第19話 舞台の終わり

 樹杏が舞台に出られない日は3日間。土曜日から月曜日の3連休だ。観客数も多い。本当は、樹杏の演じるジールがたくさんの人に希望と夢を与えたはずだった。俺は自分の力不足を感じるしかなく、全ての人に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 俺は1日目のように、青年ジール役の大地さんと声出しをして、カチコチの体を動かし、舞台に立った。舞台は1日目より眩しくて、観客の視線が熱かった。昨日のようにはならない。そう意識するほど、動きは固くなった。

 拳を上げて歌いきった時、俺は落胆した。昨日よりひどかった。次のシーンのため流れてくる壁の裏に入り、舞台袖に戻ると、アサヒ役から頭をポコッと叩かれた。

「明日はラストだぞ。頑張れ」

「……あの、教えてほしいんですけど」

「ああ?」

 ジールの友人”アサヒ”という役が穏やかな人の設定なのだが、この人の素に戻った時のヤンキー感が慣れない。少し怖いが、俺はどうしてもしてほしいことがあった。

 施設の医務室では、俺の気持ちなんて知らないどヒマな樹杏がタブレットを指でなぞっていた。マスクをした優里子も一緒にタブレットを見ると、舞台のホームページに、樹杏と揃って俺の画像が載っていた。

「うわあ、唯我。ちょーイケメン!」

「わあ、対照的ね。同じ役なんでしょ?」

「うん。こっちが僕ジールで、こっちが唯我ジール」

 樹杏ジールはくりんくりんの赤毛で、真っ青な目を向け歯を見せて笑う顔は、希望の物語の主人公そのものだった。対して俺は、真っ黒な髪を結って、光と反対側へ俯いている。しかも横顔。

「へえ。唯我だ!これはもうジールじゃないわね。唯我ね」

「でもちょーイケメンだよ!」

「そうかな。いつも通りよ」

「優里子ちゃんは、舞台見に行かないの?」

「本当は見たいよ。だけどね、私は待ってるの」

「待ってる?」

「唯我にね、見に来てほしいって言われるのを待ってるの」

「何それ、優里子ちゃんちょー可愛い!唯我がうらやましいなあ」

 優里子は、俺が熱で倒れた時に泣きながら話していたことを思い出した。

「俺に、これから何ができるんだろうって。どこにも、誰にも、必要とされなくなったら、どうしようって……」

 その時、優里子は俺の気持ちに気づけなかったことがとても悔しくて、申し訳なくてたまらなかった。「辞めてもいいよ」と言いたくなったけど、それを簡単に言っていいのかわからない。「早く大人になりたい」と言ったガキが、どんな未来を想像しているのか、これからどうしたいのか、優里子にはわからなかった。

 だから、俺がこれからどうしたいのか話してくれるのを待つことにしたのだ。何があっても、俺の一番の見方でいられるように。


               ****


 そして、最終日がやってきた。俺にとって、最終日の舞台が一番眩しくて、一番熱かった。


「はああ、いつまでこんなの続くんだ。輝く世界なんて迷信だ。こんなことして何になる。なあ、ジール」

「俺は、何かしてれば、こんな暗闇の地下だって輝くと思うよ」

「はっ。いかれてる。ジールの頭はいかれてる!」

「何とでも言えばいい!俺はいつか、伝説の”地上”に立つ男だ!」

「地上?あれこそ伝説だ。迷信だ!」

「輝く世界は、信じないと見つけられない。天から光が降り注ぐ伝説の世界、地上がどこかに実在するって、信じさえすれば、この暗闇だって希望の光で満ちるんだ!」


 モニター室の千鶴さんは、俺の様子を見て驚いた。

『ほら、せっせとやれやれ。とっととやれやれ!』

「唯我君、昨日までと全然違いますね。緊張感がいい感じに抜けてて、動きも声も力んでない」

 モニター室で千鶴さんと一緒にいた人が言った。

「うん。俺も思った」

「アサヒから聞いたんですが、昨日、舞台終わってから、青年ジールと3人で稽古したそうです。アサヒがかなりビシビシやったみたいですよ」

「そうか」

 千鶴さんは少し安心したが、それでも、俺の出番が終わるまでドキドキし続けた。今日が無事に終わりますようにと祈った。

 俺は舞台の真ん中でライトの光を浴びているだけで熱いのに、声を張り、胸を反らせ、立ちまわった体は余計に熱くて、衣装の下でびっしょり汗をかいていた。


「待ってアサヒ!君が誰よりも一番”地上”を見たいんじゃないか。目を開けて。アサヒ……。アサヒっ!!」

 ゆっくりとアサヒの体を床に寝かせると立ち上がり、息を吸い込んだ。

「空の色、青色黄色、赤色紫。それが世界の天井を染めている。大地は青く、果てしない。大地は固く、柔らかい」


 次の公演で、ここに立つのは樹杏だ。俺がジールである明日はもう来ない。


「何もかもが初めて見る景色。君の夢、君の見たかった世界には、朝日が昇る。君の夢、君の見たかった世界には、君の知らない、朝がある」


 眩しくて、熱くてたまらなかったこの3日間を、よく覚えておこう。樹杏と比べたら、何もかも足りない俺が、またこの舞台に立てるよう努力しよう。


「……行こう!どんなに悲しいことがあろうと、そこにきっと希望の光は昇るのだから!俺は今、地上へ旅立とう!」


 俺はいつか、またこの舞台に立つんだ。


               ****


 優里子が医務室の扉を開けると、熱の引いた樹杏が背筋を伸ばして窓の向こうを見ていた。

「どうしたの?」

「舞台が終わった。唯我、今日も頑張ったかな」

「そうだといいけど」

「次は、僕の出番だ。唯我の方が良かったなんて言われないようにしなきゃ」

「まさか。それは絶対ないわよ。だって」

「キャリアは関係ないよ。経験を積み上げたからいいお芝居ができるとも限らない。唯我が初めてお芝居をやったとしても、ジールがピタリとはまって、お客さんを惹きつけることだってある。僕らのいる世界は、とても気まぐれだから」

 樹杏の布団を握る手に力が入った。この一週間、ニコニコと笑う樹杏をたくさん見た優里子にとって、この時の真剣な目をした樹杏は、まるで別人のように見えた。

「唯我には負けない。ジールは僕の舞台だ」

「……やっぱプロだわ、樹杏君。今の唯我には、そんな言葉は出てこないと思う」

「唯我もプロだよ。僕は唯我のダンスには敵わないもの」

「そうなの?」

「うん。ちょー上手い。ちょーカッコイイ!」

 目をキラキラさせて言う樹杏は、いつもの可愛い樹杏に戻っていた。優里子は安心してクスクス笑った。

 樹杏は優里子の笑う姿を見ると、一つ聞いてみたくなった。

「優里子ちゃんは、唯我のこと好き?」

 その頃、俺は既にキャリアウーマンの運転する車で施設の前に到着していた。達成感と楽しかった気持ちで全身いっぱいだった。早く樹杏に会って、今日のことを聞いてほしい。

「そうね。大好きよ。だって小さいころから一緒にいたもの。弟よ、唯我は」

「弟かあ。唯我も優里子ちゃんのこと好きだけど、……多分、唯我の好きはそれとは違うと思うよ」

「違う?」

 樹杏は優里子の頬に手を添えて微笑んだ。その微笑みに、優里子は完全に油断した。

 俺は職員室にいた施設長に「ただいま」を言い、そこに優里子がいないことに気づき、医務室に走った。樹杏が優里子と二人きり!俺は危機感でいっぱいだった。

「唯我の好きは、キスしたいの好きだよ」

 優里子は樹杏の言葉を理解するのに時間がかかった。まぶたをパチパチとして固まっている間に、樹杏が優里子の顔にスッと唇を寄せた。

 俺が医務室の扉をノックもせずに開けた時には、優里子が樹杏にキスされていた。

「樹杏んんん!!!」

「あ、唯我!おかえり~」

 いつものようにへらへらと笑って手を振る樹杏の態度が、なおさら怒りをあおった。

「てめえ、ふざけるのも大概にしやがれ!!!よくも優里子に、優里子にい!!」

 樹杏の胸倉を掴んでブンブン振りまくった。樹杏は「あははは」と笑いながら身を委ねていた。余計腹立つ!

「おい、優里子!お前も何か言えよ!!」

「へっ!?」

 優里子は片方の頬を手で押さえて、顔を真っ赤にして俺を見て固まっていた。何で俺を見て固まってんの?

「唯我、心配しないで。唇は奪ってないからさ。ほっぺにチューしただけだよ」

「そういう問題じゃねえ!!!」

 ムカつく!ムカつく!!樹杏の笑ってごまかすところが本当にムカつく!!優里子にキスしやがって!俺だって!俺だってえええっ!!

「絶対許さねえからな!!樹杏!」

「キスなんて挨拶だよ。僕のパパもママもキスするよ?僕だってするし」

「てめえの常識が皆の常識だと思うなよ!」

「もう!わかりやすすぎだよ、唯我!顔真っ赤だよ。落ち着きなよ」

「うるせえ!バカ!」

 俺たちが言い合っている間に優里子は医務室を出た。冷たい医務室の扉に寄りかかり、虫歯を押さえるみたいに頬に添えた手をずっと離せずにいた。

「唯我の好きは、キスしたいの好きだよ」

 樹杏の言葉と同時に、俺の姿を思い浮かべた。

「いやいや、まさか……。からかわれたんだわ。そういうお年頃よ。そうそう」

 優里子は職員室に戻ろうと一歩踏み出した。その時、医務室での夏の日を思い出した。白いシーツの上で目を覚ますと、熱っぽい体を起こして、真っ赤な顔で目を大きく開けてベッドの遠くにいたガキンチョは、何かに驚いているような様子で、どこかをまっすぐ見つめているくせに、照れくさそうな様子だった。

 唯我は、何に驚いてた?何を、見つめていた?

「ふふっ。まさか。ないない」

 まさか自分のことだなんて、一瞬でも考えたことがおかしくて優里子は笑ってしまった。


                ****


 次の日、医者から完治の診断を受けた樹杏は、施設を出ていった。舞台はそれから6回の公演が行われたが、ジールは全て樹杏が演じた。俺は千鶴さんのそばで舞台の進行を見守った。

『信じさえすれば、この暗闇だって希望の光で満ちるんだ!』

 モニターで舞台の映像を見ていると、舞台に立つ前と立った後では樹杏のジールの見方が変わった。セリフの言い方、腕の伸ばし方、視線の向け方。そこにある意味を考えさせられる時、俺にはできなかったこと、足りないものが浮き彫りになる。それが悔しくて、次はできるんじゃないかと考えた。俺だったら、どんな舞台ができるか考えた。その度に、次の舞台はないことが切なくて、やっぱり悔しくなった。

 千秋楽を迎えた舞台には、大勢の観客からの拍手が上がった。その日のカーテンコールには、千鶴さんも登場した。舞台の上に立つ全員が頭を下げると、歓声と拍手が一層大きくなって会場に響いた。

 その夜、関係者全員での打ち上げが行われた。大皿料理と泡の立つ大きなコップが乱雑に並ぶ会場で、樹杏は大声を上げた。

「あれ?唯我がいない!!まさか!帰ったの!?」

 樹杏は大きなグラスのオレンジジュースを持って座敷の部屋の中をウロウロと歩き回っていた。すると、アサヒ役のチンピラ先輩が答えた。

「違げえよ。ちづさんに捕まったんだよ」

「げっ!長いやつじゃん!」

 千鶴さんと一緒にいた俺は、公演を終えた会場の責任者や協力者全員に挨拶をして回った。その中には、「公演見たよ」「良かったよ」「君、3日ジールだね」と声をかけてくる人もいた。

「唯我!ちょっとおいで!」

 千鶴さんに呼ばれてそばに行くと、そこには室内にも関わらずサングラスをかけた細身のおじさんが立っていた。もしゃもしゃに伸びるツヤのない髪にも、げそげそと生える無精ひげにも、キラッとひかる白い毛が混ざっている。常に姿勢が斜めっていて、首を傾けるのがくせのようだった。

「麻生さん、こいつが3日ジールの小山内唯我」

「やあ、こんばんは」

 見た目のわりに柔らかい声のおじさんだった。頭を軽く下げると、「麻生さん」と呼ばれたおじさんは静かに話し始めた。

「Jを見に来たその日、ジールは唯我君がやっていた。だから、今日は仕切り直しでJのジールを見に来たんだ」

「そう、ですか」

 まるで「君の舞台は期待していなかった」と言われているようで、少しショックだった。

「君の演技はあれだね。粗削りで、お粗末で、自分よがりで、観客のことなんて全然意識できてなかった」

 一言一言が矢のように飛んできて、胸にグサグサと刺さった。俺、ダメダメじゃんか。

「でもね、偶然見た君のことが忘れられないんだ。君さ、ドラマ出てみない?」

「……はい?」

「麻生さんは監督さんなんだよ。唯我に、ドラマのオーディション受けないかって言ってんの」

 俺はとても信じられなかった。この麻生さんの言う通り、間に合わせ的な稽古しかできなくて、自分が言わなきゃいけないセリフで精一杯で、目に見えないフォローをたくさんの人にしてもらって、やっと舞台に立っていた。観客席のことは野菜畑だとしか思えなかったのに、最後の最後に聞こえた拍手だけはよく耳に残っている。こんな自分勝手なことしかできなかった俺なのに、次があっていいのだろうか。

「唯我、やるの?やらないの?」

「……やります。やりたいです!」

 そんな俺でも、チャンスがあるならもう一度、舞台に立ちたい。今度こそ、自分の納得できる形にしたい。


                ****


 打ち上げの会場に遅れて入った千鶴さんに、多くの人が声をかけ、席に呼んだ。すると、そこにいるはずの俺を待っていた樹杏が声を上げた。

「あれ?!ちづさん、唯我は?まさか帰ったの!?」

「いいや。俺のスマホで電話中」

「電話?」

 俺は会場の出入り口で施設に電話をしていた。応答してくれたのは優里子だった。

『大丈夫。今日は遅くなるから、唯我のことも秋川さんが送ってくれるって聞いてるわ。楽しんできてね』

「うん」

 施設で電話を取った優里子が聞く俺の声は、いつもより低く聞こえていた。

「疲れたでしょ?帰ったら、ゆっくり休みなね」

『うん』

 言葉数の少ない低い声を聞けば聞くほど、優里子は心配した。体調は大丈夫かな。気分は落ち込んでないかな。悲しいことは、悩みはないかな。しかし、どれから聞いていいのかわからない。

『優里子』

「ん?何?」

 しかし、俺自身は全く気分は落ち込んでいなかった。それよりも、聞いてほしいことがたくさんあった。

「舞台、関われてよかった。アホの樹杏の演技がすごかったし、役者の皆の本気がすごかった。舞台を作る千鶴さんがかっこよかったし、見に来てくれるお客さんたちの本気もすごいんだ。全部、全部すごかった」

 ひんやりした空気が頬を撫でる。夜空を見上げると星がたくさん輝いていて、その数だけの感動と思いが、今の俺の中にはあるような気がした。だけど、それを全て伝えきれる言葉を俺は知らない。それもきっと、俺の課題なんだと思った。

「今の俺に、足りないものがたくさんあるってわかった。言葉も、考えも、それを伝える表現の仕方だって足りない。だけど、それがわかったから、これからも頑張れると思う」

 優里子の腕を濡らしてしまった時、優里子はぎゅっと抱きしめてくれた。その優しさに、俺はちゃんと応えなきゃいけない。

「俺、やりたいことがたくさんできたよ。優里子のおかげだ。たくさん、な」

『……うん。そっか。よかった』

 電話の音量が小さいのか、よく聞こえなかった。優里子、大丈夫かな。

「俺、もう行かなきゃ。帰る時また電話する。じゃあな」

『うん。行ってらっしゃい!』

 最後の言葉は元気な声だった。優里子の笑う顔が浮かんで、俺は安心して電話を切った。

「彼女と電話?」

 すぐそばから聞こえた声は、青年ジール役の大地さんだった。タバコを吸った息が白くたなびいていく。

「ち、違います」

「へえ。そう」

 大地さんは俺の顔を覗き込み、ふふっと笑った。肩を組まれると、そのまま会場に連れて行かれた。

 施設長が職員室の扉が開くと、職員室の中で優里子が一人で泣いているので驚いた。

「どうしたの?何かあった?」

「ううん。大丈夫、大丈夫よ」

 電話を置いた優里子はクスクスと笑っていた。笑いながら、目からは涙が溢れて止まらなかった。

「あいつ、ありがとうって言ったわよ。いつもはサンキューって言うくせに!あはは!思わず笑っちゃった。ふふふ。……よかった。よかった、唯我!」

 優里子は、心配で心配でたまらなかったガキが、自分で答えを見つけて、「頑張る」と言ったことに安心した。「ありがとう」と言ってくれたことが、すごくすごく嬉しかった。


                ****


 大地さんと会場に入ると、既に仲間たちはべろんべろんであった。わははと豪快な笑い声が飛び交い、ビールの泡がふちに残った大きなグラスが机の上に散乱している。

「ああ!唯我だ!遅いい!」

 俺が千鶴さんにスマホを返した時、樹杏はすぐさま俺の腕を取り、自分の席へと座らせた。樹杏はお酒を飲んでいないが、まるで周りと同じようなテンションでいるから、いつも以上にうるさく感じる。

「誰との電話よ!浮気は許さないわよ!」

「彼女」

 勝手に答えたのは大地さんだった。口数の少ないクールな大地さんが言うと、いないはずの「彼女」の信ぴょう性が高くなり、近くにいた人たちからは「おおっ!」と声が上がった。俺は恥ずかしくて顔を赤くした。

「ちっ!違います!」

「ああ、優里子ちゃんね。何だよ!僕にも電話させてほしかったなあ」

「てめえにさせるわけねえだろ。もう一生会わせねえよ」

「へえ。Jは唯我の彼女に会ったことあるんだ」

「どんな人?」

「だから、彼女じゃあ」

「めっちゃ可愛いよ!思わずキスしちゃった」

 周りからは、またも「おおっ!」「唯我の彼女とJがキスしたんだって!」という声が上がった。俺は樹杏が優里子にキスしている様子を思い出し、腹が立った。

「こいつ!一回その口開けなくしてやる!!」

「キャー!大勢の前でそんなっ!大胆なことしないで唯我!恥ずかしいわっ」

 余計に腹が立って樹杏に掴みかかった時、「はい、ストップ」と大地さんが俺たちの間に割って入ってきた。

「ジールたち、イチャつくなら写真撮ろう」

「イチャついてなんてっ」

「あ、いいね!撮ろうよ!」

「ほら、唯我も入って」

「唯我、もっと寄ってってば!」

「いくよお。はいチーズ」

 その瞬間、大地さんの親指はスマホのシャッターボタンから離れずひたすら連写の音が続いた。樹杏は途中で面白くなって大笑いし、大地さんは「おかしいなあ」と酔って力の入らない手で何とかしようとした。それが変なしぐさで、樹杏の声を余計に大きくした。

 周りの人たちがとても楽しそうで、笑顔でいっぱいで、笑う声であふれた。その空気を吸っている俺も、だんだんと楽しくなって、樹杏と肩を並べてたくさん笑った。こんなふうに他人と一緒になって過ごしたのは、生まれて初めてだった。


                ****


「じゃあな。元気してろよ」

「はい。ありがとうございました」

 施設の前で車を降りて、千鶴さんと挨拶をした。電灯の明かりが千鶴さんのシルエットをなぞると、千鶴さんのイケメンが余計に増して見えた。

「お前、敬語使えるようになったのな」

「前から使えます」

「前に会ったカッター持ってたガキは、敬語知らなかったけどな」

「うっ……」

 何も言えずに黙ると、千鶴さんは「ははは」と笑いながら頭を撫でた。その手が髪に指を通して、肩を持つと、そのまま体を引き寄せ抱きしめた。外の冷たい空気に触れていた上着どうしがくっついても温かくはなかったが、千鶴さんから香るいい匂いが鼻を通ると、何故だか懐かしい気がして離れがたくなった。

「またな、唯我」

「はい」

 この感じは何なのだろう。はっきりしない離れがたい気持ちが、千鶴さんの姿を追っていく。千鶴さんは車に戻り、帰っていった。俺は車が角を曲がって消えるまで見送った。

 千鶴さんは、車の窓から入る夜の街の明かりを見つめていた。目を閉じると、ゆっくりと真っ暗な夢の中へと落ちていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る