第52話 児童福祉司 瀬良大輔

「瀬良先輩」

「優里子……」

 二人は見つめ合ってから、気まずそうに顔を伏せた。この雰囲気はどういうことだ。二人はどんな関係だ!俺はイラッとした。

 その時、病室に向かってくるカツカツというヒールの音がした。扉は乱暴にガンッと開かれ、そこに10センチメートルくらいありそうなヒールで立つ、金髪の若い女が現れた。

「ちょっと、瀬良さん!どういうことよ!!」

 目力の強い女の唇は、真っ赤なゼリーみたいにツヤツヤしている。コートの下にはテッカテカに光るピンクのミニスカワンピース、ラメの光るストッキングを履く細い足が覗く。しかし、俺の目を奪ったのは、ピンクのワンピースにぎゅうぎゅうに詰め込まれた胸の膨らみだった。すっ、すげえ!こんなの見たことない!これがキャバ嬢、夜の蝶か!!コントロールを失った俺の顔はあんぐりと口が開き、見開いた目で一点を見つめていた。それを見た優里子が思いっきり頬をつねった。

「いっだあああっ!」

「何見てんのよっ!このエロガキ!」

「なっ!……し、仕方ないだろっ!」

「仕方ないですって!?」

 優里子のつねった頬に手を当て、小さい声で言い合っていると、不機嫌な顔をしたキャバ嬢はヒールをカツカツ鳴らし、瀬良の前に立つと怒鳴った。

「どうして勝手にを入院させてんの?!答えなさいよ!」

 施設長、優里子、俺は3人で目を合わせた。「てぃあら」と「ないと」!すごい名前っ!

 瀬良はふうっと息を細く吐き、冷静に話し出した。

「不破さん、お子さんに食事を最後に与えたのはいつですか?」

「はあ?朝も昼も、夜だって」

「あなた自身が、この子たちと食卓を囲んだ時のことを聞いているんです」

「……見たわ。ちゃんと見た!お昼だって食べてたし、夕方にだって」

「何を食べていたか覚えていらっしゃいますか?」

「そんなのっ!……っ」

「以前と同じお答えですか?であれば、てぃあらちゃんはお菓子、ないと君は、ほんの少しのミルク、ですかね」

「ちがっ」

「それも朝のことか、ましてお昼のことかも覚えていないのでしょう。否定されるのでしたら、あなたがテーブルに用意したお食事、お答えください」

 瀬良の淡々と話す声に、キャバ嬢は背を丸め始め、終いには頭を抱えて床にしゃがみ込んだ。金髪の長い髪の毛の中に手を突っ込んで、毛むくじゃらのお化けみたいに小さく丸まっている。瀬良はキャバ嬢の隣にしゃがみ、背をさすった。

「私のせいじゃないもん。私のせいじゃ」

「それでも、あなたにはあの子たちの命を守る責任がある」

「…………子どもなんか、生むんじゃなかった」

 その言葉は、施設長と優里子、俺の思考を止めた。泣きながら言うキャバ嬢に、1ミリたりとも同情できなかった。子どもの存在を全否定する言葉なんか、飲み込めるわけなかった。

「あんたねえ、どんだけ無責任なのよっ!よく言えるわ、そんなこと!!」

「ちょっと、優里子っ」

 頭にきた優里子が体を前のめりにして一歩踏み出すと、施設長が止めた。すると、瀬良が優里子を睨んだ。

「優里子さん、少し黙って」

 優里子は体の力を抜き、「……ごめんなさい」と呟いた。瀬良はもう一度キャバ嬢に静かに話した。

「あなたの苦しさも理解しているつもりです。しかし、あなたの思い全てに同情することはできません。我々には、あなたの生活と共に、お子さんの命を守る使命があります。今日のことは、上の者にも報告させていただきます。今後の処置については、またお伝えしに参ります」

「瀬良さん……」

「あなたを一人にはしません。我々は、あなたの味方であることを、忘れないで下さい」

 ボロボロに泣き続けたキャバ嬢は、瀬良の呼んだタクシーで自宅へと帰って行った。静まり返った病室には、女の子の浅い呼吸音だけがしていた。真っ白なシーツの上で眠る女の子は、夜の公園で見た時より頬の影が濃く、血色の悪い唇の縦じわが深かった。俺は胸の奥がぎゅっと締められた。布団が膨らむのを見ると、布団の方が深く呼吸しているのではないかと思えた。

「信じらんない。信じらんない!子どもの前であんなことっ……。普通言えないわよ」

 優里子は目に涙を浮かべた。施設長が背中を軽く叩くと、ポロポロと涙が落ちた。俺は優里子の言う「あんなこと」という言葉を思い出そうとするだけで、目の前が真っ暗になりそうだった。撫でる女の子の額は手の中に収まるほど小さくて、子どもらしい柔らかさも温かさもなく、まるで直接頭蓋骨を撫でているようだった。

「皆さん、戻りました」

 病室の扉が開くと、キャバ嬢を見送った瀬良が戻ってきた。

「今日はありがとうございました。こうして二人の子どもの命が助かったのも、皆さんのおかげです」

「瀬良さんも、お疲れ様でした」

「瀬良先輩、この子たちはこれからどうなりますか?」

「まずは体の回復が優先です。退院後は一時預かり、母親の意思や生活力を考慮した上で、その後を考えなくてはなりません」

「今すぐあの母親から引き離すべきです!そうじゃなきゃ、この子たちが危ないっ」

「優里子、止めなさい」

「お父さん……」

「瀬良さんだって、その考えがないわけじゃないさ。だけど、子どもを保護するなんて、簡単なことではないんだよ」

「でも、あの母親ならきっと、またこの子たちのこと放っておくわ。わかりきってるじゃない!」

「それは、個人的な意見でしかない」

「そんなことないっ」

「お父様の言う通りです」

「瀬良先輩までっ」

 大人たちが言い合う中、女の子がまぶたをゆっくり開けた。まどろむ瞳が、頭を撫でる俺を見た。

「君の言いたいこともわかる。だが、私たち児童福祉司は、子どもたちの味方だけでいることはできない。親と子ども、両者の生活を守らなければならない。いろいろな意見があるのもわかるけど、私は、優里子さんと同じ立場には立てない」

「だからって!」

「お前ら、うるせえなあ」

 俺は我慢ができず、つい言ってしまった。

「ガキじゃあるまいし、そんな大声出して言い合ってんなよ」

「何よ。唯我こそ」

「今は、静かに眠らせてやってよ……」

 大人たちはようやく女の子に目を向けた。女の子は俺の手を両手できゅっと掴み、冷たい頬に当て、満足そうに笑って目を閉じている。ようやく深く胸の奥まで空気を吸い込んで、スーッという穏やかな寝息を響かせた。

 施設までの帰りの車の中は、まるで病院の中の空気を閉じ込めたようにしんとしていた。助手席に座る優里子は、バックミラーごしに俺の様子を見た。俺は窓に頭を預け、真っ暗な外の光景に目をやり、ただボーッとしていた。


                ****


 次の日、女の子の様子を見に来た瀬良は驚いた。

「慣れてるわね。とっても上手」

「ありがとうございます」

 そこでは、看護師と並んで女の子にお粥を食べさせている俺がいた。

「君は昨日の……」

 俺は午前中のレッスンを終えた足で、病院に向かった。女の子は俺の運ぶスプーンをパクッと食べてはニコニコ笑った。

 食事を終えた女の子は、ベットの上で看護師と手遊びをしている。俺は瀬良に呼ばれ病室を抜けると、見晴らしのいい窓際で立って話した。

「てぃあらちゃん、昨日より顔色が良くなってたね。安心したよ」

「……はい」

「昨日はちゃんと自己紹介できてなかったね。瀬良大輔。君は?」

「小山内唯我です」

「小山内君は、優里子のところの施設で暮らしてるんだね。しっかりしてるわけだ」

 優里子を気軽に名前呼びするな!俺はイラッとした。瀬良は脱いだジャケットをかけている腕とは反対の手で、ネクタイを緩めボタンを開けた。大きな手は指が長くて骨ばっている。シャツの袖からチラッと見える銀色の腕時計が大人っぽい。腰の高さは俺の腹の少し上で、細いウエストから長い足が伸びている。つま先に向かって細くなる茶色い革靴が足の大きさを強調させている。いちいちイラッとさせるな、こいつ。

「今日は何でここにいるんだい?」

「……あの子の様子が見たかったからです」

「俺と同じだね」

 絶対、同じじゃない!俺を見下ろす顔が優しそうなのが余計腹立つ。

「二人とも、1ヶ月は入院だ。特にないと君の容態が良くない。ないと君は入院が長くなりそうだ」

「あの子たちを施設で預かることは、そんなに難しいことなんですか?……俺にはわかんないけど」

「君も優里子と同じ意見か。まあ、わからなくはないんだけどさ」

 瀬良は片手で名刺を渡してきた。しょうがないから受け取った。そこには、「児童福祉司」とあった。

「児童福祉司?」

「そう。簡単に言えば、子どもの暮らしの安全を守るための支援をする人間だ。そのために、子育てをする保護者の相談や援助をすることもある」

「施設の人たちと何が違うの?」

「俺たち児童福祉司が、保護が必要と判断した子どもについて、児童養護施設への受け入れをお願いする人で、施設の人たちは、受け入れた子どもの世話をする人」

「ふうん」

 俺は瀬良と施設の職員は同じような仕事をする人だと思っていた。同じように子どもに関わるけれど、その関わり方は全く違うんだな。

「一つ覚えたかな?」

 瀬良は俺にニコッと笑いかけた。ガキ扱いしやがって!俺は瀬良を睨んでやったが、瀬良は「あはは」と笑うだけだった。

 二人で外に出る流れになり、自動ドアを抜けると、そこに優里子がいた。

「唯我!」

「優里子?」

 優里子は俺たちに駆け寄ると、怒った顔をした。

「事務所のレッスン終わってから連絡ないと思ったら、まさか病院に来てたなんて!」

「何でわかった?」

「ごめん、小山内君。俺が優里子に連絡したんだ」

「なっ!」

 瀬良はスマホを見せて言った。連絡されていたとは思わなかったが、それよりも、優里子の連絡先を知っていることに驚いた。

「瀬良先輩、昨日に続きご迷惑おかけしました。ごめんなさい。うちの唯我が」

 優里子は俺の頭を掴み、グリグリと押した。俺は強制的に瀬良に頭を下げさせられた。

「いやいや。迷惑なんて全く!むしろ、小山内君の優しさに触れられて、俺は嬉しかったよ」

 てめえに優しさなんぞ見せた覚えはない。チッと舌打ちをすると、瀬良は「ははっ」と笑い、優里子は「唯我!」と叱った。

「今日は二人の容態と、今後の治療についてお医者さんと確認をしてたんだ」

「そうでしたか。……これから、二人はどうなりますか?母親のところへ戻ることになるんでしょうか」

「まだわからない。だけど、不破さんは前々から問題視されていた人だったから、今回の件は重たいだろうね」

「そう、ですか……」

 優里子は言いたいことを飲み込むように下を見た。俺は、優里子の意外な反応に違和感を覚えた。優里子なら、「関係ないです!すぐにも施設で預かるべきです!」なんて言いそうなのに、何を遠慮しているのか。

「今後のことは、俺たちに任せて。双方にとって、いい判断ができるようにするから」

「はい……」

 二人は一瞬見つめ合うと、互いに足元に視線を落とした。俺だけが蚊帳の外のような、嫌な空気だった。優里子なんか、頬が少し赤くなっている。何だ何だ!

 しばらくすると、瀬良は「じゃあ、また」と背中を向けた。優里子は「また……」とまるで名残惜しそうな返事をした。何なんだよ、これは!

「そうだ。優里子、今度ご飯でも行こうか」

「え?」

 なっっっ!!!

「大学卒業して、久々の再会だし。懐かしい話でもしよう。おごるよ」

「あ、……はい。行きます」

 え!?優里子、行くの!?!?

「うん。連絡する」

 瀬良は爽やかスマイルで手を振り帰った。うぜえ!うぜえええ!!

 優里子は遠くなる瀬良の後ろ姿に手を振り続けた。俺は気分が悪くなった。

「優里子」

「なあに?」

「あいつ、何?」

「何って……。短大の先輩よ」

「短大!?まさか!元カ」

「バッ!バカなこと言わないで!違うから!私の片思いで」

「片思い!?」

「やだ!言わせないでよ!切なくなるじゃない!!」

「せつ……」 

「ああっ!もう!!帰るよ!!」

 優里子は顔を真っ赤にして怒り出し、スタスタ歩き始めた。つまり、瀬良は優里子の短大の先輩で、片思いして、フラレた奴!そして、やはりあいつは俺の敵であることが明らかとなった。俺は足が動かず、優里子を追う気にもなれなかった。

「ちょっと、唯我あっ!帰るよお!」

 当たり前のことだけど、遠くに見える優里子には、俺の知らない誰かとの思い出がたくさんある。それが甘かろうが苦かろうが、優里子にとっては忘れがたい大事な時間なんだ。あんな高身長のイケメンに恋してたとか、フラれたとか、俺には直接関係ないことなのに、モヤモヤする。イライラする。

「俺、一人で帰る……」

「はあ?何でよ。車乗って帰ればいいじゃない。突然、何怒ってるのよ」

「別に。優里子はあいつからの連絡でもウキウキして待ってればいいじゃん」

「あいつって、瀬良先輩のこと?唯我、失礼よ」

「うっせえなあ。一人で帰るって言ったら一人で帰るんだよ!ほっとけよ、バカ優里子!」

「何ですって!?」

 俺は優里子に背を向けて反対側へと歩いて行った。「唯我!」と呼ぶ声がどんどん遠くなっていくと、胸がズキンと音を立てて痛くなった。それでも、今は優里子に振り返ることはできなかった。

 一人で勝手にイライラしてカッコ悪い。こんなガキっぽい自分にも腹が立った。

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