第35話 日々の記憶

 ゴールデンウイークが終わり、最初の週がさっさと終わった金曜日、教室で給食を食べ終えると、俺はすぐに荷物をまとめた。隣で給食を食べながら康平が手を振った。

「小山内、じゃあな。気を付けろよ」

「ああ。また来週」

「おう」

 担任の先生に頭を下げて、俺はとっとと昇降口を出た。既に校門前にはキャリアウーマンが車を止めていた。

「お願いします」

「平日にすみません。よろしくお願いします」

 車は走り出し、俺は都内の公園へと向かった。その頃、教室でワイワイと給食を食べる康平は周りの奴らと俺の話をしていた。

「あいつ、自分では有名じゃないとか言ってたけど、やっぱ芸能人なんだなって思うよ」

「仕事で早退とかカッコイイよね」

 その時、放送が流れた。

『最近、校内でのボタン紛失が頻繁に起こっています。みなさん、気を付けて下さい』

「ああ、これこれ!小山内のことな!1か月で16個無くなってんだぜ?小山内の第二ボタン!マジウケる!!」

「16個って、男子の学ラン一つ分くらいじゃない!?」

「確かに!」

「しかも小山内が天然っぽくて!これ、いじめじゃねとか心配してんの。マジ笑ったわ」

「ぶははははっ!違げえ!モテてるだけー!」

 笑い声と拍手喝采である。その頃、俺が車の中で大きなくしゃみをしていることも知らずに、教室で俺の悪口で盛り上がっていた。


                 ****


 馬沢公園には、Aファイブの津本さんと撮影クルーの大人たち、そして車いすレースの選手である、本物の佐藤基樹さんがいた。先に到着していた人たちは、午前中から集まって撮影を行っていた。26時間TVでは、津本さんと基樹さんの二人の対談が流れる予定である。

 俺はすぐに車の中で着替えて、津本さんたちのところへ向かった。

「唯我!お疲れ」

「お待たせしました。今日はよろしくお願いします」

「君が小山内唯我君だね。私が佐藤基樹です。どうぞよろしく」

 手を伸ばしてきた基樹さんは笑っていた。その手を取る時、履いていたズボンの膝から下がペタンと垂れ下がっているのが見えて、違和感と共に見てはいけないような気がした。本当に足が無いんだ。

「唯我君、足気になる?そりゃあ気になるよね。見るかい?」

 突然のことで俺は「え…え」と困惑しているのもお構いなしに、基樹さんはぺろりとズボンの裾を上げた。膝こぶから肌色の皮がしっかりと覆われているが、よく見ると切り込みのような谷間がいくつかある。

「わあ……」

「どうだろう。違和感?」

「は、はい。不思議です。かかとみたい……」

「あははっ!かかとかあ」

 嫌なことを言っていないか心配だったが、笑う基樹さんを見てホッとした。

 津本さんと基樹さん、撮影クルーたちと芝生の広場に移動した。都会の公園とは思えぬほど空が開いていて、周りには緑が溢れている。そよ風が心地よく、時々聞こえてくる街の音がとても遠い。俺は津本さんと並んで座り、基樹さんの話を聞いた。

「足がないって気づいた時、変だけど、ある感覚がしていたんだ。ある感覚がしているのに私には足が見えない。手にも触れられない。体に穴が空いて、スース―しているみたいだったことを覚えているよ。今だに忘れられないくらい衝撃だったんだ」

「そうですよねえ。元々あったはずのものが無くなったっていうのは、驚きを通り越して、焦りますよねえ」

「ええ。ですから、事故から目覚めたあの日は、とにかく声を上げ続けました。無いのが見えるのですから。無いから動かせないのですから」

 俺にとって、それは想像でしか感じられないことだった。どんな気持ちで叫んだのか。どんな痛みがあったのか。

「い、痛かったですか?」

「そりゃあもう痛い痛い!切った足も痛いし、胸もとにかく痛い。それで過呼吸を起こして気絶するの繰り返し。全身痛くてどうしようもなかったね。だけど、私よりもずっと重症だった母が横で寝たきりなんです。過呼吸はね、母の顔を見て落ち着くようにしてたんです。母の眠る顔見たら、私よりずっと辛い思いでいる人の隣で、私が取り乱してはいけないって、子どもながらに思えたものですから」

「辛い時、どう乗り越えたんですか?」

「午前中の撮影では、カッコつけて、周りの方からのご支援と、母のためとか言っちゃいましたけどね……。でも、本当は乗り越えてなんていませんでしたよ。本当のことを言うとね、車いすレースにのめり込んで、夢中になることで、他のこと考えないようにしてたんですね。私にはこれしかないんだと。他に私が生きる道はないんだと」

 話を聞いていると、ジェニーズになるかどうするのかを悩んだ小学4年生の頃を思い出した。いじめられていることが嫌で、毎日ポケットの中でカッターをいじって落ち着こうとしていた。財政難を抱えていた施設を続けてもらうためにはお金が必要で、俺がジェニーズになるしかなかった。俺にはジェニーズになる他に道はないんだと思って、それが不安でたまらなかった。

「ふとした時に頭に浮かんでしまうんです。不安も、怒りも、恐怖も。それを考える時、私はとても怖くてたまりませんでした。それを忘れようと必死になって、車いすレースを覚えたんです」

「なるほど……。現実ですねえ」

「いやあ、ははは。津本さん、申し訳ない。午前中の撮影とは全然違うこと言ってて。多分ね、TVだからね、見栄張って前向きなことを言いたかったんです。カッコつけてごめんなさいね」

「あの、基樹さん……」

「何だい?唯我君」

「今は、どう思ってるんですか?車いすレースを始めてから、今は……」

「今はね、車いすレースに出会えたことを幸運に思うんだ。だって楽しくて、やりがいがあって。車いすレースは、私の人生になくてはならないことだから」

 基樹さんは明るい声で笑って言った。俺はとても安心した。今は仕事でしかないジェニーズの活動が、いつか、基樹さんにとっての車いすレースのようになるかもしれない。

今回の特別ドラマは、足を失った基樹さんが悲しみを抱えて車いすレースの選手になりました、という悲しいドラマではなく、自分の人生における大事なことを見出す希望のドラマなのだと思えた。

「ドラマ、楽しみにしています」

 話をし終えると、津本さんと俺は番組が用意した車いすに乗って、公園を回った。歩いているとわからないけれど、コンクリートの道はガタガタしていて車いすのコントロールが意外に難しい。芝生は足の裏だととても気持ちいのに、車いすの車輪との相性がとても悪い。何度も転びそうになったが、その度に津本さんと俺は地面に足を伸ばして体を支えた。

 そんな姿を見て笑う基樹さんは、転びそうになっても足が使えないんだと思った。「転びそうになる時は、怖いですか」と聞くと、基樹さんはサラリと言った。

「転びそうになった時にはね、痛いのは分かってるんだけど、もう転ぶしかないんだよ」


               ****


 空が赤く染まり、木々の影が濃くなった頃、この日の予定が全て終わった。津本さんと基樹さんをお見送りし、全員の解散が言い渡された。津本さんはマネージャーと次の仕事へと向かい、俺はキャリアウーマンの車で施設へと帰った。その道中、俺はひたすら基樹さんの話を復習し、台本をめくった。

「足がないって気づいた時、変だけど、ある感覚がしていたんだ。体に穴が空いて、スース―しているみたいだったことを覚えているよ」

 台本冒頭の基樹さんは、まるで泰一のような活発で明るい少年だが、事故の後は会話もほとんどない。動揺して、焦って、唸るように叫び続けては過呼吸を起こして倒れる。

「切った足も痛いし、胸もとにかく痛い。それで過呼吸を起こして気絶するの繰り返し。全身痛くてどうしようもなかったね」

 体の痛みだけじゃない。胸の奥にある心だって痛い。それは苦痛だ。だから堤監督は「感情をもっと含めて」と言ったんだ。痛みだけでは表現しきれない感情が、そこにあるんだ。

「あ、そっか。差があるんだ……」

「ん?何か言いました?」

 考えていたことが思わず口に出てしまった。運転中のキャリアウーマンとバックミラー越しに目が合った。は、恥ずかしい。

「あ、いえ。何でもありません」

「役作りは上手くいきそうですか?」

「はい。今日はたくさんヒントをいただけました」

「なら良かったです」

 キャリアウーマンが運転に戻ると、俺はもう一度台本に目を戻した。思わず口にした「差がある」というのは、前半はとにかく明るい性格が、後半は暗い性格に変化することだ。この差を表現することが大事なんだ。俺は台本に書き込んだ。

 その時、基樹さんのある言葉が浮かんで、次に、病室に眠る母親を見つめていたみこと英の様子が浮かんだ。

「母の眠る顔見たら、私が取り乱してはいけないって、子どもながらに思えたものですから」

 あの時、俺には二人の表情から感情を読み取れなかった。もしかしたら、基樹さんの気持ちと同じだったのかもしれない。俺より小さい体の中に、喪失と不安でいっぱいの気持ちをしまい込んで、感情的になるまいと必死に我慢していたとしたら、そんな苦痛なことはない。

「どうして普通に生きてるんだっ!」

 そう叫んだ英の姿が、俺は未だに忘れられない。

 車の外には、明かりを灯す街を歩いている人々がたくさん見える。今日も平日の夜が普段通りやって来た。そして普段通り明日がやって来るのだろう。今日、普段通り何かを失ったとも気づかずに。


                 ****


 基樹さんと会ってから数日後、ドラマ撮影が始まった。

「っうああああああ!」

「基樹!基樹!」

「君、落ち着いて!」

「あああっ!はあっはあっ」

「いけない。過呼吸を起こしてるっ」

「基樹!しっかり!ゆっくり呼吸するんだっ」

 バタンとベッドに倒れると、「カット!」と声が聞こえた。俺はドキドキしながらベッドから起き上がり、息を整えて一度深呼吸した。

「唯我君、……もう一回」

「はいっ」

 堤監督とは、そのやり取りを何度も繰り返した。そして何度も言われる。

「痛いんじゃない。苦しいんじゃない。感覚よりも感情の表現がほしいんだよ!」

「はいっ!もう一度お願いします!」

 ようやく堤監督が手でオーケーサインを出した時は、スタジオの全員が安堵し、ため息と拍手が起こった。

「オーケーですっ!唯我君、お疲れ様でした」

「はい……。ありがとうございました」

 ようやく終わった。自分の演技力の無さが嫌になる。俺は共演者の俳優さんたちに何度も頭を下げて回った。俺のために今日を費やしてくれたのに、俺は何も返せないのが申し訳ない。それでも、「お疲れ様」「よかったよ」と俳優さんは優しく声をかけてくれた。ありがたい。

 何度も息を吸い込んだから、のどがカラカラだった。そこにキャリアウーマンがペットボトルを持ってきてくれた。

「お疲れ様です。唯我君」

「ありがとうございます」

 ただの水がものすごく美味しかった。のどを通り、胃へと落ちていく感覚がはっきりする。空腹もそうだし、考えるエネルギーが足りないけれど、最難関を突破できたことは、とても嬉しかった。

 まだ学校にいるはずの時間ではあったものの、既に最後の授業が終わる頃だった。撮影が終わってから学校へ行ってもどうしようもなかったので、俺は施設へ直帰した。施設に帰ると、優里子が玄関で待っていた。

「たーいま」

「唯我、おかえり!」

 小学生たちも帰ってきていない施設の中は静かだった。

「撮影はどうだった?今日は難しいって言ってたシーンだったんでしょ?」

「終わった。次は火曜日だ」

 俺はケホケホと咳き込んだ。

「だ、大丈夫?」

「平気。叫びすぎて喉やられただけ。飴舐めてれば平気」

 優里子はホッとしたように「そっか」と笑った。

「平日撮りが多くなったね」

「しょうがねえよ。撮影する場所が限られてるし」

「勉強はほとんど自主勉になるね。大丈夫そう?」

「うん。土曜日に補習受ける」

「泰一が心配してたよ?兄ちゃん、こんなに忙しそうに何してんのって」

「ドラマのこと、言ってないよな?」

「言うわけないじゃん。私だって、泰一や皆の驚いた顔見たいし」

「ならいいけど……」

 26時間TVの特別ドラマ『車輪の最高速度』は、泰一の大好きなAファイブのメンバーである津本潤さんと共演するため、ドラマのことは泰一には絶対内緒にしている。施設長と優里子にだけは俺から言ったが、英は俺の部屋に頻繁にいたために知ることになったため、固く口止めをしている。

「お腹空いてない?荷物置いたら、一緒に何か食べよう」

「食堂、すぐ行く」

「うん」

 俺は階段を上がりながらもう一度咳き込んだ。呼吸の方法を間違えると辛くなる。それだけ叫び続けたということだ。のどの痛みは、俺の演技力が足りないことの証明だった。悔しくてたまらず、握った拳で階段の壁を軽くトンと叩いた。次はもっといい演技をするんだ。


                ****


 快晴の空が広がる地方の街に、その日、レース用の車いすの車輪の音が響いていた。数えきれない車輪の音がシャーッと鳴り、集まった観客役のキャストや地元の人々の声援拍手が重なる中、拡声器から声が上がった。

「カット!オーケーですっ!!」

「唯我君、クランクアップです!お疲れさまでしたあ!」

 最後の撮影は基樹さんの初車いすレース大会のシーンだった。撮影のために地方の車通りの少ない公道を閉鎖し、観客キャストをたくさん集めた大掛かりな撮影だった。

 当時、基樹さんはこのレース中に転び、怪我を負いながらほとんど最後尾でゴールしたという。俺はその話の通り、レース中に倒れ、満身創痍でゴールする、というシナリオを作ったのだ。そのため、体中に本物そっくりの痛々しいあざと切り傷がペイントされている。

「ありがとうございましたっ……、てっ!」

 周りからは「お疲れ様」と拍手が上がる。しかし、俺はレース用車いすに乗ったまま真後ろへと転んだ。おかげで最後の最後に、後頭部にたんこぶと、頬に本物の擦り傷をつくってしまったのだった。

 頬に大きなガーゼをくっつけて、俺は夜のジェニーズ事務所へ行った。地下体育館では、車いすの練習をする津本さんがいた。シャーっという音と、キュッというタイヤの音が響く中、俺の声が反響した。

「津本さん!小山内です。お疲れ様です」

「おお!唯我!!」

 アイドルスマイル全開の津本さんは両足を紐でぐるぐる巻きにして固定していた。くるっと回転させた車いすは、まるで自動操縦された乗り物のようにスムーズに俺の前までやって来た。

「撮影お疲れ!って、何その大きな傷!」

「ああ、こけちゃって……」

「ああ、ああ。アイドルが顔に傷なんて作っちゃダメでしょう。痛そう」

「はい。怒られました」

「早く治るといいな。キレイに治せよ」

「ありがとうございます」

 俺の腕をパンパンと軽いた津本さんはスッと車いすで移動した。俺も隣を歩きながら、しばらく話をした。

「車いす、お上手ですね」

「だろう?練習しまくったもん!でも、レース用がまだなあ」

「俺、レース用で後ろにひっくり返って、この傷つくりました」

「あれ重心とるの難しいよな!まして、唯我は役柄的に車いす上手になっちゃいけなかったから、そんなに練習もしなかったんだろ?そら転ぶよな。俺も気を付けよう。撮影はどうだった?今日が最後だったんだろう。楽しくできた?」

「………悔しいことばっかりでした。全然技術が足りないんです、俺」

「俺も唯我くらいの頃は何もわからなかったよ。だけど、経験をたくさんさせてもらって、自分なりの掴み方?みたいなのがわかってきた頃から、ようやく手に役を掴める感覚がしてきたところ。唯我はこれからだろ」

「早くそうなりたいです」

「俺はすぐ人を頼るタイプ。車いすの操作もそう。教えてもらったんだ。裕さんに」

「裕さん?」

「唯我知らないのか?ジェニーズの先輩に車いすの人がいるんだよ」

「え?」

「比嘉裕二郎って。青春隊の人だよ」

「あ、分かります」

 青春隊といえば、千鶴さんの所属していた3人組のグループだ。樹杏と初めて踊った時、樹杏が千鶴さん、俺が裕二郎さんの振り付けで踊ったこともある。樹杏の話では、D2-Jrの智樹の親戚ということだった。

「裕二郎さんて、今、車いすで生活されてるんですか?」

「うん。昔事故に合って、それ以来、足は少ししか動かないみたい。それでも、今でも病院でリハビリ受けてるらしいけどね」

 俺は裕二郎さんがそんな生活をしているとを今まで知らなかった。

「こないだ、お前が帰った後でここで遊んでたら顔出してくれて、教えてくれたんだ」

「事務所にいらっしゃるんですか?」

「まあ時々ね。作曲とかレコーディングとかするしね。まあ、唯我もそのうち会えるよ」

「会ってみたいです」

 体育館の時計を見ると、針は9時を回っていた。

「唯我は帰る時間だな。また今度な」

「はい」

 俺は津本さんの話を聞いて、裕二郎さんと会えることを少し期待したがタイムオーバーとなった。残念だ。裕二郎さんは俺にとってTVの向こうの人のような感覚がある。もしかしたら、いつかどこかで会えることもあるかもしれない。

 俺が地下体育館を出てから少しすると、そこに裕二郎さんが来た。裕二郎さんはスムーズに車いすを動かし、スッと津本さんの横にやって来た。

「ああ!裕二郎さんっ!」

「ツモ、お疲れ様」

 爽やかな笑顔にはスターのオーラがキラキラと光る。黒髪が白い頬を撫でると、小顔が際立つ。

「今さっき、唯我帰ったところですよ。もう少し待ってたら会えたか」

「ツモの子役な。良い子は9時までが活動時間だからしょうがないか。また会えることもあるでしょ。名前、何て言ったけ?」

「唯我ですよ。小山内唯我」

「そっか。小山内…唯我……。ふふっ」

「何笑ってるんすか?」

「いや、すごい偶然なんだけどね、昔の知り合いに名前そっくりな人がいてさ。そっくりっていうか、もうまんまかも!だから、まあ……、懐かしくなっただけ」

 裕二郎さんは目尻から笑いじわを伸ばして優しく笑うと、「今日は何から教える?」と津本さんに言った。


                 ****


 俺が施設に帰ったのは夜の10時で、施設の中は、消灯時間を過ぎていたため真っ暗だった。夜勤に来ていた優里子と夕飯を食べて、その日の何てことのない話を笑いながらして、風呂に入って、ベッドに横になると意識を失った。

 最近はこんな調子で毎日がさっさと過ぎている。次の朝を迎えて、卓上カレンダーを見た時、俺は施設長が小学校の卒業式の日に言っていたことを思い出す。

「時間はどんどん早くなる。だから時間を大切にしなさい」

 そうなのかもしれない。俺の中では、中学校に入学したのもほんの2週間前くらいの感覚だけど、気づけば5月の下旬だ。大人になればなるほど、この時間の感覚が早くなっていくというなら、自分でも気づかぬうちに、忘れてはいけないことを忘れていってしまうのではないだろうか。それはあまりよくない気がした。

 次の土曜日、補習で学校に行き施設に帰ってくると、制服を脱いで、私服を着て、近くのショッピングセンターまで自転車で向かった。俺は日記をつけることにした。本屋に入って、分厚い本を手に取った。それは10年ダイヤリーで、まあまあいい値段がしていたが、これから何冊も何冊も買うよりいいと思った。

 施設に帰り、分厚いダイアリーを開くと、最初の1ページ目に自由記載欄があった。


”施設長は、「時間はどんどん早くなっていくから、時間を大切にしなさい」と言った。最近、確かに時間が勝手に過ぎていくことを感じ始めた。俺はこれからどんどん大人になっていくんだと思う。だからここに記録することにする。忘れたくないことがたくさんある。それを、忘れないように。”


 記念すべき最初の今日、俺は少し緊張して、一言だけ書いた。

「今日は土曜日なのに、学校で補習だった」

 我ながらセンスがないと思った。だけど、今日思ったことは、すでに最初の1ページ目にしっかり書いてしまったので、他に書くこともなかった。

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