<番外編>駿兄と佳代

 高校1年の夏、施設に佳代という中学1年の女の子がやって来た。うつむく頬は真っ白で、まっすぐな黒髪が胸の山を撫で下ろしている。おっぱいが大きく見えるのはそのせいか。

 違和感があるのは、毎日暑くてたまらないのに、長袖のパーカー、長ズボンを着ていることだ。指の爪しか見えないほど袖を伸ばしている両手は、体の前で組まれて離れないし、長い髪の毛の中に顔を押し込めるみたいにあごを引いている。

 「暗い女の子」という第一印象だった。けれど、施設に引き取られる子は、最初はだいたいそんなもんだろう。

 佳代ちゃんの紹介が終わると、男だけが施設長に呼び出された。上は高校3年生の先輩から最年少の泰一まで。

「事情があってね、佳代さんは男の人との接触が難しいんだ。皆には理解してほしい」

 つまり、近づくなってことか。集められた男たちは「はあい」と返事して解散した。事情も詳しく知らされないで理解しろなんて言われても、何もピンとこなかった。

 しかし、事情というのはこの施設にいる奴らにとってはあって当たり前だった。最年長で高校3年生の高橋先輩は家出してる金髪の不良だし、最年少の泰一は育児放棄で、5才になっても言葉をうまく話すことができない。6才の唯我なんて生まれてまもなく施設に拾われた捨て子だ。どんな事情があったところで、驚くことなんて何一つないんだ。


                 ****


 佳代ちゃんが来てから一週間が経ったある日、驚くことなんてないと思っていた俺は、その事情に思っていたより驚いた。

 その日、朝早くに起きてしまったので 顔を洗おうと洗面所のドアを開けた。そこに、真っ裸で背を向けて立つ佳代ちゃんがいた。濡れた白い肌がつやつやしてて、しっとりと首筋に貼り付く黒髪の一筋一筋が色っぽい。

 佳代ちゃんは俺を見て「ひっ」と顔をひきつらせた。

「あ、ごめんなさい!」

 思わずドアを勢いよく閉めてしまった。頭が湯だつように熱くなった。バックンバックンと、まるで爆発音みたいな心臓の音がする。

「ご、ごめん。まだ誰もいないと思ったんだ。ホンとに」

 俺が慌てて言い訳をしていると、洗面所からドタンと重いものが倒れる音がした。

「え?だ、大丈夫?」

 中から聞こえた声はとても震えていた。

「か、体に、力が入らなくなって……」

 倒れたのは佳代ちゃんだったらしい。

「ケガないか?今、クレアおばさん連れてくるから、無理に体に力入れるなよ。待ってろよ!」

 俺は急いで職員室に向かおうとした。その時、クスンと小さな声で鳴く声が聞こえた。ドアに振り向き、向こうにいる佳代ちゃんの姿を想像した。冷たい床に腰を付け、バスタオルを抱きしめて、声を殺して泣いている。

 一瞬見えてしまった佳代ちゃんの背中には、見覚えのあるポツンとした跡が、いくつもあった。その跡が、まるで体に空いた穴のようで、色白な肌を際立たせた。

 何もかも、何もかも辛くて耐え難い。苦しさを押し込めるような小さな声が、胸を締め付ける。俺の左腕の根性焼の跡がざわっと動いたような気がした。

 それから佳代ちゃんはクレアおばさんら女の職員さんに面倒を見てもらい、ケガはなかったけれど、しばらく医務室で横になると知らせがあった。俺は左腕の跡がざわざわとして落ち着かなかった。

 その後、ボランティアとして施設に来る施設長の娘で、学年は一つ上の優理姉が「やっほー」と手を振って近づいてきた。

「朝から大変だったみたいね。さっき呉羽さんから聞いたよ。駿君が……」

 俺はとっさに優理姉の腕を掴んだ。

「聞いていいか、優理姉。佳代ちゃんのこと」

「佳代ちゃんの……」

「俺、今朝見ちゃったんだ。佳代ちゃんの背中。あれは、あの跡は、多分俺の左腕と同じ」

 その時、掴んでいた手にポタンと滴が落ちてきた。見ると、優理姉は目から涙がポタポタと流れていた。

「優理姉……」

 優理姉は言葉につまり、手で目を押さえた。


                  ****


 それから二人で中庭に降りる階段に腰かけて話をした。佳代ちゃんの事情は、想像以上に重たいものだった。

「実の父親から……」

「……それがわかったのは、彼女の母親からの申告」

 優里姉は終始小声で話してくれた。

 佳代ちゃんの父親はいわゆるエリート会社員で、業績もトップ、若い頃から即戦力として転勤を繰り返し、現在は本社で出世コースを歩む立派な父親、というのが世間の目だった。しかし家庭内では、佳代ちゃんが小さい頃から母親への執拗な暴力、暴言が飛び交ったという。しかし、ふと我に帰った父親は、傷め続けた母親をまるで蝶よ花よといたわり、大げさなほどに優しくなるのだ。

 そんな家庭で育った佳代ちゃんは物静かな子になり、学校ではとても穏やかで成績も優秀。可愛らしい見た目もあって、両親からすれば自慢の娘だった。

 父親の佳代ちゃんへの接し方が変わったのは、初潮を迎え、体も少しずつ大人の女性へと変化し始めた頃だった。最初は肩を触り、髪を撫で、手を絡ませるということから始まった。それが徐々にエスカレートしていくほど、父親の母親への暴力や暴言が少しずつ減っていった。そうして、小学5年生の佳代ちゃんは、父親と一線を越えてしまった。母親は、これを知っていた。

 佳代ちゃんは、自分が虐待を受ければ母親への暴力が無くなることを理解していた。心は少しずつ削られていったが、家庭には平穏が訪れた。体に父親の痕跡が残ろうとも、服で隠してしまえば問題なかった。普段から物静かな子だったから、あえてたくさん話さなくてもよかった。

 佳代ちゃんは、自分さえ我慢していれば、それで世界は平和だと理解してしまった。

 小学6年生になり、ある日の図工の時間に手に取ったカッターがきっかけで、佳代ちゃんは自傷行為を始めた。キリキリと音を立てて伸びてくる刃が、まるで魔法の杖のような魅力的なものに見えたという。

 一度、二度と試みるが、死に至るほどの出血はなかった。何度も試して、何度も痛みに耐え、とうとう実家の自室で致死量に迫る出血をし、緊急搬送された。これがきっかけで、家庭内暴力がこととなった。

「お前はどれだけ父親に恥をかかせれば気が済むというんだ。私がどれだけお前たち家族のために精神と体力と時間を費やし仕事をしていると思っているんだ!何も理解できないバカどもめ!!」

 激怒した父親は、病院から退院したその日、行為の最中で自分のタバコを佳代ちゃんの背に押し付けた。それで父親の気が晴れることはなかった。父親に背中を向ける度にきれいな白い肌は焼けていく。何度も、何度も、何度も。

 それまでただ黙して過ごすばかりの母親だったが、毎日のように聞こえる我が娘の悲痛な叫びと、繰り返す佳代ちゃん自身の自傷行為に、とうとう耐えられなくなり、近所の交番へと足を向けたのだ。それが中学1年生の春のことだった。

「だから、佳代ちゃんの背中や太ももに至るまで、焼けた跡が残ってる。手首には、何度も切りつけた跡がある。私、佳代ちゃんの話を聞いた時は辛くてたまらなかった……」

 優里姉は話ながら泣き出した。俺は何も言葉を返してやれなかった。佳代ちゃんの事情は、あまりに受け止めきれない問題だった。俺は施設長の言葉を、ようやく理解した。

 優里姉の背中をさすりながら、左腕の跡がぞわぞわと動くような感覚に耐えた。思い出してしまう。肌が火に故意的に焼かれていく瞬間の痛みを。怒りを。

 その時、中庭に出る扉がガラリと音を立てた。振り返ると、そこに幼い唯我が泰一を連れて立っていた。

「唯我、泰一」

「優里子、どうした?何で泣いてるの?」

「気にしないでいいよ、唯我。すぐ止まるから」

 唯我は優里子の前まで来ると、じっと見つめてから頬を伝う涙をぬぐうように優里姉の頬を撫でた。

「また男にフラれたんだな。大丈夫だよ。俺がいる」

 何て男前な弟だろうか。的外れなことを言っていても、その言葉が優里姉に対して本気で男として言っているということに、俺は感心してしまう。しかし、ド天然の優里姉は全く気付かなかった。

「ありがとう、唯我。うん。元気出たよ。あんたのおかげ」

 完全スルーである。優里姉は唯我の頭をよしよしと撫でた。唯我は嬉しそうで、けれどわかってもらえていないことにムスッとしているような顔だった。


                 ****


 肌寒くなり、世間一般が長袖を着るようになった頃、高校からの帰り道に偶然にも佳代ちゃんを見つけた。佳代ちゃんは公園で、女子生徒3人と向かい合っていた。両者の間には、佳代ちゃんのものと思われるバックと、引きちぎられた教科書が散乱していた。

「本当最低。男に色目使って、何か楽しいわけ?」

「マジキモいんですけどー」

「ちょっと、何か言えよ。このブス!!」

 一番強そうな二つ結びの女の子が教科書の角を、無抵抗の佳代ちゃんに向かって振り上げた時、我慢ができなくて、俺はその手を掴んでしまった。

「ちょ、誰よあんた!」

「あ、あー、えとー」

 何も考えずに来てしまったことに後悔した。何て言えば佳代ちゃんに失礼じゃないだろうか。

「あ、兄貴でーす」

 笑顔でふざけた感じで言ってしまった。目の前の女の子たちはキョトンとしていた。

「は?あり得ないんですけど」

「こいつがエリート家族の一人っ子なんて有名じゃん。頭おかしいんじゃね?」

 女の子たちの甲高い笑い声が耳を痛くした。ああ、失敗した。ごめんよ佳代ちゃん。

「あ、違う違う。今、施設に引き取られたんだよ、佳代。そこの人じゃね?」

「なるほどねえ。佳代、あんたどんだけ男好き?この人にも色目使ってんでしょー」

「施設の夜はアツアツかもー」

「キャー!エッチー!」

 軽々しい笑い声が公園に響いた。頭にカチンとくるには十分だった。

「何の事情も知らねえで、ギャーギャーピーピーうるせえんだよ。バカども」

「あ?なんつった?」

「消えろ。じゃねえと学校、保護者、警察。どこにだって連絡つけてやるよ」

「あはは。やってみろよ」

「いいの?立並中2年C組の橘めぐみちゃん、相葉美空ちゃん、浦和恭子ちゃん」

 その瞬間、3人が少しだけ固まった。俺は3人がちゃんと付けていた名札の名前を呼んだだけだった。その時、俺たちの横に近づいてきた人がいた。俺より少し背が高くて、金髪だった。

「珍しく面倒くさそうなことしてんじゃん。俺も手伝おうか?」

「あ、先輩」

「金髪の高橋先輩だ!!」

 高橋先輩を見た女の子たちは「殺される!!」「ギャー」と声を上げて逃げていった。それを見たら少しみじめになった。先輩一人の登場だけで一件落着。俺の気迫ってどんだけ小さいの。

 隣で高橋先輩がクスクスと笑っている。この人のことを皆は誤解している。本当はとても面倒くさがり屋で何にも興味を持てない無気力人間なのだ。ただ、家出をして金髪にしただけで、世間はこの人を「不良」と呼ぶ。

「助かりました。ありがとうございます」

「うん。からかいにきただけだから、気にしなくていいよ」

「あのままケンカとかになってたら?」

「面倒くさいから、即行逃げるね」

「ですよねー」

 すると、高橋先輩は俺の後ろで俯く佳代ちゃんをチラッと見て、「んじゃ」と肩をポンと叩いて帰って行った。先輩は佳代ちゃんとの接触を面倒くさがったらしい。

「ごめん。余計なお世話だったかもしれないけど、人が傷つくとことか、見てられないたちなんだ」

 佳代ちゃんは俯く頭を横に振った。そして地面に散らかった教科書の残骸を一つ一つ拾い始めた。俺も手伝った。

 すると、クスンという聞いたことのある小さな声が聞こえた。長い髪の毛と、濡れるまつ毛で目元は見えなかった。

「明日からどうしよう。どうしよう」

 ボロボロの教科書を手に取りながら、そう呟いた。ポロポロと涙が落ち、教科書の上を伝ってスカートにしみていく。よく見ると、スカートのひだが揺れ、肩にかかる髪が落ち、指先がぼやけるみたいだった。まるで佳代ちゃんの周りにだけ風が吹いているみたいに見えたけど、そうではない。全身が小刻みに震え続けているのだ。不安と、恐怖に一人で耐えようとしている。

「誰でもいい。相談しろ」

「……誰に?何を相談するの?」

「何をって……」

 ああ、それさえもわからなくなるほど、この子はずっと一人で何もかも抱え続けていたんだ。誰と、何を話していいのかもわからなくなるほどに……。

「とにかく帰ろう。俺チャリだから、荷物は持ってやるから、ゆっくり帰ろう」

「どこに……」

「し・せ・つ」

 少しイラっとした。けれど、この子とは距離を取らなきゃいけない。さすがに俺も面倒くさい。でも、きっと避けてはいけない。遠すぎず、近づきすぎず、佳代ちゃんが平常を保っていられる距離を作ってあげなくてはならない。

 帰り道、静かな住宅街の電灯が足元を照らした。佳代ちゃんは10メートルくらい離れて俺の後ろを歩いていた。それもめちゃくちゃ足が遅い。俺はチャリを引きながら、佳代ちゃんの足音を聞いて、速度に注意して歩いた。時々振り返り、佳代ちゃんの様子を見た。体の前で絡ませる指はほどけない。常に下を向いていて、電灯の下に来ると、濃い影が顔に落ちた。「貞子」とか「口裂け女」とか、そんな化け物みたいに見えそうだなと思った。

「ねえ!明日さ、学校休めよ!」

 少し声を張り上げないと聞こえそうもなかった。

「……え?」

 返事が小さい。まあ、しょうがない。

「ていうか、当分休んだら?無理していく必要ねえよ!」

「でも、勉強遅れちゃう」

「勉強くらいどこでもできるよ。やろうと思えば一人でだって。あ、何なら、俺が見てやるし!……て、あ」

 それを俺が言っていいのか?少し失敗したかもしれない。その時、後ろの足音が止まった。振り返ると、佳代ちゃんは電灯の下で立ち止まっていた。

「どうした?」

「それはできない」

「どうして」

「学校は、行かなきゃいけなでしょう?」

「何で行くことにこだわるわけ?見るからに無理してるくせに」

「無理してでも、行かなきゃいけないの」

「だから何で」

「……何も知らない人が、勝手なこと言わないでよ!」

 佳代ちゃんが怒鳴った。シンプルに驚いた。

「え、佳代ちゃん」

「行かなきゃ疑われる。誰にも知られたくないこと全部、知られてしまうかもしれない!こんな気持ち、あなたにわかるわけない!」

「何勝手に言ってるんだよ。心配してやってるだけだろう」

「いつもいつも、私が一歩足を踏み出すのにどんだけ怖いかわからないでしょう!足元に、大きな穴が空いて見えるの。足がすくむ。背筋がゾッとする。存在しないはずの穴が目の前に見えるの!今だって、私、穴の上に立ってるの。怖い。怖い」

 確かに、電灯の下にいると真っ黒な影が足元にある。それのことだろうか。佳代ちゃんはしゃがみ込み、クスンと泣き始めた。

「それでも、学校に行かなくちゃいけない。行かなきゃいけなかったの……」

 俺はチャリを止めて、少しずつ佳代ちゃんとの距離を縮めた。

「もしかして、親にそう言われてたとか?必ず学校には行けって」

 佳代ちゃんは頷いた。それは、俺にも経験のあることだった。大きくなってから施設の職員さんに聞いた話だけれど、虐待をする親は、それを世間に疑われることや知られることを恐れるため、あえて子供には学校に行くように命令するのだという。俺の父親もそうだった。名前も覚えていない新しい母親だった人もそうだった。きっと、佳代ちゃんもそうだったんだ。

 あと5歩くらいのところまで近づいて、それ以上近づくのはやめた。俺もその場でしゃがみ込み、佳代ちゃんと向かい合った。

「俺は、佳代ちゃんがこれからどうしたいのかを、自分で考えなきゃいけないと思う。それができるには、すごく時間がかかるかもしれない。勇気も必要だと思う。それでも、少しでも自分について考える時間を作らなきゃ」

「私がどうしたいか?」

「うん。自分のために時間を使うことはいいことなんだよ。もう、佳代ちゃんは施設の家族なんだから、無理しなくていいんだよ。な?」

 佳代ちゃんは顔を上げて、ポロポロ涙を流しながら言った。

「許されること?」

「佳代ちゃん自身が決めたことを否定できる人間は、この世に一人もいない」

「迷惑じゃない?」

「迷惑じゃない。大丈夫だよ。今は、とりあえず帰ろう。さすがに日が落ちると寒いや」

 俺は立ち上がり、佳代ちゃんに手を差し出した。佳代ちゃんは俺を見上げてから目をそらして一人で立ち上がった。失敗した。そうだった。近づきすぎちゃいけない。胸の奥は少しもやっとしたけれど、気にしないことにした。

 次の日から、佳代ちゃんは中学2年生の春まで学校を休むことにした。


                ****


 学校を休んでいる間、佳代ちゃんは施設の手伝いをするようになった。それに比例して、笑うことが多くなった。俺は遠くからその様子を見ていたけれど、時々目が合うと、佳代ちゃんはぺこりと頭を下げるようになった。手を振ってやると、ぎこちない笑顔を見せた。

 金髪の高橋先輩が施設を卒業してから間もなく、春休み中の佳代ちゃんは別の学校に転校することが決まったので、新しい制服に袖を通していた。

「し、駿君」

 名前を呼ばれたのはそれが初めてだった。俺は驚いてポカンとしていると、佳代ちゃんはとても困った顔をしたので、我に返った。

「あ、ごめん困らせた。何?佳代ちゃん」

 目の前の佳代ちゃんは少し表情が明るくなっていて、新しい制服を着ているせいもあるかもしれないけれど、以前に一緒に帰った帰り道での佳代ちゃんの姿とは比べものにならないくらいキレイに見えた。

「お、お話してもいいですか?」

 二人で中庭の階段に腰をかけた。佳代ちゃんには「好きに座りな」とは言ったが、まさか間に5人は座れるほど距離を取られるとは思わず戸惑った。遠っっ!この距離で何を話すの?

「あれから、駿君に言われたように、自分のこと考えるようにしたんです。これから、私が何をしたいのか」

「何か浮かんだ?」

「はい。学校を休んでる時、施設のお手伝いを少しさせていただく中で、子供たちと触れ合うことも多くて。それが楽しいって思う自分がいるってわかたんです」

「ああ、それ俺もわかる。可愛いしね、子供」

「それで私、将来は保育士さんになりたいなって思ったんです。自分が辛いことばっかりあった分、小さな子供たちには楽しく幸せに過ごしてほしいって。小さな子供を守れるような大人になりたいなって……」

 その言葉を聞いて、俺は施設に来たばかりの頃を思い出した。体はボロボロで、心にも余裕がなかった。まだ泣くことしかできなかった唯我にイライラして、手をあげたこともある。けれど、唯我が初めて歩いて俺に歩み寄って来てくれた時、俺は佳代ちゃんと同じような気持ちになった。この手で、唯我を守ってやりたいと。

 俺は佳代ちゃんに左手を伸ばし、袖をめくった。ちょうど腕の真ん中あたりに、ポツンとした根性焼きの跡がある。突然のことに佳代ちゃんは一瞬驚いたが、それが何の傷跡か認識した時、言葉を失った。

「これは、俺が8才の時に父親から受けた根性焼きの跡。その時の痛みは忘れられない」

「8才……。そんな小さい頃に、これを……」

 少しずつ、佳代ちゃんが近づいてきた。ゆっくり近寄ってきて、俺の左腕の跡に顔を落としている。

「俺は、この施設の人達に優しくされて育ててもらえたラッキーな人間だった。おかげで今ではこの通り能天気になったけどね。でも、幸せだよ。皆のおかげで」

 俺が「あはは」と笑っていると、佳代ちゃんが俺の左手を両手で握ってきた。佳代ちゃんから男に触れてきたことに驚いた。佳代ちゃんは泣いていた。

「……痛かったでしょう。一人で、辛かったでしょう」

 その涙ぐんだ言葉には、胸を貫通するような衝撃があった。佳代ちゃんの言葉をきっかけに、まるで記憶の扉が開かれたみたいに、当時の気持ちが蘇った。

 佳代ちゃんの言う通り、すごくすごく痛かった。肌が奥までじわじわと焼けていく痛みと同時に、胸の中の実態のない何かが熱くて痛くてたまらなかった。涙が止まらなくて、そのせいでまた殴られ蹴られ、痛い思いをした。

 その痛みを理解してくれる人がいないことが辛かった。一人であることが寂しかった。体も胸の奥も、痛くてたまらなかった。

 気づくと、俺の目からも涙がこぼれていた。当時、痛くてたまらなかった手を、温かくて優しい手が包んでくれている。その両手が、俺の痛みをよく理解している手だということが、悲しくて、嬉しかった。

「君も、ずっと一人きりだったんだろう。ここまでよく、一人で頑張ったね……。お互いにさ」

 佳代ちゃんも俺も涙は止まらなかった。止めることなんて無理だった。お互いの手を握り合って、その温度を感じる度に、もう一人ではないことを感じさせた。


                 ****


 それから、俺と佳代の距離が縮まるのに時間はかからなかった。けれど、お互いが同じ想いを寄せていることがわかった時でさえ、俺と佳代の間には、まだ3人は入れる隙間が残っていた。それから佳代の頭を撫でるのに半年、手をつなぐことを許すのにさらに半年かかった。その頃、俺と佳代の間に充瑠という子供が挟まっていた。

 初めて佳代から抱きしめてくれたのは、俺が施設を卒業してからで、その時は嬉しくてたまらなかった。けれど、それはその時だけだった。結果、俺は25歳まで佳代との妄想を重ねながら、童貞を貫くこととなった。

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