第18話 初舞台! 唯我のジール

 その日は今季で一番寒い日だった。11月中旬の町の木々は一気に色づき、カラカラに乾燥した風が走れば、ガサガサと音を立てて枯れ葉が飛んでいった。

「イ、インフルエンザ!?」

「うん。B型だって」

 施設の医務室で横になる樹杏の診察結果を聞きに来た千鶴さん、優里子、俺は驚いた。施設長は、樹杏の横に座りながら淡々と話してくれた。

「今年はもうインフルエンザ流行ってきてるみたい。特にB型。施設の子たちにも気を付けてもらわなきゃね」

「てことは、樹杏は今日から一週間、外に出られないんじゃあ」

「もちろんだよ。だからこの子のお仕事も全てキャンセルです。施設としては、お預かりして問題ありませんよ。ご両親がいないお家に帰っても、病状が良くなるとは、私は思いませんから」

「施設長、優しいなあ」

 ふにふに笑う樹杏の笑顔に、施設長はすっかりだまされていた。どうして関係者じゃない樹杏が施設の医務室で横になっているかといえば、舞台が終わった後の楽屋でのやり取りが原因だった。


                ****


「100万歩ゆずって、……唯我なら、代役でもいいよ」

 楽屋で布団の中に丸まる樹杏が言った言葉に、その場にいた全員が驚いた。

「僕、すぐ治すから!もしも、次の公演までに治せなかった時には……、唯我なら……、代役でも、いいっ」

 最後の言葉はとても苦しそうに言った。すごく我慢しまくった、という様子だった。千鶴さんはその様子を見て「わかった」と返事をした。

「とりあえず、今日は絶対家に帰れ。ゆっくり休めよ」

「それは無理。帰らない」

 樹杏が布団の中に頭を引っ込めて閉じこもった。それを大人たちが強引に引きはがし、担ぎ上げられた瞬間、樹杏は大泣きした。じたばた動き「嫌だ嫌だ!」と繰り返した。こいつはマジで精神年齢が10才、いや、それ以下かもしれない。

「樹杏、城は病人出入り禁止だから戻れないだろ。ご両親、いるだろう?それにお手伝いさんだって」

「いない!海外出張中で、1か月はいないんだ。お手伝いさんはいるけど、あの人、僕のこと嫌いだから嫌い!面倒見てくれる人なんて誰もいないんだからあ!!」

「困ったな。大人の目のあるところの方がいいんだよなあ……」

 担がれた樹杏がギャーギャーピーピーうるさい中、大人たちの困ったというため息がこぼれ落ちた。その時、ピタッと泣き止んだ樹杏が俺をじっと見つめた。嫌な予感がした。

「唯我ん家行く……」

 げっ!!!

「いやいやいや、無理無理無理」

「いいや、それはアリかもしれない!」

 千鶴さんもピンときて、ポケットからスマホを取り出し、すぐに電話をかけた。

「待って待って待って!」

「あ、お久しぶりです。秋川千鶴です。あ、はい。いつも大変お世話になっております。応援、ありがとうございます!あの、お願いしたいことがあって……」

 こんなのと四六時中一緒に生活なんてできっこない!精神年齢10才なんて、泰一一人で間に合ってるよ!断って!電話口の誰か、断って!!!

「オーケー出ましたああ!」

 千鶴さんのその一言に楽屋からは「おおおお!!」という雄叫びが上がった。樹杏は俺に決め顔をして、手でグッと親指を立てて見せてきた。何がグッだバカヤロー!!


                ****


 医務室の出入り口で施設長と千鶴さんが挨拶を交わす中、俺は樹杏の着替えをさせていた。施設のパジャマを用意して、濡れタオルで背中を拭いた。

「ああん、気持ちいい。上手、上手よお。唯我あ」

「キモい声を出すな」

「あはは。ごめんごめん」

 樹杏がフラフラしながらも、背中のタオルに押されて倒れないよう腹に力を入れているのがわかった。俺は施設長が俺の背を拭いてくれていた時を思い出した。ほてった体に冷たいタオルが滑るのが気持ちよかった。夏の俺も、こんなにクラクラしてて今にも倒れそうだったのかな。

「でも本当だよ。唯我、お手伝いさんより上手」

「お手伝いさん?」

「僕さ、親にこんなふうに面倒みてもらったことないんだ。僕のことは全部お手伝いさんがするの。お手伝いさんはいつも無言さ。僕と話したがらないし、手がとっても冷たいんだ。変なお家でしょう」

 「変なお家」でも、家は家だろ。話を聞いて、俺は何と返事を返していいのかわからなかった。変だとしても、そこには血のつながる両親がいて、家があって、ベッドも食べ物もある。俺にないものが全部、そこにはあるのだ。

「おい、J。迷惑かけずにしっかり休めよ。唯我、行くぞ!」

「バイバーイ。ちづさん」

 優里子がそばにやって来て、「あとは任せて」と言った。

「唯我、早く行っといで。これから稽古でしょ?」

「……不安」

「私は、あんたがまた熱出すんじゃないかって不安」

「……わーったよ」

「いってらっしゃい。唯我」

「いってら~」

 樹杏ののんきな声がムカつく。俺の不安は、樹杏と優里子が二人きりになることだ!医務室のドアをゆっくり締めながら、じっと医務室の中を見続け、閉め切ったところでダッシュした。医務室には、遠くなる俺の足音がはっきり聞こえていた。

「ふふふ。あんな唯我初めて見る。仲良しね、樹杏君」

「うん。唯我はいい奴だよ。僕、唯我のこと大好き」

「そっか。熱はまだありそうだけど、気分はよさそうね。よかった」

 優里子は樹杏の真っ赤な頬に手を添えた。樹杏は嬉しそうに笑っている。

「手え柔らかい。可愛い手。優里子さんに看てもらったらすぐよくなっちゃう」

 猫のように鳴きながら、満足げな顔をする樹杏を見て、優里子はふふっと微笑んだ。

 医務室を出て、千鶴さんの乗る車に乗せてもらい稽古場に入った。平日は毎日稽古場に通った。そうじゃないと本番に間に合わないのは明らかだった。

「よりによってインフルエンザとか、やってくれるぜバカJ!唯我、マジでお前に次の公演出てもらうしかねえ」

「はい……」

「いいか、死ぬ気でやれ。それだけ!」

「はいっ」

 俺はとにかく毎日必死で、「子供は8時まで!」という千鶴さんと事務所のルールに則り、稽古場での限られた時間の中で、100%以上の力で全部吸収するしかなかった。

「バカ唯我!そこだって言っているだろう!!」

「はいっ」

「声が小さい!」

「はい!!」

「腹から声出せ!!もう一回!!」

「はいっ!!!」

 ライブの時のような運動をした後の汗ではない、じっとりとした汗が額から首から脇からじわりと浮いて、まとまって肌の上を流れた。体力的にも精神的にもどっと疲れが出るおかげで、帰りの車の中で爆睡して、施設に着いた頃には半分くらいは夢の中だった。

 死ぬ気だった毎日は一瞬のように過ぎ去り、準備不足としか言いようのない状態で、本番当日の朝はやって来た。この間まで樹杏が着ていたジールの衣装を身につけて立っていると、足が地面から浮かんでいるような感覚がした。

「唯我、緊張しすぎ」

 朝一番に会場入りした俺は、舞台のための写真を撮られていた。眩しいライトが頭の上から左右から俺をめがけて光を飛ばしてくる。ふわりと風が立つとどうしても顔をしかめて伏せてしまった。

「笑ってみ、唯我」

 カメラマンの横で偉そうに立つ千鶴さんがそう言ったので笑ってみた。すると2人して「ゲッ」という顔をして、「やっぱいい」と断られた。

 時間がなさすぎて、撮影後に舞台に直行してゲネプロを経て、反省を踏まえた最後の稽古に入った。開演まで残りわずかな時間の中で、俺は死ぬ気の極限を極めなくてはならなかった。

 カメラマンに撮られた写真は、お昼のうちにはホームページに掲載され、会場のポスターは張り替えられた。樹杏が写っている横に俺がいる。俺が写っているポスターを見るのはポリカ以来だった。

「あれ?今日、樹杏君じゃないの?」

「うっそ!代役?誰この子」

 早くに会場にやって来たお客さんの声が聞こえた。俺は影をひそめてその場を離れた。俺なんかが、樹杏の代わりなんてできっこない。しかし、本番が始まるまでの時間はもうなかった。


               ****


 本番前の過ごし方は人それぞれで、座ってうなだれてたり、楽屋前の廊下をうろうろしながらぶつぶつ言ってたり、はたまた普通に喋りながら過ごしていたりする人もいる。

 俺はというと、胸がざわざわするのをじっとこらえて座っていた。今日まで見続けた台本をぐるぐるにまとめて両手で握っている。

「唯我、固くなってるけど大丈夫?」

 青年ジール役の大地さんが目の前に座って、俺の肩を軽く叩いた。

「大丈夫……」

「じゃないよな。そんなんじゃあ声出ねえよ。来い」

 大地さんは俺をひょいっと担ぎ上げ、ピアノのある防音室に連れてきた。すると、ちゃちゃっとピアノを弾き始めた。

「お前、ジールのセリフは全部入ってるんだろう?一緒に歌え」

 すると、劇中歌の伴奏が鳴り始めた。

「君の見ぬ、君の夢のその景色、俺は今、地上に

 大地さんは、青年ジールが最後に仲間たちと合唱する歌を歌い始めた。その歌詞は少年ジールが地上へ旅立とうとする最後のシーンで歌う歌詞とほとんど同じだった。

「空の色、青色黄色、赤色紫。それが世界の天井を染めるんだ。大地は青く、果てしない。大地は固く、柔らかい」

「何もかも、何もかもが初めてだ」

 大地さんの歌声は、よく響く爽やかな声だった。俺はその景色を想像した。心地いいピアノの音色に、俺は歌声をのせた。最初は呟きでしかなかった声は、だんだんと大きくなった。

「君の夢、君の見たかった世界には、朝日が昇る。朝日が昇る。君の見たかった世界には、君の知らない、朝がある。君の見たかった夢の世界、俺は今、地上に!」


 煙たい真っ暗な世界に、その声は今日も響いた。

「暗闇を掘り進め!輝く世界はこの向こう!いづれは地上に出るだろう!」

 現場監督が声を上げると、スコップを手にする男たちは繰り返した。

「暗闇を掘り進め!いづれは地上に出るだろう!」

 深くため息をもらす男は言った。

「はああ、いつまでこんなの続くんだ。輝く世界なんて迷信だ。こんなことして何になる。なあ、ジール」

 隣でのそのそと作業をしていたジールは、間の取り方がド下手くそだった。

「……俺は、何かしていればこんな暗闇の地下だって……輝くと思う!」

 変な間をカバーすべく、穴掘りをさぼりたい無気力な男は気合を出す。

「はっ!いかれてる。ジールの頭はいかれ」

「何とでも言えばいい!俺はいつか、伝説の”地上”に立つ男だ」

「地上?はっは!あれこそ伝説だ。迷信だ!」

「輝く世界は、信じないと見つけられない……」

 俺の声は、少し小さかった。これじゃあまずい。声を上げろ!

「天から光が降り注ぐ地上がどこかに実在するって、信じさえすれば、この暗闇だって希望の光で満ちるんだっ!ほら、せっせとやれやれ。とっととやれやれ!」

 ジールがスコップを持ち上げたところで、説得力が足りない。セリフを間違えた!立て直せ!練習通りにやるんだ!やれば、できる!としか言いようがない。

 舞台の上はライブのようなスポットライトと、太陽のような暖色のライトが点々と照らす場所だった。はためく衣装の音、移動する舞台装飾。目の前に立つ登場人物たち。まさに異世界の上に立っているように思えた。


「千鶴、いるかい?」

 少し太く低い声がモニター室に聞こえた。千鶴さんは驚いて振り返った。

「ジェニーさん!お疲れ様です」

 そこには、ジェニーズ事務所の社長、ジェニー荒木田さんが立っていた。少し背中が曲がってはいるが、シルバーのスーツが良く似合うおじいさんで、取っ手がラメでキラキラしている黒いステッキと黒いハットを持っている。白髪を固めて、何年も大事に使ってきた金色縁のメガネをつけている。

「ふふふ。見に来たよ。まあ気にせず、君の仕事をしたまえ」

「あとで、たくさんお話しましょう!久々に会えたんだから」

 千鶴さんはモニターに振り返った。隣に椅子が用意されると、そこにジェニーさんはゆっくりと腰かけた。

「今日は、樹杏じゃないんだね」

「あいつ、インフルエンザになって、療養中なんですよ」

「ほっほう!じゃあ、あの子は?」

「前に言ったでしょう?あれが、俺の大事な

「……千鶴、言葉は選んだ方がいいよ。皆、驚いた顔しとるよ」

 千鶴さんが「え」っと辺りを見ると、モニター室にいる全員がじろっと千鶴さんを見た。

「いやいや!冗談だって!何考えてるんだよ、皆!」

 隣にいたジェニーさんは、楽しそうに「はっはっは」と笑った。

「千鶴、可愛い子には旅をさせよ。ねえ?」

「はい」

 モニターを見てクスッと優しく笑うジェニーさんを横に、千鶴さんはドキドキしていた。どうして、今日に限って来たんだこの人は!せめて、先週の舞台を見に来てほしかった……。

 千鶴さんは祈るように思った。

 唯我、最後まで立ってくれるだけでもいい。頑張れ、唯我!


 舞台の上には、空気のように目に見えない人と人の意識があって、それが激しく強くぶつかり合っている。例えるなら、雷を腹に溜め込んだ黒雲の中に放り込まれてしまって、息もできず、容赦なく雨風に打たれて、遠くにとどろく雷を見て、恐怖しながら、もがきながら必死に耐えているようなものだ。

 なのに、心臓が強く脈打つ。体が熱くなる。一歩を大きく踏み出して、ここに足をついて立っていることを感じさせられる。俺は今、ジールなんだと意識する。

「…行こう!どんなに悲しいことがあろうと、そこにきっと希望の光は昇るのだから!俺は今、地上へ旅立とう!」


 拳を上げ、天井のライトの光の中に向かって歌った。会場には拍手が鳴る。すると、舞台の上は真っ暗になり、目の前に壁がスーッと移動して俺の姿を隠した。俺はしばらく動けなかった。それでは次のシーンが始まらない。

「唯我!浸ってんな!戻ってこい」

 アサヒ役の先輩は俺を抱えて、舞台袖に引っ込む壁の後ろにくっついて退場した。

「手間かけさせやがって!バカ唯我!」

 アサヒ役の先輩から小さな声で怒鳴られると、ようやく自分の出番が終わったことを理解した。

「すみません」

 呆れた先輩は俺の頭をわさわさと撫で回し、それから去り際に背中を軽く叩いた。俺の体の中は、心臓の音でいっぱいだった。胸から飛び出してしまうのではないかと思うほど強く脈打っている。

 全身の血が沸騰している。頭の中は、まだ出番を終えたと認識できていない。言葉にできない、感動と興奮がどこからか溢れて、落ち着けなかった。

 こんなことを樹杏はやってきていたのか。あいつ、すげえんだな。役者って、すげえんだな!

 その頃、観客席の3階にあるモニター室では、目頭を押さえて千鶴さんが深いため息を吐いていた。

「終わった。よかった……」

「ドキドキだったねえ」

「はい。マジで」

 千鶴さんの精神的疲労感を見て、ジェニーさんは「はっはっは」と笑った。

「唯我は小5だっけ?僕のには上げてくれないの?」

「上げてくれるんですか?」

「やりたまえよ」

 千鶴さんは、「その一言を待ってました!」と言おうとしたが、次のジェニーさんの一言を聞いて、言葉を失った。

「それにしても、唯我は似てるねえ。昔の裕二郎に」

 それから、後半のジールの舞台が始まった。俺は最後のカーテンコールに立ち、観客の拍手をあびてから、アサヒ役の先輩にしこたま怒られて、俺の舞台初日は無事に終わった。


                 ****


「唯我、おかえり!って、ちょっと!どこ行くの?」

「樹杏!樹杏!」

 俺は施設に戻ると、優里子のことをほったらかして医務室に直行した。医務室に行くと、頬をリンゴみたいに赤くした樹杏が「よっ!」と元気そうに手を上げた。

「お前、ジールのあのシーン、どうやってる?何か意識してたりする?」

「どのシーン?」

「ここ」

「ああ、ここはねえ……」

 医務室の机に置いたリュックサックから、グルングルンに丸まった台本と鉛筆を取り出し、樹杏に見せた。樹杏は俺の夢中な顔を見て笑った。

「何だよ」

「ねえ、楽しかった?」

 樹杏の笑った顏は、人と人の間にある壁をこんにゃくみたいにふにゃりと柔らかくして無くしてしまう。おかげで、俺は素直に言ってしまった。

「……楽しかった。すげえ緊張したけど、すげえ楽しかった!」

「だよね!楽しいよね!」

 その笑顔に心を許してしまったことが悔しくもあったが、共感してくれていることが嬉しかった。樹杏に話したいこと、聞きたいことがたくさんあった。しかし、俺を追いかけてきた優里子が医務室に入ってきて、俺をポイっと追い出して入れてくれなかった。

 医務室前で言い合う声を聞きながら、樹杏は布団に丸まって、クスクスと小さく笑っていた。

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