第33話 問題児 英(後半)

 英の変な癖が何なのか、その瞬間理解した。ベッドの上で体を右側に回転させると仰向けになり、右手だけで体をぐっと起こした。その間、左手はだらりと垂れている。英の左手は、動かないんじゃないだろうか。

 起き上がった英は、重たそうに首を傾げた。

「何だよ」

 朝は余計に機嫌が悪い英は、低い声で呟いた。

「……はよう、英。さっさと着替えて食堂行くぞ」

 あえて聞かなかった。きっと答えてくれないし、気にしてるかもしれない。俺は何事もなかったかのように、朝練の運動着を脱ぎ、クローゼットから服を出した。その間、英はジーっと俺を見ていた。

 午前中、泰一とみこ、佳代と充璃が中庭でキャッキャッと遊ぶ中、英は相変わらず階段に一人座っていた。その様子を居間の窓から見ていると、居間に寝転んでスマホをいじる文子が言った。

「英のこと、気になるんだ?」

「まあ……」

「あいつ見てると、昔の唯我見てるみたい」

「俺?あんなじゃねえし」

「っはは!あんなだったよ。人の親切なんて邪魔くさくって、世界中敵ばかりみたいな」

「んなわけあるかよ」

 自覚のない俺は文子の言うことを否定した。全く、相変わらずバカな文子。文子は「ふうん」と意地悪な笑みを浮かべた。このブス、ホントムカつく。

 俺は居間を出て、職員室に向かった。施設長に会いたかった。

「ん?僕かい?」

「英のことで、聞きたいことがあるんだけど」

「うん。いいよ。呉羽さん、ちょっと会議室お借りしますね」

 「はあい」と返事した呉羽さんという職員さんは、体格が丸々としていて、施設のガキたちからは影で「クレアおばさん」と呼ばれている。

 施設長と一緒に職員室の奥へと進み、「会議室」というプレートが貼られた扉を抜け、殺風景な部屋に入った。「会議室」は、人に聞かれたくないことや、面談の時に使う部屋だ。

「どうしたんだい?」

「英のこと、聞きたいんだ」

「どんなこと?」

「あいつ、もしかして左手使えないの?本人に聞いても答えてくれない気がするんだ」

 施設長は答えにくそうに答えてくれた。

「……うん。そうだよ」

 やっぱり。

「けどどうして?」

「朝、起き上がる時、左手を使わなかったんだ。これまでも左手の動きが変だとは思ってたんだけど、朝のでわかった」

「そうか……」

「施設長、あいつが初めてここに来た時、説明してくれたよな。家族で事故にあったって。英の左手は、もしかして……」

「後遺症。英君の腕は、手首が動かなくなっているんだよ。動かすために、これから時間をかけて手術して、リハビリを繰り返すことになる。見た目以上にかなりしんどいことなんだよ」

 話を聞いて、英のことを少しだけわかった。朝、英に左手のことを聞かなくてよかった。

「今日の午後に、英君の診察に行ってくるよ。みこちゃんも連れて行こうと思うけど、少し不安なんだ」

「不安?」

「……ご両親がね、ベッドから離れられないんだよ。お父さんは事故で脊髄損傷してね、両足を動かせないんだ。お母さんの方はまだ昏睡状態で、寝たきりだし」

 俺は想像した。自分の両親が、病院のベッドの上にいる。母親は今だ眠り続け、いつ起きるのか、いつ死んでしまうのかわからない状態を目の当たりにした時、英とみこの気持ちはどんなものだろう。

 俺には、それを例える人がいない。まるで他人事のような、上の空を眺めるような感覚だった。

「……俺も行きたい」

「唯我、午後は事務所に行くんじゃなかったっけ?」

「休む」

「休んでいいの?」

「うん」

 俺はとても嫌な奴だ。今、俺の脳裏には、台本の唸り声の文字と樹杏の言葉が浮かんでいる。

「唯我には、失った体の部位は見えない。消えていく。そして本当の意味で失うんだ。その恐ろしさたるや、感じてごらんよ」

 英やみこ、施設長の不安を思いやる気持ちよりも、台本に応える気持ちの方がずっと強い。想像出来ないなら、見るしかない。


                ****


 病院への車の中、後ろの列には英と俺とみこがいた。みこは俺の腹に手を回して目をつむっている。眠っているわけではないようで、時々、不安そうな顔を上げる。その度に背中を撫でてやった。英はずっと窓の外を眺めていた。

 到着した病院は街で一番大きな病院だつた。広々とした待合い室で、車椅子に乗ったおじさんが、俺たちを見るなり笑顔になった。

「英、みこ!」

「パパッ!!」

 いつもは穏やかなみこが、大きな声を出すとダッシュした。みこはおじさんの足に抱きつき、太ももに頬を乗せた。

「パパ、パパ!」

「みこ!ああ、みこだ。久しぶりだなあ」

 おじさんは優しくみこの頭を撫でている。そこにポケットに両手を入れ、ゆっくりと英が歩み寄った。

「英、元気か?」

「まあね。パパ、ギブス外れたんだ」

「ようやくな。でもなあ、もう動かないんだよなあ……」

「うん。……しょうがないよ」

 おじさんは申し訳なさそうに笑った。それを見た英がどんな顔をしているのか、それは英の肩が少し震えている様子から読み取るしかない。

「服部さん、お久しぶりです」

「ああ、施設長。いつもお世話になっています」

おじさんは、施設長の隣に立つ俺を見た。

「君は……」

「彼は施設の子供です。小山内唯我です」

「小山内です。はじめまして」

「はじめまして。息子たちがお世話になっています。この子たちはいいこにしてるかな」

「はい。とても」

 そう言うと、英はじっと睨んだ。逆にみこはニコニコと笑い、それとそっくりにおじさんが笑った。

「それはよかった」

 英が施設長と診察を受ける間、俺とみこ、おじさんは病室へ行った。病室の奥には、窓から差す日差しの元で、真っ白なベッドに眠るおばさんがいた。それが英とみこの母親だった。

 みこはパタパタ走って、手をいっぱい伸ばして母親の白いニット帽の頭を撫でた。「ママ」というみこの小さな呟きが耳のそばでしても、カーテンが揺れても、おじさんの車椅子のガラガラという音が立っても、目も口元も動く気配がない。眠っている、というよりも、時間が止まっているという印象だった。

「妻は、脳死状態なんです」

「脳死……」

「心臓だけが動いています。目覚める可能性は、限りなく低いんです」

 つまり、もういつ死んでしまうのかもわからない状態ということだ。俺はみこを見た。みこはずっと母親の頭を撫でている。おじさんの車椅子をみこのそばに寄せて止めた。俺は二人の反対側へ移動した。

 おじさんは申し訳なさそうに笑って、母親を見て、それからみこを見た。おじさんの感情はわかりやすい。目の前にいるのは自分の奥さんで、好きな人。好きな人が目の前で眠り続けて、一瞬一瞬、生死をさまようのを、見ていることしかできない。それは辛いことだ。俺だって、優里子がそうなったら悲しくて辛くてたまらない。だけど、いつか目を覚ましてくれるかもしれないという希望が数パーセントでもあるなら、俺はおじさんと同じように笑うだろう。

 対して、みこは無表情で母親をじっと見つめている。不安なのか、安心感なのか、喜んでいるのか悲しいのかわからない。みこの表情はとてもいろいろな感情が混ざっているようだった。

 英とみこの母親は、とてもきれいな人だった。まつ毛が長くて細くてふさふさしてる。丸い輪郭や、鼻の高さはみこにそっくりだ。今はニット帽で隠された頭も、みこのような黒くてつやつやの髪の毛なのだろう。

「みこは、お母さんとよく似てるな」

「うん。パパにも似てるよ?ママがそう言ってた!」

「そうか」

「うん!」

 その時、英を連れて施設長が病室に入ってきた。

「英君の診察、終わりましたよお」

「ありがとうございます。どうですか?」

「はい。次の手術は7月になるそうです」

「わかりました。これでまた良くなるといいな、英」

「どうかな。どっちでもいい」

 英はそっぽを向いてそう言った。おじさんは困った顔して笑った。英は俺の横に来ると、じっと母親を見つめた。みこも似ていると思ったが、英の方がずっと母親にそっくりだった。その横顔も、眠る顔も。


                ****


その夜も英は俺の部屋に来た。英は自分の定位置をベッドに決めて、ひざを抱えてTVを見ている。映っているのはにぎやかな音を鳴らすお笑い番組なのに、英は一切笑わない。ただぼんやりとしていた。

 俺は机に広げた台本を見つめ、「うわああ」までの流れをずっと考えていた。

「あんたさ」

「うん?」

「親はどうしたの?」

「知らない」

「……知らない?」

「クリスマスの夜、この施設の前に捨てられてたんで、施設長が拾ってくれたんだ。俺もそうだけど、誰も俺の親を知らない。まるで犬猫みたいに捨てられてたんだ。笑えるよな」

「……」

「ああ、気にすんな。俺も気にしてねえから」

「……嫌になる時、なかった?」

「嫌になるっていうか、気にしてた時はあった。お前くらいの時は、親がいなくていじめられてた。でも、俺が何を大切にするのかをわかっていれば、何も困ることはないってわかったから、今は気にしてない」

 それがわかるのに、時間はかかったけれど、かけてよかったと今は思える。

「……俺は、嫌になる。……怖い」

 意外な言葉に驚いた。英に目をやると、英は左腕を伸ばして見せた。腕はまっすぐ伸びるが、手首から指先まではだらりと垂れている。

「手が動かなくなったことが怖い。どんなに手術しても、どんなにリハビリを続けても、前のようには、きっと動かない」

「……」

「パパの足の骨折は治ったけれど、足は全く動かなくなったから、二度と立ち上がることはできない。一生車椅子のパパとの生活が怖い。……ママはきっと二度と起きない。ママはもう、本当は死んでるんだ。ママがいなくなるのは嫌だ。怖い……」

「英、違う。生きてる」

「何も後遺症の残らなかったみこがうらやましい。うらやましいことが、嫌だ。ムカつく。ムカつく!」

「英っ」

「でも、よかったとも思うんだ。みこだけでも、何も失わなかった……」

 英は余計に力を入れて、ひざを抱えて顔を埋めた。

「怖い。これからどうなるのかわからなくて怖い。どうしたらいいのかもわからない。わからないことがありすぎて、怖い」

 消えてしまいそうな声に、英が一人で抱えていた不安や恐怖がはっきり見えた。肩は震え、鼻をすする音がする。

 英が一人で隠れて泣いていた時のことを思い出した。どんなに怖くて心細かったか。そんな弱音をはけるところもなくて、一人でもいられなくて、英はここにいるんだ。俺は英の隣に座って、頭を撫で、肩を撫で、背中を撫でてやった。

「怖い。怖いよ……」

「一人で抱えてんな。いつでも力になってやるから」

 英は泣いて泣いて、そのまま俺の肩で眠ってしまった。見動きが出来ずに困っていると、偶然、部屋を覗きに優里子が来てくれた。優里子と二人で、英をベッドに寝かせて、母親そっくりの寝顔を覗いた。

「また布団が必要そうね。後で持ってくるわ」

「……優里子」

「何?」

「昔の俺もこんなだった?」

「どうして?」

「文子がそう言ってた」

「……素直じゃないところは、ちょっと似てるかも。でもね、あんたもそうだったけど、弱音をはける場所があるなら、英君は大丈夫。唯我がこうしてそばに寄り添ってくれるんだってわかれば、それだけで英君は安心できるでしょ」

「そうか」

 それならよかった。俺も駿兄のように、少しは優しくできたかもしれない。そう思うと嬉しくなった。

「唯我の弱音をはけるのは、駿君だったかな」

「駿兄もだけど、……優里子もだよ」

 そう言うにもドキドキしていたけれど、優里子が優しく笑ってくれたから安心して、俺もつられて笑った。

「ドラマの役作りはどう?」

「難しい。樹杏に見本をお願いしたら、断られたし。イメージが全然湧かないんだ」

「そっか……」

「だけど、英が話してくれたことの中に、ヒントがいっぱいあった気がするんだ。人の話って、案外大事なんだな。……もう少し、考えなきゃ」

 そうだ。英の言った「怖い」は、小学5年生の基樹にも当てはまるはずだ。誰だって、失うという変化は「怖い」もののはずだ。それを誰かと共有できたら、もう少し、楽になるのではないだろうか。

 ポンと音がして、頭に優里子の手が落ちてきた。

「頑張れ、唯我。でも、無理はしないでね」

 ドキッとする。その手の柔らかさや温度を読み取ろうと頭皮が波立つ。腹の奥からムワッとした感覚が熱を帯びて頭まで上ってくる。優里子は「布団持ってくるね」と立ち上がり、部屋を出て行った。

 ふいに優里子が触れてきた時、俺は優里子に触れてほしくないとも思うし、もっと触れてほしいとも思う。それは好奇心でもあり、邪な気持ちでもある。だから、できればふいに触れてほしくない。こんな気持ちがバレてしまったら、キモいと思われるかもしれない。嫌われたくない。だけど、触れた優里子の手が柔らかくて可愛い。優里子の笑った顔が可愛い。とにかく可愛いくてたまらない。

「優里子可愛い……」

 布団の中に顔を埋めて呟いた。そうじゃないと心臓が爆発してしまいそうだった。火照った頬に布団がひんやりとして気持ちよかった。顔を上げると、ベッドの上で眠っていたはずの英が目をパチくり開けていた。

「耳まで真っ赤にして、バカじゃないの?」

 英はフッと鼻で笑いながら言った。バカにしやがってこのクソ生意気なガキが!

「起きてるなら寝室行けよっ!おい、優里子、布団いらねえよ!」

「ああっ!おい、俺まだここにいる!」

「いさせるか!」

 俺は駿兄方式で英を担ぎ上げ、そのまま寝室へと運んだ。嫌がる英は泰一とみこの爆笑の中に置いていった。

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