち上った。ゲホゲホとむせながら見た壁も天井も床も、傷だらけだった。

「さて、ここに割れやすいお皿がたくさんあります。どうぞ受け取って」

「はい」

 俺は手いっぱいに真っ白い小皿を渡された。

「私たちは別室でモニタリングをしています。OKというまで、この部屋で”怒り”を表現してください」

 扉は閉じられ、煙たい部屋に一人取り残された。煙幕みたいに巻き上がる粉末は、このお皿の粉だとわかった。激しく傷ついた壁や床も、たくさんの人が「怒り」を表現した結果だということも理解した。シューズの底で、時々ジャリッと音がする。嫌な音だ。

『では、いつでも初めてくださいね』

 放送が流れ、オーディションはスタートした。「怒り」の表現。怒り、怒り……。俺は無数の皿を抱えて、怒りを思い出そうとした。その時、皿が一枚落ちて、パシャンと高い音を出して割れてしまった。拾おうとしゃがみ、割れた皿を取った時、破片の角が床に当たってカツンと鳴った。その音は、10センチメートルのヒールの音を思い出させた。

「……子どもなんか、生むんじゃなかった」

 悲しそうな声は、まるで悪魔の呪文のようだった。俺の体を締め付け、目の前を真っ暗にした。

「あれ?お皿を拾おうとして、固まっちゃってますよ。唯我君」

「……何してるんだ?」

 別室でモニタリングしている審査員たちは、じっと俺の様子を見ていた。モニターの向こうで、俺はようやく立ち上がると、腕をだらんと下げた。

「足元にお皿が全部落ちちゃった。どうするつもりなんだろう」

「……」

 俺は目を閉じた。一歩踏み出し、落ちた皿の中に足を突っ込んだ。バリバリと音が鳴り、硬いものを踏みつける感覚が脳みそを刺激した。白い粉がふわっと上がると、病室で眠る二人の青白い顔が浮かんだ。

「……子どもなんか、生むんじゃなかった」

 もう一度その声が聞こえると、体の内側からピキッとヒビが入る音がした。頭に浮かんでいたのは、金色の毛玉みたいに丸まったキャバ嬢。てぃあらちゃんの頭蓋骨を撫でる俺の手。俺をじっと見つめてきた潤んだ瞳。

「よく言えたわ!そんなことっ」

「優里子さん、少し黙って」

 ピキッ、ピキッと音が鳴って止まない。音が鳴る度に、体には小さな衝撃がやってくる。

 頬を染めて瀬良に手を振る優里子、俺に怒鳴る優里子、瀬良の前で困った顔をする優里子。爽やかに笑う瀬良。俺を鼻で笑った瀬良。

 思い出した瞬間、体に火がついたように熱くなった。じっとしていられず、顔を手で覆い、一歩一歩前に進んだ。何かを見る余裕はなくて、正面の壁に額をぶつけた。その衝撃でよろけ、床に倒れ込んだ。ついた手の先が痛かった。見ると、さっき落とした皿の破片でざっくりと切っていた。痛みと共に真っ赤な血が垂れる。拳を力いっぱい握り、床に叩きつけた。床から白い粉が吹き上がり、床にはべっとりと血がついた。

 痛みは、俺の中の真っ黒いものと混ざり合い、自分がどこにいるのかをわからなくさせた。床にへたっとつけた足は動かない。背を丸め、俯いた。血は止まらず、白い床をゆっくり赤い水玉模様に染めていく。

「俺と、付き合ってほしい」

 優里子を引き寄せる一瞬に見せた瀬良のほくそ笑む姿は、嫌味の他に意味が見当たらなかった。あの目は、「お前なんかに、奪えるものか」と訴えるようだった。手が届くものか。声が聞こえるものか。想いが伝わるものか。通じ合えるものか。お前なんかに!

 両手に握った拳を振り上げ、床に叩きつけた。モニターを見る審査員たちは、その静かな怒りに目を奪われた。


                 ****


 施設に帰ると、夜勤の優里子が出迎えた。「お疲れ様」といつもと変わらず言う優里子を無視して、職員室に顔を出した。施設長に「ただいま」を言うと、施設長は「お帰り」といつも通り返事をした。その時、優里子は俺の手に包帯が巻かれていることに気づいた。

「ちょっと、怪我したの?大丈夫?」

 優里子が手を握ると、怪我をした場所がズキンと脈打った。

「……唯我、返事してよ。痛いなら、言ってくれなきゃわかんないよ」

 どこが痛いのかなんてわからない。ただ、今は優里子を見ると、どうしても瀬良の笑みが浮かんでしまう。俺は優里子の顔を見ることができず、俯いていた。

 小学生の頃は、優里子に好きな人ができたり、誰かと付き合うことに対して、幼い俺はそういうものかなと思っていた。俺が優里子のことを一番好きであることが大事だったからだと思う。だが、今の俺はそうではないらしい。

「俺……」

「ん?」

「優里子が誰かの彼女になるの、嫌だ」

 それがどれだけ自分勝手な気持ちかはわかっていても、優里子の気持ちが、俺以外に向くことがとても悔しくて気持ち良くない。握られる手はズキンズキンとして痛くてたまらなかった。しばらく沈黙が続き、優里子が小さな声で言った。

「……何、言ってるの」

 まるで泣いているかのように、その声は震えていた。ゆっくり視線を優里子に移した。すると、優里子は目をうるうるさせて、顔を真っ赤にしていた。恥ずかしそうに口元を手で隠した。

「まさか、瀬良先輩から何か聞いたの?」

 その姿を見た瞬間、頭に血が上った。握られた手を振り払うと、俺は逃げるように自分の部屋へと走った。ドアを閉め、明かりもつけずにドアに寄りかかると、そのままずりずりと床にしゃがみ込んだ。怒りのぶつけどころもわからず、未だ体は燃えるようだった。

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