第50話 佳代と泰一の卒業

 施設の玄関には、スーツ姿の施設長がキャリーケースを持って立っていた。

「では、行って参ります」

「先に行っている唯我君と合流して、一緒に帰ってきてくださいね。道中お気をつけて」

「ありがとうございます、呉羽さん。子どもたちのこと、よろしくお願いします」

「お任せあれ」

 見送りにいた呉羽さんの隣には、心配そうな顔をした泰一がいた。泰一は封筒を施設長に渡した。表には、しっかりした字で「おばあちゃんへ」と書かれている。

「施設長。長崎のおばあちゃんに、これ渡せる?」

「いいよ。渡しておくから、安心していなさい」

「あと、唯我兄ちゃんにもよろしく」

「ああ。伝えておくよ」

 施設長は泰一の頭を撫でると、玄関を後にした。最寄りのバス停でバスを待つ間、施設長は胸ポケットから航空券を取り出した。

「唯我は、撮影頑張っているかな?」

 その航空券には、「東京→長崎」の文字が載っていた。

 その頃、俺は長崎の学校にいた。広い敷地を囲うように続く桜の木は、ほんのりピンク色をした花を咲かせ、早くも春の匂いを漂わせている。風が吹くと花びらがふわりと舞う景色は、関東に残る冬の寒さを忘れさせた。俺はその桜の下を、自転車を引いて歩いていた。


「荻野君!塚田っ!」

 女子二人の呼び声に、一緒に歩いていた友人、塚田と振り返り、手を振った。

「夢坂、向井!」

「夢坂たち、部活終わったんだ」

「うん!二人も今帰り?」

「そう。これから荻野の家行くんだけど、お前らも来る?」

「行きたい!」

「わ、私も行きたいな」

「俺ん家、何も面白いもんねえよ」

「ゲームしようぜ!」

「したら、お菓子持ってくよ」

「私、ポキットほしい」

「じゃあ後で集合!」

 4人はわいわいと話しながら下校していく。


 高らかにカチンコの音がした。背後から拡声器で「戻ってくださーい」という声がすると、俺たちは肩の力を抜き、ゆっくり歩いてスタッフたちの元へ戻った。

「長崎って、2月下旬でこんなに咲いてるんだね!ビックリ!」

 茶髪のポニーテールを揺らしながら、夢坂役の武石ユリアが空を見上げた。

「今年は暖冬の影響もあるようですよ。いつもは3月頃が見ごろだとか」

 武石ユリアと同じ衣装のセーラー服を着る向井役の黒髪ボブヘア朝倉麻耶が言った。

「お日様あったかいもんなあ。けど、風強くね?こんなんじゃあ、すぐ散っちゃうぜ」

 左目の下に泣きぼくろのある爽やかイケメン岡本将暉は、俺の役である萩野の友人、塚田役。俺より背が高い。

「晴れて良かった」

「だな!」

 4月より始まるNTK教育番組『青春・熟語』のドラマ撮影のために、俺たちは長崎までやって来ていた。既に関東での撮影も始まっていたため、俺たちは2月の間に何度も顔を合わせていた。まだお互いのことはよく知らないものの、年齢も近く、緊張もせず話せる。

「皆、ごめん!!こっちまで戻ってきてもらって申し訳ないんだけど、もう一度、皆の下校シーン撮らせてちょうだい!」

 スタッフたちの元へ引き返した途端、監督が両手を合わせて頭を下げた。俺たちは口を合わせて「えー!?」と言った。

「ったく、しゃーねえ。戻るぞ皆!」

 そう言う岡本の横を、俺は引いて歩いていた自転車に乗って通り過ぎた。するとユリアが俺を指差して追いかけた。

「って、唯我だけずるーい!自転車乗ってるー!」

「自転車引いて歩くより早いし楽だし」

「おい唯我!待てこんにゃろう!!」

「将暉!荷台持つなよ!」

「私も持っちゃう!自分だけ楽するとかずるいぞ唯我!」

「ちょっと、私のことも…忘れられ、ちゃあ、困りますっ」

「あははっ!麻耶まーやん、すっげー息切れてんじゃん!大丈夫かよ」

「お前ら!バランス崩れるだろ。危ねえな!」

 共演者たちは皆いい奴で、自転車に乗る俺を掴んだり、ダッシュして追い抜こうとしたりした。現場には笑い声が溢れ、その様子は、春に差す新しい光と共にカメラに収められた。

「監督!どこまで戻ればいいですかー!?」

 ユリアが手を振り大きな声を出した。すると、遠くからカチンコの鳴る音がして、皆ギョッとして固まった。

「え、え!?何が始まった?」

「さっきのシーンじゃね?」

「いえ、さっきのシーンだって、台本無しのアドリブでしょう?もう一度にしても……」

 その時、拡声器から監督の声が響いた。

『皆あ!ごめーん!OKでーす!戻って来てくださーい』

 4人は顔を合わせ、「終わった?」「終わったっぽい」と確認し合い、戻り損したことに大笑いした。

「もう!意味わかんない!」

「何を撮られてたの?」

「さっぱり!いいよ!帰ろう帰ろう!」

「皆さん、この後はどうされるんですか?」

「私は長崎のフォトジェニック狩り!SNSに上げるんだあ!まーやん、時間あるなら一緒来る?」

「時間はそんなにありませんが……、ご飯食べたいです。おいしいの」

「あ、俺も食べたいなあ!俺も行く!唯我はどうする?」

「俺、人と待ち合わせしてんだ。また今度、東京で」

「そっか!じゃあまた皆で行こうね!」

「ああ」

 それから映像チェックが行われ、撮影は終了した。皆と手を振り別れ、俺はすぐに根子さんに電話した。

『唯我君、撮影お疲れ様でした。無事に終わりましたか?』

「大丈夫です。無事終わったので、これから長崎駅に向かいます」

『長崎駅で施設長と合流されて、一緒にお帰りになるのですよね。お気をつけて』

「はい。ありがとうございます。失礼します」

 バス停には、長崎駅行きのバスがやって来た。俺は並んでいたお客さんと一緒に乗り込んだ。


                ****


「おばあさん、これを泰一からお預かりして参りました。おばあさんに届けてほしいとのことでした」

「……まあ、泰一君から?嬉しいわ」

 体の小さいおばあさんは、頬をふんわり赤くして、嬉しそうに笑う。その顔は、どこか泰一に似ているようだった。

 そこは小さく古いお家だった。灰色のブロックを積み上げた塀の奥には、つやつやとした縁側が家の形をなぞるように伸びている。赤や白の柄のきれいな鯉が悠々と泳ぐ小さな池がある庭は、草木もきれいに整えられている。和室は埃っぽくも、ましてカビ臭さもない。とてもきれいで住みよいお家と言えた。

「私は、私の不安よりも、泰一君に不安がないかと心配しております。家族とはいえ、会ったのは、無菌室に眠る赤ん坊の泰一君でしたから……。泰一君にとって、この家も、私も、見ず知らずの人の家でしょう。大丈夫でしょうか」

 おばあさんは、膝の上で重ねるしわしわの手をさすりながら言った。施設長はいつものように穏やかな口調で話した。

「泰一君は、人の気持ちをよく考えてくれる優しい子です。それから、男の子らしく元気で、好奇心旺盛です。泰一君は、今はこのお家に来るのを、心待ちにしております。そのお手紙の中の言葉一つ一つ、泰一君の嘘のない気持ちがこもっていると思います。どうか、ご安心ください」

「……ありがとうございます」

 ゆっくり下げられた頭が、もう一度上がる時、施設長は思いついた。

「あの、もしお時間がよろしければ、一緒に長崎駅まで行きませんか?」


                ****


 長崎駅の待ち合わせ場所には、見慣れないスーツ姿の施設長と一緒に、見知らぬおばあさんがやって来た。おばあさんは俺より身長が低くて、俺の前まで来ると、きれいな真っ白い髪の毛に覆われた頭をゆっくり下げた。

「いつも、泰一君がお世話になっております」

 誰なのか、何故挨拶されているのかわからず、施設長に目配せした。すると施設長がははっと笑って、俺の肩を叩いた。

「泰一のおばあちゃんだよ」

 その言葉を聞いた瞬間、炊飯器や肉まんを蒸した蓋を開けたような、甘い匂い漂うほんわかとした湯気が上がるように、胸の奥がふわふわと温かくなった。しわしわの顔は優し気で、背中の丸みが猫のようで愛らしく、微笑まれると、恥ずかしくて照れくさくなった。まるで、自分の身内のおばあさんに初めて会ったような感覚がして、込み上げる嬉しさがむずがゆい。

「初めまして。小山内唯我です」

 この優しそうな人と、泰一は4月から暮らすんだ。俺はとても安心した。

 帰りの飛行機の中で、施設長が泰一のおばあさんとどんな話をしたのか、どんなお家だったのかを話してくれた。古い作りのお家では、泰一を迎え入れるために空いている部屋の掃除、布団の用意がされていたそうだ。

「後は泰一が来てから、中学の制服や物をそろえる予定だって。おばあちゃんがね、泰一は不安じゃないかって心配してたよ」

「泰一は、楽しみだろう。母親と暮らせるって嬉しそうだし、早く長崎に来たそうにしてるし……」

 俺の頭の中には、北海道のホテルの夜のことが浮かんでいた。布団から出る顔は、泣きながら笑っていた。

「なら、いいんだけどね」

「……俺にもいるのかな」

「ん?」

「ばあちゃんとか、じいちゃんとか。そう呼べる人が、この世のどこかに……」

「……」

 泰一のおばあさんに会った時の、あの温かくて懐かししい感覚は、俺のどこから込み上げてきたのだろうか。全く知らないはずのものが、唐突に胸の中を温めた嬉しさと、同時に感じてしまった孤独感を、無視することも消すことも難しい。俺はいつか、どこかの誰かに孤独を埋めるものを求めることができるのだろうか。それを、俺自身本当に望んでいるのだろうか。

 すると、施設長が俺の頭を引き寄せ、頬を寄せた。

「ああ。君の本当の父親に、僕がなれたらいいのになあ」

「……」

「いつも思っているんだよ。まあ、唯我には、余計なお世話かもしれないけどね」

 頭を抱える手が、いつもより大きくて温かい。思わず両手で施設長の体を押し返した。施設長は多分、キョトンとしている。しかし、顔を上げられなかった。

「唯我?」

「……トイレ行ってくる」

「ああ、うん。気をつけてね」

 俺が席を立つと、施設長は後頭部に手を当てた。ついやり過ぎたなあと思った。唯我はもう中学生だよ。親離れの時期じゃないか。施設長は、俺がいつまでも小さな子どもではないことを思い出した。

 トイレに向かった俺は、ドアの鍵をロックした瞬間、涙が溢れてしまった。抑えていられなかった。施設長の前で小さなガキみたいに泣かなくてよかった。

 泰一のおばあさんが優しい人そうでよかった。施設を離れても、泰一はきっと幸せになれる。よかった。よかった……。

 北海道で泰一の話を聞いていた時より、おばあさんに会ってしまった瞬間の方が、泰一との別れにずっと現実味があった。泰一は施設を出ていくんだ。よかったと思える一方で、俺は寂しさを感じてならない。駿兄と別れた日のボロ泣きしていた自分と、今の自分が何も変わってなくて情けない。

 同じように施設で育ってきた泰一は、俺にはないものを持っていた。天涯孤独の俺とは違うんだ。だけど、俺にも与えられたものがある。施設長が優しくて困る。孤独を忘れさせてくれるくらい、愛情を注いでくれる。俺は幸せものだ。なのに、なのに、切なくてたまらない。泰一はいない。俺には本当の家族がいない。天涯孤独なんて、誰にも言わせない自信がある。言わせない自信はあっても、その事実を否定できるものが、俺にはない。

「ただいま」

「おお、お帰り。もうすぐ着陸だから、シートベルト閉めなさい」

「わかってるよ」

 席に戻ってきた俺はムスッとしていた。施設長はやっぱり失敗したなあと、もう一度反省した。しかし、よく見ると、俺の目尻はわかりやすく真っ赤になっていた。施設長は驚いたが、黙って全部飲み込んで、とりあえず胸の奥にしまった。


                ****


 テレビ画面には、ビル街の空をバックに、男の子が俯いている姿が映っていた。黒い髪の毛は風に揺れ、空を覆う灰色の雲が奥から手前へと流れていく。小さな雨粒は、まるで透明なビーズのように輝き落ち、風に運ばれる。

『社会的養護を必要とする子どもたちの中には、進学を望んでも、経済的理由から進学を諦める子どもたちがいます』

 男の子はゆっくり顔を上げ、大きな瞳を画面の先へとまっすぐ向けてくる。背後からは灰色の雲の影が消えていく。青と赤が入り交じり、ゆっくり晴れていく。それでも、キラキラ光る雨は、まるでCGで貼り付けたように落ちて止まない。

『あなたの支援が、彼らの未来をつくることを知ってほしい』

 画面は最後、一面真っ白になり、「子ども支援基金にご協力を」という一文と共に、支援基金協会のマークが表示された。


 佳代は部屋の荷物を段ボールに入れている時、つけていたテレビに流れたCMに見とれた。晴れていく空の下、こちら側を見つめる黒い瞳は、強く何かを訴えていた。その時、トントンと部屋のドアをノックする音がして、佳代はビックリした。

「佳代、俺だけど」

「はい、どうぞ」

 部屋を訪ねて来たのは、基金募集CMに映っていた俺だった。

「どうしたの?」

「手伝いに来た」

「ありがとう。ねえ、唯君。今、唯君のCMが流れてたのよ」

「えっ!?嘘!」

「だからビックリしちゃった。テレビの人が来たって。ふふふ」

 佳代は穏やかに笑っていた。部屋の中は、既に段ボールの山がいくつかあり、ほとんどの荷物がまとまっていた。俺は佳代に言われ、高い本棚の上段にある物を取った。

「大丈夫?疲れたら言ってね」

「平気……。でも、何だろう。奥に何かあるんだけど、取れねえ……」

「無理しないでね」

 棚の隙間に挟まっているらしい紙の端を取ったはいいが、うまく抜き出せない。俺は慎重にゆっくり引き抜いた。

「あ、取れた!」

 長年同じ場所で眠り続けていたらしいそれはしわくちゃで、裏返してみると、古い写真だった。真ん中に写るのは、小さい佳代のようだった。

「ああ、こんな古い写真。私持ってたんだ」

「この真ん中に写ってるの、佳代?」

「そう。多分7歳くらいね」

「じゃあ、両端の人たちは……」

「私のお父さんと、お母さん。いつぶりかしら。顔見るの……」

 俺は、佳代が施設にいる実際の理由をよくは知らない。誰に聞いてもはぐらかされるし、だからといって、佳代に直接聞く勇気はないからだ。ただ、寂しそうに写真を見つめる佳代の横顔を見れば、その写真のように家族と一緒に暮らせることは二度とないのだと察することができた。

 俺は作業に戻り、本棚の上段の本たちを佳代に渡した。

「ねえ、唯君。私は唯君に感謝しているの」

「何かしたっけ?」

「あのCM、とってもきれいな映像だった。多分、一生忘れられないわ」

「そうか。あれは、撮った人たちが上手だったんだよ。俺は風が強くて、目を開けるのに必死だったのを思い出す」

「ふふふ。映像もそうなんだけどね……。私、あの支援基金のおかげで短大に入ることができるのよ」

 思わず手が止まった。振り返ると、佳代が俺をまっすぐ見つめていた。

「ありがとう、唯君。あなたのおかげで、私は夢を叶えられるの」

「夢?」

「保育士さんになりたいの。そのために、私は短大に行きたかったの。本当にありがとう」

「……それ、俺、直接関係ねえよな。だって俺は撮影しただけ」

 佳代は頭を横に振った。

「それだけじゃないのよ」

 佳代は俺の頭に手を伸ばし、ゆっくりと撫でた。

「私ね、駿君より先に、あなたに触れられるようになったのよ。それでね、保育士になれるんじゃないかと思えたの」

「……?先にって……、どういうこと?」

 佳代はふふっと笑ってから、「いいの。何でもない」と言った。小さい頃から撫でられたり、触れられる機会のあった俺には、佳代にとって、普通に男の子に触れることがどれだけ勇気の必要なことか、よく分からなかった。

 佳代は、中学校を不登校になった頃のことを思い出した。施設の中にいると、チビっこい俺と泰一と触れ合う機会がたくさんあって、その日々の中で、触れられないと思っていた男の子の頭を、緊張しながら撫でた時のニッコリ笑ってくれた顔を、佳代は一度だって忘れたことはない。


                 ****


 3月初め、佳代が施設を卒業する日がやってきた。

「お世話になりました」

「佳代姉、寂しいっ!」

 ぎゅうっと佳代に抱きついたのは文子だった。「私もよ」と佳代も文子を抱き返し、女子二人は別れを惜しんだ。

「泰一君、長崎に行っても頑張ってね」

「佳代姉こそ、一人暮らし頑張って」

「ありがとう。どうか、幸せになってね」

「うん……」

 泰一は涙ぐむ佳代の言葉で泣いてしまった。佳代は英が手をつなぐみこを撫で、充瑠を撫でた。充瑠は口を半分開けて、ぼんやりした顔で佳代をじっと見つめていた。

「元気でね。大きくなってね」

 充瑠がどれだけのことを理解できているのかわからない。だけど、佳代の袖をギュッと握って離さないのを見ると、別れを理解しているような気がした。

「充瑠をお願いね、英君」

「うん。皆任せていいよ。泰一も消えるしさ」

「ねー、英!消えるとか、口悪いんだけど!もうちょっと優しく言ってくれてもよくない?」

「あー、はいはい。優しくねえ、泰一」

「ムカつく!」

 二人の掛け合いが面白くて、皆して笑った。次に、佳代は俺と目を合わせて微笑んだ。その目を見れば、たくさんのことを伝えようとしてくれていることがわかった。施設の中でも、俺と佳代は口数の少ない方だったから、長年、ほとんどの会話は目でしてきた。今までも、これからも、俺と佳代の会話はたった一言だけで済んでしまうのだろう。

「じゃあね」

「じゃあな」

 俺たちは、これだけで十分だった。

「では施設長、皆さん、お世話になりました。ありがとうございました……」

 佳代は頭を下げ、上げられずにいた。涙ぐむ声で言った。

「こんな私を、ここまで大切にしてくれて、ありがとう……」

「佳代ちゃああんっ」

 優里子を含め、施設の女性職員たちはもらい泣きして、佳代に近寄った。施設長は涙目になっていたが、笑って見送った。

 佳代は施設の前に止まる車に歩み寄った。運転席から出てきた駿兄が皆に手を振った。最後にもう一度頭を下げた佳代は、笑顔で施設を出ていった。

「さあ、解散。皆さん中に戻りましょうか」

 目尻を押さえる施設長が言うと、それぞれ移動した。英が戻ろうとすると、佳代が車に乗って行ってしまった道を、充瑠はじっと見つめて動かなかった。

「……充瑠が動かない」

「充瑠?」

 俺が名前を呼んだ瞬間、うわあっと泣き出した。驚いて、英と目を合わせた。充瑠はしばらく泣き続けた。

 車に乗った佳代はクスンと鼻を鳴らしながら目尻を拭っていた。

「充瑠が泣かなくて良かった」

「ああ、そうだな。離れられなくなるもんな」

「うん。きっと離れられなかった。良かった……」

 俺は泣きじゃくる充瑠を抱え、道路の向こうを見た。隣には優里子がいて、充瑠のように目が真っ赤になっていた。充瑠の頭を撫でてやり、笑いながら「寂しねえ」と言った。

「ね、唯我もね」

「……また会えるよ」

 危なくもらい泣きしてしまいそうになり、そっぽを向いてやり過ごした。


                ****


 続いて3月末、小学校の卒業式を終えた泰一が、とうとう施設を出る日を迎えた。泰一は朝からぐちょぐちょになって泣き続けていた。

「えっぐ。皆あ、大好きだよお!手紙書くよお。忘れないよお!!」

 小さいガキみたいに泣いていると、充瑠とみこが一緒になって泣いてしまった。その状況を見て、文子は指を差して大笑いしている。英は笑うのをこらえている。佳代の時とは全然違う雰囲気に、俺は呆れ、施設長は困っていた。

「唯我兄ちゃああん」

「わかったから少しは落ち着け。ったく」

「こんな時くらい、優しくしでえええっ」

「会いに行くよ。連絡するから」

「絶対だよ?」

 実はこの時、俺は信じたくない事実を知った。泰一の方が背が高い!俺は足を震わせながら、少しだけ背伸びをしていた。しかし、知ってか知らでか、泰一はガツンと俺の肩を掴んで地面に押し込んだ。俺の背伸びは何秒もしないうちに終わった。

「兄ちゃん!俺、兄ちゃんのことは、兄ちゃんだと思ってるよおおっ」

 つまり、本当の兄弟だと思ってくれているということだろう。言い回しがややこしくて、可笑しくて、嬉しくて、照れくさい。

「俺もだよ」

「だと思ってた!」

「バカ泰一っ」

「あははっ」

 施設の玄関を出た時、そこに見知らぬ女の人がいた。骨の上に皮しかないのではないかと思えるほど体が細く、白髪混じりのパサパサの髪を束ねているその人は、泰一の母親だった。泰一は母親のところに行くと、大きく手を振った。施設の皆で手をふり返すと、泰一はニコッと笑った。

 その時、泰一が歩いていく後ろから女の子が「泰一!!」と叫びながら走ってきた。泰一が振り返った時、女の子は飛びかかるように泰一に抱きついた。全員が思った。「誰?」

 女の子は泣きながら泰一をぎゅうぎゅう抱きしめ続ける。泰一もギュッと抱きしめ返す。それはまさに、相思相愛の様子だった。

「へえ。あれが彼女か。まあまあじゃん」

「英、何故お前が知ってるんだ?」

「聞いたことあったから。泰一、キスもしたことあるってよ」

「え!?」

「唯我、遅れたな」

 ニヤニヤしながら英が言うのが気に食わない。頭をぐしゃぐしゃになるまでかき混ぜると、英の頭はアフロみたいに盛り上がった。生意気な英と、それ以上に生意気な泰一への腹立たしい気持ちはスッキリした。


 その春、俺たちの生活する施設のガキは、文子、俺、英、みこ、充瑠の5人となった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る