第42話 優里子との初デート
9月1日、日曜日。お気に入りの電波腕時計は、11時半になろうとしている。今日はいよいよ、優里子との初デートの日だ。天気は快晴で、時々吹く風が街の熱気を含んで上がってくる。おかげで外は、日陰でさえ熱くてたまらない。
俺は駅の改札前で優里子を待っていた。目の前を通り過ぎていく人が、時々俺をチラ見する。変な顔をしている自覚はあった。だが、どうしても顔の筋肉が言うことを聞いてくれない。唇は噛んでも勝手にふにゃりと曲がってしまうし、女の人が現れると、優里子だと思って不自然に目が向いてしまう。ああ、ダメだ!今日がやってきたことが嬉しくてたまらない!目を閉じ、頬を両手でムギュッと挟み、ニヤける口を何度も噛んで抑えた。
「唯我、お待たせ!」
優里子の声にビクンと体が反応した。優里子は淡い小花柄のふわふわワンピースだった。白いサマーカーディガンを肩にかけているのが大人っぽい。施設で見るまとめ髪とは違い、ポニーテールの毛先がふわふわと揺れる。リップを塗った口元がふふっと笑うと、俺の心臓ははち切れて爆発しそうなほど強く脈打った。
「あれ?唯我、帽子被ってる。珍しい」
「……まあ」
カッコつけたつもりだったけど、ダサかったかな。それとも、カッコつけていることがバレバレだったのか。俺は少し後悔した。
「似合ってんじゃん!」
少しかがんだ優里子と、視線の高さが同じくらいになった。目の前に笑顔が浮かぶと、まるで直射日光でも浴びてるように熱くなった。俺は優里子から顔を反らしてTシャツの襟をパタパタと仰いだ。
「さて、今日はどんな予定なのかな?」
「これを見に行く」
ショルダーバッグから封筒を取り出し、中のチケットを見せた。それは堤監督が送ってくれた舞台のチケットだった。『混沌の闇の底から』という舞台は、体育祭を早退してまで受けたオーディションだが、結果は不合格となった舞台だ。
「舞台ね!私、初めて見るわ」
「電車で一回乗り換えてから、しばらく乗り続けるから、移動にちょっと時間かかるけど」
「いいよ。今日のデートは唯我におまかせするからさ」
「……うん」
「デート」そう。今日はデートだ!
優里子はチケットを見て「楽しみだなあ」と繰り返した。優里子の笑う横で、俺は心臓がバクバクしている。聞こえているんじゃないだろうか。しかし、あまりに優里子がいつも通りで余裕そうなのが、少しイラッとする。どうせ優里子からすれば、今日は「弟」との単なる遠出でしかないのだろう。何とかして優里子に「男」として見てもらうんだ!
電車に乗り、空いている席に座った。隣同士で座ると、優里子との距離がずっと近くなり、緊張で体が固まった。ポニーテールの下にあらわになった首筋から鎖骨のラインが、その下に隠れる生肌の姿をほんのり香らせる。肩から下げるカーディガンから覗く白い二の腕が、電車の揺れで時々俺の腕にピタッと当たると、全身の毛が逆立つように体が反応してしまう。この距離は施設の中ではあり得ない近さだ。ヤバい。顔が火照ってヤバい!
優里子は俺の方へ顔を向け、窓の外を見ていた。窓から差す光に照らされると、優里子がいつもよりもキレイに見えた。優里子の顔を盗み見ていると、突然、優里子が「そうだ」と言った。俺は驚いて、体がビクッと反応した。
「お昼はどうしよっか」
「最寄り駅近くに美味しいハンバーガー屋があるって樹杏が」
……あ、言っちゃった。
「樹杏君?」
「あ、うん。樹杏が教えてくれた……」
カッコつけたくて、俺が探して見つけた体を装いたかったのが本音だった。舞台の会場近くにあるというハンバーガー屋の情報は、樹杏とメッセージのやり取りをする中で教えてもらった。もちろん、、勉強のために舞台を見に行く予定があるとだけ話をして、誰と行くとか、いつ行くとかは一切言わなかった。あいつには優里子の名前さえ目に触れさせるものか。俺は未だに、樹杏が優里子にキスしたことを許していない。いや、一生許さん!
「樹杏君のおすすめなら、きっと美味しいね。だって、樹杏君っていいお店しか入らないでしょ?ワクドナルドとか無縁そう」
「いや、あいつビックワック大好きだから」
「え!?そうなの?意外!」
「優里子の中の樹杏ってどんな奴なんだよ」
「売れっ子俳優のセレブ生活?」
「全然そんなんじゃねえよ。あ、いや、セレブは合ってるかもしれないけど」
大使の息子だし。
「そうなんだ!これから見る目変わるかも」
「ふっ。そういえば、あいつ学校だと全然キャラ違うんだよ」
「へえ。どんな?」
「大人ぶってんの。すっごい落ち着いた頭良さそうな感じ」
「あはは!想像できないね!」
「だろ?初めて見た時は爆笑だった」
電車で移動する間、俺たちは話が尽きず、優里子はずっと笑っていた。話す内容は施設ですることとあまり変わらなかったけれど、二人でどこかへ行こうとしていることや、何かを一緒にしているということが、とても特別に感じられて楽しかった。
****
「いっただっきまーす!ああ、美味しそう!」
駅から少し離れた住宅街にあるハンバーガー屋に入り、優里子と二人で窓際の席に座り、バーガーセットを並べた。
「あの、やっぱりお金」
「さっきも言ったでしょ?私がおごるって」
俺はとても悔しかった。これは俺の誘ったデートだ。おごれるだけのおこづかいも十分持ってきたし、おごってあげたものを美味しく食べてほしかった。だって、おごる方がカッコイイじゃんか!
「ほおらっ!そんな睨むなって!」
「ガキ扱いしやがって……」
ムスッとしていると、「ほら、食べよ」と優里子はバーガーを手に取った。
「……いただきます」
「はい。召し上がれ」
「次は絶対おごる。夕飯はおごる!」
「何それ。おごるって言いたいのね」
「違う。本当にそうしたかったんだよ」
「はいはい」
「はいは一回」
「はいはい。って、あ……」
優里子がクスクス笑う顔を見たら、腹が立っていたのも少しは落ち着いた。
「はいはいって、前にも施設長と同じやり取りをしたな」
「お父さんと?はいは一回って?」
「そう。優里子と同じ反応してた」
「あはは!そっか。親子だねえ」
「ホントだよ。親子って似るよな。不思議」
「不思議だよねえ。いくら血が繋がってるからって、似なくてもいいところまで似てたりしてね」
「例えば?」
「見た目もそうだけど、言いたいことが重なったり、それこそ反応が一緒だったりさ」
「自分でわかるもん?」
「わかるものと、わからないものがあるかな。外見なんかは、人に言われてみないと全然わからないもん」
「そうなんだ」
それは確かにそうで、例えば、英とみこ、車いすの父親がそっくりだし、小学校の卒業式で会った長谷川や大沢の親も二人にそっくりだったことを思い出した。どう見ても似ているのだが、本人たちは全く自覚がない。
その時、優里子が「あ」とバーガーを食べる手を止めた。
「ごめん、唯我。嫌な気持ちになってない?」
「何で?」
「いや、親子が似てるとかって話だったから、唯我、気にしてないかなって」
それは、両親とか血の繋がりを持たない俺への思いやりの気持ちだった。申し訳なさそうに言う優里子が優しくて、俺は嬉しくなった。
「気にしてねえよ」
「ホント?」
「うん。人の家族の話聞くの、嫌じゃない」
「そうなんだ」
「確かに、俺にはないものだけど、ないから未知で、新鮮で面白いよ。それに、最近は仕事にも活かせるってわかった」
「役作りってこと?」
「そう。津本さんに言われたことがあってさ」
「Aファイブのツモ潤!?」
「知らないことの方が、案外表現しやすいんだって。知ってた方が役作りしやすいけれど、分かりきっていることとか、既にイメージのあることに関しては、演技が固まりやすいって。演技は再現じゃなくて、あくまで表現だから。……親子のイメージがない俺には、親子のシーンは、特に難しい」
「……」
「だってそうだろ。親と子って、他人じゃないんだから」
店内の窓の外を、手をつないで歩く母親と子供がいた。何かを話しながら、顔を合わせて笑い合う様子は、誰が見ても親子の姿だった。
俺には、血の繋がった家族はいない。親子と呼べる関係性を誰にも求められない。だから外からの情報はとても貴重だ。何が似ていて、どんな感覚で過ごしていて、それがどれくらいの距離なのかを、俺は知りたいと思うようになった。多分、ジェニーズをやっていなかったら、こんなこと一切考えなかっただろう。
はむっとハンバーガーを食べる俺を、優里子はじっと見た。優里子には、俺にとって親子というものが遠い存在であることは、よく理解できていた。ただ、何かを知りたいと思うようになった俺の姿は、美味しそうにハンバーガーを食べるような日常でよく見る俺の姿とは、少しだけ違うように感じられた。
「お仕事の話をする時の唯我は、いつもと少し違うよね」
「え、そう?」
「うん。最近、どんどん大人っぽくなっていくね。いろいろな人とたくさん関わるからかなあ……」
頬杖をついた優里子の髪が、肩からふわりと落ちた。赤い唇がクッと上がって、大きな瞳が俺をじっと見るから、俺の体は石みたいに固まった。
「時々ね、カッイイなあって思うよ」
優里子が微笑むと、全身が一気に熱くなった。嬉しくて、照れくさくて、唐突に言われた驚きを飲み込めず、俺は返事ができずにいた。
「あ、カッコイイで思い出した!この間、駿君からメッセージきたんだ」
「しう、駿兄から?」
「映画、すっごい良かったってよ」
「え、映画。見たんだ。佳代も一緒?」
「そりゃそうでしょ。Y&Jの挿入歌も最高だったって。とにかくカッコイイって!」
「……やめてほしい」
「でも、良かったよ?ちょっと刺激強めだったけど。樹杏君との距離感」
「だから、それを言ってほしくないんだってば!」
「あはは!顔真っ赤!」
****
舞台の会場に到着すると、エントランスには多くの人がざわざわとして集まっていた。
「外暑かったね!はあ、涼しい」
「うん。暑かった」
優里子は手をパタパタさせながら、首を流れる汗をハンカチで押さえている。それが色っぽくて、ドキドキした。
受付でチケットを交換し、席についた。薄暗い会場では、観客たちが今か今かと期待するような空気が立ち込めていた。
「私、舞台観るの初めて」
「俺も……」
「あんたは出演してたじゃん」
「観客として来たのは初めてだよ。きっと舞台に出るのとは、また違った視点で見れるんじゃないかな」
そこまで言って、俺は少し間違えたと思った。樹杏には、優里子とのデートを悟られたくなくて、「勉強のために」なんて伝えたが、あながち間違ってはいない。堤監督から舞台のチケットが送られてきた時、あまり見に来る気にはなれなかった。しかし、オーディションに落ちた俺に、何が足りなかったのかを知るいい機会になると思った。ただ、優里子には、俺の勉強に付き合ってるなんて思ってほしくない。今日はデートなんだから!
「で、でも!単純に楽しく観れたらいいなって思うんだ。その、優里子と二人で見るんだし……」
そう言うのもドキドキした。優里子に、少しでも俺を意識してほしい。
「うん。楽しもうね」
優里子はいつものように微笑んだ。いつも通り鈍感で優しい奴。すでに楽しいんだよ、こっちは!
開演のブザー音が鳴る。辺りは真っ暗になり、舞台が始まった。
舞台『混沌の黒い底から』は、劇団虹色のオリジナルストーリーだ。内容は、スラム街で生きるメリーと赤城が仲間と共に街を占拠し、生きるために一体何が必要かを探す物語である。最後、メリーと赤城は互いに惹かれ合うも、メリーはスラム街を抜け、赤城はスラム街に残ることを選んだ。物語の中にあった二人の小さく切ない恋模様に、観客は目を潤ませた。
隣で舞台をまっすぐ見つめる優里子も例外ではなかった。舞台の光を受ける優里子の横顔を盗み見ると、その目に涙がたまっていた。まるで、夜空の奥からホッと光を放つ小さな星のようだった。
俺が赤城役を出来ていたなら、優里子にどんなことを思ってもらえただろうか。やりたかった。俺が立つ舞台を優里子に見てほしかった。「不合格」を報告された時の悔しさがよみがえり、拳をぎゅっと握った。
****
舞台が終わり会場を出た俺たちは、きれいに整備された川沿いの道を歩いていた。足元に蒸し暑い風が通り抜けていくと、夏らしい暑さを感じた。しかし、傾き始めた日の光は日中よりも柔らかい。
「私、メリーと赤城が戦場で再会して抱き合った瞬間が一番感動したな。ドキドキしたあ」
「俺は、最後のお別れのシーンが」
「わかるわかる!両想いだって分かり合ってたけど、一緒にはいられないんだって。もう切なかったね!」
優里子は両手をブンブン振りながら、「それでね、あのシーンがね」と話が止まらなかった。その様子が面白くて、可愛くて、優里子が楽しんでくれていたようで安心した。
「唯我は、あの舞台の何役のオーディションを受けたの?」
「赤城役」
「うわ!似合わない!想像できない!」
「俺も舞台観て、あんなにわかりやすく不良っぽい感じの役だとは思わなかった」
「落ちたの悔しいでしょ」
「当たり前だろ。できるなら、やりたかったよ」
「……あそこに唯我が立ってたら、きっと泣いちゃってたな」
「いや、お前泣いてたじゃん」
「あはは!バレてた?」
「バレてるよ」
クスクスと笑う優里子を見て、俺はもう一度悔しい気持ちを思い出した。やっぱり、優里子に俺の出る舞台を観てほしかった。
「12月に、映画のオーディションがあるんだ。今度は絶対落ちない。頑張るよ」
「うん。頑張れ、唯我!」
ワンピースの裾ををふわふわ揺らしながら歩く優里子は涼し気で、川の水面が揺れてキラキラ光る中にある笑顔が、いつになくキレイに見えた。
「唯我、あそこのベンチ座ろう」
俺たちは自販機で飲み物を買い、ベンチに腰掛けた。
「はい。カンパーイ」
「カンパイ」
炭酸飲料のペットボトルは、開くとシュパッといい音が立った。二人の間でパチンと軽くボトルを打ち合い乾杯した。太陽はゆっくり西の街に落ちていく。空に浮く雲は影を濃くし、ゆったりと流れていく。喉の奥でパチパチと音を立てる炭酸が、気持ちよく体の中で弾けて消えた。
「っはあ!美味しい。やっぱ夏は炭酸が美味しいよね。買ってくれてありがとね」
「いや、お昼代と全く釣り合わない」
俺は優里子におごれたことが嬉しかったが、支払った金額の差が埋まらず、悔しかった。優里子は「あははっ」と笑っていた。
「こないだの26時間TV、お疲れ様だったね」
「あの日、施設はどうだった?」
「私は一人でドッキドキだったよ!だって、英がずーっと泰一の横でニヤニヤしてたの!いつかしゃべっちゃうんじゃないかって、ドラマが始まるまでドキドキしたわ」
「想像できる。あいつ、前日からニヤニヤしてたし。ちゃんと黙ってられた?」
「うん。大丈夫だった。ドラマ始まってすぐ唯我が画面に映って、泰一と文ちゃんがすっごい驚いてたの。二人の声が大きくて、ドラマの最初はテレビの音かき消えてたもの」
「それも想像できる。驚いてくれていたなら良かった」
「そっちはどうだった?」
「ステージの裏は大運動会だったよ。人が行きかう振動がやまなくて、音もすごいし、どこもかしこも蒸してて暑かった。基樹さんとステージを下りて、基樹さんのお見送りをしてからは、会場裏でやってたチャリティー募金コーナーに他のJrたちと入ってた。それも大変だった」
「あの日は一日忙しかったね」
「ああ。本当に」
その日一日のいろいろな場面を思い出した。控室で番組Tシャツに着替え、走って走って、基樹さんの車いすを引いて歩いて歩いて、チャリティー募金コーナーはJr祭のファンサービスとは比べものにならないほど忙しくて、一日でどれだけ汗をかいたかわからない。
だけど、やって良かったと思えることがたくさんある。Aファイブの津本さんと仕事ができたこと。基樹さんと、その物語に出会えたこと。ドラマに携われたこと。かけてもらえた嬉しい言葉の数々。どれも俺にとって特別な時間だったということが、一番良かったと思えることだ。
「帰って来た頃には、英君もみこちゃんもすっかり眠ってたもんね」
「うん。次の日に、英にドラマ見たか?って聞いたら”見たよ”ってそれだけしか言わなかった。本当はどう思ってくれてたんだろうって気になるけど、それは多分答えてくれない。あいつ、ひねくれてるから」
「……そうね。きっと言わないわね。だって英君、号泣だったもの」
「え!?」
優里子がクスクス笑うと、そよ風が優里子の髪やスカートの裾を揺らした。
「きっと、言わない胸の奥では、たくさん感じるものがあったんだと思うよ」
「うん……」
そうだったらいい。少しでも、あいつが何かを得られたなら、感じてくれたのなら、俺は嬉しい。
「ドラマも良かったよ。特に病院のシーンはグッと来た。あそこでしょ?唯我が喉からして帰って来た日の撮影」
「そう。あれも何テイクやったかわかんねえ。……ああ、思い出すと悔しい。もっと上手くできたんじゃないかって思う」
「私には、演技とかよくわからないけど、今日の舞台だって、公演するまでには時間をかけて形にするんだよね。だからお客さんを感動させることができるんだと思う。ドラマ、私も感動したし、皆感動してた。特にこの人は……」
すると、優里子はバッグの中から白い洋封筒を出した。
「今日渡そうと思って、持ってきたの。英君みこちゃんのお父様からよ」
受け取った封筒には、「唯我君へ」と宛名が書かれている。後ろには、「服部
唯我君へ
26時間TVのドラマ拝見しました。素晴らしいドラマでした。唯我君の迫力ある演技も、津本さんの希望に満ちるエンディングも、どの場面を思い起こしても、私の胸の中は感動でいっぱいになります。
最後、佐藤基樹さんのコメントには、実感のある生きる力強さを感じました。生きる限り、数え切れぬ悲しみがあることを感じますが、それと同じだけ、未来への希望も、今の幸せもあることに気づかされました。
勇気をありがとう。生きる希望をくれて、ありがとう。
心から、ありがとう。
ジェニーズ事務所でいろいろな仕事をしてきたけれど、これまでは、自分が満足するかどうかが、良い結果、悪い結果を判断する基準だったように思う。今、誰からかの率直な感想をもらって、想像以上に感動してる。この仕事を、今日ほどやってよかったと思えたことはなかった。だからこそ悔しい。もっともっといいものができたと思える。
涙がこみあげてくる。だけど悔しくて、泣いちゃいけないと思った。眉間に力を入れてこみ上げる涙を抑えた。じゅわっと涙がまつ毛を伝って出てきたのを、腕で押さえて消した。
「唯我……」
優里子が名前を呼ぶだけで、「大丈夫?頑張ったじゃん。良かったね」と言われていることがわかる。向けられた微笑みも、背中にポンと置かれた手も、優しくて温かい。
「優里子、ありがとう」
今日一日、嬉しいことがたくさんあった。優里子と二人でいる時間が特別で、楽しかった。これまでも、これからも、感謝してもしつくせないことが積み重なっていくばかりかもしれないけれど、一つ一つ形にして返していける人間になりたい。
「唯我も、いつもありがとうね」
「俺、まだ何もできてない」
「ううん。唯我が頑張ってるから、自分も頑張れることがいっぱいあるんだよ。だから、ありがとう。唯我」
夏の空の下に咲くひまわりみたいな笑顔が可愛くて、手紙の感動も重なって、今日一日の中で、一番ドキッと心臓が動いた。俺はとにかく、世界で一番この笑顔が大好きだ。
「……やっぱ俺、”弟”は嫌だ」
優里子をまっすぐ見た。心臓の音が耳に響いているけれど、それに負けない声ではっきり言った。
「今はまだ、優里子より身長も低いし、人生経験数だって劣るけど……。それでも俺は、優里子に”男”として見てほしい」
優里子への気持ちを隠さず言ったつもりだ。俺は決して「弟」ではない。一人の「男」だと気づいてほしい。
「そんなの……」
しばらく間が空いてから、優里子はニコッと笑った。
「わかってるよ。唯我が男だなんてさ!」
「……いや、そうじゃなくてっ!だから」
「そろそろいい時間ね。帰ろうか」
「え!?いや、待て!ちょっと!」
絶対誤解してる!また優里子の天然が炸裂している!俺は自分の性別を認識しろとは言ってない!異性として見てほしいって伝えたかったんだよ!もおおおおっ!
俺の勇気は木端みじんに砕けた。優里子はベンチを立つと、鼻歌を歌いながらさっさと歩き出してしまった。俺は慌てて優里子を追いかけ、隣を歩いた。
****
優里子には、これまで彼氏も何人かいたし、デートだって何度もしている。しかし何度経験をしても、デートというものは、俺が思う以上に優里子にとって特別な時間だった。
「その、全部終わったら……、どっか行きたい。優里子と!二人で!ふたっ!二人だけでっ……!」
そう俺にデートを誘われた4月頃から、実は気持ちがソワソワして、ドキッとして落ち着かなかった。「弟」にデートに誘われただけ。それだけなのに、少し動揺している自分に驚いて、本当は気持ち的余裕があまりなかった。どうしたら緊張しないですむかしら、なんてことを日々考えてばかりだった。そこに「弟」が「弟」らしからぬ言葉を言えば、優里子の余裕はさらに削られてしまう。
「今はまだ、優里子より身長も低いし、人生経験数だって劣るけど……。それでも俺は、優里子に”男”として見てほしい」
隣を歩く「弟」を「男」として見ていいわけない。この子にとって、私は素敵な「姉」でありたいと思っているのに、そんな予想だにしていない言葉、投げかけないでほしい。私は「姉」なんだから、経験豊富な大人なんだから。もっと余裕のある大人ぶらせてほしいじゃない。そうは思っても、胸の奥で心臓とは違う何かが、トクントクンと鳴って止まない。
しばらく歩いていると、公園の出口まで続く桜並木に入った。俺と優里子は、青く茂る木々を見上げながら歩いていた。
「見てよ唯我。これ、全部桜だね。春はキレイだろうな」
「花びらとかすごそう」
「舞ってるのもキレイよね。いいなあ。今年はお花見行けなかったから、余計恋しいかも」
優里子のそれは、考え無しに言ったことだった。だから、その後に俺が勇気をフルにしぼって言った言葉を聞いて、本当はすごく驚いていた。
「……来年、来るか?」
「……っ」
「花見……、二人で」
ダセエ俺。すごいカタコトにしか言えなかった。俺は体がカチコチになるほど緊張していたが、優里子も緊張していた。予想外に誘われたお花見デートの衝撃は、とても強かった。
「い、いいね。来ようか!お弁当とか持ってきてさ、レジャーシート敷いてさ……」
優里子は「楽しみだなあ」と笑っていた。優里子の様子がいつもと変わらないように見える俺は、ちゃんと意味が通じているのか少し不安になった。
「優里子」
「んー?何?」
「わ、わかってる?今の……」
「今のって?」
「その……、来年の春の、花見は……、ふ、二人で来るって!」
「そう言ってたじゃん。わかってますよー」
俺は違和感を覚えた。この温度差は何だろうか。俺はこんなに緊張して、ドキドキしているのに、あまりに優里子がいつも通りすぎる!納得いかない。もっとこう、デートってお互いに緊張感のあるものなのではないだろうか。
しかし、そうではなかった。どれだけ優里子が余裕のあるフリをすることに必死だったか、俺には全くわからなかった。テキトーな返事をして受け流すことしかできなかった優里子の頬は、実は少し火照っていた。
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