第15話 樹杏との出会い

 目を開けたら、目の前に優里子の寝顔があった。優里子はベッドの横につけたイスに座ったまま白いシーツの中にうつ伏していた。スーッという静かな寝息が白いシーツの中に溶けていく。優里子の唇が赤くてぷっくりして柔らかそうだった。閉じられた瞳のまつ毛がスッと伸びていて扇みたいに横に広がっている。こんなに近くで優里子の顔を見たのは久しぶりで、しようとしなくても俺の目は大きく開き、心臓がドキンドキンと強く脈打った。体中、熱くてたまらない。

「……ん?唯我?」

 優里子の顔に見とれていると、ふわっとまつ毛が動いたのでびっくりした。反射で起き上がり、優里子と距離を取った。

「私も眠っちゃった。あはは」

 むっくり起き上がり、半目で笑う優里子は相当ブサイクだった。これが文子なら「ブス」と言ってしまうのだけれど、なぜだか優里子のブサイク顔は、すごく可愛く思えた。「好き」という気持ちは不思議だ。何でも良く見える。

「何でそんな離れてるの?」

「…風邪が、うつるから」

「平気よ、そんなの」

 クスクス笑っているのを見ても、そわそわしてしまう。熱のせいだろうか。いつもより心臓が強く打っていて落ち着かない。優里子とは、玄関先で怒鳴ってしまってからちゃんと話せていなかった。この医務室で、無駄に時間を過ごしていても、今日まで優里子は姿を見せてくれなかったからだった。久々にあった気がする。なぜか緊張した。

「もう、ほらおいで。冷えピタ替えよう」

 優里子に手を引かれると、体に力が入らず前に倒れた。優里子は立ち上がり、倒れる体を受け止めた。顔が優里子の首と肩の間にすっぽりはまると、そこから優里子の匂いがした。顔が一気に熱くなっった。

「唯我、熱い!ちょっと、大丈夫?」

 心臓はドクンドクンと強く脈打って息苦しいし、体は熱のおかげでほてってる。脳みそが、自分の熱で溶けてしまいそうだった。今日まで優里子に謝れていない罪悪感と、ジェニーズでい続けることへの不安が体をこわばらせている。全然、大丈夫じゃない。

「夏の合宿で、お世話になった人がいたんだ」

「え?」

 優里子が俺を引き離そうとした時、俺はつぶやくように言った。

「その人、俺なんかよりずっとすごい人なんだけど、合宿が終わった時、ジェニーズ辞めるって言ったんだ。続けてても意味ないって。それで、考えちゃったんだ。俺よりすごい人が、仕事がない、やる意味ないなんて言うのに、俺には、これから何ができるんだろうって。やっていく意味、あんのかなって」

 優里子の袖を握る無意識の手に力が入った。未だに思い出す、投票結果の順位。それが徐々に下がっていくように思える。それが不安でたまらない。怖い。

「どこにも……、誰にも、必要とされなくなったら……どうしよう。どうしようって……」

 優里子の腕に体全部を預けた。重かったと思う。だけど、体に力が入らなかった。涙が袖を濡らしていくのがわかる。それがなおさら情けなくて顔を上げられない。

「唯我、ごめん。何も気づいてあげられなくて……ごめん」

 優里子にぎゅうっと抱きしめられると、優里子の優しい香りが体中を包んだ。優里子は優しい。だからきっと、俺がどんな失敗をしようがなぐさめてくれる。だけど、このまま何もしないんじゃ、優里子は離れていく。俺が優里子のそばにいる理由も、優里子が俺のそばにいる理由も無くなる。

 このまま、ただのガキのままじゃいられない。俺は優里子を押して離れた。自分の熱い腕で涙を拭った。

「……怒鳴ってごめん」

 優里子は少し悲しげな表情をしてから、椅子に座り直して、「ううん」と頭を振った。

「私の方こそ、唯我の気持ちも何も考えずに自分勝手にやっちゃったかなって思ったの。だから、ごめんね」

 自分の気持ちでいっぱいになって、イライラして八つ当たりしたのは俺だった。頭を横に振った。

 俺は優里子に比べたら、まだまだ小さなガキでしかない。イライラして、相手のことも考えずに声を上げてしまう、手のかかるバカなガキなんだ。

「優里子は何も悪くない。ガキでごめん」

「ガキんちょが何言ってんの。いっそ、ずっとこのままでもいいくらいよ」

 さすがに、ずっとガキ扱いされるなんて耐えられない。

「それは無理」

「どうして?」

 どんな大人になりたいとかじゃない。優里子を守れる男になりたい。って、今言うことじゃないな。

「嫌でも、時間は経つんだから。いつのまにか大人になってるかもしれない」

「なんじゃそりゃ」

 すると、優里子は封筒を渡してきた。

「何これ」

「事務所から届いたの。中は本?みたいだけど」

 中からは赤い本が出てきた。教科書ぐらいの大きさで、表には『ジール スタンドオンザグラウンド』とある。

「もしかして、台本じゃない?演劇の台本」

 本の表紙に付せんが貼られていた。とても整ったきれいな文字だった。

「唯我へ。早く回復しなさい。元気になったら、迎えに行きます。秋川千鶴」

 迎えに来る?秋川千鶴が?まさかな。

「あんたは、次は何始めるのかな。楽しみね」

 優里子は嬉しそうな顔をして、俺の頭を撫でた。優里子の笑う顔がもっと見たい。喜んでくれるなら、俺は何だってする。

「うん」


                ****


 夏休みが終わり、ようやく学校に登校できたのは9月の2週目だった。俺が教室に入ると、すぐに大沢と長谷川が駆け寄ってきた。

「おはよう!唯我、大丈夫?」

「唯我君、おはよう!具合は良くなったの?」

「おはよう、二人とも。……久しぶり」

 朝の教室で、こんな風に誰かに迎えられたのは初めてだった。少し、照れくさかった。それから二人には、休み時間に席の近くで集まって、夏休み中の話をした。俺が熱を出した理由も話した。二人は驚いて、何度も「大丈夫?」と聞いてきた。俺が「しつこい」と言うと、二人が笑ったので、それにつられて少しだけ口元がゆるんだ。

 放課後、学校の昇降口で大沢と長谷川と別れた。二人は友達に手を引かれて帰っていった。ようやくやかましい奴らと別れて安心したのか、ふうっとため息がこぼれた。

「たーいま」

「あ、唯我!ちょっと!」

 施設に帰り、廊下で会った優里子が俺の手を掴み走った。向かったのは応接室で、そこには、長い足を組んで頬杖している男がいた。

「あ、秋川千鶴っっ……さん」

「よお、唯我!台本は受け取ってる?」

 ひらひらと手を振りアイドルスマイル全開で秋川千鶴がそこにた。秋川千鶴と会ったのは、俺がジェニーズになると決めた時以来だった。

「お久しぶりです」

「おう。元気になったか?熱中症になって倒れて、今度は熱だして倒れたって聞いた。心配したんだぜ?でも、良くなったみたいでよかった。つくづく俺はお前とタイミングが合うらしい」

 俺の前にしゃがみ込み、頭を撫でながらウインクされると、あまりのカッコよさに照れた。これまで、ジェニーズJrの仲間やジェニーズとしてライブに立つたくさんの人たちに出会ってきたが、見た目も地位もあって、こんなにもキラキラアイドルオーラの溢れる人はいなかった。秋川千鶴はジェニーズの中でも別格であることを感じた。

「今日は予告通り、迎えに来たんだ。行くぞ!」

「え?」

 秋川千鶴は俺の手を取って引っ張った。ランドセルを背負ったまま、俺は秋川千鶴の車に乗せられ、どこに行くとも聞かされぬまま運ばれた。前にもこんなことがあったと思い出す。

「あの、どこに行くんですか?」

「決まってんだろ。戦場だ」

 戦場??

 俺は全身迷彩柄の服を着た人達がゴツイ銃を持ってドンパチする場所を想像した。そんな訳はない。到着したのは都内のビルの一室だった。そこは学校の教室が2つ並んだくらいの広さで、ダンスレッスン室のように四方の壁が鏡になっていた。端っこには木箱と段ボールが雑に積まれ、真ん中の空間にはTシャツ姿の男二人が立っていた。

「ジール、見てみろよ。水が湧いてらあ。おいら、こんなの初めて見るよ」

「俺だって、水道以外から水が出てきてるところなんて初めて見た。さ、触っていいかな」

 声を張り上げているわけではない。なのに、たった二人だけの声が部屋を埋めた。すごい。普通の会話がこんなにも響くんだ。演じる二人がこれまたイケメンで驚いた。他にも、部屋の角で座っている男たちが、どれもこれも顔のキレイな人たちだった。

 秋川千鶴は椅子に腰かけるおじさんに耳打ちした。すると、おじさんは手を叩き、「ストップ!一旦休憩しよう」と声をかけた。休憩と聞いて、部屋にいる人たちからは気が抜けていく息がもれた。

「おい、J!樹杏じゅあん!来い!」

「はーい!」

 甲高い声が鳴ると、男たちの山からガキが一人、秋川千鶴のそばにタタタと走ってやって来た。そいつはとても色白で、毛という毛が赤色で、ラムネのビー玉みたいに真っ青な瞳をしていた。

「J、こいつが」

「もしかして唯我!?」

 秋川千鶴の言葉を聞かず、「J」と呼ばれるガキは明るい声で言った。俺の手を取り、ブンブン振り上げるように握手した。

「僕、僕、大貫おおぬき樹杏!皆はJって呼ぶよ!ちづさんから唯我のことは聞いててさ、会いたかったんだ!!同い年にめちゃくそイケメンいるって!うわあ!本当にイケメンだああ!会えて嬉しいよ!唯我!よろしくね!!」

 口を大きく開けて笑っているのを見て、すぐわかった。こいつはジールだ。台本に名前が載ってた奴だ。樹杏の「J」じゃなくて、ジールの「J」だ!

「落ち着け、J」

「ちづさん、ちづさん!唯我は何するの?」

「お前と俺のフォロー」

「何それずるい!!」

 え、俺そういう役割?初めて知った。

 樹杏が口を開く度に大きな声が飛んだ。それがやかましい。

「ねえ、唯我は緊張してるの?何かしゃべってよ!」

 俺はわかりやすく引いていた。それを見て秋川千鶴は大笑いした。

「やかましいってよ、J。少し黙っとけ」

「ええ?ねえ、唯我ぁ」

 樹杏のテンションは、まるでAファイブのライブをテレビで見ている泰一にそっくりだった。そう思ったら納得した。

「ふっ」

「あ?何か鼻で笑われたんだけど!何で?」

「精神年齢が10才だ、お前」

「んな!!最初の一言がそれ!?ひどくない?!」

 それを見て、秋川千鶴は腹を押さえて大笑いした。


               ****


『ジール スタンドオンザグラウンド』

 ジールという少年が、地下の世界「アンダーザグラウンド」で生きる人々の国を抜け出し、伝説の地「地上(オンザグラウンド)」を目指す話。なんと原作・脚本は秋川千鶴。あのイケメンはそんなこともやってるのかと驚いた。

 前半は少年ジールが「アンダーザグラウンド」を出て旅に出る話。後半は青年ジールが伝説の地「地上(オンザグラウンド)」を目指して仲間と一緒に旅する話。

 熱のせいで横になるしかなかった時、あまりにヒマで、手元に届いた台本をずっと読んでいた。どんな逆境にも明るく前向きなジールは、いつも誰かをはげます元気な男子、というイメージだった。


 稽古が再開した時、あんなにやかましかった樹杏が、静かに部屋の真ん中に立っていた。

「お前が精神年齢10才って言ったあいつはな、舞台に立つと何歳にでもなれるんだ。よおく見とけ」

 秋川千鶴は小声で言った。しかし、俺の想像するジールは、明るい樹杏そのもののイメージだった。そんな大きな変化はないんじゃ……。

「ようい、スターッ!」

 パンと手を叩く音がすると、それまで目をつぶっていた樹杏がスッと空気を吸い込み目を開いた。まるで樹杏の周りだけ風が吹き付けたように赤い髪がふわっと揺れた、ように見えた。開いた瞳は星屑みたいな光が宿ったようにキラキラしていて、浮かべる笑顔はさっきまでの樹杏とは違う誰かの笑顔だった。

「アサヒ!アサヒはいるかい?」

「やあジール。こんにちは」

「こんにちは、アサヒ。今日は何をしてるんだい?」

 今、稽古に立っているのは樹杏ではなくジールだった。さっきまで声も身振りもやかましかった精神年齢10才の奴はどこにもいなかった。

 それからしばらく稽古は続き、「ストップ」と声がかかり、何か指示を受ける時、樹杏なのかジールなのか、彼は真剣な顔をしていた。そして、指示に対してちゃんと答えられている。その姿勢は、他の大人の男たちにも劣らないプロの姿だった。

 秋川千鶴は椅子に座り、樹杏に魅いる俺の横顔を見ると満足して、微笑んだ。

「はい。唯我は帰る時間です」

「え」

「えー!?」

 一通りの稽古が終わったのは午後6時のことだった。ようやく稽古場の雰囲気に慣れてきたところだった。

「他の人は?」

「もちろん、まだまだぶっ通し!Jは半分家出だから、俺が見てれば平気だし」

「唯我もまだいようよ!てか、僕と事務所の城に泊まればいいんだよ」

 城といえば、去年のクリスマスライブの時に寝泊まりしたところだ。

「あそこに泊まってんのか?」

「こいつの部屋、807号室。頻繁に使いすぎてて、もはや自分の部屋だもんな」

「城の住人」

 ジールと掛け合いをしていた男二人もやって来て、樹杏を笑った。

「唯我、明日も来る?」

「俺が連れてくる」

 樹杏の質問に秋川千鶴が答えた。頭をポンポン叩かれると、子供扱いされているようでムカッとした。稽古を見た後だと、落ち着きのない樹杏でさえ、大人に見えた。

「じゃあ、また明日な。唯我!」

「また明日」

 樹杏は嬉しそうに口を大きく開けて笑った。本当に太陽みたいにさんさんと笑う奴だ。

 それから秋川千鶴が運転するゴツい黒い車に乗って、俺は施設へと帰った。車から降りると、秋川千鶴は運転席の窓から手を伸ばし、俺の頭を撫でてから、髪をするりと指でといで、「じゃあな」と言って去っていった。

 なぜだかドキッとした。優里子に感じるものに近いドキッだった。多分だけど、アイドルの手口の一つだ。こうしてアイドルたちは、女たちを振り向かせるんだ。何て軽々しい!そう思う俺は、なぜ女目線なのか謎だった。

「たーいま」

「お帰りなさい。皆夕ご飯済ませてるよ。あんたも早く食べな」

 俺は食堂にいた優里子と対面しながら夕飯を食べた。既にガキたちがいなくなった後の食堂ではテレビが映っていて、優里子はみかんを向きながらテレビをじっと見ていた。テレビには、何かしらのドラマが流れている。

「秋川さんにどこ連れていかれたの?」

「舞台の稽古場。イケメンがぞろぞろいた」

「うわあ、夢の国だわあ」

「そこで、台本に名前のあった奴に会ったんだけど、そいつが泰一みたいな奴で、とにかくうるさいの」

「へえ。年下なの?」

「同い年。大貫樹杏っていうハーフの」

「ああ、知ってる!子役の樹杏君ね!可愛いよねえ」

「可愛い?ていうか、知ってるの?」

「有名な子役だよ。よくテレビにも出てるもの。ていうか、ほら」

 優里子が指さした先を見ると、テレビの向こうに見たことのある赤毛と青い目が映っていた。

『刑事のおっちゃん。俺、本当は全部知ってたんだ。母さんが何をしていたのか……』

 ハーフのガキが深刻そうな顔をして、刑事っぽい人の前に俯いて立っていた。

『でも、何をしていたって構わなかった。貧乏でも、血のつながらない俺のこと、ずっと育ててくれたんだ。飯がうまくて、優しくて、いつも、何があっても笑ってくれた。それだけで、俺の心は十分満たされてたから』

 口を大きく開けて笑う樹杏からは全く想像できない姿だった。テレビの向こうの樹杏は、目に涙をためて泣くまいと必死にこらえている。声は震え、胸を押さえる手に力が入っている。ドラマのエンディングがしっとりと流れ始めた。明るい雰囲気のメロディーに似合わぬ悲しい歌詞が、静かにドラマの終わりを伝える。

『今度は俺が母さんに恩返しする番だと思うんだ。だから、母さんに伝えて。ずっと……、待ってるって』

 顔を上げてくしゃっと笑うと、目じりから一筋の透明な涙がこぼれた。

『わかった。伝えてやる』

 刑事のおっちゃんは樹杏をぎゅっと抱きしめた。樹杏の目からは、大粒の涙がこぼれた。エンドロールが流れる中、優里子が目をうるうるさせていた。

「ああ、上手すぎ!涙出ちゃう!」

 俺は信じられない気持ちのまま、テレビにくぎ付けになっていた。あの精神年齢10才の奴が、どんな魔法でこんなにも豹変するんだ!とにかく俺は驚いて、夕飯に手をつけずに固まっていた。

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