第16話 俳優 大貫 樹杏
稽古の集合時間は朝9時だったが、早めに稽古場にいようと思い、土曜日の朝8時、俺は稽古場に到着した。皆がどんな風に稽古の前を過ごしているか知りたかった。しかし、稽古場の扉を開いた瞬間、部屋に充満していた熱気がぶわっと流れてきた。そこにいた人たちは、既に汗ダラダラで、ハアハアと苦しそうな息づかいが聞こえてくる。
「あ、唯我!おはよう!」
首から下げたタオルで首筋を拭いている樹杏がいた。
「おはよう。皆、何時からいたんだ?」
「ん?人それぞれだよ。僕は7時だけど」
「7時!?」
「ここ、城からタクシー使ったら10分くらいだから早く来れるもん。そんで遊んでるうちに皆どんどんやって来る。それがいつもの感じ」
「遊ぶ……?」
「そうそう。遊びだよ」
そう言って、樹杏はスマホの画面を指でなぞり、稽古場のスピーカーから曲をかけた。知っている曲が流れた。
「ちづさんの曲、どれも大好き!だからこうして朝からずっと踊ってるの。楽しいよ!唯我もやる?あ、これ知ってる?俺たちが生まれる前くらいのヒット曲」
「知ってる。青春隊の曲だ」
それは、俺が毎朝のダンスの練習で必ず踊る曲だった。その曲の始まりはリズミカルな手拍子から始まる。周りにいる男たちは頭の上に手を上げてリズムに合わせて手拍子した。それはまさしく、この曲の振り付けだった。
「唯我も踊ろう!」
前奏が始まった瞬間、稽古場の中にいた全員がそれぞれに踊り始めた。青春隊は3人組のグループで、メンバーの一人が座長の秋川千鶴だった。俺は樹杏に誘われ隣で踊ったが、途中で樹杏と同じ動きをしていることに気が付いた。
「あ、唯我もちづさんの振り付けだ!一緒!」
樹杏は一緒が嬉しそうだったが、なぜか反抗心が湧き、次のタイミングでステップを変えた。それまでしていた秋川千鶴の振り付けから、青春隊のメンバーの一人である比嘉裕二郎の振り付けに切り替えたのだ。比嘉裕二郎は秋川千鶴とは全く違う振り付けを踊るタイプの人で、この時の俺は、樹杏と踊るなら秋川千鶴に対抗する裕二郎の振り付けが一番面白いと思った。
樹杏と正面で向かい合った瞬間、樹杏は驚いた顔をしていた。少し、してやったと思った。
「お前が千鶴さんなら、俺は裕二郎だ」
「うん。うんっ!面白い!!」
樹杏が楽しそうな顔で俺を見つめた。俺たちは同じような気持ちでいる。そう思えたら、余計に面白くなった。俺たちは向かい合い、別の振り付けをしながら互いのポジションを換え合い、背中を重ねてステップを踏んだ。
その間に千鶴さんがやって来ていた。周りで気づいた人たちは「おはようございます!」と頭を下げたが、俺たちは振り向きもせず互いだけを意識して踊っていた。その様子を見て、千鶴さんは固まった。その曲が終わるまで、じっと俺たちを見つめていた。
曲が終わり、最後の決めポーズを二人で決めると、樹杏が大きな声で笑いながら俺に抱きついてきた。
「面白い!楽しい!唯我、すげーダンス上手!!さすがイツキと踊った奴だ!」
「うるさい。耳元で叫ぶな!熱いから離れろ!」
「すげーすげー!唯我すげー!!え、もしかして青春隊の3人全部踊れたりすんの?」
「……まあな」
「すげー!!」
「だから、うるせえ!」
「うるさいのは、お前ら二人ともだあ!!」
その時、千鶴さんの拳が俺と樹杏の頭にゴツーン!と落ちてきた。そこでようやく頭が冷えた。
「座長様が来たってのに、気づきもしねえで遊んでるとは、いい度胸じゃねえか。ああ?」
千鶴さんは怒った顔で笑っていた。それがとても怖くて威圧的だった。俺たちは「ごめんなさい」と素直に謝った。
****
舞台稽古は日々多くのものが変わっていく。セリフの言い合い、ポジション取り。表現の形が細かく指示され、それに合わせて舞台装飾の位置やバランスも変わっていく。俺には情報量がすごすぎてついていけなかった。
「違う!もう一回!何度言わせるつもりだ!」
「はいっ」
千鶴さんが長いサラサラの髪の毛をお団子にして首もとでまとめていたが、腹から出される声と手の振りでザラザラと髪の毛が落ちていく。大人が大人を叱ってる。そんな場面を初めて見た。いや、多分ガキを叱るのと並べてはいけないのだろう。千鶴さんはプンプンしながら俺の隣にある椅子に深く座って足を組んだ。
俺は渡された脚本を床に置いて、千鶴さんと助監督の指示や指導をメモし続けていた。まるで会議の書記のようだった。下ばかり向いていると髪の毛が邪魔になり、俺も髪の毛を束ねた。
「おい、唯我」
低い声でとげとげしい言い方で千鶴さんが声をかけてきた。顔を上げると、千鶴さんはじっと稽古の方を見て俺と目を合わせなかった。
「メモばっかしてねえで稽古も見とけ。下ばかり向いてちゃあ、俺みたいにはなれないぜ」
「はい」
稽古という場所は、ライブのために集まったJrの当日の立ち回りやダンスの練習をする空間とは全く違う。大人が本気でぶつかり合って、それぞれの個性の表現を探って合わせて作り上げる空間。俺なんかが簡単に出入りしていい場所ではないように思えた。
しかし、本気の大人たちに混ざって堂々とする樹杏はすごい奴だと思った。体の隅々の動きが細かくて、つい目がいってしまう。視線、腕の高さ、体の曲線、表情。そこにまっすぐ立って、樹杏だけが演じる「ジール」が動く。大人に負けない本気が伝わってくる。いつもはちゃらんぽらんで、へらへらとしているのに、舞台に立つ樹杏はとにかく「すごい」の一言に尽きる。
「だから、そこ!お前はいつまで”ただのジール”でいるつもりなんだよ!樹杏!」
千鶴さんの怒号が響くと、稽古場の空気は固まった。俺は怖くて固まった。チラッと千鶴さんを見ると、ものすごい剣幕で樹杏を睨みつけていた。
「もう一度、お願いします!」
樹杏は痛みに耐えるように体に力を入れていた。俺だったら、こんなふうに怒られて、それでも樹杏のように立っていられるだろうか。
「……いや。次の場面にいこう。青年ジールの出番。準備」
千鶴さんの指示があると、大人たちは黙って移動を始めた。しかし、樹杏だけはそこから動かず立ち尽くしていた。「もう一度!もう一度!」と何度も声を上げたが、千鶴さんも他の役者も、皆して樹杏を無視した。いよいよ樹杏の前に青年ジール役のイケメンが立つと、樹杏は稽古場を出て行った。
「唯我、Jの様子見てこい。様子を見るだけでいい」
「はい……」
言われるまま、俺は樹杏を追いかけた。廊下を出て、樹杏がいそうな場所を探して歩いていると、鼻をすする音が聞こえた。そこは非常階段の踊り場で、樹杏はしゃがみ込み、服の胸元を引っ張って顔を覆って泣いていた。俺はとっさに壁に隠れた。見てはいけない気がした。
声を殺して泣いている様子や、顔を覆って小さくなっている姿を見ると、いつもの明るい樹杏とは全く違う人のように思えた。俺からすれば、樹杏の演技は主役のジールそのものだけど、それは千鶴さんが求めるジールではないんだ。目に見えない、触れない、言葉に表せないようなものを表現することは、樹杏にとっても難しいことなんだと思わせられる。
しばらくして、樹杏は鼻をずぶずぶと鳴らして廊下に出てきた。壁にピタッと張り付いた俺を見つけると、ググっと睨んできた。俺は、いつものようにへらっと笑うものと思っていたので驚いた。樹杏はそのまま無言で俺の横を通り過ぎ、一人で稽古場に引き返した。何だよ、無視かよ。俺は樹杏の後から稽古場に引き返した。
****
次の日は午後からの稽古だった。俺は2時間前には来ていたが、稽古場に入ると、既に樹杏がいた。誰もいない稽古場には、樹杏の歌声が響いていた。それは劇中歌で、ジールが旅立つ決意をする歌だった。
「空の色、青色黄色、赤色紫。それが世界の天井を染めている。大地は青く、果てしない。大地は固く、柔らかい。何もかもが初めて見る景色」
伸びやかな歌声は、空の見えない稽古場に太陽の光が差してくることを想像させた。
「君の夢、君の見たかった世界には、朝日が昇る。君の夢、君の見たかった世界には、君の知らない、朝がある」
ジールの希望の歌は明るい歌詞なのに、樹杏の表情は不安を秘めているようだった。俺は静かに近づいて、定位置に荷物を置き、脚本を手に取った。ジールの歌のページを開き、「不安を隠している顔」とメモした。
「行こう!どんなに悲しいことがあろうと、そこにきっと希望の光は昇るのだから!俺は今、地上へ旅立とう!」
アカペラで歌う樹杏の声には力強さがあり、よく響いていた。拳を高く上げ、上に向かうように背筋を伸ばし、かかとを上げている。いつもより樹杏が大きく、強く見えた。
樹杏はゆっくりかかとを落として、俯いた。
「唯我は歌は好き?演技は好き?」
「え」
「僕は好き。ダンスも好き。だから舞台に立つのが一番大好き。それから、取柄のなかった僕にできることをくれたちづさんが大好き。……僕はね、唯我がここに来た理由は、僕の代役になるためだと思ってる」
俺は信じられなかった。そもそもそんなことを千鶴さんは言わなかった。
「俺は、お前と千鶴さんのフォローだって、千鶴さんがっ」
「僕が大の代役嫌いだって知ってるから、適当なこと言ったんだよ。ちづさんは、意味もないのに唯我を連れて来ない。少なくとも僕は、唯我は代役、そう思った」
樹杏は昨日のようにじっと俺を睨んだ。
「僕にとって、僕の役を奪おうとする人は敵だ。ジールは絶対渡さない」
本気で睨む人は、俺の知る樹杏ではなかった。その迫力に、思わず息をのんだ。どれだけ本気で舞台を作り上げようとしているのかが伝わってくる。その責任や想いの重さが、まるで俺とは違っていた。
「俺に、お前の代役は無理だ。奪えるわけない」
「そう思うのは唯我だけ。渡さないって思ってるのも、僕だけ。だけど……」
樹杏は言葉につまった。視線を反らし、恥ずかしそうな顔をした。
「敵だけど、僕は唯我とは仲良しでいたいんだ。だから、その……。昨日は、無視ちゃてごめんね」
ものすごく真面目な話をしているんだと思っていた。しかし、樹杏はただ謝りたかっただけだとわかった瞬間、気が抜けてしまった。
「何だよそれ。別にどうでもいい」
「どうでもいいって何さ!僕は一晩中悩んだんだ。唯我に悪いことしちゃったって」
樹杏はむくっとふくれていた。その顔が面白くて、つい「ぷっ」と笑ってしまたた。
「あー!笑った!ひどい!」
「俺、お前が真剣に舞台を作ろうとしているのは、本当にすごいと思うんだ。もし、お前の言う通り、千鶴さんが何か考えてるってんなら、俺はそれに応えたい。だけど、そうすることでお前の敵になっても、俺はお前を嫌わない」
「……唯我」
「だから、その変な顔を直してくれ……」
樹杏は今にも泣きそうな顔をして目の前で口を開けていた。変な顔をこうも目の前でキープされては腹がくすぐったくて痛くなる。俺がクスクスと笑っていると、「嫌わないでいてくれるのねえ!」と樹杏が抱きついてきた。
「もう、唯我イケメン!大好き!」
「キモいから離れろよ!」
樹杏は「嫌よ嫌よ」と首を振って離れなかった。キモかった。
それ以降も相変わらず激しい稽古が続いた。10月下旬には稽古場を離れ、劇場での通し練習が始まり、本番前日、劇場の舞台でリハーサルを終えた。「終了!」という千鶴さんの声と共に拍手が起こった。
「明日はいよいよ本番です。気合入れろよ!」
「はい!!」
大きな返事が会場に響いた。明日は本番。出演者でもないのに、俺はとてもドキドキしていた。
****
「あ、唯我。おはよう」
「おはよう。ジール」
楽屋に入ると、出演する俳優たちがゴロゴロといて、それぞれの準備をしていた。その中に埋もれるようにいた樹杏は、すっかり衣装に着替えてメイク中だった。ニコニコしている様子を見ると、俺ばかりがドキドキして緊張しているのが恥ずかしくなった。
「今日は頑張るぞ!おお!!」
樹杏は俺の手を取って天井に伸ばした。その時、千鶴さんが楽屋の扉から入ってきた。楽屋の中には、男たちの「こんちはー!」という声が一斉に上がった。俺と樹杏も声を揃えて「こんにちはー!」と言った。
「おい唯我。今日は俺と一緒に来い」
「はい」
「ああん!唯我、行かないで。寂しいからあ」
樹杏が俺のズボンを下げる勢いで掴んできたが、強引に振り払って楽屋を出た。樹杏が手を俺に伸ばして悲しそうな顔をしていたので、声は出さずに「頑張れ」と口を動かしてから軽く手を振ってやった。俺が楽屋の扉を閉めてから、樹杏が頬を赤くして「ああ、イケメン」と呟いて倒れていたのを、俺は知らない。
「唯我、今日の公演は俺と一緒にモニター室、来賓席で様子を見るよ」
「はい」
「あとは……、楽しめ。俺の作る舞台を」
「はい」
俺は台本とペンだけ持って、千鶴さんの横を歩いて回った。
会場にはたくさんの観客が集まっていた。俺は来賓席に千鶴さんと座り、様子を見ていたが、会場が暗くなった瞬間、それまでのざわざわした音は一切消えた。観客の緊張する空気が張りつめ、舞台の幕が上がるのを今か今かと待っている。
会場の雰囲気に影響されて、俺もドキドキしていた。稽古し続けた舞台が始まる。本番の勝負が始まる!
ブーっという音が鳴り、幕が上がる。
舞台には煙が立ち込める異世界の国「アンダーグラウンド」が広がっていた。
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