第17話 『ジール スタンドオンザグラウンド』

 舞台稽古は、例えるなら包丁とか刀を日々研ぎ続けるような感覚に似ている。役者がセリフを言い合い、立ち回るばかりではない。たった一つの舞台を作るために、それぞれの技術と表現力を研いで研いで、刃の美しい細い本筋を見るために日々を費やす。それはとても過酷で、だけどとてもやりがいのあることのように思えた。

 俺は、樹杏や千鶴さん、他の出演者たちの様子を見ながら、少しだけ、舞台へ憧れを抱いた。


                ****


 暗闇に人々の歌が響いてきた。

「ここはどこともわからぬ地下の中。俺たちゃあ毎日、スコップ片手に穴堀穴堀!労働党に言われるがまま、俺たちゃあ今日も穴堀穴堀!」

「やりたいことはあ?」

「ねえなあ、ねえなあ!穴堀りたいわけでもねえなあ」

「生き甲斐は何だあ?」

「ねえなあ、ねえなあ!穴堀ることでもねえわなあ」

 舞台の上が、少しずつ明るくなっていく。そこには10人くらいの役者が立っていた。指揮官が一人、指を立てて高々と歌い、スコップで何かを掘る動作をする人が、舞台のあちこちにいる。

「暗闇を掘り進め!輝く世界はこの向こう!いづれは地上に出るだろう!」

 現場監督が声を上げると、スコップを手にする男たちは繰り返した。

「暗闇を掘り進め!いづれは地上に出るだろう!」

 作業をする人の中で、手を止めて、地面に差したスコップのえの部分に両手とあごを乗せて、深くため息をもらす男がいた。

「はああ、いつまでこんなの続くんだ。輝く世界なんて迷信だ。こんなことして何になる。なあ、ジール」

 隣でせっせと作業をするのがジール、樹杏だ。

「俺は、何かしてれば、こんな暗闇の地下だって輝くと思うよ」

「はっ。いかれてる。ジールの頭はいかれてる!」

「何とでも言えばいい!俺はいつか、伝説の”地上”に立つ男だ!」

「地上?あれこそ伝説だ。迷信だ!」

「輝く世界は、信じないと見つけられない。天から光が降り注ぐ伝説の世界、地上がどこかに実在するって、信じさえすれば、この暗闇だって希望の光で満ちるんだ!ほら、せっせとやれやれ。とっととやれやれ!」

 ジールがスコップを持ち上げて、男にスコップを握らせた。


 そこに立っていたのは、樹杏ではなく主人公ジールだった。ジールは真っ暗な地下の国「アンダーグラウンド」でも元気で前向きに明るく暮らしている。確かに、樹杏はいつも元気で明るい。けれど、決して樹杏とは違う、ジールという空想の人がそこにはっきり現れた。俺は目が離せなかった。何度も何度も樹杏はすごいと思ってきたけれど、今日ほど樹杏にすごいと思ったことはなかった。

「ジールは誰にも渡さない」

 そう言った樹杏の様子を思い出した。誰にも奪えやしない。ジールも、その覚悟も。ここまで見事に演じられたジールを、他の誰もできやしない。

「お前はどう思う?Jのジールは」

 千鶴さんが小さな声で言った。両手を胸の前で組んで、ふかふかの椅子に深く沈むように座る千鶴さんは、切れ長の目を横に流して、長いまつ毛の奥から俺を見つめた。

「樹杏にしかできないと思います。こんなに、人の心を温める世界を作れるのは、樹杏だけだと思います」

「そうか。じゃあ、お前にはどんな舞台が作れる?」

「俺に?」

「感じるばかりじゃダメだ。考えろ。そして、作り出せる技術を身につけろ。そうじゃなきゃ、ここにお前がいる意味がない」

 千鶴さんが舞台に視線を戻した時には、樹杏の演じる少年ジールは最後のシーンを迎えようとしていた。


「待ってアサヒ!君が誰よりも一番”地上”を見たいんじゃないか!目を開けて!アサヒ……。アサヒっ!!」

 ジールは倒れる友人アサヒを抱きしめた。何度声をかけても、息を引き取ったアサヒから返事はなかった。ゆっくりとアサヒの体を床に寝かせると立ち上がり、ジールは歌い始める。

「空の色、青色黄色、赤色紫。それが世界の天井を染めている。大地は青く、果てしない。大地は固く、柔らかい。何もかもが初めて見る景色。君の夢、君の見たかった世界には、朝日が昇る。君の夢、君の見たかった世界には、君の知らない、朝がある。…行こう!どんなに悲しいことがあろうと、そこにきっと希望の光は昇るのだから!俺は今、地上へ旅立とう!」


 あの日、樹杏が一人で稽古場で歌っていた時を思い出す。拳を上げて、背中を反らし、ぐっと体を上へ上へと伸ばす姿は、ジールが地上に向かう決意を固めたことを表していた。舞台に落ちる光がジールの姿を照らした。

「あれと同じことなんて望まない。”感じる”ことを、どう表現するのか考えろ」

「”感じる”ことを、どう表現するのかを考えること……」

 ここで初めて、千鶴さんからはっきりとこの舞台での俺の役割を伝えられた。


               ****


 初日の舞台を終えれば、少しは落ち着くものかと思ったが、むしろ本番を重ねる度に勢いと気持ちが乗っかって、日々の舞台はどの回も印象の違う舞台となった。俺にはそれがとても不思議だった。同じセリフ、同じ立ち回りのはずなのに、こないだと、昨日と、今日だけでも違いがあることに気が付いた。空気感や、観客の反応の違いという微妙な差でさえ舞台に影響がある。そこに立つのがプロなんだと理解した。

「おつかれさまでしたあっ!!お先に失礼しまあすっ!!」

 その日の舞台が終わると、樹杏はすぐに荷物をまとめて会場を後にした。

「樹杏、また違う仕事入ったらしいよ」

「まじか。相変わらずお忙しいねえ」

 楽屋では、帰った樹杏のことが話されていた。他の仕事と並行しているなんて信じられない。樹杏は本当にすごいんだな。

「でも、ちょっと不安」

 そう言ったのは、青年ジールを演じる口数の少ないクールなイケメン、川瀬大地さんだった。

「今日、いつもと少し違った。だから、俺もいつもと少し違う演技に変えたんだ」

「何が変わったのさ」

「う~ん。声、いや。のど、かな」

 大地さんの指摘は的中した。次の週の土日で会った樹杏は、マスクをつけて、けほけほと咳をしていた。

「樹杏、風邪?」

「ちょっと乾燥しちゃっただけだよ。のど飴なめまくってるから大丈夫!あ、大地君、こんちゃーす!っけほ」

「J、大丈夫?」

「平気平気!気にしないでくださいよ!けほけほっ」

「無理してんじゃねえの?」

「ははは。まっさかあ!もう、心配してくれちゃって!大地君は優しいんだからあ」

 笑う顔は、マスクでほてっているのか真っ赤だった。楽屋で俺を見つけると、樹杏は「おっはよう、唯我!」といつもよりもテンション高めの挨拶をしてきた。へらへらと笑っているが、少し違和感はあった。

「お前、本当に大丈夫か?いつもよりキモいぞ」

「キモいって、ひどいなあ。あははははっほ!けほげほげほ」

 樹杏は咳き込みながら、背負っていたリュックサックから水筒を取り出し、トクトク飲んだ。

「変なところにつば入っちゃった。けほっ」

「今日は舞台2本あるけど」

「平気だって!気にしないで。皆してしつこいなあ!」

 ぷくっと頬を膨らませて、樹杏はぷんぷんと怒り始めた。気にするなというなら、もういいや。俺は台本とペンを持って楽屋を後にした。

「は?樹杏が咳き込んでる?」

「本人は平気と笑ってるんですけど……」

「あいつ、絶対無理してるんだ!」

 千鶴さんはモニター室で舞台の様子を見ながら、音量やライトの調整をしていた。

「忙しくなると、すぐ咳き込むんだよ。昔っからそうなんだ」

「確かに、別の仕事が重なってるって先輩たちが言ってました」

 千鶴さんはヘッドホンを片耳に押し当てて、たくさん並ぶ小さなレバーをゆっくり上げ下げすると、オーケーサインを出した。

「でも、どんな状態であれ、あいつがやるっていうならやってもらうしかない。舞台の幕は、今日も上げなくてはいけないんだから」

「はい……」


                ****


「そこにきっと希望の光は昇るのだから!俺は今、地上へ旅立とう!」

 ジールが背筋を伸ばし、声高々と歌い上げると、舞台は徐々に暗くなった。出番の終わった樹杏と倒れるアサヒ役の姿は、動く大道具の影に隠れる。その大道具の動きに合わせ、二人は舞台を移動し、袖まで戻っていく。すると、真っ暗な舞台上からは少年ジールとアサヒの姿は消え、次の物語へとスムーズに入る仕組みになっていた。

 袖に戻った樹杏は少し苦しそうな呼吸をしていた。

「大丈夫か?」

 隣にいたアサヒ役が言うと、樹杏はへらっと笑った。

「大丈夫」

 樹杏はゆっくり楽屋に帰った。

 楽屋の扉を閉めると、扉に背を預けて息を整えた。舞台の緊張から解放され、バクバクと強く動く心臓を落ち着かせ、胸いっぱいに空気を吸って、吐いてを繰り返し、ゲホゲホと咳き込みながら自分の荷物の場所まで戻った。水筒を取り出し、のどを潤し、飴を一つパクリと口に含んだ。

 大丈夫。大丈夫。明日も舞台に立てる。こんなのへっちゃらさ。

 口の中で飴を転がしながら、樹杏は自分に言い聞かせた。本当は今すぐ眠りたくてたまらない。けれど、カーテンコールを済ませるまでは横になれない。樹杏は楽屋を出て、共演者たちのいる場所へと戻った。

 その日の舞台は2回公演だった。樹杏はちゃんと二度目のカーテンコールまで笑顔を絶やすことなく過ごした。

 しかし、次の日は楽屋に来た時点で具合が悪そうだった。暑苦しいほどの厚着で、顔は真っ赤っか。マスクの奥からヒューヒューという呼吸が聞こえてくる。楽屋の皆はドン引きした。

「おい、J。お前それはやばいだろう……」

「いくらなんでも休めよな」

「いや、できます。やりますよ!皆大げさなんだから。はは」

 樹杏は荷物を置き、厚着した服をゆっくり脱ぎ始めたが、脱いだものをたたむつもりもなくて、床にポイポイ置いていた。それを拾って畳んでやった時、樹杏の服の熱さに驚いた。

「おい、樹杏」

 樹杏の肩を掴んだだけでも、体が熱を帯びているのがわかった。樹杏は真っ赤な顔をしかめて振り返った。

「唯我、気にしないで」

 いつもの元気はつらつな樹杏の表情ではなかった。

「熱あるだろう。それで出るつもりかよ」

「できるから来たんだよ。熱が出ようと、怪我してようと、僕は舞台に出るんだ」

「無理だよ、こんな状態じゃあ。本番中に倒れたらどうするんだ」

「絶対、死んでも倒れない。だから、唯我はいつも通り、僕を見送って。自分のすること、ちゃんとやって」

 樹杏は俺の肩に手を添え、そこに頭をうなだれた。

「頼むから……」

「樹杏……」

 樹杏の熱い息が首に落ちてくる。熱を外に吐き出すような赤毛が首元に当たってくすぐったい。俺にも、共演者たちにも不安がつのった。何でこんな状態なのに意地でも舞台に立とうとしてるんだろう。しかし、その意思を曲げることは、誰にもできない。今日は樹杏から目を離しちゃダメだと思った。


               ****


『待ってアサヒ!君が誰よりも一番”地上”を見たいんじゃないか!目を開けて!アサヒ……。アサヒっ!!』

 誰もの心配をよそに、樹杏は舞台の上にまっすぐ立っていた。むしろいつもより強くて明るくて前向きなジールを演じていた。声も良く通るし、咳き込むこともない。俺は千鶴さんとモニター室で様子を見ながら、ドキドキしていた。

「唯我、楽屋の床、広げとけ。何があってもいいように。急げ」

「はいっ」

 俺は急いで楽屋に戻った。あと少しで出番が終わる。頑張れ。頑張れ、樹杏!

「俺は今、地上へ旅立とう!」

 ジールが拳を上げると、会場からは大きな拍手が鳴った。

 ああ、終わった。僕はちゃんとやり通したんだ……。

 樹杏の視界はすでにぼやけ始め、拍手の音さえ遠くなっていた。気づかないうちに仲間の声も聞き取れなくなり、熱の上がった体には力をいれることもできなくなっていた。

「おい、J。動けっ。戻れっ!」

 移動してきた大道具の影で、アサヒ役が小さな声をかけたその瞬間、樹杏の体は後ろへ倒れた。アサヒ役は樹杏の体が床に倒れる前にキャッチして、音を立てないように袖へと戻った。

 それから樹杏が目覚めたのは、舞台後半の青年ジールの内容が半分くらい終わった頃だった。うっすらと目を開けると、楽屋にあるテレビからは、舞台のライブ中継の音がしていた。

「唯我……」

「樹杏、起きたか?」

 樹杏はバッと起き上がり、とても不安そうな顔をして俺とテレビを見つめた。

「僕、倒れた?幕が下がってから倒れた?」

「うん。大道具の影に隠れてから、音も立てずに」

「あ、良かったあ……」

「良くないだろ、バカ」

 樹杏の熱のこもった冷えピタにデコピンした。本当にバカだ。舞台バカ。

「ここどこ?」

「楽屋。とりあえず飲んで、寝とけ」

 樹杏にコップを渡し、買ってきたポリカをついだ。樹杏はゆっくり飲み干すと、布団にもぐった。

「カーテンコールは出るからね」

「そう言うだろうって、秋川さんが。幕が降りてから死ねだとさ」

「あはは。ちづさんっぽい」

「今は寝とけ。カーテンコール前には俺が起こすから」

「うん。ありがとう。……唯我の手、安心する」

 撫でる樹杏の頭が熱かった。俺も夏に熱を出していたから、その時の体の具合の悪さを覚えている。樹杏は笑っているけれど、見た目以上にしんどいだろう。

 俺はテレビに振り返り、舞台の様子を見た。

『地上はもうすぐだ!走れ!ジール!!』

「空はこの上に……」

『空はこの上に!』

「希望は彼方に……」

『希望は彼方に!』

 俺はジールのセリフを、無意識に息のように小さく呟いていた。

「今」

『今!』

「『俺たちの未来は、開かれるんだ!』……」

 樹杏は布団の中から、俺の様子を見ていた。


               ****


 カーテンコールでは、役者がそろって手を繋ぎ合って頭を下げる。割れんばかりの拍手は、樹杏の脳みそを揺らした。幕がしっかり降りると、樹杏は青年ジール役の大地さんに抱えられ、そのまま楽屋へと運ばれた。

「まだ公演は2週間続くんだ。お前、明日の仕事は休めよ。俺からもマネージャーに言っといてやるから」

 樹杏は布団の中に顔までつっこんでグズングズンと泣いていた。千鶴さんは、樹杏の天然パーマの赤毛に手を入れて、優しく頭を撫でている。

「しかし、次の公演は5日後です。ぶっちゃけJは大丈夫ですか?」

「……どうしたもんかな」

 俺が樹杏の荷物をまとめている間、樹杏を囲って大人たちが頭を悩ませていた。その時、布団の中からもぞもぞと声がした。

「……なら、いいよ」

「ん?何だよ、J」

 布団から真っ赤な顔半分くらいを出して、樹杏は涙で濡れた目を千鶴さんに向けた。

「代役、唯我ならいいよ」

 その一言に、その場に集まっていた全員が固まった。そのあり得ない言葉に、俺も千鶴さんも他の大人たちも驚いていた。

「お、俺が……?」

 もぞもぞと樹杏は加えて言った。

「100万歩譲って……」

 100万歩って、本当に譲ってるのか?

「Jが……、100万歩も譲るだと!?」

 大人たちはガヤガヤと騒ぎ始めた。

「あのJが譲った!?」

「代役立てただけでギャーギャー騒いで仕事にさせなくする、あのJが!」

 驚くところ、そこ!?というより、睨みつけて「ジールは渡さない」とか言ってやがった奴が何を簡単に渡してんの!

「おい、樹杏っ」

 樹杏は俺をチラッと見ると、ニコッと笑った。

 待て待て待て待て!!俺が、本当に樹杏の代役に!?

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