第32話 問題児 英(前半)

「何でここで普通に生きてるんだよ!!」

 その言葉に、居間の空気は固まった。みこを叩いたすぐるは、そのままどこかへ行ってしまいそうだった。振り返った英の腕を思わず掴んだ。

「触るなよっ!」

「何で、みこを叩いた」

「みこって……、お前の妹かよ」

 こいつは何にそんなに苛立っているんだ。

「施設のガキは皆家族だ。お前も今日からは」

「一緒にすんな!俺は一人で帰る!」

 英は俺の腕を振り落とし、居間を出て行った。居間にはみこの泣き声が響いている。みこの声に驚いて充瑠も泣き始めた。

「施設長、あいつ何?何で突然みこを殴るわけ?妹なんでしょう?」

 みこを抱き上げて背中をさすっている泰一が言った。

「英君は、みこちゃんとは少しだけ事情が違うんだ。ごめん。皆にもちゃんと説明しようと思っていたんだけど、まずは英君を捕まえなくちゃ。本当にどこかへ行ってしまうかもしれない」

 俺たちは顔を見合った。困った奴が来た。追いかけなきゃいけない。ぶっちゃけめんどくさい。しかし、皆は居間を出た。施設のあちこちを歩き回り、外に出られる奴は施設の外を探した。俺は施設から結構歩いて、学区の違う街にまで来た。知ってる道ではあるが、詳しくはない。何となくわかる場所を思いつく限り見て歩いた。

「英君はみこちゃんのお兄さんで、家族皆でお出かけした道中で交通事故にあったんだ。右折しようとしたところで、居眠り運転のトラックと衝突。他に2台の車を巻き込んだ大事故になった。お父さんは全身打撲の上、足の骨折に脊髄損傷、お母さんは意識不明のまま、未だ目覚めない。英君は足と腕の骨折で、ようやく退院。みこちゃんだけが軽傷で済んで、年の暮れに先にここに来たんだよ」

 親戚という親戚はおらず、父方の祖母は老人ホームで暮らしてる。引き取りてのなかった二人の兄妹は、俺たちの施設に預けられることになったのだと、施設長は話した。

 日が落ち始め、街灯が灯り始めた頃、高台の上にある神社の鳥居の下に座っている英を見つけた。英はグズグズ鼻を鳴らして目を赤くしていた。汗ばむ俺に気づいた英は、抱えた膝に泣いてる顔を隠すように伏せた。

「お前、あの後ずっと探したんだぞ。こんな遠くまで来やがって」

「ほっとけよ」

「ほっといたらお前はどうするつもりだったんだよ」

「………病院に行くつもりだった。でも、わからなくて、ここから見つけようと思ったんだ」

「病院に戻ってどうする。お前はもう退院して、施設に来たんだよ。受け入れろ」

「受け入れられるわけないだろう!?人の気も知らねえ奴が勝手なことばっか言いやがって!」

 英は立ち上がり、ボロボロ泣きながら言った。

「俺には両親がいるんだ。帰る家があるんだ!そこで暮らすのが当たり前だろ!?何で施設なんかに行かなきゃいけないんだよ!パパも勝手だ!俺は一人でも生きられるんだからな!」

「じゃあやってみろ!金は?食事は?服は?学校は!?」

「……っ」

「お前はお前自身を何で守る?口か?暴力か?それとも扉に鍵かけて永遠に閉じこもるのか!?自分の入院してた病院にさえ帰れないでめそめそ泣いてるお前が、どうやって一人で生きるってんだ。考えなしにもほどがある」

 頭にきて、言いたいことを言いたいだけ言ってしまった。大人げないと反省し、英に手を伸ばした。

「施設の大人はお前を絶対守ってくれる。その後のことは、これから考えろ」

 英はグズグズと鼻を鳴らして顔を反らした。伸ばした手を素直に取るつもりはないらしい。俺は待てずに英の腕を引っ張った。

「お前が嫌でも一緒に施設に帰るからな!」

 英は声を我慢して泣きながら、俺に引っ張られて神社を下りた。

「もしもし、施設長?英見つけた。…うん。わかった。バス停で待ってる。……英、表の道まで歩くぞ」

「名前で呼ぶなし」

「ああ、そうかよ。服部」

「苗字も呼ぶなし」

「ざけんな泣き虫クソガキ」

 イライラしながらしばらく歩いて、車通りの多い道に出て、英と一緒にバス停のベンチに座って施設長の車を待ち、無事に施設へと帰った。


                ****


 英が施設に来てから数日経った頃、施設の皆は気づいた。英には変な癖があった。食事が終わって席を立つ時、左肩をぐっと正面に出すと、机に左の手ではなく肘をつく。右手は椅子の背もたれに軽く置かれ、右足を軸にくるっと体を回転させる。それはとても変な動きだった。英の箸の持ち手は右だから、利き手は右手なのだろうけれど、まるで右手を使わないようにしているようだった。

 同じように、扉を開ける時にも、取っ手に右手を添えるだけで、左肘でぐっと押す。その時、いつも左の手首はだらりと垂れている。

 英は誰かの視線を感じると、相変わらずジッと強く人を睨んだ。おかげで話しかけずらい。未だにみこと一緒にいようとしないし、いつもいつも、施設の庭に続く階段に座り、一人で過ごしている。

 俺は居間の中から一人でいる英を見つめていた。どうしてそんなに頑なに人と関わろうとしないのか。多分、聞いても無視するのだろう。

「唯君、ただいま」

「おかえり、佳代。充璃。施設長」

「ただいま、唯我」

 居間には、充璃を抱える佳代が施設長とやって来た。施設長は窓を開けると、そこから庭にいたガキたちに「全員、集合!」と声をかけた。施設長は居間に集まった皆の前で、ゆっくり話した。それは、3歳児検診を受けた充璃の話だった。

「知覚障がい?」

「うん。皆よりも思考の成長がゆっくりみたいなんだ。2歳になってようやく立って、3歳になってようやく歩くようになったのは、充璃自身が歩けることを知らなかったみたいなんだ」

 施設長は充璃の両脇を持ち、足の裏をぺったり床につけては離しを繰り返していた。

「僕わかるよ!同じクラスにいるもん!」

 あぐらをかく足の上でみこを抱きしめる泰一が言った。

「大きな病気じゃないんでしょ?よかったじゃん!」

「よかったよかった!」

 意味はわかっていないけど、みこが頭を揺らしながらそう言った。二人は笑い合って「ねー」と言う。充璃は施設長と目を合わせてヤーヤーキャッキャッと笑っている。俺も泰一の言う通りだと思ったし、隣にいる佳代も、その言葉を聞いて安心した様子でいた。文子は関係ないみたいな態度であくびをかいている。俺たちにとって、充璃はいつもの充璃で十分だった。

 意外にも、英は膝を抱えて驚いた顔をしていた。

「英、どうした?」

「……ない」

 声が小さくて聞き取れなかったけれど、多分、「何でもない」と言っていた。英は顔を反らし、俯いた。


                ****


 その夜、消灯時間を過ぎた頃に、トイレに行きたくて部屋を出た。するとどこからかシクシクと泣く声が聞こえてきた。ドキッとして辺りを見回すと、その声は階段の方から聞こえてきていた。上へとあがる階段を恐る恐る覗くと、大きな窓から光が差す踊り場にガキが一人座って泣いていた。一瞬肝を冷やしたが、それはどうやら英のようだった。

 振り返ると、3月まで泰一と一緒に寝ていた寝室の扉が少しだけ開いていた。そこから中を見ると、泰一はすっかり夢の中で、隣で眠るみこは出入り口に背を向けて横になっている。誰も英がいないことに気づいていないようだった。俺は階段をもう一度覗いた。

「英、どうした……?」

 静まり返る施設の階段に、俺の声は響いた。英はビクッと反応して、抱える足の中から顔を上げた。いつものようにジッと睨んでくる。まるで森の中で遭遇した野生動物みたいだ。

「眠れないのか?」

「どっか行けよ。ほっとけよ」

 「ほっとけ」ばかり言う奴だな。

「ほっとけば眠れるの?」

「…………」

 俺は英が一人でそこにいるのが気になってしまう。どうするのがいいだろう。……駿兄なら、どうしたろうか。

「……俺の部屋来るか?そこじゃあ冷えるだろ」

「嫌だ」

 そう言うと思った。チッと思った。だけど、泣いてるガキに対して、舌打ちするのは大人気ない。

「……気が向いたら来い」

 俺は部屋に戻ることにした。駿兄ならどうしたか考えた。そういえば、駿兄は抱き上げて強制連行する人だったな。あれは、駿兄なりの優しさだったんだな。

 懐かしさとほんの少しの寂しさが湧いて、体の中はほっこりと温かくなった。俺の精一杯の優しさは、部屋の扉を開けておくことだった。

 俺は机に向かって26時間TVの特別ドラマ『車輪の最高速度』の台本とにらめっこをしながら、樹杏に言われたことを復習していた。考えれば考えるほど思考は煮えてぐつぐつと沸騰するばかりだった。

 わからん迷宮へと入ってしまいそうになっていた時、開けていた部屋の扉がゆっくり閉じて、英が部屋へと入ってきた。あ、来るんだ。驚いたけど、ここに来るのには、少しだけ勇気も必要だったと思う。黙って立っている英を、俺はそのままほっといてやることにした。

「好きに過ごしてろ。好きなだけいていいよ」

 英から返事はなかった。英はTVの前に座り込み、また膝を抱えて顔を埋めた。泣いていた理由を聞きたいけれど、それは今聞くものじゃないと思った。直感っていうのもあるし、自分だったら聞かれたくない。

 こういう時、駿兄はどうしていたっけ。確か、俺には全く関係ないくだらない話をしたっけ。あれは案外悪くなかった。しかし、俺にはそんなに話す小ネタがない。困った。

 その時、顔を上げた英がTV台に入っていたジェニーズのDVDを見つけた。

「何これ……」

 その声に振り向くと、英はDVDを手に取って見ていた。

「あんた、ジェニーズ好きなの?」

 ちょっと違う。だけど先輩方を否定もできない。

「まあ……。って、あ!おいっ」

 英は透明なケースに入っていたDVDを勝手にデッキにセットしてTVを映した。TVに映ったのは、俺が初めて撮影を受けたポリカのCMだった。TVからは、タタッというテンポの悪いステップ音が聞こえてきた。

 英はジーっとTVを見つめている。

「これ、あんた?」

「……ああ。そんな見んな。下手くそ過ぎて恥ずかしい」

「あんた……、有名人なの?」

「違う。ジェニーズ」

「ジェニーズ……」

 英はTVから視線を離さなかった。当時もらったDVDには、ポリカのCMの全パターンがまとめられていた。英の見つめる画面には、CMがどんどん流れていく。俺は気にしないように耳をシャットアウトした。だか、英が呟いた言葉だけがポツンと聞こえた。

「いいなあ。才能あって……」

 それは褒め言葉なのか、それとも皮肉か、それともただの感想か、俺にはわからなかった。だが、俺はその言葉に全く納得できなかった。

「んなもん、あるわけねえだろ」

 俺がそこに立つために、たくさんの人が支えてくれた。そこより高い所に立つ人たちを追いかけて、ただがむしゃらになるしかなかった。してもしつくせない努力をしても足りなくて、時間をかけて、ようやく針の上に足の指一つで立っているような俺に、「才能」なんてあるわけない。

「俺だけの力なんて、そこに映るもんのほんの少ししかない。才能なんて、どこにもない」

 今だって、たった一言のセリフが言えなくて、こんなに考え込んでいるんだから。

 英は俺を見て、ふてくされた顔してTVに視線を戻した。しばらくすると、DVDの再生が全て終わり静かになった。英は膝を抱えたまま頭をこっくりこっくりと揺らしていた。

「英、寝るならベッド使えよ」

「や」

 英は頭を左右に振るが、目は閉じて開かなくなった。眠る英を抱き上げて、ベッドの中に押し込んだ。スーっという静かな寝息を立てて眠る英の顔は、とても穏やかだった。いつもこんな顔してくれりゃあ、もっと接しやすいのに。

 寝床を失った俺は、1階に降りて職員室を覗いた。珍しく優里子がいた。

「優里子……」

「唯我?もう11時過ぎてるけど……」

「英が俺のベッドで寝たから、代わりの布団ほしいんだけど」

「英君が唯我の部屋で?何で?」

「……泣いてたんだ。一人で。だから、気が向いたら来いって言ったら、来たんだよ」

 優里子は「そう」と優しく笑った。職員室の光が、夜の優里子の顔をホワッと照らす。何だか色っぽい。

「優里子がこんな時間にいるの、珍しい」

「今日は夜勤なの。明日のお昼には帰って、次は明後日来るわ」

「そうか」

 俺は、明日は朝から事務所のレッスンだ。帰ってきたら優里子はいない。しばらくお別れだ。少し寂しい。

「唯我と英の組み合わせなんて、それこそ珍しいわね」

「俺もそう思う」

「ふふっ。すっかりお兄ちゃんね、唯我」

「……駿兄なら、どうすかなって考えた」

「それ駿君が聞いたら、泣いて喜ぶかもね!」

「そうかな」

「そうだよ。あ、電話してみる?今ならまだ起きてるわよ」

「!?」

 優里子はポケットからスマホを取り、画面を指でなぞった。俺がしどろもどろしている間に、「はい」とスマホを渡された。

「私、お布団運んでるから、その間だけね」

「い!いやいやいやっ」

 画面には発信中のマークが光っている。急なことで心の準備をしていなかった。ドキドキしながらどうしようか考えた。だって久々すぎる!話すのなんていつぶりだ!?ああ、そうだ!ポリカのCMの撮影の日、電車を降りたら、目の前で佳代とキスしようとしていた時だっ!!

『もっしもーし!優里姉?何?』

 ビクーッと心臓が大きく動いた。スマホから聞こえてきた声は、紛れもなく駿兄の声だった。覚えてる。この低くて明るい、優しい声。

『おーい優里姉?……何だこれ。つながつてんの?優里姉?…………』

 駿兄、駿兄!声が出ない。しばらくの沈黙の中で、声が遠のくのがわかった。電話が切られる!思わず「あ……」とだけ声が出た。

『…………』

「…………あの」

『唯我……?』

「…………うん。駿兄……」

『…っ唯我!あははっ!お前唯我な!?唯我!』

 涙が出そうになった。この電話の先に、駿兄がいるんだ。嬉しくてたまらなかった。

『お前の声、久々すぎ!こんな声落ち着いてたか?声変わり?まさかな』

「まだしてない……。駿兄はいつだった?」

『俺さー、よくわからないんだよー。いつの間にか喉仏出来てたって感じ。声変わりしたのかなあ。わからん。ま、唯我もそのうちくんだろ』

 明るい声が温かい。今、駿兄はどんなふうに笑っているだろう。俺は想像した。ニッと口角を上げて、目を細めて、肩を上げているんだろう。

『あーお前、俺が小学校の卒業式で着た服、着たんだよなー』

「何で知ってんの?」

『そら、佳代に写真送ってって頼んだから。佳代に朝のうちに撮られただろ?』

 俺は思い出した。卒業式の朝、見送ってくれた佳代はスマホでカシャッと写真を撮っていた。あれだ!俺、どんな顔してたんだろう。恥ずかしい。

『似合ってたよ』

「……」

『唯我、大きくなったなあ』

 頬が熱くてたまらない。嬉しくてたまらない。会いたくてたまらない。

『俺、ちょくちょく施設に遊びに行くんだぜ?』

「ええ?知らない」

『でも行く度にお前仕事でいないんだよ。全く、忙しくしてんのな、お前』

 誰も教えてくれたことない。皆してずるい!

『会いてえなあ、唯我に』

 ……駿兄、俺もだよ。そんな正直なことを言うのはすごく恥ずかしい。だけど、今言うべきだと思った。

「俺も会いたい。駿兄……」

 くっっそ恥ずかしいっ!!顔が熱くてたまらない。だけど、嘘じゃない。電話口からは、フフッという息づかいだけが聞こえてきた。駿兄、泣いてる?いやまさか……。

「駿兄?」

『お前、いつからそんな…かわっ』

「ん?」

 全然聞き取れない。

『いやいやいや!唯我、お前モテるだろ』

「……は?モテ、モテないよ」

『いや、多分モテてるよ。お前が気づいてないだけじゃね?モテたいと思わんの?俺はモテたかったなあ』

「……あんま。だって……」

 モテてどうするって話だ。俺は優里子さえ振り返ってくれるなら、こんな嬉しいことはないんだ。

『ああ、そっか。優里姉か!』

「!!!」

『そうだよなあ。お前は昔から優里姉一筋だもんな』

 ぶわあっと顔が熱くなる。さっきからこればっか!

「知ってたんだ」

『そらそうだ。お前分かりやすかったじゃん』

「……ひ、人に言われると恥ずかしい。顔熱い」

『あーっ!はははっ』

 駿兄が大笑いしている。駿兄は気づいてくれたんだ。駿兄の言う通り、俺って分かりやすくしてるよな。そうだ。最近は泰一だっていじってくるんだから。何で優里子だけが気づかないんだ。

「……駿兄」

『何?』

「弟が、男になるにはどうしたらいい?」

『…………唯我』

 駿兄はしばらく黙り込んだ。

『優里姉の天然をなめんなよ。ストレートに突っ込め!』

「ス…」

『それでダメならわかりやすく押して引け!』

 ……押して引け?

「……な、何を?扉?」

 駿兄はまた黙り込んだ。フフッという息づかいだけが聞こえてくる。

『フッ。ま、まあな。心の扉的な?フフッ』

 これ、泣いてるんじやない。

「もしかして、笑ってんな?」

『そんなことねえし。フフッ!笑ってない笑ってない』

「笑ってるよ!!」

「駿君笑ってるの?」

「うあっ!!」

 その時、階段を降りてきた優里子が来た。びっくりして声をあげてしまった。

『あ、もしかして優里姉来た?優里姉に代わって』

 俺はスマホを優里子に渡した。優里子は「もしもーし」と話し始め、相づちを打ちながら楽しそうに笑っていた。どんなことを話したら、そんなふうに笑ってくれるんだろう。

「はい、唯我」

 優里子はもう一度スマホを渡してきた。

「何?」

『唯我、今度お前の連絡先、優里姉に教えてもらうから』

「ああ、うん」

『いつでも、何でも連絡してこい』

「……うん」

『じゃあまたな。おやすみ』

「おやすみ」

 そこで電話は切れた。名残惜しいけれど、優里子にスマホを返した。耳に残る駿兄の声が胸の奥を温める。突然のことだったけど、話せてよかった。

「いっぱい話せた?」

「足りなかった。でも、サンキュ」

「どういたしまして。駿君には、何かいいアドバイスはもらえた?」

「へっ!?」

 優里子が何を聞いてきているのかわからず、俺は顔を赤くした。優里子にどうしたら男に見てもらえるのかのアドバイスは、意味が深くてまだ理解できてないし、それは優里子に言うのことだとは思えない!俺は焦った。

「い、いいやっ!もらってない!1ミリも!!」

「ええ?英君のこと、何も聞かなかったの?」

 ああ、そっちか。俺はホッとした。勝手に焦ってアホか俺は。優里子はあきれ気味に「まあいいけど」と言った。

「……英は寝てる?」

「ぐっすり。唯我の布団、ベッドの下に敷いたよ」

「わかった」

「じゃあ、おやすみ。唯我」

 真っ暗な廊下に、優里子の声が響いた。夜も更けたせいか、いつもと違う感じがしてドキッとした。

「……おやすみ」

 優里子の息づかいでさえ、耳をくすぐった。具体的な方法はわからないけれど、今日は押して引くのはやめといた。


                 ****


 次の日、日課の朝練を終えて部屋に戻ると、ベッドの中で英がもぞもぞしていた。顔を見ると、うっすら目を開けていた。

「はよう、英。適当に起きろよ」

「むう……」

 英は朝に弱いのか、意識がはっきりしていなかった。ベッドから体を起こそうとする英は、席を立つ時や扉を開く時と同じように、変な動きをした。その動作を見た時、初めて樹杏が言ったことの意味がわかった。

「ブッブー!僕は左腕を使うななんて言ってませーん。左手はないよ?でも使って、起き上がってみなよ」

 英は右肩を下にして体を回転させると、一度うつ伏せになった。その時、左腕はだらりとしていて、まるで体を支えようとはしていなかった。ズズッと右手を体の下に動かして、右手だけで体を起こした。力を入れていない左腕は、ベッドから落ちてブランブランと揺れたまま、起き上がる体から垂れている。まるで、左腕は紐のようだった。

「じゃあさ、明日から左手でもどこでもいいから体のどこかを使わないで過ごしてごらんよ。不便だよお?そして、そこからだんだん見えなくしていけばいい。唯我には、失った体の部位は見えない。消えていく。そして本当の意味で失うんだ」

 俺の頭の中に、樹杏の言葉が響いた。

「その恐ろしさたるや、感じてごらんよ」


                 ****


 同じ朝、佳代はスマホを見て少し困った。それは駿兄からのメッセージのせいだった。

『唯我が可愛いくて萌え死ぬ……』

「何の話?駿君。ふふふ」

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