第38話 7月のある日

 7月初めの土曜日、中学校の校庭にはピストルの音、大音量の運動会定番の音楽、太鼓の音、拍手歓声が溢れていた。中学初めての体育祭が行われていた。

「行くな!行かないでくれー!!小山内いいいいいっ!!!」

「ふざけんな!離せ康平!」

 校庭に並ぶ席から抜け出たところで、同じクラスの康平が俺の腰に両手を回してズルズルと引きずられていた。俺のズボンも康平と一緒に少しずつ落ちていく。俺は自分のズボンを守りつつ、強引に前に前に進んだ。

「お前のせいで仕事無くなったらどうするつもりだっ」

「お前の仕事より、クラス対抗リレーの勝利が優先だろ!うちのクラス、学年で唯一陸上部いないんだよ!お前がクラスで一番足早いんだよおおおっ!!」

「健闘を祈ってるよ!じゃあなっ!!」

「あああああああっ!小山内いいいいい!!!」

 俺は泣きぐしゃる康平を振り払い、午後から行われる舞台のオーディションへと向かうべく、体育祭を早退した。


                ****


 都内のオーディション会場へは電車と徒歩で向かった。灰色のコンクリート剥き出しのビルの中に入ると、オーディションの受付があり、そこから控室へと案内された。受付で渡された番号札と、控室のパイプ椅子の背中に貼られた番号が同じ席に着く。周りには、俺と年齢や身長の差があまりない男たちが座っている。耳にイヤホンをつけている奴、読書する奴、スマホでゲームする奴。

 俺は腕を手でさすっていた。朝から太陽にさらされた肌は赤くなってヒリヒリする。風通しのいい長袖でも着ておけばよかった。あ、日焼けがオーディションに響いたらどうしよう!そこまで抑えていたはずの不安が蓋を開けて飛び出した。

「お集まりの皆様、本日は堤が監督を務めます舞台”混沌の黒い底から”の赤城役のオーディションとなります。お間違いないでしょうか。……はい。それでは、これより初めたいと思います。まずは集団演技実技を行います。順番に5人ずつ隣の部屋に案内します。最後に個人演技実技となります。本日は17時までお付き合いいただくこととなりますが、どうぞよろしくお願いします。それでは、1番の方からお入り下さい」

 控室に入ってきた女の人は、はきはきと説明し、すぐに部屋を出て行った。俺は堤監督との26時間TVの撮影を思い出していた。優しくも強い意思をもって作品を完成させようとする堤監督の姿勢は、とてもカッコよかった。もう一度堤監督と仕事をしてみたいと思えた。

「24番、小山内唯我君」

「はい」

 お姉さんに呼ばれ、俺を含む21番から25番までの男たちが隣の部屋に案内された。隣の部屋に入ると、2人の男の人がパイプ椅子に座っていた。一人は若い男の人で、もう一人が堤監督だった。

「それでは台本をお渡しします。5分間で内容を確認してください。それでは始めます」

 全員に台本が配られるのを確認すると、お姉さんはストップウォッチを押した。台本といっても、A4の用紙を二つ折りにした簡単なもので、そこには5つの感情と、ストーリー調のセリフが並んでいた。俺は、これに似た台本を見たことがある。

 ストップウォッチからピピピと音が鳴り、お姉さんが「終了です」と答えると、堤監督の隣の人が立ち上がった。

「これより、皆さんには台本にありました5つの感情になって、立ち回っていただきます。舞台は、ある町のスラム街です。感情の配分は、21番さんに”恐怖”、22番さんに”困惑”、23番さんに”慈愛”、24番さんに”快楽”、25番さんに”苦痛”をまずはやっていただき、これを順に回していきます。それでは始めましょう」

 男の人がパチンと手を叩くと、その瞬間、5人の空気が一変した。俺は「快楽」について考えた。ただ楽しいんじゃない。楽しい気持ちに満たされている人。不安はなくて、何をしていても楽しい人。次の楽しいを見つけたい人。もっともっと楽しくなりたい人。その感情の表現。見てすぐわかる、「快楽」の表現……。

 俺の頭の中には、午前中の体育祭の音が鳴り始めた。騒がしくて、動きたくて黙ってられず、大きな声と大きな身振りになった皆。

「行くな!行かないでくれー!!小山内いいいいいっ!!!」

 康平の叫びを思い出した瞬間、思わず「ぷっ」と笑ってしまった。

 5人はそれぞれの思う位置につき、ポーズを決めた。俺はクスクス笑いながら、部屋の隅にあったパイプ椅子を持ちだし、背もたれに両手を置いて、そこにあごをのせニヤついた。その顔を見て、堤監督と隣の若い人がぎょっとしていたことなど知らず、俺は大股を広げ、貧乏ゆすりをしながら、最初の人のセリフを待った。

「ああ、ああ。今日も晴れているっ」

 21番さんの”恐怖”の感情のセリフは、とても震えていて、とても小さな声だった。俺は可笑しくて、顔を伏せて「クックック」と笑った。

「なのに、ここは今日も暗い。何でだろうなあ」

「そりゃお前、ここが世界の闇のたまり場だからさ」

「うははははっ!て……、うわああっ!!」

 パイプ椅子を揺らしながら、胸を逸らして大笑いした。すると勢い余って前に転倒した。俺は皆の輪の中心に転がり、パイプ椅子はガタンと大きい音を立ててどこかに行ってしまった。それも可笑しくてたまらない。俺は腹を押さえて「あはははっ」と笑いながら、セリフを言った。

「混沌の闇の奥から、ふふっ、何が見えるってんだよ。お前らは!っははは」

 クスクスと笑いながら、床に手をつき、両足を伸ばし、あごを上げるだけ上げた。髪の毛がふさっと下に垂れ、視線が上下逆さまになっている。それだけで面白い。しかし、本当は頭の後ろを思いっきりぶつけていたので、とても痛かった。痛みなんて我慢だ!我慢我慢我慢!

「ぶっ。あはははっ」

 感情がこんがらがって、痛いことが笑えた。

 団体演技実技が終わった頃、俺は係のお姉さんに保冷剤を借りた。自分で持っていたタオルで巻いて、立派にできたたんこぶに当てていた。

「24番、小山内唯我君。隣のお部屋にお願いします」

「あ、はい……」

 隣の部屋に入った瞬間、堤監督が笑った。

「君はいつも怪我をするねえ、小山内君。あははっ。いや、オーディション中に申し訳ない。私語は慎みたまえよ、三枝君」

「僕、何もしてませんよ」

「見てごらんよ、あの日焼け!たくましいねえ」

「監督、笑ってないでシャキッとしてください」

 二人はとても仲良しそうに見えた。

「小山内君、初めまして。僕は今回の舞台の座長を務めます、三枝と申します。これから個人演技実技を行います。よろしくお願いします」

「はい。よろしくお願いします」


                 ****


 一週間後、俺はキャリアウーマンからオーディションの結果報告を受けるため、事務所に来ていた。

「不合格……」

「はい。残念でした」

 かなりショックだった。堤監督ともう一度、仕事がしたかったし、何より舞台に出たかった。26時間TVのドラマ撮影でもそうだったが、感情表現が求められるものとは違ったのかもしれない。それとも、やっぱり日焼けが悪かったのか!?落ち込んで、何も言葉が出ないところに、キャリアウーマンは言った。

「ですが、別件の案件をいただきました」

「別の案件?」

「今年の冬に撮影が始まります、堤監督の映画のオーディションのお誘いをいただきました」

「堤監督の映画?やります!」

「はい。もちろん受けていただきますよ、唯我君。詳細は今後いただくことになりますので、その時はまたご連絡します」

「はいっ」

 俺は嬉しい気持ちの半面、舞台のオーディションに落ちたことが悔しかった。「不合格」って、こんなに悔しいんだ。思えば、初めて「不合格」をもらった気がする。これまでは、声をかけてもらえた仕事が多かったんだ。運がよかったんだ。

「それから、これは相談なのですが……」

「?」

 キャリアウーマンとの話を終え、事務所を出た。外には迎えに来ていた優里子の車があった。運転席の窓が開き、優里子が手を振っている。

「唯我、お疲れ様。さっそく行こうか!」

「うん」

 優里子と一緒に向かったのは英の両親が入院している病院だった。今日は英の左腕の手術が行われる日だった。病室に向かうと、既に手術を終えた英がベッドの上で起き上がっていた。すぐそばには、みこと英の父親、施設長がいた。

「あ、唯我来た」

「にいにっ!」

 みこがタタタと小さい足音を立てながら俺に抱きついてきた。

「兄ちゃのしゅじつ終わったの!」

「うん。無事に終わったみたいで良かったな」

「うん!」

「唯我君、お久しぶりです」

「こんにちは」

 英の父親に挨拶し、俺は英の起き上がるベッドに近づきながら、英の正面にあるベッドをチラ見した。以前まで、その人は窓際のベッドに横になっていたが、今は内側のドアに近いベッドに移動している。英の母親は未だ目覚めないままだ。

「おい、唯我。見ろ」

 英は手術後のギプスをつけた左手を差し出した。

「このギプスが外れたら、リハビリして、前よりもちゃんと動く計算らしいよ」

「不安はないか?」

「……さあね。でも、これで良くならなかったら、慰謝料請求してやるんだ」

「どこで覚えたんだよ、そんな言葉」

 英は「ふふふ」とニヤついた。思っていたよりも元気そうでよかった。

「んで?俺は成功したけど、唯我はどうだったの?」

「ん?何が」

「オーディションの結果だよ」

「ああ。……うん」

 俺は「落ちた」とすぐに返事できなかった。すると、英がため息まじりに言った。

「ああ、落ちたんだ。最っ悪」

 ぐさりと胸に刺さるとげとげしい言い方だった。俺はわかりやすく落ち込んだ。病室の空気はどんよりした。

「英、お世話になってるお兄さんにそんな言い方は失礼だぞ。もっと優しい物言いはできないのか」

「はいはい。残念でしたあ」

「英っ」

「ああ、お父さん。大丈夫ですよ。英君と唯我はいつもこんな感じですから」

「そうそう。それでいて案外仲いいんですよ?お部屋で一緒に過ごすくらい」

「優里子、それ言わなくていい」

「別に仲良くない」

 施設長が英をフォローし、優里子が余計なことを言い、俺はオーディションに「落ちた」と言われてショックを受け、英はプイッとそっぽを向いた。みこはぎゅっと俺の腹に手を回してきたので、頭を撫でてやった。

「英君はしばらく入院することになるから、今日はみこちゃんを連れて帰ることにしようね」

「またな。英」

「うん」

 病室に英を残し、施設長、優里子、みこと一緒に病室を出た。車いすの英の父親が病院の出入り口まで見送りをしてくれた。

「いつもありがとうございます」

「いいえ。3日ほどですが、英君との時間をゆっくり過ごしてくださいね」

「ありがとうございます。唯我君、いつも英とみこをありがとう」

「いいえ」

 みこは俺の足にしがみついたまま、父親をじっと見つめて、小さな手をふりふりとさせた。

「ばいばい。パパ」

「うん。またね、みこ」 

 4人で車に乗り込み、病室を後にした。みこは窓の外に目を向け、遠ざかる病院を見つめていた。

「みこ?」

「ママ、いつもと違ったの」

「え?」

「違ったの……」

 みこは俺の腹に頭をつっこみ、背中に腕を回すと力いっぱい抱きしめた。家族と離れることが寂しいんだろうなと思った。助手席から俺たちの様子を見る優里子も、運転しながらバックミラーを確認する施設長もそう思った。

 俺は相変わらずサラサラの髪の毛に指を通しながら、みこの頭を撫でた。俺の頭の中には、春の暖かな日差しの中で横になる英たちの母親の光景が浮かんだ。

 次の日、胸の奥で小さく脈を打ち続けていた母親の心臓は、静かに止まった。


                ****


 数日後に行われた葬式には、施設長と優里子、俺の3人で向かった。俺たちもすれ違う人たちも、黒い服に身を包んでいる。人々の呼吸さえ聞こえるような静かな空間に、ポンポンと木魚が鳴る。会場には真っ白な花が飾られ、中央には英たちの母親の写真がある。目が開いていて、ニコッと笑っている。俺は初めて眠る顔以外の母親の表情を見た。みこにもそっくりだし、英にもそっくりだった。

 奥には英たち一家が揃っていた。父親は、挨拶に来る人たちに忙しそうに頭を下げ続けている。隣のパイプ椅子には、ギプスをはめた英と、うさぎを抱きしめるみこが無表情で座っていた。俺には、二人のその顔に見覚えがあった。

 棺の前まで来ると、母親の顔を覗く窓があった。病室で見ていた眠る顔と同じだった。だけど、どこか違うような気がした。体の機能が全て止まているはずなのに、病院で横になっている時よりずっと息をしているようだった。

 手を合わせて目を閉じて、開いた目でもう一度写真を見た。その微笑みの暖かさや、モノクロの景色の中に浮かぶ写真の色に、刻々と一定のリズムを保ちながら進む時を感じた。死してようやく、この人の時間が前に進んだのかもしれない。そう思った。

 施設長と優里子と3人で、英たちに振り返り、頭を下げた。

「皆さん、今日はありがとうございます」

「ご愁傷様です」

「唯我君も、ありがとう」

「いいえ」

 俺は英に目をやった。目が合うと、英は嫌そうに視線を外した。いつも通りの英のようで、俺は少し安心した。

 会場を出る時、施設長は父親と話すのに会場の中に残り、優里子はトイレに行ってしまったために、俺は一人になった。そこに英がやって来た。英は俺の横で黙って立っていた。

「今日は、施設に帰らないんだって。久々に家に帰るって」

「そうか。……大丈夫か?」

「案外平気。涙なんて出てこなさそうだよ。俺、変かもしれない」

「何が?」

「ママが死んだのに、ほっとしてるんだ。ようやく、終わったって。薄情な息子」

 英の無表情は崩れない。俺は車いすレースの基樹さんの言葉を思い出した。

「母の眠る顔見たら、私が取り乱してはいけないって、子どもながらに思えたものですから」

 英は事故にあってから今まで、ずっと気を張り続けてきたんだ。母親が亡くなって、ようやく気を抜けたのかもしれない。だからほっとして、「ようやく終わった」と思ったんだ。

 英のことを考えると同時に、俺は自分が演じた基樹さんの気持ちが蘇った。足を失ったことが苦しかった。母親が目覚めないことが寂しかった。体も心も痛くて辛かった。失ったものが多すぎて怖かった。悲しかった。

 勝手に涙がこみ上げて立っていられなくなった。しゃがみ込み、目を抑えたが、涙は止まらない。

「何でお前が泣いてんの?」

「悪い。……勝手に」

 不思議な感覚だった。溢れ出る感情は、俺のものではなかった。記憶の奥に隠れた少年、基樹さんの感情だと言うのが一番しっくりくる。

「泣いてんなよ。……唯我」

 感情の波が引き始め、涙も止まった時だった。顔を上げると、英が目を腕で押さえていた。腕から伝い流れた涙が床にぽたぽたと落ちていた。英がようやく悲しがってる。俺はとてもほっとした。立ち上がり、英の頭を引き寄せた。英は両手を俺の腰に回してぎゅっと抱きしめた。

 タタタと小さい足音が近づいてくると、みこが俺にぎゅっと抱きついた。みこはぽろぽろ泣いている顔を俺のズボンに摺り寄せた。おかげでその部分がぐちょぐちょに濡れてしまった。

 そんなことはどうでもいい。二人がようやく我慢しないでいられるようになったのだと思えば、こんなに安心することはない。俺は二人の頭を撫でて、その間に帰ってきた優里子が二人の頭を撫でて、俺と優里子は目を合わせて、安心した顔で笑い合った。


                ****


 その日の夜、俺は職員室にいた。

「どうしたんだい?唯我」

「施設長、相談があるんだ。今後の仕事のことで……」

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