第11話 唯我VS長谷川

 運動会当日、天気は晴れ。朝から校庭には太鼓の音がなりやまない。運動会はクラスを紅白の半分に分けて戦う。俺は赤組、長谷川は白組となった。長谷川に勝手に賭けの対象にさせられた大沢は赤組だった。

 長谷川は白組の応援団副団長だというだけで、鼻を高くして、俺と目が合う度にふふんとニヤけた。それがとにかくうざったい。

「唯我兄ちゃん!イッエーイ!」

 赤組には泰一がいた。泰一はいつにも増してテンションが高く、目が合う度にハイタッチをさせられた。これはこれで面倒くさい。

「今日は施設長と佳代姉と充瑠が来てるよ!」

 泰一は保護者席に手を振った。それに気づいた施設長、佳代は手を振り返した。そこに優里子はいなかった。昨日の夜、「明日外せない用事があって、行けないの。ごめんね」と言っていた。内心ほっとした。今日だけは、優里子に来てほしくない。

「唯我、どうする気なの?勝つの?負けるの?」

 同じ赤組で席が近くになった大沢は、朝からこればかり聞いてくる。

「負けるつもりだよ。どう考えたって、俺が勝つ理由ないだろう」

「そう……」

 大沢はいつもの元気な様子とは違っていた。それはそのはずで、長谷川と俺、勝った方とデートしなくてはならないのだ。そりゃ気持ちが沈む訳だ。俺は大沢が気の毒でならなかった。

「嫌な思いさせてんな。悪い」

「ううん。でも、どうせやるなら真剣勝負してほしいとは思う」

「真剣勝負?」

「だって、唯我と長谷川君、紅白リレーの5年生代表だよ。見たいな、真剣勝負」

 確かに、俺も勝負をするからには勝ちたい気持ちはあるが、今回ばかりはしょうがない。

「お前にはどっちが勝とうが関係ないだろうけど、俺からすると大ありだ。長谷川は俺に勝てるし、お前とデートできて満足だろう。そうすりゃあ、俺は長谷川にしつこく付きまとわれなくなる。俺の狙いはそこだ。だから今回は真剣勝負はしない。正々堂々と負けるんだ」

 大沢はほっぺを膨らませて、俺を睨んでくる。

「何だよ」

「別に」

 大沢はプイッとそっぽを向いた。何か言いたいなら言えばいいのに。

 その時、太鼓の音と同時に応援合戦が始まった。校庭の真ん中に並ぶ紅白の旗と応援団たちが、大きな声を上げた。白組副団長の長谷川は胸を張り、口を大きく開く。

「白組のー!勝利を祈ってー!!フレーフレー白組!」

 振りの一つ一つを見て女子から「長谷川君ー!」と声が上がった。赤組からも声が上がるところを見ると、長谷川が女にモテるのは本当なのだとわかった。まるでジェニーズのライブのようだ。

 女子たちからの声を受けながら、長谷川は俺にニヤけた顔を向けてきた。うざい。ついつい舌打ちをした。

「何イラついてるの。次綱引き!準備行くよ!」

 大沢が俺の肩を掴んで強引に引っ張って行く。

 太鼓の音と同時に紅白に分かれる5年生は校庭に集まった。5年生の紅白副団長が真ん中で固く手を握った。観覧席からは声援が上がる中、長谷川は俺を指差した。

「勝負だ!!」

 赤組からは「臨むところだ!」「勝つぞー!」という男たちの威勢のいい声があがった。観覧席からの声援には、女子たちの「キャー」という声が混ざる。いちいちイライラする。こんなチャラついた奴に負けなきゃいけないなんてムカつく。

 まず最初の勝負の時がやって来た。綱を握り、ピストルの音を待つ。俺以外の全員が闘志を燃やしている。頑張れ皆。悪いが俺には勝つ気がない。

 ピストルが鳴ると綱は空中で一直線に伸びた。俺は綱を握っているだけで、回りは男女ともに一生懸命引いている。

 1回戦は白組の勝ち。悔しがる皆と一緒に白組と場所を入れ換えた。白組とすれ違う中に長谷川はいた。鼻を高くして俺を見てニヤけて離れていった。

 うざい。うざい!あんな奴にどうして女子たちは声援を送れるんだ。どうしてあんな奴に負けてやらなきゃいけないんだ!

 頭にきてしまった。2回戦はピストルと同時に力一杯綱を引いた。結果は赤組の勝ちとなった。

 1対1の引き分け。紅白互いに闘志をメラメラと燃え立たせ、日差しの熱をゆっくり吸い込む校庭を一層暑くした。しかし、俺の役目は終わっていた。最後はどちらが勝とうとどうでもいい。結果、白組の勝利で綱引きは終わった。


               ****


 次の種目は台風の目。4人で長い棒を持って走って回って戻ってくる。隣には気合十分の長谷川がいた。ただ走っていると、前の方をビューンと走っていく長谷川が見えた。ふふんとにやける顔を見るとムカつくので、俺はそっぽを向くようにした。

 次は障害物競争。ピストルの音が鳴ると、長谷川は勢いよく飛び出した。平均台を平地のように走り、網の下を蛇のようにするする抜け、縄跳びを高速で10回飛んで、ピンポン玉の入ったお玉を持って白いゴールラインを通過した。両手を上げて喜ぶ長谷川が、後からゴールした俺に振り向いたが、俺はもう目も合わせなかった。

 長谷川は気合い十分でやっている。けれど、俺にはやる気がない。競技を重ねれば重ねるほど、俺は精神的に疲労したし、長谷川は俺にやる気がないことに気づきはじめ、大沢は不安そうな顔を浮かべた。それが長谷川に火を着けた。

「唯我君!どうして本気でやらないんだ!!」

 観客席に戻ろうとした時、長谷川が叫んだ。赤組の皆が振り返ると、長谷川は怒った顔をしてずんずんと敵陣である赤組の席にやって来た。俺の胸ぐらを掴み、顔面を近づけた。

「答えろ。納得できる理由しか聞いてやらんぞ」

「お前が勝手にやってることだ。最初から俺には関係ない」

「君は話にのったじゃないか」

「のらなきゃお前がうるさかったんだよ。最初からやる気なんてなかった」

「何だよそれ……。僕がどれだけ本気でやってたか、君にはわからなかったのか

!?」

 目の前で汗だくの長谷川に怒鳴られて、気分がすごく悪かった。何でこんな奴に胸ぐら掴まれて、こんなに必死な顔されてんだ。意味わかんねえ。

「俺は、お前とは関わりたくもないんだよ。わかれよ」

「わからん!」

 うざい奴。

「僕は、君にひどいことをした。謝っても、その事実は変わらない。けれど、僕は君と対等になりたいんだ。そうじゃなきゃ!そうじゃなきゃ……」

 長谷川の手から力が抜けていった。必死な顔から一転、苦しそうな顔をした。

「そうじゃなきゃ、大沢に相手にされねえってか」

 長谷川は驚いた顔をした。ムカつく。本当はわかってるくせに。

「俺と対等だと?違うだろう。お前の目的は最初から大沢だった。はなから俺のことなんて相手にしてねえんだよ。そんな奴に、どうして本気なんて出せるんだよ」

 そうだ。長谷川は初めから俺のことなんて見てなかった。大沢の隣に偶然いたから、俺に目をつけた。それだけだ。俺は長谷川の手を振り払って、自分の席へと戻ろうとした。その時、低くて小さい声が聞こえた。

「ダサいな、唯我君」

 それは長谷川の声だった。3月に智樹から同じことを言われたことを思い出した。その時、智樹は「ダセ、唯我」と低い声で呟いた。驚いて振り返ると、そこに立つ長谷川は俯いていた。

「確かに最初は、君の言う通り、大沢さんの気を少しでも引きたかったのかもしれない。けれど今は、本気で君と勝負がしたいと思ってるんだ。人の気持ちも知らないで、はなから勝負するつもりもないなんて……。本当ダサいな。唯我君」

 長谷川は俯いたまま俺の横を通り過ぎていった。その瞬間、長谷川が呟いた声が耳に残った。

「そんな奴だとは思わなかった」

 その時、智樹の言葉が重なった。

「やっぱ他のJrのガキと変わらねえや。本当ダセエ、唯我」

 俺は少しの間立ち尽くしていた。俺を邪魔そうに避けて通り過ぎる人や、次の種目が始まって、応援する声が飛び交っていることさえ気づけないまま、俺は俺の内側に気持ちが落ち込んでいった。

 俺がダサい?どうして長谷川も智樹もそんなこと言うんだ。俺の気持ちなんて知らないで、勝手なことばっかり言ってんのは二人の方だろう。俺が、何をどうしようが、俺の勝手だろう!

「……我、唯我!」

 耳元で大沢が叫んだ。驚いて、声のする方を見ると、大沢が俺の腕を掴んで不安そうな顔をしていた。

「大沢……」

「大丈夫?」

 全然大丈夫じゃなかった。腹の底で重たくうごめくものがあって、胸の奥で引っかかる何かの行き場がなくて、頭の中にある記憶がざわざわと音を立ててふくらんでいる。しばらくボーっとしてしまった。何も考えられなかった。

「ほら、これで頭冷やしなよ」

 大沢は持ってきていた凍らせたペットボトルを俺の額に強引にくっつけた。その瞬間、あまりの冷たさに「うわ!」と声を出した。

「やめろ突然」

「今、唯我が考えてること当てようか?」

「は?」

「最初から本気で勝負するつもりがなかったことを長谷川君から責められて、自分は悪くないって、必死に自分を肯定しようとしてる。でも、長谷川君は最初から、私のことを抜きにして、唯我と本気で勝負しようとしていたことを知って、罪悪感でいっぱいになってる。違う?」

 「そんな訳ない。長谷川に罪悪感?あり得ない」そう思う自分がいるはずなのに、その言葉が喉で詰まって言えなかった。

「バカだね。ただのバカ。唯我のバカ。とにかく長谷川君を否定したくてたまらないなんて、意外とガキね。何をしたいかは、最初から一緒でしょ?」

「一緒?」

「勝ちたいのよ、お互いに。だから4月からずっとにらみ合ってるの。なのに、唯我はどうでもいいってふりして、長谷川君の誘いに素直に乗ろうとしなかった。でも、本当は勝ちたいの。だからイライラしてた」

 よくよく思い出すとその言葉がはまってしまう瞬間があったように思える。給食の片づけの時、掃除の時、階段を登っている時。ささいなことだけど、俺があいつにイライラしていたのは、「勝ちたい」と思っていたから。とても受け入れがたいことだけれど、大沢の言葉に全く反論できなかった。

「そこで提案!勝手に私を賭けに使ったのに、唯我は負けたいって言うでしょ?だからね、唯我が負けたら、長谷川君とデートして」

「は?」

「私を引き合いに出したくせに、二人とも、私のこと全然意識してくれてないんだもの。私はね、二人の真剣勝負が見たいの。だから、唯我が負けたら長谷川君とデートして。こうでも言わなきゃ、今の唯我は本気出してくれないでしょ?」

 大沢はいつもの明るい声で、笑って言った。

「頑張れ、唯我!」


                ****


「あれ?優里子?」

「リレー、間に合った?」

 午後の熱い日差しが照りつける校庭にいた施設長たちのところに、優里子が息を切らせてやって来た。頭の高いところでポニーテールをして、耳元で揺れるイヤリングがキラッと光る。チェックのワンピースに白いかばんを持つ手には細いブレスレッドがついている。施設で見るジャージ姿と違って、今日はやけにおしゃれをしている。

「ちょうど次だよ。よかったね、間に合って」

「よかったあ。唯我、リレーの選手だもんね」

 優里子は息を整えながら額の汗をハンカチで押さえ、スニーカーを脱いで、手に持っていたパンプスを並べてレジャーシートに上がった。

「今日はいつにも増してお姉さんみたいね。優里さん」

「あはは。ありがと」

「今日はデートでしょ?優里子がまぶたをキラキラにするのはデートの日って決まってるんだよ」

 施設長がからかうように言うと、佳代は「へえ」と呟き頬を赤くした。優里子は「ちょっと、お父さん!」と声をあげた。その時、太鼓の音がドンドンとお祭りのように鳴り響いた。すると、校庭にはリレーの選手が入場してきた。

「唯我、頑張れ!」

 優里子はレジャーシートの上でひざを立てて、すぐに俺を見つけた。優里子の声が聞こえていない俺は、紅白のはちまきを巻いている。キュッと頭の後ろで音がすると、少しだけ気が引き締まった。隣には、長谷川がいた。

「おい、長谷川」

「何だよ、唯我君」

「やってやるよ。真剣勝負」

「は?どうして急に」

「……大沢に、負けたら長谷川とデートしろって言われたからだよ」

「はあ?大沢さん、何考えてるんだ」

 そんなの、大沢だって本気で言ってないことくらいわかる。

「こうでも言わなきゃ、今の唯我は本気出してくれないでしょ?」

 大沢の言葉を言い訳にしなくちゃ、本気を出せないことが情けない。あんなことを言わせたのは、紛れもなく俺だった。大沢には後でちゃんと謝らなくてはならない。それから、こいつにも……。

「でも良かった。これで、君をちゃんと負かすことができるんだから」

 長谷川は自信満々だった。鼻を高くして言う姿を見てムカついた。どうしてこんなに長谷川にムカつくのか。それは俺に面倒くさいほど正面からぶつかってくる奴だからだ。それがとてもうざったくてたまらない。

「何言ってるんだ。圧勝されて泣くのはお前だ、バーカ」

「嫌な奴だな、君は」

「お前こそ」

 互いににらみ合い、ぷいっとそっぽを向き合った。その時、遠くから「おーい!」と呼びかける大沢の声がした。大沢は自分の席から手を大きく振っていた。長谷川はわかりやすく嬉しそうな顔をして、手を振り返した。

「大沢さーん!」

「二人とも頑張ってねー!唯我、手を抜いたら許さないんだからね!」

 うるせえ、大沢のアホ。負けたらこいつとデートなんて、まっぴらごめんだ。そんな俺の気持ちなど知らず、大沢は日焼けて赤くなった顔でニッと笑った。

 リレーは運動会最後の種目でもあるため、校庭は大勢の声と太鼓と熱気であふれた。

「位置について、ようい!」

 ピストルの音で始まったリレーは、紅白に分かれた各学年から代表が男子・女子1名ずつ選抜されて走ることになる。ちびっこい1年生が女子から男子へバトンを渡す。ペタペタと走り切ると、今度は2年生へとバトンが渡された。

 長谷川は一生懸命同じ白組のガキを応援した。俺は足首を回しながらリレーの先頭を目で追った。観客席にいる大沢は、周りが手を上げて熱狂する中、両手をぎゅっと握ってリレー選手を見つめていた。

 バトンは4年生の男子に渡された。白組が先行を走り、それを追う形で赤組が走っている。レースを目で追いながら、俺と長谷川は走る位置についた。近くの白組観客席からは「長谷川くーん!」と女子たちの声が上がった。長谷川はすました顔して手を振った。女子たちは「キャー」と声を上げた。対して赤組からは「唯我、負けんな!」「負けたら死ぬぞ!わははは」という男子の訳の分からない声ばかりが飛んでくる。何だこの差は。

 5年生の女子代表がバトンを受け取った。女子の走る順位を目で追いながら、足に力を入れた。

 校庭にはたくさんの声と音が鳴り響いていた。けれど、そんな音は俺の耳には届いていなかった。聞こえていたのは、あの日の智樹の言葉だった。

「どれだけの人間が本気でやりたかったか、わかんねえだろ」

 近づいてくる白組、赤組の女子は必死な顔して、足に力を入れて、腕を前に振って懸命に一歩一歩近づいてきている。それは、本気で走る人の姿だった。

 わずかな差で白組の女子が長谷川にバトンを先に渡した。長谷川が勢いに乗ろうとする時、俺もバトンを受け取った。

「俺たちは、プロとして認めてもらえていない。はなから中途半端な存在なんだよ」

 長谷川は思ったより早く前を走っていく。カーブに差しかかった時、その横顔が見えた。長谷川は必死で、前しか見ていなかった。

「そこから血反吐出るくらい努力して、はい上がって、大人たちにプロとして認めてもらわなきゃいけねんだよ」

 長谷川は本気で走ってる。本気じゃなかった俺と、最初から、真剣に勝負しようとしてくれていた。

「お前なんかが、仕事と気持ちの優先順位なんか勝手に決めていいわけねんだよ」

 智樹の言葉が心臓のドクンという強い音と一緒に頭の中に響いた。

 この勝負は俺には関係ない。勝手にそう思うことにして、長谷川のまっすぐな気持ちなんて考えようともしなかった。俺は、3月のCMのオーディションや撮影の時と同じように、自分の気持ちを優先にしたんだ。

「優先順位を間違えるな!」

 きっと、俺が思っている以上に、あのオーディションを真剣に受けていた奴らは多かったんだ。受かったことにあぐらをかいて、ただ居座った俺を睨んで帰っていく奴がいた。そんなの当たり前だ。俺よりずっと真剣だったんだ。なのに、俺は相手の気持ちも考えないで、ただムカついた。

 今、大沢に気づかせてもらえなかったら、きっと長谷川にも同じことをしていただろう。智樹があの時怒ってくれなかったら、考えようともしなかっただろう。相手をイラつかせて、ムカつくことしてんのは、俺だったんだ。

 午後の日差しが肌を焼く中、観客席からは応援合戦以上の声の張り合いがされていた。拍手が起きて、太鼓の音が鳴りやまない。観客席にいる泰一は楽しそうに声も手も上げて応援している。保護者席から見ていた施設長と優里子はこぶしを上げて俺の名前を叫んだ。佳代は抱きしめる充瑠とじっと見守っていった。

 握りしめる両手から力が抜けないまま、大沢はドキドキしながら俺と長谷川の勝負の行方を追っていた。

「長谷川君!唯我!」

 カーブを曲がったところで俺たちは並んだ。あとは一直線を走り切るだけだ。体を前に倒して腕を必死に振った。多分、隣の長谷川も背筋を伸ばして長い足を前へ前へと出し続けている。負けねえ。絶対、負けねえ!!

 次の6年生の女子がバトンを手に取って、先に一歩前に踏み出したのは赤組だった。前に体を向けた時、白組の女子がバトンを手に取り走り出した。俺と長谷川はバトンを渡し終えると勢いそのままにゴロゴロと転んだ。そこに駆け寄ってきた先生が声をかけてくれた。

「ほぼ同着だったけど、わずかに赤が早かった!頑張ったな、小山内!長谷川も副将らしい立派な走りだった!」

 俺たちは先生たちによって滑走レーンから強制退場させられた。すぐに体を起こすことができず、俺たちは土煙くさい校庭に体を横たわらせて、胸を大きく膨らませて息をした。空からも地面からも熱が体を襲う。流れて止まらない汗がどこかに消えていく。横を見ると、同じように空を仰ぐ長谷川と目がった。

「ああ、負けたよ。唯我君」

「……言っただろう。俺が、勝つって」

 息が絶え絶えで言葉を上手く出せなかった。その時、鼻をすする音が聞こえた。長谷川は汚い両腕で顔を覆っていた。腕の隙間から流れたものは、汗ではなかった。俺は起き上がり、体をパタパタはたいて、長谷川の腕を引っ張って強引に起こした。

「正々堂々勝負したお前が泣くな!」

 長谷川の顔は、汗と土とほこりと涙でぐちょぐちょだった。その顔を見たら、目頭がぐっと熱くなってしまった。油断した。

「……お願いだから」

 俺は頭を地面に落とした。長谷川からうつった涙を押し込めるために体中に力を入れた。俺の肩が震えてることに、長谷川はすぐ気づいた。

「長谷川、ごめん」

「……おあいこでしょ」

 この瞬間だけは、長谷川に申し訳なくてたまらなかった。


                 ****


「さて、最後の二人の勝負は唯我の勝ちだったけれど、総合優勝は白組だった!という結果になった訳ですけれど、どうしましょうか?」

 運動会が全て終了し、各々教室に帰る時間となった。俺と長谷川、大沢は校庭を離れ、3人で賭けの結果会議をしていた。

「私から、提案があります!3人でお出かけするってのはどう?」

「え?」

「は?」

「だってえ、二人の勝負の結果がすっごいあいまいなんだもの。だから、ここは3人でお出かけってのが一番フェアだと思うの。ねえ、そうしましょう!」

 大沢は鼻の頭を真っ赤にして笑っていた。長谷川は「そ、そうしよう!」と手を上げた。なんやかんや嬉しそうだった。

「ねえ、唯我はどう?」

「……いいよ。大沢と二人でデートは無理だし、長谷川に悪いし。ていうか、今回の勝負は、全面的に俺が悪い。だから、そうしよう。大沢にも悪いことしたな。ごめん」

「あはは。素直で気持ち悪いなあ!」

 大沢は笑いながら俺の肩をバチンバチンと叩いた。俺は耐えるしかなかった。3人の会議が終わり、教室に帰ろうと校舎に向かった時、「唯我!」と呼び止められた。3人して振り返ると、そこにおしゃれをした優里子がいた。

「お疲れ!唯我」

「優里子……」

 俺は優里子を見つめた。その俺を大沢が見つめ、その大沢を長谷川が見つめていた。俺は二人に先に教室に行くよう伝え、優里子のところに駆け寄った。

「今日、来ない予定だったんじゃあ……。ていうか、その恰好……」

 今までで一番可愛い恰好だと思った。けれど、それを言うのは恥ずかしかった。優里子はわかりやすくニヤニヤして「秘密」と唇の前で人差し指を立てた。嬉しそうに頬を赤くする優里子が瞬きする時、キラキラとまぶたが光っている。俺はそれだけで何があったのか理解した。

「デートだろう」

「へ!?な、何で?」

「お前、デートの時はアイシャドーするだろう?わかりやすくさ。相手は…か、彼氏?」

「ゆ、唯我に言う筋合いはありません」

「彼氏、できたんだ……」

「な!そんなこと一言も言ってないでしょう!」

 頬を真っ赤にして、手を大げさに振って否定しようとしている。この慌て方が全てを肯定していることに優里子は全く気付いていない。それがとても可愛いくて、昔から変わらない姿であることが嬉しいけれど、優里子が遠くなった気がした。俺はわかりやすくショックを受けた。

「唯我君の知り合いかな?」

「多分、施設のお世話になってる人だよ」

「ああ、そっか。きれいな人だね」

「そうね……」

 遠くで俺と優里子の様子を見つめていた長谷川と大沢は、しばらくその場に立っていた。というのも、大沢が俺と優里子をじっと見つめていたからだった。

「あんな顔、私の前には見せてくれないのに」

 大沢の呟きは、あまりに小さかった。

「ん?何か言った?」

「ううん、何でもない。行こう、長谷川君」

 二人は教室に戻って行った。大沢は最後にちらっと俺と優里子を見た。無意識に微笑んでいる俺の横顔を見て、大沢は俺とは違うショックを受けていた。

「ねえ、唯我。さっきの二人は、唯我の?」

 優里子が帰り際にそう聞いてきた。確かに、あいつらは何なのだろうか。けれど、優里子の言葉を否定する要素が全くなく、他に思い当たる表現がないことに気づいた。

「うん。……

 俺は初めて「友達」というものが、俺にも存在することに気がついた。


                 ****


 運動会が終わり、クラスの会も全て終わって帰る頃、俺と長谷川は担任の先生から呼び出しを受けた。運動会中にも関わらず、長谷川が俺の胸倉を掴んで怒鳴っていたことが理由だった。

 俺の横に立つ全身ドロドロの長谷川は、怖い顔をした先生の前で頭を下げながらクスクスと笑っていた。それを見ていたら、俺の腹も小さくけいれんし始めて、口元がゆるんでしまった。

「二人とも、笑っている場合ではありません!いいですか!?」

 先生が思わず机をバンと叩いて声を上げた。不真面目な態度を取ってしまった理由を、俺は胸の内で、勝手に長谷川のせいにすることにした。

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